前編
ハッピーエンドの短編の練習です!
エスはすっかり暗くなった外を眺めた後に、厩舎の確認をした。今日も魔獣たちに問題はなく元気そうで、騒がしい鳴き声を上げている。
ここは王立魔獣飼育施設。通称魔獣園。
この場所では、今やすっかり全国に広まっている魔獣専門の闘獣のための、数多の魔獣たちが集められ、戦いの訓練をし、時により良い個体を生み出すために繁殖されている施設だ。
これの起源は古く、大虐殺と呼ばれたあまりにも多くの血が流れた大戦争ののちに、人々の血を流す代わりに、各々の鍛え上げた魔獣を戦わせるという事で、戦争替わりとしようとしたのが始まりと言われている。
エスは実際はどうだか知らないものの、この闘獣のおかげで、人間同士の血の流しあいがだいぶ減った事は知っていた。
そして今や闘獣は大規模な娯楽であり、国同士の交流となり、時に何か利益のために動くものとなっている。
このような事情の結果、どの国も魔獣を強くする事、そして確実に制御する事に余念がない。
魔獣を強くするために使われる方法は幾つもあるが、一つは訓練。魔獣を戦い慣れさせる事だ。
そして二つ目は使役する相手との信頼関係。相手のために戦えるようになれば、魔獣はぐんと強くなると言われている。
そして最後に三つ目は、交配だ。
交配を繰り返し。より強い個体を生み出し、戦わせるのである。
この交配の中では、生息地域が異なるために、野生では交配などありえない種類の欠け合わせも行われ、時に圧倒的な強さの個体を生み出す事も多い。
その代わりというのか、その圧倒的な個体には繁殖能力がない場合が多かった。
更に、同種同士でも、血が濃すぎると病弱な個体が生まれやすいために、魔獣園では定期的に野性の魔獣を捕まえて来て、血を混ぜる事を行っている。
ときおり……濃すぎる血の結果なのか、異様な強さの魔獣が生まれるケースもあるが、それはとても少ない事であり、そんな博打みたいな事はどの国もあまりしなかった。
「ええっと……明日は非番かぁ。明日何食べようかな」
エスは厩舎の中に張り付けられている、雑用の順番を確認し、明日は間違いなく休みである事から、そんな事を暢気に言う。
「食べたらやっぱりこっち来ようかな。魔獣園はいろんな子がいるから楽しいんだよね」
独り言を言っていたエスはそんな事を言いつつ、夜行性の子たちが元気に騒ぐ厩舎を覗き、ばいばい、と手を振って家路についた。
エスは魔獣園の下級職員だ。主に汚れる体力仕事をしている。一応中級職員に応募したのだが、残念ながら筆記試験か面接か、どちらかで落とされたようで、下級職員の求人が余っていたからそこに引っかかったという履歴の持ち主だ。
実家との折り合いが悪かったエスは、面接の際にどうしても寮で暮らしたいのだ、中級職員でなくてもいいから雇ってほしいと頼み込んだ。
それもあったのだろう。何とか魔獣園の独身寮で暮らす事が出来ている。
エスは魔獣というものが好きなのだ。闘技場で見る強い存在に憧れがあり、そして彼等をもっと間近で見て触れ合いたかった。よくある話だ。
魔獣の役に立ちたい。あの子たちを支えたい。そんな思いもあった事から、エスは学校で貴族的勉強や資格ではなく、魔獣園で働くための資格や勉強を行い、今ここにいる。
「ふああ」
エスは自宅の鍵を開けて中に入る。ガチャンと鍵をかけてすぐ、ほとんど歩く場所などないほど狭い空間を見渡す。引き出し式チェストには、仕事着であるつなぎが数枚と下着が入っており、天井にはタオルが干されている。
これも申し訳程度の小さすぎるキッチン。キッチンの下部には飲み物とちょっとした食べ物しか入れられない魔導冷蔵庫。エスはキッチンの蛇口から水をコップに注いで一気に飲み干した後、共用の風呂場に向い、汚れ切った身なりをすっきりさっぱりとさせた。
下級職員が汚れるのは当たり前で、この独身寮の一階は下級職員ばかりいるため、今の所ヒエラルキーに似た問題には、直面しない。
これが二階以上になると、下級職員の中でもベテランだったり、上司の覚えのめでたい人だったりすると、中級職員と火花が散ったりするらしい。よく知らないけれども。
どの階にも共用の風呂場とトイレが設置されているのは、昔あまりにも衝突が多かったからだという話だ。おかげで一階だけで生活ができるので、エスとしてはありがたい。
風呂場から出て、共用のメインキッチンで、小銭で購入できる甘くて冷たいジュースを一気に喉に流し込んでいたエスは、背後から聞こえた声に耳を傾けた。
「魔獣園の、繁殖用の土狼、もうだめだってね」
「おじいちゃんになったものね。あの子は皆に優しくて、いい子だけど。確か……二十年だっけ、ここにきて」
「そう。だから新しい子を連れて来るって、上級職員の人が言っていたわよ。何でもすごく獰猛な、野生の個体としてはびっくりしちゃうくらい強い個体が手に入ったって」
「野生で? 土狼はそんなに強かったっけ」
「だから珍しいっていう話よ。明日厩舎に入ってくるそうだから」
「ふうん」
「おじいちゃんは、余生を過ごす。西の生息地に近い気候の園に連れて行くってさ」
エスはそれを聞き、おじいちゃん土狼は、そんなに高齢だったのか、と寂しくなった。
おじいちゃん土狼は、人慣れしていて、誰にでも優しい、攻撃性の低い土狼だった。
だが若い頃は結構気が荒く、おじいちゃんの血をひく土狼や、焔狼は、闘技場でも人気の魔獣だったはずだ。
そのおじいちゃんが明日でいなくなるなら、お別れをしに行こうかな、とエスは考えた。
仕事に失敗した時に、おじいちゃんに泣きながら話しかけて、顔を舐められるというのは、新米職員のあるあると言っていいだろう。
明日の予定はそれで決まりだな、何てエスは判断したのだった。
「なんだ、お前もお別れを言いに来たのか、エス」
「はい。おじいちゃんには、お世話になったので」
翌日、おじいちゃんがいる厩舎に足を運んだエスは、これで何人目だ、と笑っている担当職員とそんな会話をしていた。
檻の向こうでは、おじいちゃん土狼が、優しい眼差しでエスを見ている。
だからエスはしゃがみ込み、おじいちゃん土狼に言った。
「ばいばい、おじいちゃん。休暇が取れたら、会いに行くからね!」
「その休暇が取れたら会いに行くって言ったやつ、お前で十六人目」
「おじいちゃん人気者ですね」
「こいつに慰められた奴は、星の数ほどって話だからな。そうだ、エス。お前も時間があるなら、新しく入る土狼を見に行けよ。今度の奴は一目見て違うって分かるやつだぞ」
「言うほど?」
「言うほどだ。何せ強い。覇気が違う」
「分かりました。どこの厩舎ですか?」
「西の厩舎に入る。でも今は、まだ分岐所だろうな」
「ありがとう、見に行ってみます」
分岐所とは、魔獣たちが園につれてこられた際に、一時的にいる場所である。
ここから西の厩舎や東の厩舎、といった具合に移動するのである。
最後、おじいちゃん土狼に手を振って、エスは分岐所の方に向かった。すると何やら、分岐所の方は騒がしいのが、歩いていても伝わってきた。
どうしたんだろう。何か問題があったのなら、手伝った方がいいだろうか。
ちょうどエスは、仕事着ではないものの、すっかり体に馴染んだつなぎを着ているため、手伝いも出来るのだ。汚れても問題がないというわけで。
エスは少し足早に、分岐所を目指し、そして到着した時、見知った中級職員が、助かったという顔をしたため、やっぱり人手が欲しかったか、と察した。
「何を手伝いますか?」
「エス! あなたが来てよかった! 怪我人が出たの、ちょっとあなた新しい子を見張ってて!」
「え、ちょっと!?」
エスは怪我人が出たという話だけを聞き、足早に分岐所の扉を開けて中に入り、室内の酷さに息をのんでいるうちに、中級職員が怪我人を数人担架で運んで、走り去っていってしまったのだ。
エスでなくとも、え、ちょっと、と言いたくなるだろう。
確かに今のエスは、制服のつなぎよりも頑丈な教科布地のつなぎを着ていて、ちょっとやそっとの事では怪我をしないなりだが……説明もなしとはいったい。
エスは呆気にとられて、閉まった扉を見た後、唸り声の方に顔を向けた。
そこには、恐らく捕まえられる際にかなり抵抗したのだろう、傷だらけでぼろぼろになりながらも、瞳には闘志の焔が燃え盛っている、そんな土狼が一匹、彼女を睨んでいたのだ。
「……大きい」
エスはその土狼を見てまず初めに、その大きさに目を丸くした。この魔獣園で一番大きい土狼は、今日いなくなるおじいちゃん土狼で、目の前の土狼は二回り位大きいのだ。
土狼としては破格の巨体だろう。確かに、何としてでも捕まえたいと、捕獲要員たちが意地になったのだろう事も納得だ。
そして、その土狼は、目を見張るほど美しい個体だった。
骨格から何から何まで、エスの言語では美しいとしか言えないけれど、とにかくそうだった。
そのせいで、見とれていたエスは、相手が唸ったため、はっと我に返った。いけない。見とれている場合じゃない。相手はおそらく、檻を移動させられる際に、檻から飛び出したのだ。
周りに転がる移動用の檻と、壊れたのだろう檻から、エスはそう判断した。
どうしよう。エスは数秒考えた後、相手の瞳の中に、闘志のほかに、理性に似た物が見えた気がして、やるしかない、と自分の行動を決めた。
膝をつく。それから両掌を見せ、相手をじっと見つめてこう言った。
「あなたの怪我の手当をさせて。信用ならないかもしれないけど、その傷を見ていられないから」
それから見つめあう時間は、酷く長く感じた。エスはじっと相手の動きを待ち、そして、相手は容赦なく、エスに飛びかかったのだ。
ある程度は予想していたエスは、とっさに頭部を庇い、しかし床に強かに背中を打ち付けた。
苦痛で顔が歪む。目の前には、巨体の土狼。そしてエスの喉は晒されている。
狼は獲物の首に咬みつき、絶命させるとも言うから、エスはまさに命の危機だった。
それでも、エスは攻撃や抵抗をしなかった。
土狼が、じっとエスを見ていたからだ。がっちりと抑え込まれて、自分とほぼ同じかそれ以上の体格の土狼に対して、迂闊に暴れたら死ぬという判断ももちろんあった。
エスは土狼を見つめた。土狼はエスを見ていた。
そして、エスの首筋に鼻先が触れて、もしもを考えたエスが覚悟を決めた時、土狼はべろり、とエスの唇を舐めたのだ。
殺される危険性は減ったらしい。エスはつなぎの首から覗くシャツの中に、土狼が鼻を突っ込んでしきりに匂いを嗅いでいるため、されるに任せた。下手な抵抗は危険である。
好きなだけ匂いを嗅いだ土狼は、のそりとエスの上から退いた。そして起き上がったエスを見つめる。
「……手当しようか」
敵意と闘志の焔は消えている。野性でありながら理知的な光のある瞳に、大丈夫そうだと判断したエスは、まずはこの大きな傷の消毒であると判断し、土狼に視線を合わせて、こう言った。
「傷を洗うから、ついてきてほしいんだ。その間に、私の側から離れないでね」
大概の魔獣はそんな言葉わからない。言い聞かせても何をするかわからないのが、魔獣という人の常識の外側にいる存在だ。
それなのにどうしてか、この巨体の土狼は言葉が通じる気がして仕方がない。
エスの言葉に土狼は小さく唸り、それが了承だったのだろう。エスが分岐所の端にある水道で、自分が濡れるのもいとわずに土狼の、血にまみれた誰にも触らせなかったのだろう傷をじゃぶじゃぶと洗い始めると、痛いのだろう土狼は、ぐるぐると苦痛の声をあげながらも、大人しくしてくれたのだった。
そこから丁寧に大判の布巾で体毛をぬぐい、分岐所にはいつでも置かれている回復の薬を手に取り、それを体温と馴染ませた後、ゆっくりと傷に塗り込んでいく。
薬効あらたかだがかなりしみる薬である。ほとんどの魔獣が痛がって暴れるし、一度臭いを覚えたらそれから全力で逃げる薬だ。
エスはそれの痛みが和らぐのは、人肌に温める事だと知っているから、わざわざ手間をかけて人肌に温めたわけである。
大体の怪我に薬を塗りこめ、エスはそこまでしているのに誰も帰ってこないので、どうするかな、と土狼の脇に座った。
土狼はエスの頬の匂いを嗅ぎ、化粧の塗られていない肌を舐める。お腹が空いているのだろうか。
「お腹空いた?」
言いつつエスは懐から匂いを遮断する油紙の包みを引っ張り出し、中から干し肉を取り出した。
「塩味薄目で保存性低いけど、だから魔獣でも食べられる奴。あーん」
あーん、と言いつつエスは干し肉の一枚を自分の口に放り込み、安全であると見せてから、土狼の口にそれを入れてやろうとし、ずいと土狼の鼻面が近付いて、エスの口の中から咀嚼して柔らかくなった干し肉が奪い取られたので、呆気にとられた。
柔らかい方がいいのならば、もしかしたら結構弱っているのかもしれない。
人間の唾液って土狼にとって有毒とか、そんなのじゃなかったよな、と筆記試験の時の事を思い出したエスは、んじゃあ柔らかく噛んでおこうと判断し、そのままありったけ干し肉を咀嚼して、柔らかくなるたびに土狼に奪われて、そこまで終わってようやく、中級職員たちが、かなり頑丈な保護衣類を着て現れたので、手をあげた。
「先輩、もう傷の手当もおやつもあげました」
「はあ!? お前何した!? あんなに暴れてたっていうのに!」
「エス、もっと離れなさい! その土狼の顎、洒落にならないのよ!」
言われても。エスが土狼を見ると、なんだよ、と言いたそうに土狼が見つめて来る。
しかしたいそう大人しくなったと判断した中級職員たちが、エスに言う。
「後で特別手当申請しとくから、休日勤務ありがとう。後は私達に任せて」
「あ、はい」
エスはそこで立ち上がり、お昼ご飯は町に出ないで、独身寮の食堂でがっつりと行こうと決めて歩き出し……それに当たり前の権利だと言わんばかりに、土狼が隣についたので、中級職員たちはぎょっとした顔になった。
「君はこっちだ!」
中級職員が急いで檻を直し、土狼を中に入れようとする。
土狼はエスだけを見ていたので、一瞬反応が遅れ、檻の中に閉じ込められて一拍、暴れだした。
「エス! お前急いで分岐所を出て!」
「君がいるから暴れているんです! 傷の事もあります、興奮させてはいけません!」
言われたエスは、慌てて分岐所を後にして、その日は出かける気にもならず、食堂で食事を済ませて、自宅でごろごろと過ごしたのだった。