序章 「まさか」の始まり
長い歴史の中で、人生は様々なものに例えられてきた。
「人生、山あり谷あり」
「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか」
2つを比較すると、山が上り坂で、谷が下り坂だろう。では、「まさか」は上り坂だろうか。それとも下り坂だろうか―
「行ってきまーす。」
佐藤美月は玄関で靴を履きながら、家の中に向かって声を上げる。
「はーい、いってらっしゃーい。気をつけてねー。」
2階の自室から母の真由美が返事をした。始業時間が美月の会社より遅く、職場までの距離が近い真由美は、美月と入れ替わりに身支度をするのが佐藤家の朝の日常だ。
真由美と美月は母1人子1人で暮らしてきた。高校を卒業すると、手に職をつけるために美月は奨学金を借りて大学の商学部で会計を学び、中堅メーカーの経理部に就職した。今年30歳になった美月の悩みは、真由美の「誰かいい人いないの?」「早く孫の顔が見たいわ~」攻撃だが、仕事が面白く、交際相手もいないので当分その予定はない。とは言うものの、もちろん親孝行はするつもりだ。美月がいまだ実家に住んでいるのもその内の1つだ。
「お疲れ様でした。」
1日の業務を終えた美月は上司や先輩たちに挨拶をしてオフィスを出た。この日は経理部が一番忙しい月末で、1時間ほど残業していた。美月の会社はオフィスビルの6階にあり、エレベーターが来るまでにスマホをチェックするのが美月の日課だ。早く来ないかなと思いつつ、スマホを見ると知らない番号からの着信履歴が何度もあった。ネットで検索すると、自宅近くの病院の番号だ。美月は嫌な予感がしつつ、ビルの外に出ると折り返しの電話を掛けた。品質向上のため通話を録音するという定型文の音声ガイダンスがいつもより長く感じられる。受付の女性が出た。
「K市立医療センターでございます。」
「佐藤美月と申します。お電話をいただいたようなのですが。」
「佐藤美月様ですね。確認しますので少々お待ちください。」
保留音が流れる。今度は別の女性が出た。
「看護師の西野です。佐藤美月さんですね。」
「はい、そうです。」
「お母様の真由美さんが先程救急搬送されました。至急お越しいただけますか?」
「分かりました。すぐに行きます。」
看護師の口調からただならぬ様子を感じた美月は、ちょうど良いタイミングで来た電車に飛び乗った。
急ぎに急いで、美月が病院に駆け込んだのは1時間半後だった。
「救急搬送された佐藤真由美の娘です。」
「こちらにお越しください。」
受付の女性に案内されたのはICUだった。医療用ガウンとマスクを着けた美月が恐る恐る覗くと、真由美がたくさんの管に繋がれ、変わり果てた姿でベッドに横たわっていた。
「お母さん‥‥」
美月は真由美の手を握りしめた。
「佐藤さん、先生から説明がありますのでこちらへどうぞ。」
呆然としている美月に看護師が声をかけてきた。
案内された部屋に入ると、男性の医師が待っていた。
「こんばんは。お母様を担当させていただくことになりました伊藤です。お母様の状態をご説明します。」
「はい、よろしくお願いします。」
「救急隊によりますと、お母様は職場で突然激しい頭痛を訴えて倒れたとのことです。検査の結果、脳出血だと分かりました。現在、血圧管理や脳の腫れを抑える治療をしていますが、出血の範囲が非常に広いため、意識が回復しても様々な後遺症が残ると覚悟してください。」
「そうですか‥‥」
その時、看護師が部屋に飛び込んできた。
「先生、佐藤さんの容態が急変しました!」
伊藤医師はICUに戻ると、矢継ぎ早に指示を出す。美月は廊下の椅子でひたすら祈るしかなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。
「佐藤さん、こちらへどうぞ。」
美月はICUに入って真由美の側に行った。ベッドサイドには伊藤医師や看護師たちが立っていた。伊藤医師が真由美の目蓋を開けてペンライトを振り、聴診器を胸に当てる。
「20時48分。死亡を確認させていただきました。」
その言葉はどこか遠くから聞こえるようだった。
真由美の死によって人生の「まさか」に直面することになるとは、このときの美月は思ってもいなかった。




