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第62話「幸せの権利(side リリーナ)」

 映司が急性ストレス障害と診断された。ティナが死んだ翌日のことだ。

 彼は彼女が自殺した日から、不眠に悩まされ続けた。昼は常に茫然としていて、気が付いたらソファーで倒れていた。

 眠ると夢の中で首のないティナが近づいてくる。そして、脳に直接、語り掛けるように声が響くという。


『なんでわたしは死んだんですか』


『なんでわたしを選ばなかったんですか』


 毎晩、毎晩。まるで彼を死の世界へ引き込もうとしているかのように、現れるティナの亡霊に映司は苦しみ続けた。夢の中で彼は、何度もティナがコールドスリープの中で自殺した瞬間を追体験した。

 映司は私が彼女の首を切り落としたことを知らない。だけど、私の服の状態や持っていたクーラーボックスで、彼なりに察したのかもしれない。そして、おそらくそれを望んだのがティナ本人であることも。


 私はそんな彼を抱きしめ続けた。

 ティナが私にしたように、彼の心を温めるように夜は常に一緒に寝た。映司は私の中で、まるで子猫のように丸まって、時には震えていた。

 昼が一番、危険な時間帯だった。自暴自棄になって自分を傷つけないか心配で。家の中から刃物はすべて姿を消した。映司が夜、ようやく眠りにつくとそっとベッドから出て、夜の街を歩き銀狼本部の地下室へ行った。

 そして、ティナの首が安置されている場所で、そのまま寝てしまうか、時には泣いた。


 そんな私の状態を知ってか、赤坂は家にいても死神の状態を把握するように監視をつけた。

 仮に緊急事態が起きた場合、私に代わって映司の近くに菅原が待機していた。「元銀狼は暇じゃないのか?」という私の問いに菅原は「覗きが趣味なんだ」と笑っていた。


 昼の映司は寝不足によって茫然としているが、量は減ったものの食事もした。ゲームもしていた。

 ただ、ティナの話は一切が出なかった。私も意図的に彼女を思い出す物はすべて処分した。麦わら帽子もワンピースも写真もスマートフォンの画像もすべて。

 ティナの存在そのものが抹消された。まるで彼女は本来、ここにはいない架空の人間であるかのように。

 そして、それは彼女の言っていた「忘れてほしい」という願いが現実に起きているように思えてならなかった。



 ティナが自殺してから三日目の夜。

 いつものようにベッドの上で後ろから映司を抱きしめていると突然、彼が振り返った。そして、私の胸元に顔を埋めると、嗚咽の混じった声が聞こえた。


「……俺は、ティナを助けたかった」


「知ってる」


「彼女を死なせたくはなかった」


「知ってる」


「彼女との生活が、ずっと続けばいいと願っていた」


「知ってる」


「彼女の笑顔を失いたくはなかった」


「知ってる」


「……俺は、彼女のことが、大好きだった」


「それも……知ってる」


 大きく体を震わせて。映司はそのまま泣いていた。私はただ無言でずっと抱き続けた。

 その夜から映司は回復していった。ずっと苦しんだような辛い表情だったが、時より笑顔を見せるようになった。

 

 そして、赤坂が紹介してくれた心理カウンセリングに通うことになった。

 診療所の近くには釣り堀があって。私は白いコートを着て、黙って水面を眺めていた。


 もう年が明ける。このまま映司は、辛い過去を消せないまま、新年を迎えるのだろうか。

 吐き出す白い息にティナの幻影が浮かんでは消えて。彼女は言っていた。過去は許されている。もう昔の私は存在しない。ここにいるのは、髪と瞳の色が違うだけの十八歳の女だ。

 映司もいずれは、過去という殻を破って自ら羽ばたく時が来るんだろうか。


「君も釣りはするのか」


 突然、背中に投げかけられた声。振り向くとそこには、長身の男性が立っていた。彼の手に握られているのは、紅茶の缶。

 私はそれを受け取って。暖かさが体に染み渡っていく。


「以前いた世界で少し……な。まさかここでも道具が一緒だとは思わなかった。世界は狭いな」


「それはいいことを聞いた。今度、釣りでもどうかな? いいポイントを知っている」


「考えておくよ」


 赤坂は私の隣に座ると同じように水面を眺めていた。


「映司君はカウンセリングか」


「そうだ。順調に回復している。PTSDまでひどくならなかったのは、不幸中の幸いだ」


「君のおかげだろう」


「私は何もしていない。ただずっとそばにいただけだ。映司自身の力だよ」


「そのそばにいるというのが大事なのだよ。傷ついた人間には、その傷を理解し包み込む存在が必要だ」


「ティナの首を切り落とした張本人がか? 本当は私に彼を幸せにする権利なんて、ないのかもしれない」


「そうだな。そんなものはないだろう」


 赤坂のそっけない返事に、あやうく私は紅茶の缶を落としそうになった。


「はっきり言うな。ちょっとは傷つくぞ」


「君が幸せになる権利はない。私にもない。そして、映司君にもそんな権利はない」


「何を言っている? 映司は誰よりも幸せにならなければならないだろう!」


「話を最後まで聞け。いいかリリーナ。そもそも幸せになる権利などというものは存在しないのだよ。誰しも幸せになれる。幸福に暮らすか不幸に身を宿すかは、その人次第だ。だから、君も映司君も幸せになれる」


「……そうか。そうだな赤坂。君の言う通りだ」


 幸せの権利なんて言葉はただの逃げ道だ。

 そんなものはない。幸せを掴みたければ、自分で掴めばいい。自分で探し求めればいい。

 いろんな人に支えながら、ただ前だけを見つめて。


「それじゃ、映司のために花嫁修業でもするさ」


 私はぼそっとそう呟くと、ふとスマートフォンの画面を見る。そろそろ診療が終わる時間だ。

 立ち上がるといまだ水面を眺めている赤坂に声をかけた。復讐者として生きてきた彼は、幸せをどう掴むのだろうか。それが気になった。


「赤坂。君は幸せになれるのか?」


「……本来、あるべきはずの幸せはもうない。ただ、私にはまだやるべきことがある。自分の幸せってやつは老後に取っておくよ」


「そうか」


 背を向けた時、私を呼ぶ声が聞こえた。「リリーナ」という短い言葉を投げかけた彼の背中は、いろいろな魂が宿っている。重く圧し掛かっている。

 妻子。桐生。死んだ銀狼のメンバー。まるで呪縛だ。

 そして、その中に少女の想いも宿っているような気がした。何故ならティナにコールドスリープという決断を迫ったのは、他ならない彼なのだから。


「……今の君なら、知ってもいいかもしれない」


 振りむいた眼鏡が光で反射する。その奥に潜むのは、物悲しい男の瞳。


「ティナさんの日記が、施設にある」

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