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無限世界の片隅で  作者: 海鳴雫


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第1話 孤独のログイン

視界の端で淡く光るホログラムが、現実と仮想の境界を溶かすように滲んでいく。

 神谷未央はベッドの上で薄いブランケットに包まれながら、視線の先のコンソールに指を伸ばした。


 ――《The Infinity World Online》。


 それは今、世界で最も人気のあるVRMMORPG。

 政府認可の安全チップによって、完全没入型の仮想体験が可能となった初のオンラインタイトルだった。

 広大な世界、圧倒的な自由度、そして終わりのない探索。

 それがキャッチコピーにある「限りなく広大な世界」という言葉の意味でもあった。


 だが未央にとって、その仮想世界は単なるゲームではなかった。

 現実から逃れるための、唯一の避難場所――そう呼ぶ方が正確だろう。



 中学三年の春。高校受験を目前にした頃、彼は交通事故に遭った。

 歩行者信号が青に変わった直後、交差点を横切ろうとした瞬間、曲がってきた車が視界に飛び込む。

 音も、痛みも、記憶の中では曖昧だった。ただ、目を覚ました時には白い天井と機械音があった。

 医師の説明によれば、骨折と軽度の脳震盪。幸い命に別状はなかったが、入院期間は長かった。

 退院した頃には、季節はすでに初夏。新しい高校生活は始まっており、教室ではすでにグループが出来上がっていた。


 人懐っこいタイプではない未央にとって、その空気に入り込むのは容易ではなかった。

 挨拶をしても続かない会話、休み時間に席を立たずに過ごす昼休み。

 “孤独”という言葉を意識し始めたのはその頃だ。


 そんなとき、SNSで偶然目にした広告があった。

 ――《The Infinity World Online》、βテスト開始。

 広大な世界、無限の職業、そして“もう一つの人生”。


 半ば衝動的にヘッドギアを購入し、初めてログインしたその日、未央は息を呑んだ。

 眼前に広がるのは、どこまでも続く大地と青空。風の音が鼓膜をくすぐり、陽光が頬に温もりを与える。

 現実と錯覚するほどのリアリティ。だがそれ以上に、彼を魅了したのは“誰かになれる”という感覚だった。



 キャラクターネーム《Mio》。

 シンプルで、どこか女性的にも見える名を選んだのは、現実の自分から距離を置きたかったからだ。

 最初の職業は“冒険者”。どの道にも進める自由職だ。

 未央は剣を握り、最初の村を歩き回った。人々の笑い声、活気ある市場、道端のミッション掲示板。

 すべてが現実にはない色彩を放っていた。


 「……ここでは、誰も俺を知らない。」


 その言葉が、どこか安堵のため息と混ざった。

 彼は現実の自分を“透明な存在”だと感じていた。だが、この世界では違った。

 努力すれば強くなり、誰かと繋がることができる。

 NPC(人工知能キャラクター)ですら、温かい言葉をくれるのだ。


 最初の戦闘、スライムとの戦いでは剣をまともに振ることもできずに逃げ回った。

 だが数日後には、初級ダンジョンを仲間と共に攻略するようになっていた。

 その頃、彼の中で何かが少しずつ変わっていった。



 「Mio! こっち、敵の増援が来る!」


 パーティチャットに響いた声は、軽快でどこか挑発的だった。

 声の主は《Sera》――初めてできたゲーム内のフレンドだった。

 短剣使いで、戦闘センスは抜群。だが彼女の笑い方にはどこか影があった。

 未央はその影を感じ取りながらも、何も聞けなかった。

 現実を知る必要などない、そう思っていたからだ。


 戦闘を終え、草原に腰を下ろす。

 夕日が沈みかける仮想の空。Seraはふと、ぽつりと言った。


 「ねぇ、Mio。ここにいるとさ、現実がどうでもよくなるよね。」


 その言葉に、未央は答えられなかった。

 彼女の気持ちが痛いほど分かったからだ。

 現実では孤独な少年。仮想では世界ランク3位のプレイヤー。

 どちらが“本当の自分”なのか、もう分からなくなっていた。



 ゲームのサービス開始から一年。

 Mio――神谷未央の名前は、世界ランキングに刻まれるようになっていた。

 トッププレイヤーたちの間で、“無音の剣士”と呼ばれている。

 ボイスチャットを使わず、感情を抑えたようなプレイスタイル。

 だがその精密な剣筋と反応速度は、人工知能でも解析不可能とまで言われた。


 誰よりも静かで、誰よりも強い。

 それが未央の、もう一つの顔だった。



 そして、その夜。

 彼はまたログイン画面の前に立っていた。

 《Welcome back, Mio.》

 システム音声が優しく響く。

 未央は短く息を吐き、目を閉じた。


 ――この世界にいれば、孤独なんて感じない。

 そう思っていた。

 けれどこのとき、彼はまだ知らなかった。

 この“無限の世界”が、やがて彼の運命そのものを変えることになるということを。

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