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緋の星となる  作者: ぬゆ
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緋の星となる

 小さな呻き声と無意識に出た喘ぎ声が薄暗い部屋に響き渡った。

 音の余韻が脳みそを溶かしていく。

 私の下腹部に広がるのは熱をもった幸せ。


 ドサッと隣に倒れ込んだ彼は穏やかな瞳で私を見つめていた。見つめ返して優しく口の端を持ち上げてみると彼の顔が少し、赤く染まった。


 可愛い。愛おしい。心を満たすのはそんな言葉だけだった。


(ゆう)()、もう一回したい」

彼の声も好き。鼓膜の振動が心地よい。


 彼がそっと私の頭を撫でる。彼の手から伝わる体温に身を任せると、ふと可笑しくなって笑ってしまった。


「……どうしたの?」


「ごめん……最初は手繋ぐのも恥ずかしかったのになぁって」


「あぁ、確かに」

彼の顔が困った笑顔からいつものお陽様のような笑顔になる。


 しかし同時に寂しさも感じてしまった。


「こうやって、変わってしまうのかな」

幸せの中に潜む、小さな寂しさ。胸が締め付けられて息苦しくなるような。


「大丈夫だよ」

重ねられた手から共感と安心を受け取った。人を包み込む優しさをもつ彼が大好きだ。


「俺たちは良い方向へ変わっている。それはとても、素敵なことだよ」

そう言って彼は私に覆い被さって唇を重ねた。


 甘くてとろけてしまいそう。


 ゆっくり舌を絡め合って、次に目を開けた時には彼はいなかった。

 

 そこにいたのは金髪の見知らぬ男。


「だ、誰……!」

私の体を抱き寄せていた男を突き飛ばして後ずさる。恐怖と焦りからくる手の震えを抑えるためにシーツをぎゅっと握った。


 男は眉を顰めて私を睨んだ。


 自分の体を触る。よかった、服は着ている。


 私のベッド。私のソファ。私の家。


 ベッド傍の小さな棚には大量のビールの空き缶。


 床にもテーブルにも無造作に脱ぎ捨てられた服。


 足の踏み場もないくらい散らばったゴミ。


「誰って、酷いこと言うなぁ……」

男は頭の後ろを掻きながらベッドから降りてベランダへ続く大きな窓を開けた。


 早朝の冷たい風が頬を掠めて髪を揺らした。まだ、みんなは夢の世界に落ちている静かな世界の匂い。


「あ、あの……」


「心配すんな。ヤってない」

心から安堵した。喉につっかえていた心配事を一気に吐き出す。


 幾分か、スッキリした。これで目一杯朝の空気が吸える。


 だけれど、それは叶わなかった。男がタバコを取り出して火を点けた。


 今時紙かよ。それ以前に、副流煙。


 私が息を吸わないように喉奥に力を入れていると、男はイライラした様子でタバコの先をベランダの手すりに押し付けて橙を消し去った。


「そんな嫌な顔すんなよ。吸いずれぇ」

顔に出ていただろうか。分からない、最近タバコの匂いを避けていたから。


 久しぶりに嗅覚を刺激するその匂いはやっぱり好きじゃなかった。


「チッ。もうねぇじゃん」

男の苛立ちは増していく。


 タバコの空き箱を握りつぶしてベランダから出てきた。ゴミや服を踏まないようにつま先立ちで玄関に向かっているのはちょっと面白かった。


「コンビニ行くけど、何か欲しいもんある?」

男はドアに手を掛けて振り返った。


 頭頂部は黒くなっていて毛先の金は朝陽に透けて煌めき、綺麗だった。口を開けた時に見えた八重歯が印象的だった。顔の上半分は前髪に隠れてよく見えないけれど。


 欲しいもの。食べたいもの。


 口を開けては閉じる。頭の中の欲を探してみる。


 脳が命令せずに勝手に声が出た。






——「生チョコクレープ?」

彼の額の冷却シートを貼り替えて食べたいものを問うと意外な言葉が返ってきた。


「そう。あの、コンビニスイーツ」


「病人がそんなの食べていいんですかー」

私の言葉に彼は茶目っ気たっぷりに笑った。笑う時に三日月のように婉曲になる目も好き。


 彼はいつもより弱々しいけれど、笑い方はいつもと変わらなかった。


「病人って大袈裟だなぁ。ただの風邪だよ」

そう言って彼は咳き込んだ。喉に絡まる痰の音が痛々しい。無理して笑っていたのかもしれないと思うと胸がぐっと踏みつけられたような気持ちになる。


 彼の会社で風が流行っているらしい。その流行病を彼はもらってきてしまったのだ。


「明日、病院行こうね」


「だめ。明日は侑子の病院。俺絶対熱下げるから」

彼はムッと頬を膨らませて意固地になっている。思わず顔が綻んでしまった。


 私の生理が一週間遅れている。


 そう彼に伝えたらすぐに産婦人科を予約してくれた。


 で、熱を出した。「興奮しすぎ。気が早いよ」と笑って見せた時の嬉しそうな、幸せそうな、どこか決意を固めた引きつった笑顔が頭に焼き付いた。


 コンビニから帰ってくると彼はベッドではなく、ソファに座っていた。ゴソゴソ作業していて、声をかけてやっと私に気がついたみたいだ。サッと後ろに何かを隠す。バレバレ。


「まだ寝てなきゃだめだよ」


「いや、侑子、俺めっちゃ元気だから」

彼は体温計を突き出してきた。37.5℃。微妙。


「うーん、朝よりは下がってるけど……はい、ベッド」


「えー」

私は寝室を指差して彼をベッドに促す。


 彼の顔は本当に可笑しかった。眉根を寄せて口を横に開いて、いかにも不満そうな顔をしている。


 とても微笑ましい。ずっとこの空気がいい。心の底からそう願った。


「侑子、ちょ、ちょっと待って」

彼はソファの背もたれに手をつきながら立ち上がった。


 慌てて彼を支えようと近づくと、彼はいつものお陽様のような笑みでポケットから小さな箱を取り出した。


「遅くなってごめんね」

私は訳が分からず狼狽えてしまった。瞬きを何回もして目が霞むくらい擦ったけれど、現実はしっかり現実のまま私の世界に存在していた。


「侑子。俺と、結婚しよう」

彼が開いた小さな箱の中にはルビーで彩られた指輪が佇んでいた。


 窓から差し込む夕陽がその輝きを照らす。目に映る美しさに引き込まれ、世界が数秒止まったみたいだ。


「……侑子?」


「あ、ごめん。綺麗だなぁって」

ルビーの眩耀。いかにも彼らしい。私はこの一等星を目にする度に、彼の笑顔を思い出すだろう。


「とても、嬉しい」

私が人生で一番、穏やかに笑った日。自然と溢れた笑みに彼の目が見開かれた。 


 そっと箱を受け取り、近くで眺めてみる。


 反射する幾つもの私の顔。その瞳には希望の緋色が瞬いていた。


「じゃあお祝いに、これ食べよっか」

私は先ほど買ってきた生チョコクレープを二つ取り出した。彼が満開の笑顔で私の手を引いてソファに並んで座らせた。


 宝石みたいだなぁって思った。夕陽に照らされる彼の笑顔は宝石よりも輝いていて、眩しくて、どうしようもないくらい、愛で苦しい。


「超幸せ。ありがとう」


「どういたしまして。……って甘」


「侑子って本当に辛党だよね。全然分かんないや」

生チョコクレープは口内に甘さを残す淡いホイップクリームがたっぷり入っていて、生チョコに辿り着く前に諦めてしまいそうだった。


 私が顔を顰めると、彼は口の端にクリームをつけて大きな笑みを浮かべて言った。顔がくしゃっとなる笑い方も、好き。


「明日楽しみだな」

彼がボソッと小さな呟きを溢した。「父親か……」ギリギリ聞こえた彼の独り言。

 彼はもう新しい命の手をとる準備ができているみたいだ。


 胸の中に霧がかかるようだった。安心感ではなく、吐き出そうにも吐き出せない、不快感。


 あれ、私、嬉しくないのかな。






 缶が落ちて床に伝わる微かな振動と反響音で意識が手元に戻ってきた。


 男は私の答えを聞くとそそくさと玄関を出ていった。その時、僅かに寂しげな瞳が見えた気がするが、多分気のせいだと思う。


 独りぼっちになった部屋を見回す。

 汚い。何から始めようか。落ちた缶から拾おうか。


 足元に転がる缶を見て反抗したくなってきた。ソレを無視してまずは投げ捨てられた服から片付けることにした。


 シャツ、下着、ニット……取り敢えず繊維ごとに分けてみたが、洗濯機に入るだけ押し込んだので意味はなかった。

 もともと持っている服が少ないから、洗濯機を回すのは二回で済みそうだった。


 次は散らかったゴミたち。これはちゃんと分別して袋に入れた。といってもほとんどが小さなビニール袋にまとめられており、中身を確認して大きな袋に入れるだけだったのですぐ終わった。

 あの男がやってくれたんだろうか。


 邪魔物がいなくなったフローリングに掃除機を滑らせ、汚れた所を雑巾で拭いて掃除は終わった。


 最後はあの缶たち。

 両腕に大量に抱え込んで一気に捨てた。カランカランと袋の中で缶が擦れ合う音がする。冷蔵庫に詰められた未開封の缶ビールも全部捨てる。


 一つ一つ開けてシンクに流していると男が帰ってきた。男は何も言わなかったが、部屋の変わりようを見て多少驚いていた。


 私は男が帰ってきたことを気にも留めず、無心で缶を開け続けた。

 プシュ、プシュと気持ちのいい音を聞いても、飲みたい衝動は湧いてこなかった。


「もったいな。俺が飲んだのに」

いつの間にか背後にいた男の低い声が体の内側から響いてきた。


 男はシンクに逆さに立てられた空き缶を持ち上げて言うと、それを袋に入れた。

 私はその様子を一瞥しても何も思わなかった。


「いいの? ビール好きなんじゃないの」

口を小さく開ける。






——「ビールって苦いから嫌いなんだよね」


「子供みたいなこと言うんだね」

オレンジジュースが入ったグラスを持つ彼の言葉はとても可愛かった。


「お前侑子ちゃんにも言われてんじゃん」

お兄義さんが吹き出して哄笑した。

 今日は彼のお兄さんが来て三人で、ううん、四人で食事をしている。


 私は大きくなったお腹をそっと撫でた。かく言う私のグラスも麦茶が入っていて、お酒を飲んでいるのはお兄義さんだけだった。


「俺も侑子ちゃんと飲みたかったなー。結婚式はしないんだっけ」


「子供が産まれて落ち着いたらするよ。侑子のお腹、すごく大きくなったね」

彼は左腕を伸ばして私のお腹に優しく触れた。薬指にはめられた指輪が電気に反射して少し眩しかった。


 お腹が大きくても着れるドレスはあるし、妊婦さんでも結婚式を挙げる人は割と多くいるそうだが、つわりがひどく、精神も不安定な私を心配して、出産後に結婚式をしようと彼と決めた。

 かなり初期の方からつわりが私に付き纏い、毎日吐き気に襲われた。


 動けない。食べられない。飲めない。


 何もできない私に彼はもっと心で接してくれた。


 彼は掃除、洗濯はできるけれど、料理は初挑戦だったみたいで、毎日焦げまくりの何が入ってるか分からないほど原型のないお粥を作ってくれた。

 けれど、私の口にはそれが一番合うみたいだった。


 私が上達しないことを願うと彼は「ひどいなぁ」と苦笑して、最近ではわざと焦がしてくれる。その苦さが丁度いい。


 そしてもう一つ、私が食べられる物は生チョコクレープだった。

 あんなに甘ったるくて好まなかった味が今では不思議と何十個もいける気がする。


 妊婦って恐ろしい。


 お兄義さんと彼が出前のお寿司をつついている間も、私の前には生チョコクレープと彼が作った焦げまくりのお粥が置いてある。


「よくコイツが作ったの食べれるよね。侑子ちゃん大丈夫?」


「大丈夫ですよ。今の体にはとても合うみたいです」

私は一口、スプーンで掬ってお粥を舌に乗せる。苦味が広がり、鼻に抜けていく香りが食欲を掻き立ててくれる。


「懐かしいなぁ。コイツが魚肉ソーセージ焼いたの」


「兄さん、またそれ?」

彼の顔が不満そうに唇を尖らせていくのが分かった。彼の顔と込み上げてくる思い出し笑いで表情を崩して笑ってしまった。


「親が出張でいない時に二人で料理してて、俺がちょっと目を離した隙に魚肉ソーセージがこんなになっててさ」

お兄義さんが人差し指と親指で丸を作って左目に当てた。

 向こう側の瞳が見えないくらい小さな穴から、彼が魚肉ソーセージを焼きすぎて焦がしてしまったことが窺える。


「何で焼いたんだーって聞いたら“魚肉ソーセージって肉じゃないの⁉︎ ”って……アホかよ」


「あーもう、うるさい! いつの話してんだよ。小三だよ⁉︎」

彼の必死の遮りに我慢できず、吹き出してしまった。


 それに釣られてお兄義さんも口を大きく開けて体を後ろに傾けながら豪快な笑いっぷりを見せてくれた。口を開いた時に見える八重歯がいたずらっ子な子供を感じさせる。


 お兄義さんと彼は見た目も性格もあまり似ていない。

 人生で一度も髪を染めてなさそうな真面目な黒髪の彼に対して、お兄義さんはアッシュグレー? って言うのかな。美容師ということもあって会う度綺麗な髪色をしている。


 笑い方も性格が滲み出ていてそれぞれ違うけれど、優しさが溢れる瞳からは同じものを感じた。


 笑い転げる私とお兄義さんを見て、彼の頬がどんどん膨らんでいく。

 一見怒っているようだが、人の笑顔を見る時の彼の瞳の奥はいつも穏やかだった。


 破裂してしまいそうな彼の頬を指でつつくと、空気が抜けて萎んでいった。


 可愛い。面白い。二つの感情が混ざって心で解けていく。彼と目が合って、二人で笑顔を溢した。


「あー、幸せな二人見てたら吸いたくなったわ」

お兄義さんがタバコを取り出して立ち上がった。


「独り身の兄さんは出てってくださーい。全面禁煙でーす」

シッシッと手で払い除ける弟に眉をピクピクさせる兄。この兄弟、見ていて本当に飽きない。


「お前は本当に——」


 その時、微かにお腹に振動が伝わった。

 続け様にトントンともう一度。


「蹴った……?」

私の小さな呟きに彼が振り返って、二人で目を見開いて数秒見つめ合う。


 彼が泡を掴むように繊細に私のお腹に触れる。私も彼を真似て自分のお腹に手を当てた。

 ルビーの指輪に連なる銀の指輪の光芒が、彼の指輪の光と空中で溶け合った。


 またトンと体の内部で響き渡った音が振動として掌の感覚を刺激する。


「け、蹴った……。生きてる。動いてる!」

彼の笑顔はいつも、幸せへと導く星のようだ。


 先程まで生意気な弟に怒りを露わにしていたお兄義さんの表情も、柔らかい笑みに転調した。


 その笑みは彼によく似ていて、やっぱり兄弟なんだなと実感した。


「本当に、おめでとう」

お兄義さんの言葉にザワッと心が不穏に揺れた。


 今まで見ないようにしていた黒い塊が、幸せを押し除けて前面に出てくる。お腹が大きくなると共に黒い塊も大きくなって心につっかえていた。


 彼の優しさで上手く包み込んで誤魔化していたけれど。


 どうしよう。気持ち悪い。一人になりたい。


 満面の笑みを私に向ける彼。微笑んだまま私たちを見つめるお兄義さん。


 笑え。 笑え。 お願いだから。


 ねえ、侑子。 笑って?






 持ち上げた缶が手から滑り落ち、ドンと鈍い音を立てて床をへこませた。

 ぼーっとその様子を見ていると、男が屈んで拾い、私は黙ってそれを受け取った。


 その缶もそれまでと同様にプシュと音を鳴らして……あ。泡。

 小さな隙間から空気が漏れた後に泡が止めどなく溢れてくる。泡と液体は開け口の沈んだ部分を飛び出し、冷たい体を伝い、私の手を伝い、シンクに溜まって排水口に流れた。


 指輪が汚れちゃう。料理する時はいつも外してたね。


 右手の指を左手の薬指に這わせると、何にも引っかからず、関節に行き着いた。


 指輪、してない。


 ベタついた手を顔の前まで持ってくる。指先から泡の塊が滴り落ちる。その手には何の煌めきも宿っていなかった。

 不安の波に攫われ、焦燥に駆られる。

 心拍数が上昇し、息が荒くなってくる。酸欠でクラクラする。苦しい。


 適当にそこら辺にあった布巾で手を拭き、指輪を必死に探した。

 片付けたばかりの部屋をまた散らかしてしまう。そんなことも気にせず、一心不乱に、取り憑かれたように、指輪だけに意識を集中させた。


 棚の中、クローゼットの中、バッグの中。


 入っていた物を全部引っ張り出して中を覗き、床に蔓延(はびこ)って物の中を漁る。


 どこ。 どこ。 どこ?


 体が焦りに支配され、足がもたつく。震える手で最後のバッグを手に取り、中身をひっくり返した。


 白い絹の巾着が流星のように残像を残して落下した。

 慎重に膝を曲げて手先の震えを抑えながら巾着を拾った。彼から、もらった物だ。


 紐を解いて中身を取り出すと、緋色の輝きが姿を現した。

 指に嵌めると、安心感が胸を温め、頭は彼のお陽様のような笑みで満たされた。


 しかし、もう一つ。私はもう一つ指輪をつけていた。

 結婚指輪。彼とお揃いの銀の指輪。


 重い腰を持ち上げて、再び物が散らばった部屋を見回す。探す所。私が見落とした所。

 床に這いつくばって物の間を掻き分けて探す。

 惨めだなぁ……。こんなところ見られたくないなぁ……。


「侑子ちゃん……」

耳が何かを捉えたが、分からなかった。


 目の前に集中して、目を見開いて、私は失った輝きを取り戻さなければいけない。


「侑子ちゃん!」

何回も確認した空のバッグを持った時、手首を男に掴まれた。その衝撃と手の震えでバッグは私の膝の上を転がり、床に身を投げ出した。


 力なく、ゆっくりと顔を男に顔を向ける。目は男を見ようにも、瞼を上げることができなかった。

 体を動かすことも面倒くさい。私は指輪を見つけなきゃいけな——。


「わた、し、の……指輪……」


 男の掌に静かに眠る幸せの輝き。


 震えの治らない指に精一杯力を入れて指輪を手に取り、嵌めてみる。


「じゃ、ない……」


 それは少し大きくて薬指に重力に従うままぶら下がっている。


 私のじゃない。彼のだ。

 ……ああ、そっか。捨てられたんだ。指輪、置いてかれちゃったんだ。


 密閉していた気持ちがビールの泡のように溢れてくる。人前で泣くのはだめ。幸せが逃げてしまう。


 しかし、涙は止まることを知らない。声を押し殺すと汚い嗚咽が混じる。


 愛する人に捨てられて、酒に溺れて男に縋って……最低だな、私。


 苦しい、痛い、息をしているのに酸素が上手く溶けなくて、しまっていたものがどんどん溢れて、足の踏み場がなくなって、心の中でも自分は息ができなくて、えっと、あとは、

「ひいろ……」


 ひいろ、緋色、()(いろ)


「思い出した?」

金髪の前髪が掻き上げられて、本物の瞳と目が合った。何で私の名前を知ってたんだろう。何で指輪を持ってたんだろう。その疑問が気泡になって消えていく。


 その瞳は、陽彩と同じ、優しい色をしていた。


 強張っていた体が雪解け水のように涙の川に流れる。

 頭がぐちゃぐちゃだったけれど、声を絞り出して言葉の糸を紡いだ。


「私の、指輪は……?」


「君の指輪は——」






——「侑子の指輪は俺が持ってるよ」

片腕にあけ()を抱えた陽彩がポケットに私の指輪を入れる。

 そして私の手には陽彩の指輪。ぎゅっと強く握られた。


「これで離れててもすぐにお互いのことを思い出せるね」

陽彩のお日様のような笑顔は、少し疲れていた。目の下にクマができてる。ちょっと痩せたかも。


 あけ乃がぐずって「うあ……」と声を上げた。慌てて陽彩があやして、あけ乃はまたゆっくり瞼を閉じる。


 寝息を立てるあけ乃を見つめる陽彩の横顔。


 段々と滲んで見えなくなった。目の奥が熱い。涙は下瞼を超えてポタポタと床に雨を降らせた。

 陽彩の温もりが離れた手は無気力に下ろされ、指輪は水たまりの中に落ちていく。


 陽彩の眉がハの字に下がるが、目は柔らかく、婉曲だった。

 私はあけ乃と一緒に抱きしめられる。あけ乃は陽彩よりも温かかった。


「侑子はがんばってる。ちょっと疲れちゃったんだよね」

陽彩の掌が私の後頭部を包み込んだ。じんわりと心に染み込んでくる優しさ。

 涙で陽彩の服の色が濃くなってしまった。離れようと顔を上げると強く、抱き止められた。


「大丈夫。ゆっくり休んで、侑子が元気になったらまた三人で暮らそうね」

陽彩の体温が遠ざかっていく。


 行かないで——。喉に薄膜が張って言えなかった。


 陽彩はスーツケースを玄関に下ろして、ドアに手をかけた。

 私は陽彩も見れずに、何も言えずに、ただ、立ち尽くしている。


「侑子、愛してる」


 ハッとして顔を上げた。ドアから差し込む世界の光束が陽彩の笑顔を照らす。昼間の星は見えないはずなのに。


 自分の影の真っ黒がより濃くなった気がした。


 ひとりぼっち。静かな冷たい部屋に空気の音だけが聞こえる。

 足の力が抜けて床にへたり込んでしまった。座っているのも疲れて、硬い床に体を寝かせる。


 水たまりの上の指輪は湖上のお城。


 見惚れていると涙が鼻の凹凸を越えてまた一つ、水たまりを作った。


 私はあけ乃を抱けなかった。

 繊細で、小さくて、触れたら壊れてしまいそうな命の温もり。手すら、握れなかった。退院する時は陽彩が抱っこしてくれた。


 私は母乳が出なかった。

 みるみる体重が減っていき、あけ乃に分ける栄養がなくなってしまった。毎日陽彩が粉ミルクを溶かして、あけ乃に飲ませていた。私は、哺乳瓶を何本も割っている。


 私は喋れなくなってしまった。

 声帯を絞るのも億劫になった。陽彩があけ乃にかけるふわふわした心の毛布のような声。私もあんな風に話しかけて、あけ乃に笑ってもらいたかった。


 産後うつ——そう診断された。「治療をがんばれば子供を愛せますよ」と医者から励まされたが、今の私に明るい未来は想像できなかった。


 あけ乃が夜泣きした時も陽彩が一目散に駆け寄った。抱っこして、あやして、それでも泣き止まない時は夜の星空の下にあけ乃を連れて行った。


 私は真っ暗な部屋にひとり。

 今は陽彩の優しさですら心に突き刺さる。

 子供を愛せない自分に苛立ち、悔やみ、そして涙に襲われる。


 手を伸ばせば伸ばす程、星には一生、手は届かない。

 私はずっと、ずっと星空を見上げて目を凝らしてみるけれど、やっぱり視界は滲むから、いつも下を向いていた。


 そして、正しい母親は私の気持ちを理解できなかったみたいだ。

 陽彩の母親が私に激怒し、子供を連れて帰ってくるよう陽彩に連絡をしてきた。「産むだけ産んで世話しないとは何事か」「それでも母親か」挙句の果てには「陽彩が可哀想」。


 その言葉たちは心の半分以上を抉り取った。

 残りの心で確かにそうだと納得している自分もいた。


 陽彩は一人でがんばっている。がんばってない私は陽彩の傍にいてはいけない。


「俺はずっと侑子の傍にいたい」


 私といても陽彩が辛くなるだけだよ。


「いつか。いつでも大丈夫。ずっと待ってる。侑子にもあけ乃の温かさを知ってほしいな」

記憶の中の陽彩の笑顔は、やっぱりちょっと疲れていた。


 陽彩が家を出てから随分と時間が経った。


 いつの間にか顔を出した太陽の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。私は寝ることもなく、ただ、頭を空っぽにして床に体を預けていた。


 不思議だ。息をしているだけなのに、世界はもう半分も回っている。


 のろのろと重い頭を上げてみる。

 低血糖で頭がクラクラする。何も胃に入れていなかったことに気がついた。


 スマホだけを持ってコンビニに行く。

 サンダルをつっかけた時に玄関の鏡に目を向けた。久しぶりに見た自分の姿はとても、酷かった。

 

 目の下の黒いクマ。ボサボサの髪。毛玉だらけの服。

 見た目なんて気にする余裕はなかった。


 500mlの缶ビールを大量に購入して、両手にビニール袋をぶら下げて帰ってきた。

 妙な優越感に浸り、後悔なんてしていなかった。


 袋からビールを一本取り出し、残りを冷やすために冷蔵庫を開ける。

 暗い部屋に冷蔵庫の明かりが目に刺さり、思わずぎゅっと目を閉じた。冷気が神経の張りを溶かして、徐々に視界を慣らす。


 冷蔵庫には、付箋が貼られたたくさんのタッパーが詰められていた。


“タンパク質大事!! 侑子の好きな鯖の味噌煮だよ”


“野菜もしっかり食べること! ドレッシングかけて食べてね”


“筑前煮に初挑戦! 侑子にはちょっと甘いかも”


 冷凍庫の中もご飯やおにぎりがラップに包まれて並べられていた。

 どれもレンジでチンすれば食べられるようになっていた。


 私の妊娠中に毎日料理を作っていた陽彩はここまで料理が上達していたんだ。知らなかった。


 冷えたままの鯖の味噌煮を箸で直にとって口に入れてみる。……甘い。でも、優しくて、おいしくて、陽彩の温かさが心に広がっていく。


 咀嚼をする度に涙腺が刺激されて涙の味と混ざってしょっぱくなってしまった。胸を満たす陽彩の優しさが喉を塞ぐ。嗚咽の混じる声で何度も名前を呼んだ。


 陽彩、陽彩。……ごめんね。


 輝く星の道標を失った私は、ひたすらに真っ暗な海の上を船で漕いでいた。


 その後は、あまり覚えていない。


 お酒に溺れる日々が続いていた。空き缶はどんどん増えていく。陽彩の作った物は食べられなかった。泣きたくなかったから。


 いつだったか、お酒に逃げて、酔っ払って、陽彩の指輪と一緒に橋から身を乗り出していた時にお兄義さんに引き摺り下ろされて、たぶん






今に至る。


 流れる涙を両手を使って拭い払うけれど、心の雨漏りを受け止める器はもういっぱいいっぱいだった。

 しゃくりを上げる震える私の背中をお兄義さんは優しく、和やかにさすってくれた。


 久々に触れた人の温もり。


 柔らかくなった頭は段々と自分の本当の音に気付き始めた。


 私は、変わることを拒んでしまった。


 変わってほしくなかった。


 周りが、じゃない。自分が変化することが何というか、許せなかった。


 でもその(ひず)みはきっと最初からあった。


 陽彩を好きになってから。


 陽彩と付き合ってから。


 陽彩と体が繋がった日から。


 自分だけの体じゃなくなった時から。


 歪みはどんどん大きくなって、自分だけじゃ抱えきれなくなった。

 その度に陽彩の笑顔に救われて、自分は恋をしてもいい、自分はこの人と幸せになってもいい、そう思ってしまった。


 でも、どうしても。どうしても自分が母親になることだけは耐えられなかった。


 あけ乃をこの目で見て、この手で触れれば自分も母親になれるかもしれない。


 淡い期待は泡沫のように消えた。


 母親としてこの世に存在している自分が気持ち悪い。私はみんなのように平然と息をしてはいけない。


 増幅していく嫌悪感が私を、私という存在を否定してくる。


 ガラスの箱に入った純粋な自分がガラスを割ろうと必死に叩いている。


 穢れるな。


 汚れるな。


 染まるな。


 彼氏や結婚に憧れ、夢見ていた純粋な自分が叫んでいる。耳を塞いでも、見ないふりをしても、脳内で反響して脳みそを壊していく。


 こどものままでいよう?


 おとなは嫌いでしょ?


 汚いおとなになりたくないって言ったのは侑子でしょ?


 でも、私は——変わってしまった。


 おとなになってしまった。


「……変わりたく、なかった」

それは隠していた私の本音だった。


 宙に残った音の塵がはらはらと散っていく。


 私の背中をさすっていたお兄義さんの手が止まり、息を吸う音が聞こえた。


「俺たちは生きるために変化を受け入れなきゃいけない」

お兄義さんの声は真剣だった。


 徐々に目線を向けてみると、一瞬目が合い、お兄義さんは少し口角を上げた。

 そしてどこを見るでもなく、目線を外す。


「変わることは、怖いよ。だって知らない自分が出てくるから。自分も知らない、自分の先」


 私の顎の先から雫が落ちた。


「変わらないことが別に悪いとは言ってない。ただ……変わらなければ失ってしまう愛もある」


 脳裏に浮かぶ、あけ乃の笑顔。

 飲み込んだ空気の塊が胸を押し潰した。


「でもね、侑子ちゃん」


 また、優しい瞳と目が合った。

 お兄義さんの穏やかな微笑み。



「陽彩はずっと君を愛し続けるよ」


星が何億光年も同じ輝きを保っているように。



 陽彩が植えてくれた自身の種が、やっと芽を出した気がした。


 私が私自身を愛せなくても、愛してくれる人が隣にいる。


 そのことに気付くまで、長い時間を経てしまった。


 そのうち私も、自分を好きになれるかな。


 変わった私を受け入れられるかな。


 それも、私次第。私が変わらなければ。貴方の隣で輝く、星にならなければ。


 背中をさすっていたお兄義さんの手が私の背中を押した。


 ガラスの中の自分ごと割れて、溶けていく。


 胸のつっかえが消え去って、羽のように軽い体で陽彩のところまで飛んでいきたい。


「陽彩と、あけ乃に、会いたい」

自分でもびっくりするくらい、芯のある声だった。


 お兄義さんが八重歯を見せてニカッと笑う。


「行くか」

お兄義さんの手が伸びて私の前に差し出される。

 私はその手を取らずに自分の力で床を押して立ち上がった。


 陽彩の指輪を握り締めて。晴々とした気持ちで。



 お兄義さんが運転する車の中、私は流れゆく街の明かりを眺めている。


 鼻腔をくすぐる香水。


 鼓膜を吹き抜けるラジオ。


 世界は今も変わり続けている。


 会ったら、最初に、何を言おう。

 ごめんね……は陽彩を不機嫌にさせてしまう。久しぶりに会って早々、そんな顔は見たくない。


 そっと指輪を撫でて空を見上げた。


 茜を浸食する藍。


 太陽が眠りにつくと星の輝きが増した。


 夜空に浮かぶは(あけ)の星。

 やっと見つけた一等星。


 これでもう迷わないよ。船はきっと愛のもとへ往けるよ。


 広がる愛の情景を目にした心の中の私がお礼に教えてくれた。最初に言うべき言葉を。


 照れ臭いな。私、恥ずかしくて言えないかもしれない。でもそれは、私が一番言わなきゃいけない言葉。


 あの日、言えなかった言葉。


 陽彩、あけ乃、


「愛してる」






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