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後編

「餌を食べない?」


エスは厩舎で魔獣たちの餌を与えながら、隙を見て寝藁を交換し、せっせせっせと働いていた。

そんな時に、同寮のエラが話しかけてきた事に、目を丸くした。

エラは情報通なので、他の厩舎の話もたくさん知っている女性なのだ。


「餌を食べないってどうしてまたそんな」


「一切口にしないらしいの。あんな見事な巨体の土狼だから、繁殖個体としては間違いなく、素晴らしいって皆さん言っているのに、いくら餌を変えても口にしないんですって」


話題はあの、新しく入った土狼の事で、エラが言うには来てから一週間以上、一切餌を口にしないのだとか。

餌を口にせず、檻の中でじっと丸まり、殺意と敵意と闘志に満ちた瞳で担当の、上級職員たちを睨んでいるのだとか。


「あれじゃあ衰弱する一方だから、どうするかって上級職員の皆さんは話し合っているそうよ」


「干し肉は食べたんだけど」


「ああ、エスは分岐所でちょっと見てたんだっけ」


「まあそんな感じですね」


「エスの食べさせたものってなに?」


「ほら、魔獣園印の薄味干し肉」


「ああ、あの薄味すぎて恐ろしく不味いって評判の……あなたなんて物食べてるのよ」


「おやつに」


「おやつなのね……」


そんな会話もありつつ、仕事が終わり、エスは水辺の厩舎の水を取り替える作業のために、その厩舎を後にする。水辺の厩舎の水は、二日に一遍は取り換えなければ、澱んで魔獣たちの鱗に影響するので、これも下級職員の仕事である。

それをせっせと行っていたエスは、


「エス君!」


そう呼びかけられたため、振り返った。そこには上級職員が立っていて、手招きをしている。

そのため近付くと、彼は困った顔で両手を合わせてお願いをして来た。


「頼む、こっちは私がやっておくから、君は北の厩舎に行ってほしいんだ」


北の厩舎は、滅多に魔獣を入れない厩舎である。そこに入れられるという事は、使い物にならないと判断されたという事でもある。

そこにどうして、と怪訝な顔になったエスに、彼は言う。


「新しい土狼が、一切食事をとらないんだ。もう他のどの職員も打つ手がなくて、そこで君がおやつをあげたという話を思い出して、来てほしいと」


「……噂は本当で、何にも食べてないんですね」


「そうなんだ。あれじゃあ傷も治りが遅い」


「……」


「せっかく、土狼の繁殖期になるのに、あれじゃあどの雌とも交配させられないんだ」


「見に行っても、役に立てるかわかりませんからね?」


「いいんだ。もしもだめなら、繁殖用ではなく、闘技用に切り替えると上は決めているし。戦えばお腹を空かせて、食事をするかもしれないし」


上級職員がそう頼み込んでくるため、エスは頷き、デッキブラシを彼に渡して、北の厩舎の方に向かった。

そこは相変わらず、何か暗い匂いのする場所で、使い物にならない、何の役にも立たないと判断された魔獣がいる場所だ。

ここにはほとんど魔獣がいないので、今いるのはあの土狼だけだろう。あのおじいちゃん土狼のように、だいたいの魔獣は平和な余生を送るのだから。

そしてエスは頼みの綱だったらしく、厩舎の前では中級職員が複数、防具をまとって待っていた。


「ああ、エス君! 来てくれたんだな、すまない、大丈夫だと思っていたんだが……どうしても、何を与えてもダメで」


「分かりました。……あの子は中にいるんですね? 役に立てるかもわからないですよ?」


「ああ、分かっている。君でだめなら他の役割を考える事になっているから」


言われたエスは、そっと厩舎の扉を開けて、そこに入った。

檻の中には、あの大きな土狼がいる。じっと薄暗い中で、強い光を絶やさない瞳が向けられている。

それが、エスを見てエスを認識した。

体を丸めていた土狼がのろりと体を持ち上げる。消耗しきった体だとよく分かる動きだったから、エスはたまらなくなってこう言った。


「私がそっち行くから、あなたは動かないでいいよ」


そういい、急いで檻の鍵を開けて、エスは檻の中に入っていった。

檻の中に入ると、土狼は弱っているだろうに、エスに近寄り、愛し気に頭をこすりつけた。


「ご飯食べてないって聞いたよ、私これしかないけど」


そんな土狼のあばら骨が浮いているから、エスは急いで懐から、前と同じおやつに持っている干し肉を取り出した。

取り出した途端、土狼の顎がそれを攫って行く。

がつがつとそれを食べるので、お腹は空いているし食欲もあるわけだ、とエスは判断した。

ならどうして、餌は口にしないんだろう。

今のうちに餌を持ってきてもらおう、とエスが立ち上がると、土狼はエスの脇に着く。

今度は絶対にはなれまい、という意思が感じられる動きだった。


「……わかった。一緒に行こう」


エスはそう言い、土狼を隣に、厩舎を出た。

厩舎を出ると、外で様子をうかがっていた中級職員が、あからさまにぎょっとした顔でエスを見て、土狼を見た。


「危ないだろう! 檻の中に入れておかなくては!」


「この子、私と一緒ならご飯を食べるんです。だから、ご飯を持ってきてもらおうと思って」


「それなら君だけ出てくればいいだろう」


「それが嫌みたいなんで」


「……真面目に言っているかい?」


「これ以上ないほど大真面目です」


エスが真顔で言うと、中級職員は頭を抱えた後、こう言った。


「今すぐ持ってくるから、君も檻の中で待っていてくれ……」


「はい」




結論から言うと、この土狼はエス以外の誰も受け付けない事が判明した。そしてエスがいなければ食事をとらない事もわかり、これが分かった上層部は頭を抱えた。

こんなにも一人の人間に執着する土狼が、他の雌に腰を振る事は考えにくかったからだ。

しかしこの土狼は野性では最高の個体と言ってよく、手放すのは惜しい。

どうするかの方針を決めるまで、土狼はエスの預かりとなったのだった。

独身寮で何か事故があってはならないというわけで、エスが北の厩舎の仮眠室で生活する事になり、当たり前の顔で土狼もエスの側にいるようになった。

そうなってくると、情が湧くもので、エスは土狼に名前を与えた。


「フェーン、おいで」


エスがそう言って呼びかけると、土狼のフェーンは身軽に近寄って来る。そして匂いをつけるのだと言わんばかりに頭をこすりつけて来るので、その可愛らしい独占欲がたまらなかった。

そうこうしている間に、土狼の発情期が来てしまった。

雌の匂いに影響を受けると知っているエスは、その間フェーンがおかしくならないように、出来る限り雌の土狼の厩舎に近寄らなかった。

この時期になっても、フェーンの処遇は決まらなかったのだ。


「フェーンはどんな雌が気に入るのかな、やっぱり美人さん?」


頭を撫でて、頬を寄せて、抱きしめて、エスはエスにだけは大人しい巨体の土狼に話しかける。

そんな、フェーンが来てから三回目の満月は、普段は白い月が、血のように赤い、たまにある満月だった。

ちょっと仕事の都合で、フェーンに留守番を頼んで、魔獣園の事務室に向い、戻ってきたエスが見たのは、仮眠室にいるはずのフェーンがおらず、狼の頭部を持った人型の何かが、座り込んでいる様だった。

呆気にとられたエスが、扉を閉めた状態で固まっていると、その人型の何かはこちらを見て、ぎらつく獣性をむき出しに、エスの手首をつかんで、仮眠室の寝台に押し倒し、何が起きているのか全く分からない状態のエスに下腹部をこすりつけた。


「え、あ、ええ」


びっくりしすぎて頭の中身が混乱しているエスは、その狼の頭に嫌と言うほど見覚えがあったので、恐る恐る問いかけた。


「ふぇーん……?」


「……そうだ」


狼の頭はフェーンのもので、口から聞こえた声は唸り声に似た音律のものだった。


「フェーンは魔族だったわけ……?」


「どうだっていいだろう」


そういうフェーンの声はどろりと欲にまみれている。またいっそう屹立が堅い気がする。

色々不味い、と思ったエスが言葉を探している中で、フェーンが言う。


「あつくてつらくくて、たまらない。……愛しいエス、俺の相手をしてくれ」


「そーいうのは結婚してからじゃないのかな!?」


エスはこれでも結婚に夢を持っていた側である。こんなびっくり状態で、事が進むのはさすがに嫌だったのだ。

そんなエスが破れかぶれに言った言葉に対して、フェーンは言う。


「エスはあんなに俺に求愛をしていたのに、嫌だというのか」


求愛。……まさか。


「おやつをあげた事が……?」


「食事を分け与える事が、どれだけ愛情の表れか、お前は知らないのか」


くつくつと笑うフェーンがエスを覗き込む。


「エス。いいだろう? 俺は三度もこらえたぞ」


頭が狼だとか、体格がおかしいとか、これってどういう事になるのか、とか。

全く分からないながらも、エスは抵抗しようとして、それもかなわない力の差に頭を回転させた。


「……結婚しなきゃヤダ」


回転させても、中級職員の筆記試験に、たぶん不合格したエスでは、いい言葉なんて思いつかなかった。

そのため、酷く不貞腐れた声で、恋人にすねる女の声で、そんな言葉しか出てこなかった。

それを聞き、フェーンが楽しげに笑う。


「言ったな? もう言い逃れられないぞ」


「何をする予定なのかな?」


「今にわかる」


そう言ってフェーンはべろりとエスの頬を舐めて、瞳に魔法陣がひらめいたと思うと、姿が消え失せた。


「……なんて上に報告しよう……」


まさかフェーンが魔族だったとは……と頭を抱えたエスは、とにかく寝よう、と仮眠室の寝台で、毛布をずり上げた。




あんな事があってから、信じられない事に、誰もフェーンを覚えていなかった。まるで記憶を消されたように、エス以外誰もフェーンを覚えていなかったのだ。

そしてエスは、北の厩舎で病気で余命いくばくもない魔獣をみとっていた、という風に、思われていたのである。

それもフェーンが魔族として何かしたからだろうか、他に考えられないと思っていたエスは、その日、慌ただしく上司が厩舎にやってきて、エスの腕をつかみ、会議室に引っ張ってきたため、何が今度はあったのだ、と怪訝に思い……会議室にいた、銀の髪に強い光の瞳の男に、誰ですか、と言いそうになった。


「エス」


誰ですかと言いかけたエスを、愛情たっぷりの声で呼びかけた男の、言葉の響きに、エスは目を丸くした。


「フェーン……?」


この前は狼の頭だったのに、今はどうして人間の頭なのか、と聞きたかったエスであるが、男は笑った。


「きちんとお前に求婚しに来た。手順を人間は好むらしいからな」


「じゃあ、我々はこれで」


そう言って、思考がまとまらないエスを置いて、上司たちが会議室から出て行く。

それを見送って、フェーンであろう男が笑う。


「俺は赤い満月が三度登る前に、伴侶を見つけなければ、生涯狼として生きるほかなかった。だが、お前が俺に求愛し、俺はそれに答えた。狼の魔族の求愛をな」


「……」


「お前は体をつなげる事は、結婚しなければいやだと言った。それは譲歩しよう。だから、俺の伴侶として北の国に来てくれ」


それとも、と彼が笑った。


「狼でなければ、お前は俺を愛しい目では見てくれないか?」


エスはしばし黙った、黙って考えて考えて……こう言った。


「いや……人間の形の相手に恋をする日が来るなんて、来るとは思わなかったな……」


「ん?」


面白そうに、フェーンが見て来る。エスは仕方がないから白状した。


「好きだよ、狼でもそうじゃなくても。ただあれをするなら、結婚してからがよかっただけ」


「じゃあ決まりだな」


フェーンが笑って、エスを抱きしめる。慣れ親しんだ匂いに包まれて、なんだか笑いたくなって、エスはその腕の中で笑った。


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