第61話「約束(side リリーナ)」
デリンジャーの銃声が響いた瞬間、私はティナの最期を悟った。
映司は振り向いたまま動かなかった。泣き叫ぶことも、声さえも出さない。まるでティナが選んだ最期を知っていたかのように、ただ茫然としていた。
ゆっくりと膝からガクッと崩れ落ちた彼を見て。後ろから抱きしめたい衝動に駆られながらも、私は走った。
やるべきことがある。私にしかできないそれを、ティナに託された最後の願いを叶えるために。
映司を通り過ぎてカプセルへ飛びついた。
研究員に指示をして、血のついた蓋を開ける。そこにいたのは、眉間に銃創を刻んだティナの死体。私は彼女を抱きかかえると、そっと床に寝かせる。
ティナの表情は死体とは思えないほど美しく、安らかだった。しかし、闇がそこにくすぶっているのを感じていた。
「……頼む。映司をここから出してくれ。無理矢理にでも連れ出してくれ。彼にこれから先のことを見てほしくない! こんな……こんな思いをするのは、私だけで十分だ!」
私の鋭い視線にビクンと体を震わせて、数人の研究員が映司の下へと走り出す。茫然とする映司を連れて、彼らは研究室を出ていった。
入れ替わりに入ってきた赤坂が、私の手に握られたモノを見て、目を見開いた。
腰元から抜いたそれは、黒く光るコンバットナイフ。
彼の驚愕に満ちた表情を一瞥して。私はそれをかざした。
「赤坂。魂はどこに宿ると思う?」
「……なんの話をしている」
「この世界はどう信じられているかわからないが、私のいた世界では、答えは一つだ」
ティナの表情がぼやけはじめた。まるで別人が重なっているかのように輪郭が揺らぎ始めて、ドクンと何かが脈打つ。
それは私の心臓か、あるいは、ティナの中に眠る死神が生み出す波動か。徐々に闇が膨張していた。
コンバットナイフをぎゅっと握りしめる。ティナの笑顔や涙や、まるで聖女のように清らかな微笑みが脳裏で交錯する中、それを切り裂くように全能力強化を右腕に込めた。
「……それは、人の脳だよ」
「やめろぉ!」
赤坂の叫び声に振り返ることなく、震える腕を一気に下ろした。ティナの首筋めがけて。
肉を切る感触。その瞬間、私の中で何かが音を立てて壊れた。頭の中で浮かび上がるティナの姿がガラスの破片のように粉々に砕け散った。
これが家族の血か。これが私が死ぬ瞬間まで心に残り続ける彼女の最期なのか。
カチンとナイフに固い感触が響いた。
床に血だまりが広がっていく。私は血まみれのコンバットナイフを放り投げ、ティナの額に魂縛魔法を行使し、そして、彼女の首を両手で抱きしめた。白いセーターが彼女の血で染まるのを省みずに、力いっぱい抱きしめて泣いた。
「ごめん。ティナ、ごめん」
リリーナさん。リリーナさん。
ティナの声が脳裏に響く。
数時間前。コールドスリープに入る前、私はティナと一緒に施設の外を歩いていた。「外の空気が吸いたい」「景色を見たい」と彼女は言っていたが、それが「映司に聞かれたくない」故の配慮であるのは明白だった。
ティナは死ぬつもりだ。
それを理解していた私は、外へ出る前にデリンジャーを懐に忍ばせた。
澄んだ空を見上げて。一度、深呼吸をするとティナは私を見つめた。そのエメラルドの瞳は、とてもこれから死ぬ人間のものとは思えないほど、輝いていた。
「一つ、聞きたいことがあります。わたしに施された魂縛について教えてください」
「知っている通り死神の魂は今、君に魂縛されている。だけど、もし仮に君が死んだ場合、魂縛の魔法は一度、無力化されて死神は再び自由の身となる。そして以前、君が言っていた話が事実ならその時、死神の魂が刻印を持つ映司へ飛ぶ可能性は高い」
「それでは、わたしの体を出る前にもう一度、魂縛することはできますか?」
その言葉に彼女の強い意思を感じて。内側からよじ登ってくる悲しさを押し殺して、私は冷静さを装った。
「可能だ。ただ、死体に魂縛するのは初となる。どこまで有効かは未知数だ」
「その魂縛の魔法というのをもっと強力にできる方法ってないんですか?」
「魂縛の魔法は対象を狭く、小さくすればするほど効果が増大する。それでも限界はあるが、おそらく今の奴の魂は弱っている。恒久的に封印できる可能性はある」
「そうですか。それならわたしが取る選択は一つだけですね。……リリーナさん。最後のお願いがあります。こんなこと頼めるのリリーナさんしかいないんです」
そう言いながらティナは目をつぶり頭を下げて。顔を上げた時、目の前でさらりと金髪が揺れる。
彼女の顔から微笑みが消えていた。そこにあるのは、自分の愛する男を守るために命を賭ける聖女の姿。
「リリーナさんはもう気が付いていると思いますが、わたしはコールドスリープの前に死にます。なぜならわたしが眠っているとはいえ、ここにいる以上、彼を縛ってしまうから。それに死神だって完全に封印できるとは限りません。もしわたしが起きて彼女が蘇ったら、わたしは絶対、後悔すると思います。だからわたしは死を選びます。そして、わたしが死んだ後……」
髪を撫でる風が私達の間を駆け抜けた。それに乗る匂いに私は覚えがある。不吉な余韻を漂わせるその風は血の匂いを纏っている。
目の前で金髪をなびかせて。私を見つめて立っているティナの姿はおぼろげで、うっすらと揺らいでいた。
「わたしの首を切り落として魂縛してください。それが一番、確実な方法のはずです」
全身に稲妻が走ったような感覚が襲う。ティナが自殺という選択肢を選んでいたのは知っている。だからこそデリンジャーを持ってきたんだ。だけど、まさか首を切り落として魂縛して欲しいと頼んでくるとは思わなかった。そこにティナの覚悟と映司への愛を垣間見た。
そして、彼女の姿が揺らいでるのが、自分の涙によるものだと知った。
私は涙を払ってうなずく。懐からデリンジャーを取り出して、彼女に差し出した。
「……武器が必要だと思って。きっとこれなら君でも扱える」
「ありがとうございます」
「セイフティは外してあるから、あとは引き金を引くだけ。両手できちんと持って、外さないようにしっかり額に当てて。ね……狙いは、眉間だ。そこなら……痛みは感じずに……確実に、君は……死ねる……はず……だから」
言葉が途切れ途切れになる。
あふれる涙でうまく話せない。今にも泣き叫びたい激情の嵐に耐えながら、それでもデリンジャーの使い方を教えた。思わず口を押えて震える私に、ティナは微笑むとふわりと金髪が舞った。
両手で私を包み込むように抱きしめると、ティナの言葉が耳元で響く。
「本当にありがとう。リリーナさん、わたしは幸せだよ。好きな人ができて、あなたのような素敵な人とも出会えて。そして、その人達のために死ねるんだもの。それだけでわたしは、この世界にきてよかったって思えるの」
「……愛する者のために生きるっていう選択肢もあるんじゃないの? なぜ、それを選ばないの?」
「それは、あなたの選択肢だから。あなたは映司君のために生きなきゃダメ。でもわたしにその選択はできない。わたしが生きることは、あの人の死に繋がるから」
私より少し身長が高いティナの胸元に顔を埋めて。それを抱きしめるティナは慈愛に満ちていて、まるで聖母のように温かい。
だけど、それはもう長くは続かない。すぐそこに避けられない死が迫っている儚く柔らかい炎だ。
「あなたは愛する人のために生きる。わたしは愛する人のために死ぬ。結果こそは違うけど、彼に対する想いは一緒。だからわたし達はある意味、同じだし、リリーナさんの幸せはわたしの幸せなの。……約束して。絶対、二人とも幸せになるって」
その言葉に私は何度も頷きながら、まるで母親に泣きつく子供のように、ずっとティナの体を抱きしめた。
◇ ◇ ◇
ティナの遺体を乗せた赤坂の車は、銀狼本部の前に止まった。
私はクーラーボックスを抱きしめながら、地下室へ足を踏み入れる。こじんまりとした小さな部屋の中央に鎮座する台座にティナの首を安置し、周りを花で覆った。彼女が大好きだった花、プリムローズで。
首が入っているクーラーボックスを埋め尽くすほど花びらを敷き詰めたその時、ガクッと全身の力が抜けた。
床に倒れ込む視線の先に私の手があった。見慣れた手のひらは、べっとりと血に塗れていた。首を切り落とした後、洗ったはずなのに、それは落ちることなく未来永劫、私の手を侵し続ける。
誰かを守るため、目的を果たすため、今まで私は何人、この手で殺めてきたのだろう。
そして、この世界に来て。大事な人を守る為に、大事な人の首を切り落としたんだ。
いつまでこんな思いを続けるのだろう。
洗っても落ちない血で塗れて、その手で映司に触れ、その口で彼の頬にキスするのか。ティナの首を切り落とした女が、彼女の最愛の人に愛を語るのか。そんなくそったれな事実があってたまるか。むしろ、私のほうが彼のために死ぬ選択をするべきだったんじゃないのか。
『愛する者のために生きるのだ』
赤坂。君はそう言った。
だがその結果、私はこうしてティナの血に塗れた体で、映司と共に生きていくことになるんだ。
『できますよ。今のリリーナさんなら。絶対に』
ティナ。君はそう言った。
できるのか。私に。君の血に汚れた私に映司を幸せにすることなど、できるのか。
そうだ。
映司さえ綺麗なままで生きればいい。彼だけはこんな思いをしなければいい。
私がたとえ血で汚れようと臓物に塗れようと、映司だけはただの一人の男として、幸せに生きればいいじゃないか。彼のためなら私は、悪鬼にでもなんでもなってやる。
ティナ。君の言っていた言葉は、そういう意味なんだろう? そう言ってくれ。
「違います」
目を見開いた。
聞こえるはずのない声。それは彼女の声音ではっきりと私の耳に響いた。
目の前に光が溢れている。次第にそれは人を形成していった。長い金髪に愛くるしい表情の女性。まさにそれはティナそのものに私には映った。
女神のごとく光に包まれたティナがそっと私の手を握る。すると手にべっとりと付いていた赤黒い血が、ゆっくりと消え去っていく。それと同時にまるで濁流のように温かさが私に覆いかぶさった。それは、あのティナと最後に抱き合ったような慈愛に満ちていた。
心に巣食う闇が、溶けて消え去っていく。
「それはわたしの血ではありません。リリーナさんの心の血です。過去へあなたを引き込む悪霊です。もうあなたはそれを引きずる必要はないんです。確かにあなたの過去は消えない。だけど、それを許してくれる人がいるはずです。あなたは許されている。だから立ち上がって。そして、もう振り返らずにあなたの幸せを追い求めて」
許されている。
その言葉で過去の私が砕け散ったような気がした。もはやそれは存在しない亡霊に過ぎないのだと。
光となったティナは、涙で視界が曇る私を包み込むように抱きしめると、跡形もなく幻であったかのように消え去った。
優しい声音で余韻を響かせながら。
「約束。守ってくださいね」




