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第63話「生きるということ(side リリーナ)」

 そこは閉ざされた白い空間が広がっていた。

 アグレスによる襲撃の後、死神が魂縛された状態だったティナが保護されていた場所だ。急遽、用意された一軒家で他の銀狼メンバーと一緒にティナは暮らしていた。

 そんな彼女の部屋は、まるで自身の心を表すように真っ白で。虚無のように広がる白い壁はすべてを消し去りたい、彼女の願いを顕現しているかのようだ。


 私は室内へと足を踏み入れると、タンスの中に入っていた一冊の日記帳を手に取った。

 彼女の想いがすべて綴られたそれを持った時、耳元に女の声音が響く。『わたしの全てを知りたいんですか』と。


「そうだ」


『知って、そして、どうするつもりですか』


「私は君の全てを知ったうえで、映司と共に生きるつもりだ」


『わたしを置いて、あの人と暮らすことを、わたしは許さない』


 右から、そして左から聞こえるティナの声。最後には後ろから背筋が凍るように間近で。


『絶対に』


「君はティナじゃない。私の弱い心が生み出した、ただの幻影だ」


 沸き上がる悲しみも幻想も全てを呑み込んで。私は日記帳を開いた。それと同時に纏わりついていた亡霊の気配は消え去った。

 そこに綴られていたのは、想像を絶するティナの「生きたい」という意思と映司への想いだった。


 破り取られたページの果て。ほんの数枚だけ残ったそこに書かれていたのは「生きたい」の文字。

 まるで振り絞るように、自らの命を削るかのように書きなぐった文字は、私の心を激しく揺さぶった。



 生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい。

 映司君と共に生きたい。



 そう。死にたい人間なんて、いるはずがない。

 あのコールドスリープの施設で私を抱きしめた時、震えていたのは私自身ではない。ティナのほうだ。

 涙を流す私を腕で覆いながら、心の中で号泣していたのはティナのほうだ。

 誰よりも生を求め、映司を求めたのは、他ならないティナのほうだ。



『あなたはそんなわたしを殺した』


「事実だ」


『生きたいと願ったわたしの首を刎ねた』


「事実だ」


『映司君と共に生きたいわたしの命を絶った』


「それも事実だ」


『だから! わたしは彼に触れることも、声を聞くこともできない! 全てはあなたの……』


「そう。私のせいだ」


 嗚咽の混じった声で背後から覆いかぶさるティナの言葉を、私は全て聞き、全て受け入れた。

 なぜなら、それが彼女の願いなら。断ち切ったのはほかならない私。映司への想いも何もかも、生きたいという願望さえも全て消し去ったのは私。

 だからこそ。


 パタンと日記帳を閉じて。私は目を瞑った。

 背後に感じる彼女の冷たい感触を、凍えた腕を優しく抱きしめて。


「私は君の全てを受け入れて、君の分まで映司を幸せにしてみせる。そこまで私の命を預けておくよ」


 声はもう聞こえない。首に回される凍てつく腕も背筋を凍らせる冷たさも何も感じない。

 私は日記帳を外に持ち出すと、ポケットからライターを取り出して端に火をつけた。じわじわと焼けていく「生きたい」という文字を見て。それが決して叶うことがないティナの想いを受け止めて。

 焼けてあがる煙の中に彼女の幻影と死神の顔が浮かぶ。


「お前と私はもう一蓮托生だ。決して交わることのない平行線として共に同じ時間を生きるだろう。この世界で私はもうティナの呪縛から逃げることはできない。目を背けることもできない。ただ映司を守るために、全てを受け入れて前へ進むだけだ」


 それが私にできるせめてものティナへの償い。

 そして、死ぬその瞬間まで、彼女が求めてやまなかった映司の幸せだ。

 見上げる空は、澄み切った蒼穹が広がっていた。


「約束は、必ず守るよ。ティナ」



 ◇ ◇ ◇



 その日の夜。スマートフォンに菅原から「異常なし」のメールを受け取って。

 いつものように私は映司に添い寝していた。日に日に正常に戻りつつある彼は今日は安らかに眠っていて。そんな彼の頭を優しく撫で、その手がもしティナだったらと思うと悲しくなって。思わず泣きそうになるのをぐっとこらえる。

 心の闇はいつ何時でも牙を剥いてくる。ほんの僅かな隙間に入り込み、思考を蝕む。この体がもしティナだったら。この手がもしティナだったら。彼を抱いているのが彼女で、首を斬られて箱に入っているのが私だったら。それでも映司は、同じように微笑むのか。


 だめだ。呑まれたらだめだ。


 震える手でぎゅっと映司の体を握る。悲しみを纏った闇に贖い、必死に涙を耐えた。彼にそれを悟られたくなくて、震える体を叱りつける。

 だけどその時、ふわりと何かが私を抱いて。それは優しく、そして力強い映司の腕。今までとは違う行動に私は驚いて、思わず暗闇で光る彼の目を見つめてしまった。


「……映司?」


「今まで俺自身の開いた傷口を埋めるので一生懸命だった。それで気が付かなかった。だけど今ならわかる。お前が傍にいたから。だから今の俺がいる。傷ついているのは俺だけじゃないんだ。辛いのは俺だけじゃない。お前もなんだ。ティナを失った悲しみは消えない。だけどそれはお前も一緒なんだ」


 その温かさが、優しさが心地よくて。私は振り向いた彼の胸元に顔を埋めてこらえていた感情を露出させた。

 堰を切ったように流れ出る涙に服が濡れるのを構うことなく、映司は私を抱きしめる。


「ティナを忘れることはできないけど、お前と一緒なら前を向いて生きていける気がする」


 その手に、その腕に力強さを感じて。映司の想いの強さを感じて。

 私もそれに応えるように、彼の体をぎゅっと握る。


「もう失うのはたくさんだ。お前だけはいなくならないでほしい」


「……私はどこにもいかないよ。映司。ティナを失った傷は消えない。だから、お互い傷を舐め合おう。それは私以外の誰にも……できないことだから」


 傷を負った者は同じ傷を負った者でしか癒せない。

 いくら上辺で語り掛けても、いくら優しさで覆い尽くしても、開いた傷口を塞ぐのは同じ傷を持つ人間だけだ。

 だから私にとっても映司にとっても、お互いなくてはならない存在となっていた。


 私の居場所は、もうここしかない。





 翌日。いつの間にか眠っていた私はベッドから起き上がった。

 横に眠っていたはずの映司の姿はなく、次第に覚醒する視界に映るのは、何度も見たことがある映司の部屋と柔らかな朝日。

 その時、一際大きな映司の声が耳に響いた。それは驚愕と歓喜に包まれていた。


「リリーナ! 刻印が……!」

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