第2話 セラという名の影
――《Welcome back, Mio.》
無機質な音声とともに視界が白く染まり、次の瞬間には風の音が頬を撫でた。
眼前に広がるのは《アルティア草原》。淡い緑と風に揺れる野花、遠くには雪を抱いた山脈が霞んで見える。
どれだけ見慣れても、この風景は息を呑むほど美しかった。
未央――いや、《Mio》は軽く剣を抜き、光を受けて輝く刃を眺めた。
現実では味わえない手触り。
この瞬間だけは、本当に「生きている」と感じる。
⸻
「Mio、遅い!」
声の主は《Sera》――短剣使いの少女。金色の髪を高く結び、瞳は深い灰色をしている。
性格は勝気で、どこか飄々としているが、戦闘になると一瞬で空気が変わる。
その集中力と冷静さは、数多の上級プレイヤーも一目置くほどだった。
「悪い、少し装備を調整してた。」
「また細かいことしてるの? 相変わらず真面目だね。」
セラは小さく笑い、腰の短剣を回した。
「今日の目的は《黒影狼》の討伐だよ。報酬も大きいし、最近プレイヤーの行方不明もあるでしょ?」
その言葉に、Mioの表情がわずかに曇った。
「……行方不明?」
「うん。公式では“ログアウト不能バグ”って発表してるけど、フォーラムじゃ“消えたプレイヤー”って呼ばれてる。」
セラは軽く肩をすくめる。
「ま、噂だよ。ただ、同じギルドの人が突然オフラインにならなくなったとか、ログ情報からも消えたとか……」
「……運営は?」
「何も発表してない。だから、余計に不気味なんだよね。」
風が一瞬強く吹き、草原を渡る。
仮想の太陽が沈みかけ、金色の光が二人の影を長く伸ばした。
⸻
《黒影狼》の棲む洞窟は、アルティア草原の北端、断崖の陰にあった。
入り口には薄く霧がかかり、仮想世界とは思えぬ湿気を感じる。
「……なんか、いつもと違う。」
Seraが呟いた。
「何が?」
「モンスターの配置が……変わってる。普通、この位置にゴブリンは出ないはず。」
彼女の言葉どおり、奥の方では小柄な影が蠢いていた。
《ゴブリン・スカウト》。この洞窟では滅多に見ない個体だ。
Mioは剣を構えた。
「気をつけろ。AIの挙動が変わってる可能性がある。」
「了解――って言ってるそばから来た!」
短剣が閃き、ゴブリンが倒れる。
戦闘の最中、Mioは違和感を覚えた。
敵AIの動きが、人間のように“ためらっている”。
通常なら一直線に突っ込んでくるはずが、間合いを測り、逃げようとしている。
――まるで、恐怖を感じているみたいに。
⸻
戦闘を終え、二人は洞窟の奥で休息を取った。
暗闇の中、焚き火の明かりがゆらゆらと揺れる。
Seraは黙って火を見つめていた。
「Sera。」
「ん?」
「前に言ってた“ログアウトできない人”の話……もしそれが本当だとしたら、どう思う?」
少しの沈黙。
彼女は目を細め、ぽつりと呟いた。
「怖いよ。でもね……どこかで羨ましいと思ってる自分もいる。」
Mioは顔を上げた。
Seraの表情には、わずかな笑みと、深い悲しみが混ざっていた。
「現実に戻っても、私、居場所ないからさ。ここにいられるなら、その方が――楽かも。」
その言葉が胸を刺した。
未央もまた、同じことを考えたことがあった。
だが、それを口にするのは、どこか許されない気がした。
焚き火がパチリと弾け、火の粉が宙を舞う。
その瞬間、システム音が鳴った。
――《警告:未知のエンティティを検知しました》
「なに、これ……?」
Seraが立ち上がる。
洞窟の奥から、黒い靄が溢れ出していた。
ただのエフェクトではない。空間そのものが歪んでいる。
Mioは剣を握りしめ、Seraの前に立った。
靄の中から、何かがゆっくりと姿を現す。
それは人の形をしていた。
だが、顔が――ない。
仮想世界のバグとは違う、“意志のある存在”。
「……プレイヤー、か?」
Mioが呟く。
その瞬間、無貌の影が動いた。
高速で接近し、Seraの胸を貫いた。
「セラ!」
叫びと同時に、彼女の身体が光に包まれ、霧のように崩れた。
――ログアウトではない。
消滅。
そして、残されたのは一つのメッセージだけだった。
《彼女はここにいる》
黒い靄が散り、静寂が戻る。
Mioはその場に立ち尽くした。
握った剣が震えていた。
「……どういうことだ。Seraは――どこに……?」
その夜、Mioは初めて知る。
この世界に、“もう一つの法則”が存在していることを。
⸻
現実へ戻った未央は、ヘッドギアを外した。
額には汗が滲み、胸の鼓動が収まらない。
システムログを開いても、SeraのIDは表示されなかった。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
――だが確かに、彼女はいた。笑って、戦って、ここにいた。
未央は手を握りしめ、静かに呟いた。
「……俺が、見つける。必ず。」
画面の中では、夜明けが始まっていた。
仮想の世界に、朝日が昇る。
だがその光は、どこか冷たく、虚ろに見えた。




