『ルノン』の女より
あなたへ
今、この手紙は車の中で書いています。
そのせいで少し字が震えていますがご了承ください。
でも、きっとあなたならそれも嬉しがってくれると信じています。
この震えが、私の生きている証だから。
さて、窓からはあなたの知らない景色が見えます。
雨後の筍のように生えていた高層ビルも、雑草のように揺れていた人混みも、ここ数十年でさっぱりいなくなってしまいました。
寂しさなどはありません。
きっと十代の頃なら感じていたでしょう。
二十代もそうです。三十代までくると⋯分かりません。
なぜかしら、と考えると、思い出すのは母との記憶です。
母の顔は、お世辞にも美しいとは言えませんでした。
子供の頃は当然何も感じませんでしたし、二十代になってもそうでした。
私の心が美しかったからでしょうね。
しかし、三十代になると変わりました。
四十代、五十代になればなおさらです。
母がもういないのが悔やまれます。
いたところで、結局何も言えないでしょうね。
そんなものだと思います。
せめて手紙の書き方くらい教わっていれば良かったかしら。
それにしても、私はあなたの名前も知らないのに、よくここまで書いているなぁと自分でも思います。
あなたの顔や表情、仕草、毎日頼むお気に入りのコーヒーブランドに比べれば、そんなものは些末なものです。
だって頭に浮かぶ思い出に、名前は登場しませんから。
「思い出」と書いて浮かぶのは、初めて会ったときのことです。
あれは『ルノン』でのことでしたね。
こんなところにいるはずのない軍服姿の男を見て、私はときめくような訝しむような気持ちを覚えました。
それからも頻繁に目にし、ずっとスマホを見ていたあなたに話しかけたのでした。
しかし「スマホ」というのも懐かしいですね。
あの頃はまだ、私の体は美しく、この星も美しかった。
人間の心は錆びつくばかりです。
それでは、そろそろ目的地につきます。
これ以上老け衰えていくのは辛いと、そう思っての決断でした。
この広い宇宙で同時に死ねたら奇跡でしょうね。
またきっと会える、そう思えば旅のようなものです。
母の顔は美しいまま、あなたの顔も美しいまま。
私だけ、数十年ぶりの再会が照れくさいです。
June 16th, 2082
カフェ『ルノン』の女より
この手紙は、東京連邦支部へお送りください。