第60話「血の花」
赤坂さんから連絡があったのは、ティナと一緒に寝た翌日のことだった。
通話をしたリリーナは単刀直入に「明日、コールドスリープに入る」とだけ言った。その時の表情は冷静さを通り越して冷たく感じて。だけど、憂いを断つためにあえて冷酷な仮面をつけているんだと、俺はそう察した。きっと苦しいのは彼女も同じだって。
三人が揃う最後の日。それはあまりにも平凡で、あまりにも平常に過ぎていった。
冬休みに入っていたから俺はずっと家にいたが、特に刻印やコールドスリープに関する話題もない。ティナはいつも通り家事をしているし、リリーナに至っては普段と変わらずスマートフォンをいじったり、銃の整備をしていた。
そこには二人の笑顔があって。当たり前のような光景が、いつしか俺にはかけがえのない大切なものへと変わっていた。でもそれが明日には壊れることがティナとリリーナからは一切、感じられない。
ふと、俺を見つめるサファイアとエメラルドの瞳に気が付く。微笑みと共に魅惑的に輝く青と緑の宝石をじっと見て気が付いた。
きっと今あるこの生活がティナが最も求めていたことなんだって。
彼女はもう全てを手に入れて、そして、最後の日に取り戻したんだ。
「……俺も家事、手伝うよ」
俺は微笑み返すと、彼女達の下へと歩み出した。
◇ ◇ ◇
翌朝。マンションの前に一台の黒い車が止まっていた。
運転席には紺のスーツを着た赤坂さん。助手席に白いセーターを着たリリーナ、そして、後部座席に俺とティナが乗り込む。隣に座るティナは白いワンピース姿だった。それは俺が最初に買ってあげた服だ。
最後の日にはこれを着たい。
そんな意思を彼女から感じた。
走り出す車の中では沈黙が続いていた。俺はずっとティナの手を握っていた。
一時間ほど走ってコールドスリープの施設が、木々の隙間から白い壁をチラつかせていた。俺にはそれがティナの巨大な棺桶に見えて一瞬、身震いしたと同時に、どす黒い恐怖のようなものが浮かび上がっていた。
ティナとの永遠の別れ。その現実を感じたんだ。
頭の中は、過去のティナとの思い出や会話が延々と繰り返されていて。施設を見学するというティナとリリーナの声もなんか遠のいて聞こえる。気が付くと俺は、ずっとロビーの椅子に座っていた。
施設の研究員からコールドスリープについて説明を受けている間も上の空で。正直、内容は全然、頭に入っていない。さらに詳しい話を聞きに行った彼女達を置いて結局、俺は部屋の外でずっと座っていた。いつしか頭の中は、不安や悲しみが詰まった黒いモヤに覆われていて、窓から見える木々の緑も灰色のように色あせて映っていた。
現実逃避したくて、逃げ出したくて。いざ彼女と永遠の別れになった時、正気を保てるか不安で。だけど、ティナが言っていた「その時が来たら、笑顔で見送ってください」という言葉が俺をこの場に留まらせた。
その時、隣に誰かが座った。
肩にそっと触れる温かさ。ほのかに香る花のようないい匂い。ぽっかりと胸の中に開いた孔を塞いでくれるその存在に、俺は体を傾けた。
「……会いに来たら、だめだよな」
「彼女がそれを望むと思うか?」
「そうだよ……な」
「ティナは君を縛りたくはない。常に君が傍にいることは、未来の君を奪う行為に他ならない。彼女はそんなこと、絶対に望まない」
「……わかってるんだ。もう起きることがない彼女を待つのは無意味だって。それは俺にとってもティナにとっても不毛でしかないんだって。だけど、俺は忘れられるのかな。結局はずっとここに縛られ続けるのかな」
「それは、私がさせない。呪縛は私が断ち切る。たとえそれが君にとって辛いことであろうと、たとえそれで君が私の前からいなくなっても、ティナの意思を継いで私が必ず君を自由にする。羽ばたかせる」
祈るように前で握っていた両手をリリーナの温かさが包み込む。柔らかい手で優しく覆いながら、彼女は俺の目をじっと見つめた。
その時、リリーナに重なるようにティナが同時に喋っている感覚を覚えた。
「君はきっと立ち直れる。それを信じてる」
輝くサファイアの瞳を見つめて。「ティナもそれを望んでいる」という彼女の声に俺はうなずいた。
心の中に何度も浮かび上がらせたティナの笑顔。それを最期に見るために、別れの瞬間に彼女の悲しい顔を見ないために。どす黒い負の感情を押しのけて笑顔を奮い起こす。
それがティナが抱ける最後の記憶だから。
◇ ◇ ◇
大人一人が寝られる大きさのカプセルが目の前に横たわっていた。
その中に白いワンピース姿のティナが寝ている。そこから伸びた綺麗な手をリリーナが握っていた。
俺は二人を見つめながら。もう会えない彼女になんて言えばいいのか、言葉が見つからずに、ただ黙っていた。心の中で何度も微笑みを思い描いたのに、石のように固まって動かない。
視線も彼女達、二人以外は一切、入らない。ただ耳だけが鮮明に声を聞き分けていた。
「……ティナ、あとは決めるのは君だ。どちらを選択しても私のやるべきことは変わらない。君の言葉は確かに受け取ったよ。映司のことは私に任せて」
「はい」
「最後は笑顔のほうがいいだろ?」
そう言って可憐な笑顔を見せた後、リリーナはティナの手をほどきゆっくりと離れていく。その時、「映司君」と呼ばれて。見つめる先で潤んだ瞳を輝かせるティナに、俺は何も言えなかった。その白い手を握ってあげることも、抱きしめることも。ただ茫然と立っていた。
そんな俺にティナは微笑んでみせた。
「わたしは本当に幸せです。わたしはあなたに救われた。あの地獄のような日々も、冷たい時間も、すべてはあなたに会うためにあったんだって。そう思えます。わたしはそれだけで充分です。あなたとの記憶だけあれば、それ以上は望みません。でもあなたは違う。あなたには生きる未来があります。わたしに縛られずに生きてほしい。それがわたしの最後のお願いです」
ティナは俺の返事を待たずに満面の笑みを浮かべた。それは、俺と出会ったばかりの時に夕暮れの中、泣いた後に見せた笑顔だった。
「行って。映司君。そして、生きて。あなたの幸せを」
それが彼女の最後の言葉だった。
ゆっくりとカプセルのガラスでできた蓋が閉じていく。エメラルドの瞳は俺を見つめたままだ。
涙が出そうになった。もう会えない彼女を見つめながら必死にこらえた。その時、頭の中に浮かんだのはある言葉。それがきっと俺が最後に彼女に言わなければならない言葉。
震える表情で、俺は笑顔を形作った。
「……君に会えて、本当に良かった」
蓋が閉じる寸前、ティナが笑ったような気がした。
横になった白いカプセルを見て、俺は背中を向けると一歩ずつ歩いていく。その度にティナが遠ざかっていく感覚がした。違う世界へ旅立ってしまった。そんな喪失感だけが脳裏を駆け巡っていた。
悲しさと鋭さを携えた複雑な表情をしているリリーナの横を通り過ぎて。その時、声が聞こえた。聞こえるはずがない「ティナ」の声が。
それはまるで俺に体を寄せているかのように。すぐそばにティナがいるかのように。彼女の幻影が俺を抱きしめながら耳元で囁いた。
「さよなら」
パンッ!
乾いた音がカプセルの中から響いた。
咄嗟に振り向いた俺の目に映ったガラスの表面には、血の花が咲いていた。




