2. 真由美の記憶 前編
佐藤真由美は、サラリーマンの父と専業主婦の母の間に生まれた。父は酒癖が悪く、会社での鬱憤を晴らすように飲んでは暴れて母に手を上げた。母はそんな父から真由美を守るために、小学校入学を期に離婚した。
真由美の母は、父親がいないことで真由美に経済的な苦労をさせたくないと、比較的時給が高い夜のスナックで働いた。そのため、明け方に帰宅し、真由美を学校に送り出すと家事をしてから睡眠を取り、真由美が学校から帰ると夕飯を食べさせて出勤するという昼夜逆転の生活だった。母子の時間は朝夕のわずかな間だけだった。それでも母の愛情を感じていた真由美は、母が「寂しい思いをさせてごめんね」と謝るたびに「大丈夫だよ!」と笑顔で答えるしかなかった。
真由美は高校卒業後、海外にも展開している大手製薬会社に就職した。業務内容はお茶くみやコピー取りなど雑務が多かったが、仕事だと割り切ってしまえばさほど嫌ではなかった。いつかは寿退社をして、子育てをして、平凡だけど幸せな人生が続くと疑ってもいなかった。
「見て、橘さんよ。」
「今日も格好いいわね。」
フロアに女性社員たちの黄色い声が漏れる。真由美が顔を上げると、ある男性が廊下を歩いているところだった。橘雅人、26歳。すっと通った鼻筋に形のよい眉、さらさらの黒髪。スーツをピシッと着こなし、若手にも関わらず花形の営業部に配属され、先輩顔負けの成績を挙げている社内きってのエース社員だ。しかも誰にでも分け隔てなく優しい、まさに非の打ち所がない人物だ。
そんな雅人をフリーの女性社員たちが放っておく訳がない。社内飲み会のときの彼の隣の席は、余計な争いを避けるためにくじ引きで決めているというのがもっぱらの噂だが、20歳になったばかりの真由美はまだ参加したことがないため、本当のところは分からなかった。(社内規則で飲み会の参加は20歳以上と決められていた。)
その日は真由美が所属する総務部と営業部との交流飲み会があった。終業前に総務部の女性社員が集められて、筒に入った竹串を引くように言われた。何でも先が赤い串を引いた人が、この後の飲み会で雅人の隣に座れるという。
(噂は本当だったんだ)
真由美は内心苦笑しながらも串を適当に選んだ。真由美とは違って先輩たちの串を見極める目は真剣そのものだ。ようやく全員が選び終わって串を引くと、真由美の串の先が赤く塗られていた。
「それじゃあ、佐藤さんは橘さんの隣ね。」
上司の言葉に、先輩たちの嫉妬と羨望の目線を感じながらも、真由美は頷くしかなかった。
飲み会での雅人は、定評通りの好人物だった。エース社員だからといって仕事の自慢話をするわけでもなく、口下手な真由美が退屈しないように、誰でも分かるような話題を振ってくれた。
「真由美ちゃ~ん、飲んでる~?遠慮せずにどんどん飲みな~」
営業部の部長が真由美に話しかけてきた。顔は真っ赤で、足元はふらついている。かなり出来上がっているようだ。
「はい、ありがとうございます。もうたくさんいただきました。」
慣れないアルコールにそこそこ酔いを感じていた真由美はそう返事をしたが、部長は真由美のグラスにビールを注いだ。そして大声で叫んだ。
「みんな注目~!真由美ちゃんが飲み会初参加の記念に一気飲みするぞ~!」
(いや、そんな記念いらないし)
真由美は心の中でつっこんだが、それどころではない。真由美は上司に目線で助けを求めたが、こちらも顔を真っ赤にしていて止めてくれそうにない。正直なところ、これ以上飲むと無事に家まで帰れるか不安だ。しかし、初参加の飲み会で雰囲気を壊すわけにもいかない。真由美が意を決して飲もうとしたとき、急に視界からグラスが消えた。驚いた真由美が振り向くと、雅人がビールを一気飲みしていた。周囲が呆気にとられる中、雅人はグラスを飲み干した。そして一言。
「部長、女性に無理強いをする男はモテませんよ?」
営業部長は50代だが、未だ独身だ。図星を当てられて不満そうな顔をしたが、自慢の部下に対して文句を言うことはなかった。
「橘さん、さっきはありがとうございました。」
飲み会が終わると、真由美は真っ先に雅人にお礼を言いに行った。
「いいよ、気にしないで。」
「これ、よかったら飲んでください。」
真由美がバックから取り出したのは二日酔い防止のドリンクだ。慣れないアルコールで翌日の仕事に支障が出ないようにと、買っておいたものだ。
雅人は一瞬、虚をつかれた表情をしたが、笑って断った。
「大丈夫だよ、それ自分用に買ったやつでしょ?」
「はい、でももう1本買うのでもらってください。私を助けるために橘さんが体調を崩して仕事に影響が出たら、私、会社に居られなくなります。」
冗談めかした真由美の発言に雅人は吹き出して笑った。
「そういうことなら遠慮なくもらおう。その代わりに…」
雅人は躊躇うように1拍おいたあと、思いきったように続けた。
「ポケベルの番号を教えてくれないかな?」
真由美は驚きながらも、橘さんの顔がさっきより赤く見えるのは気のせいだ、社交辞令で聞いてくれただけだと自分に言い聞かせて番号を教えたのだった。