5.雪乃
橘雪乃は、エリート営業マンの父と優しい母に囲まれて何不自由なく育てられた。中学受験で私立の女子中学校に入学し、エレベーター式で大学まで進学した。
転機が訪れたのは、就活が落ち着いたのを期に彼氏を作ろうと思い立ったことだ。女子校育ちで男性との接点がなかった雪乃は、マッチングアプリに登録した。
「うーん、どんな人がいいんだろう?」
休日、ベットにうつ伏せになりながら雪乃はスマホの画面とにらめっこする。画面には、雪乃のプロフィールに「いいね!」を押してくれた男性たちのリストが表示されていた。しかし、身近な男性が父親しかいない雪乃にとって、どんな基準で選べばいいか分からなかった。
「あ、この人、住んでる場所が近いな。」
雪乃はある男性のプロフィールに目が留まった。雪乃と同い年の彼はN区に住んでいるらしく、雪乃が住むS区の隣だった。
(家が近いと、デートのときとか会うの楽だよね。)
そう思った雪乃は、彼のプロフィールに「いいね!」を返した。
しばらくすると、彼からメッセージが届いた。
『はじめまして、いいね!ありがとうございます。』
彼とのやり取りはとてもスムーズで、快適だった。しばらくチャットを続けて、実際に会うことになった。
「はじめまして、斎藤和真です。よろしくお願いします。」
待ち合わせ場所に時間通りに来た彼は、そう名乗った。2人はカフェで1時間ほどお茶をした。同い年だということもあり、共通の話題で盛り上がった。
「雪乃さんの初めての彼氏にしてくれませんか?」
帰り際の和真の告白に、雪乃は頬を赤らめながら頷いた。
交際を始めてから数ヶ月が経った頃、雪乃は和真との粘着質な性格に悩むようになっていた。毎日メッセージや電話のやり取りを求める、雪乃が何をしているか逐一知りたがる、雪乃に愛情表現を求めるなど、1つ1つは些細なことだが、積み重なるにつれて雪乃はストレスを感じるようになった。それでも、週末のデートのときは遅刻したりドタキャンすることはなく、食事やカフェ代は全部和真が出してくれるなど、いい彼氏ではあったため別れるまでには至らなかった。
決定的な出来事が起こったのは、就職した年の冬だった。雪乃はインフルエンザにかかり、久しぶりに出社したのが金曜日だった。和真には、インフルエンザになったことは伝えてあった。
「病み上がりだから、今週末のデートはキャンセルしていい?」
帰りの電車の中で、雪乃は和真にそうメッセージを送った。
「でも、今日は仕事に行ったんだよね?何で会えないの?」
「そうだけど、病み上がりで仕事だったから疲れたんだ。」
「インフル治って会社行くなら今週会えるじゃん。」
「でも、今週会って、また月曜日から体調崩したら迷惑かけるから。」
「もういいよ、雪乃ちゃん僕のこと嫌いになったんでしょ。」
(あーもうめんどくさい!何でそうなるの⁉そんなこと一言も言ってない!)
「そうだね、もう和真くんには付き合ってられない。別れよう。」
雪乃はそうメッセージを送ると、スマホをベットに放り投げた。和真から「別れたくない」「雪乃ちゃんが嫌なところ直すから言って」というようなメッセージが届いたが、無視した。
和真からの連絡は毎日のようにあった。メッセージはもちろん、電話も1時間ごとにあった。最初は「雪乃と別れたくない」「嫌な思いをさせてごめん」という内容だったが、次第に「今までデート代を出してあげたの誰だと思ってるの」「付き合ってくれないと死ぬから」とエスカレートしていた。メッセージのブロックや着信拒否をしたかったが、連絡手段を完全に遮断すると相手が逆上する可能性があるとネットに書いてあったため、既読無視していた。紫乃に相談しても心配をかけるだけだし、警察に相談して大事にはしたくなかった。雪乃は次第に外出するのが怖くなり、休日は家で過ごすようになった。
そんなある日、雪乃のスマホに紫乃から電話があった。
「お母さん、どうしたの?」
「実は今、家にお父さんのお嬢さんが来ているの。」
「私とは別に娘がいたってこと⁉私の腹違いの姉妹ってことだよね⁉お父さん浮気してたの⁉」
想像すらしていなかった内容に、動転した雪乃は矢継ぎ早に質問する。紫乃はコロコロ笑いながら答えた。
「違うわよ。お父さんがドイツで働いていて、そこでお母さんと出会ったことは知っているでしょ。ドイツに行く前にお付き合いしていた方との間にお嬢さんがいたの。その方が先日亡くなられて、遺した手紙と写真を持ってお嬢さんが訪ねて来たの。お父さんがドイツに行くことになって、お別れした後に妊娠に気付いたから、お父さんもそのお嬢さんもお互いのことを知らなかったんですって。」
「そうだったんだ…」
「お嬢さんは佐藤美月さん。30歳で雪乃より年上だから、腹違いの姉になるわね。雪乃に会いたいそうだけど、いつなら都合がいいかしら?」
「今からでも大丈夫だよ。」
「分かったわ。そう伝えるわね。1時間後にこっちの最寄駅待ち合わせでいい?」
正直なところ、和真につきまといされる可能性は否定できないため外出はあまりしたくないが、見ず知らずの異母姉を呼びつけるのも印象が悪い。
「分かった。1時間後にそっちに行くね。」
雪乃はそう答えて電話を切り、少し緊張しながら出かける準備をするのだった。