第45話「砕かれた牙(side リリーナ)」
私は動けなかった。
心臓の鼓動だけがトクンと耳に響いて。それ以外の音は一切、届かなくなった。かわりに映司の言葉だけが脳内に響いていた。
『お前があの世界で大勢、殺したみたいに、ティナも殺すっていうのか!?』
まるで呼吸ができないかのように胸が苦しい。力が入らない。
心臓に図太い針が刺さったかのように胸が、心が、ズキズキと痛む。それはまるで心臓がえぐり出されるかのようだった。
その時、私の名を呼ぶ赤坂の声が聞こえて。いまだ頭の中を支配する映司の言葉を振り払いたくて、私は壁にゴンと頭を叩きつけた。
「……今の映司君は精神状態が正常ではない。先程の言葉も本来のものではないだろう」
「……わかっているさ。それくらいわかってる。映司が心にもない事を言うのも予想できていた。覚悟もしていた。それでも……」
ポタポタと雫が床に落ちる。涙が止まらなかった。泣けば泣く程、映司の言葉が脳裏をよぎって体が震えた。
「実際、言われてみると……辛いものだな。赤坂」
赤坂は私の言葉に反応せず一度、間を置いて。小さくため息をつくと「リリーナ」と私の名を呼んだ。
それは傷ついた女性に語り掛ける優しいものではなく、普段通りの鋭い口調だった。そこに私を立ち直らせようとする彼の意思を感じた。
「……死神すら撃退してみせる君だが、どうやら致命的な弱点もあるようだな。戦闘能力も高い。判断力もある。だが彼に対しては弱すぎる。だからこそあんな条件を提示してくるのだ。奴が君に対して本当に人質としているのはティナさんではない。映司君の方だ」
「そうだな。君の言っている事は正しいよ赤坂。奴はすべて見抜いている。だけど、もし映司が条件を呑むとしたら……」
「それはない。条件を呑んだとしても死神が約束を守る保証なんてない。映司君だってそれくらいわかっているはずだ。それに我々もそんな条件、呑むわけがない」
「これは覚悟の話だよ。赤坂。もし彼が条件を呑むというのなら、私は死んでもいいと思っている」
「それが君の弱さだ! 先程も言った!」
赤坂が珍しく怒気を含めたような大きな声を張り上げた。しかし、少し間を置いて。彼はまるで自分を落ち着かせるように、大きく息を吐いた。
「……一人の大人として話す。相手のために死ぬなどそれは本来の愛の形ではないぞリリーナ。相手のためにむしろ生きるのだ。それを忘れるな」
優しく、まるで自らの子を教え諭すかのような声音。
ベレッタのグリップを握りしめ、私は彼の言葉を胸に秘めて歩き出した。そうだ。生きなければならない。彼を助けなければならない。死神を殺さなければならない。
目じりに溜まった涙を私は指で払った。
「はじめから答えなんて決まっていたんだ。私は映司を助ける。たとえそれが血塗られた道であっても、彼に非難される事であってもだ」
扉を開けながら、私の中が殺意で塗り固められていった。
◇ ◇ ◇
私はとある扉の前に立った。
このティナが保護されている部屋の入り口は銀狼のメンバーが警護している。当然、許可がなければ映司は入れない。
扉を挟んで立っているメンバーは私を見るなり敬礼の姿勢を取った。ただチラリと私の右手に握られたベレッタを見ている。施設内にて銃器の携帯は認められているが通常、ハンドガンはホルスターに入れるのが正常だ。許されているからといって「握って歩く」など非常事態以外、ほぼない。
明らかな敵意の表れ。メンバーの瞳が一瞬、鋭くなった。
「佐久間映司は?」
「彼女を部屋に置き、出て行きました。……隊長補佐。その、中で何を?」
「詮索は無用だ。中で何が起きても入るな」
私は無造作にドアノブを回し扉を開ける。「いや、しかし……」というメンバーの声を無視してバタンと扉を閉めた。
質素な部屋の奥に一台のベッド。真っ白いシーツが張られたその上にティナは座っていた。もう意識は取り戻したようだ。
彼女は私を見るなりパッと表情を明るくしたが、手にするベレッタを見て一瞬、瞳に陰りを見せた。そして、まるで私の意図を察したかのように、ゆっくりと目をつぶり微笑む。
ただそれは普段通りの笑顔などでなく、悲哀に満ちたものだった。
「リリーナさん」
力なく投げかけられる言葉に私は無言で返し、パチンとした乾いた音を響かせた。それはベレッタのセイフティを指で弾いた音だった。その行動が何を意味するのかティナはおそらく知らない。ただ私から向けられる明確な殺意をきっと感じ取っているのだろう。
覚悟を決めたかのようにまっすぐ私を見つめた。
「私は死神です。あなたの最大の敵であり、そして映司君の命を奪う存在です」
私はゆっくりと銃口をティナの眉間へ向ける。そこを撃ち抜けば脳幹を破壊され、ティナは苦しむ事なく一瞬で死ねる。
彼女は逃げる気配すらなく、むしろ笑顔を浮かべていた。それは自らの死を持って愛する者を救う聖女のような微笑みだった。
「撃って下さい。それで映司君が助かるのならわたしは死んでも本望です」
私は無言で引き金に指をかける。
会話などそこにはなかった。正確には声をかける事ができなかった。
最初はただの家族ごっこのつもりだった。だがティナをいつしか本当の家族のように思えていた。
今、口を開けば呼び起こした殺意が消えてしまう。彼女と話せば話すほど押し込めたかつての楽しい記憶がすべて蘇る。
それは確実に引き金を鈍らせる。
覚悟を決めたはずだった。私は映司を助けなければならない。たとえ彼に嫌われようと非難されようと救わなければならない。
だがそれとは真逆に銃口がカタカタと震えた。引き金に絡めた指は石のように動かない。片手で持っていたベレッタを思わず両手で握りしめた。撃て、撃てと何度も心で念じた。
しかし、指は動かない。
今まで何人も殺してきた。あのプロエリウムの軍勢に至っては数千人を虐殺した。
なのに何故、たった一人。それも無抵抗な女を一人、殺せないのか!
『今のあなたは撃てない』
死神シオンの言葉が脳裏を駆け巡る。それに抗い私は叫んだ。
「……このシルフィリアを舐めるなぁあ!!」
銃身の震えを無理矢理、抑え込み引き金に絡まる指へ力を込める。
しかし銃声は鳴らなかった。私は撃つ事ができずゆっくりと銃口を下ろす。「リリーナさん」という優しい声音に「ごめん」だとだけつぶやくと私はよろよろと歩き出す。
ティナは枷だ。
映司がティナに恋心を抱けば彼はティナを守ろうとするだろう。そして仮にティナを殺せば、映司は壊れてしまうかもしれない。私を憎むかもしれない。
私は銃口を向けながら心の奥底でそれを恐れていた。たとえ殺意を奮い起こし「映司を助けるため」と自らを偽っても、心の奥底に潜む恐怖に打ち勝つ事はできなかった。
何故なら、私が好きな彼のそんな姿なんて見たくないから。
そして死神はそれら全てを見抜いている。
奴が潜伏していたのは、ティナと私に映司への恋心が生まれるのを待っていただけだ。一度、その三角関係が形成されれば、ティナは殺されない。第三者による殺害もそれに私が絡んでいれば可能性は極端に下がる。
すべてはシオン・デスサイズの掌の上でしかない。
情けなさと悔しさで思わず壁を叩いた。
その時、「これであなたの牙は折られた」とシオンの声音が聞こえた。目の前に標的がいるに関わらず殺す事ができない私を嘲笑いながら。
「もうあなたは私を殺す事はできない」




