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第42話「失われた記憶(side ティナ)」

 わたしは物心ついた時、貧しい街で暮らしていた。

 父親と母親はわたしとは血が繋がっていなくて、わたしを近くの崖下で拾ったと言った。潰れて壊れた馬車の中で赤ん坊だったわたしが泣いていたって。乗っていた他の人は死んだけど、わたしだけは奇跡的に無傷だった。


 わたしは助けてくれた夫婦には感謝していた。だけど愛情は感じなかった。

 ティナという名前も服に刻まれていたものだったし、決して夫婦が自ら付けた名ではなかった。金銭的に厳しい状況の中、夫婦はどこか義務的にわたしを育てていた。まるで高い家畜を飼っているかのようだった。

 それでも育ててくれた恩をわたしは持っていた。いずれは返そうと思っていた。だけど後に夫婦が何故、わたしを育てていたのか知った時、すべてが吹き飛んで消えた。


 十歳になった時、わたしは貴族に売られた(・・・・)。わたしを拾った夫婦は売る為にわたしを育てていた。

 貴族の人はわたしを大きな豪邸に連れていった。だけどそこでわたしを待っていたのは、豪華な食事でも綺麗なドレスでも何でもなかった。

 わたしは窓が一つしかない小さな部屋に閉じ込められた。一日二食で粗末な料理を侍女がめんどくさそうな顔して置いていった。それ以外は人に会うことも会話することもなかった。まるでそこは監獄のようだった。

 だけどお風呂だけは、何故か薔薇の花びらと香油がうっすらと浮かぶ豪華なものだった。そして、その夜にわたしはお風呂が豪華な理由を知った。


 わたしを買った貴族は幼児性愛(ペドフェリア)の性癖を持っていた。

 お風呂に入った夜は彼の部屋に呼ばれて裸にされた。薄暗い部屋で蝋燭の灯りだけがわたしの素肌を照らした。彼はそれを舐めるように見つめていた。

 わたしの容姿は彼にとって「御馳走」だった。彼が獣のような荒い吐息を吐きながら狂気の瞳を輝かせる光景は、わたしのまだ幼かった心を激しく傷つけた。


 夜の鑑賞会は徐々に参加者が増えていった。その誰もが同じ幼児性愛(ペドフェリア)の性癖を持つ貴族達だった。

 男達の嫌らしい視線がわたしの裸の体に注がれた。汚らしい手がわたしの肌に触れた。わたしはいつも泣き出しそうになるのを必死にこらえた。

 何故ならわたしが泣き出すと彼が怒り狂うから。まるで人が変わったようにわたしに殴る蹴るの暴行を繰り返した。だからわたしはずっと涙を呑み込んでいた。

 その反動か、一人でいる夜はいつも泣いていた。月明りがさす窓を見つめながら、いつかはここから出してくれる人が来るんじゃないかって。わたしはそう信じ続けた。


 だけど、この世界は残酷だった。

 わたしに救いの手なんて来なかった。


 それから二年後。

 十二歳になったわたしは侍女にお風呂へ促された。それはまたあの地獄の始まりに過ぎないのを知っているわたしにとって、その薔薇の香りがするお風呂は大嫌いだった。

 でもその夜は少し違った。裸のわたしを見ても彼はなんの反応もしなくて。酒を飲みながらぶつぶつと独り言をつぶやいていた。


「……あのエスペランスに居候している小娘が王宮魔術師だと!? 貴族の俺でさえそんな地位を得ることはないのに、何故あんな気持ち悪い銀髪のガキがそれを手にするんだ!?」


 彼はワインを一気に飲み干すとグラスをテーブルに叩きつけた。割れた破片が音を立てて辺り一面に散らばって。わたしはそれにびっくりして全身が震えた。


「それもこれもあのエスペランスの小娘が悪いんだ! ガキのくせに当主だと!? ふざけんな!」


 彼は激しく叫びながら近くにある物を蹴とばして暴れた。わたしは、今まで見た事のないほどの彼の激情が怖くて部屋の隅で怯えていた。


「俺の所業が悪いとかなんとか理由をつけて、こんな辺境へ追いやりやがって! 何様のつもりだ! たかだか貧しいガキ一人なぶり殺しにしただけでこの仕打ちかよ!」


 なぶり殺し。

 その言葉を耳にしてわたしは恐怖で震えあがった。ぼんやりとランプに照らされた彼の顔はまるで悪鬼のようで。

 ゆっくりと近づく彼にわたしは泣き出しそうになるのを必死にこらえた。今、泣いたりなんてしたらそれこそ殺されてしまう。

 そんなわたしの震える顔を彼は無理矢理、掴んだ。吐き気のする酒の匂いと狂気に満ちた瞳がわたしを睨みつけた。


「おい。なんでお前を買ったか、教えてやろうか?」


 悪鬼が口角をあげる。わたしを蔑むように。


「それはなぁ。お前があのクソ生意気なエスペランス当主に似てるからだよ。その顔もその金髪もなぁ。瓜二つなんだよ。お前を裸にして見てるとな。あの小娘を蹂躙している気分になるんだよ。最高だぜぇ! ひゃはははっ!」


 部屋にこだまする高笑いがわたしの脳を揺さぶった。

 そしていきなりピタリと止まったかと思うとわたしを床に叩きつけた。頭に痛みが響いて火であぶっているみたいに熱くなった。触ると手に血がついていた。

 

「痛い……痛い」


 ズキズキする頭を押さえて彼を見る。助けを懇願するつもりだった。いくら似ているからといって「個人の愉悦のため」にわたしを買ったと思ったから。わたしが言う事をきちんと聞いてさえすれば彼はわたしを生かしてくれるだろう。そう思った。

 だけどしゃがんでわたしを見下す目は氷のように冷たくて。とても人間のものじゃなかった。まるでこれから殺して食べる家畜を見ているような、そんな瞳だった。


「……お前を殺せば、あの女を殺したと思えるのかなぁ?」


 彼は腰元から一本のナイフを抜いた。その瞬きすらしない瞳に明確な殺意を感じて。

 だけど彼はわたしを見ていなかった。憎悪の対象をわたしに重ねていた。


「死ねよ。フラン・エスペランス!」


 わたしの知らない人の名前を叫んで。彼はわたしに刃を突き立てた。

 寸前で顔を掠めたナイフが床に突き刺さる。頬に熱さを感じながら、それとは真逆の寒気が背筋を駆け抜けた。その時、脳裏に浮かんだのは真っ暗で淀んだ底なしの沼。黒い手がわたしを引っ張りこむその先にあるのは、死なんだ。


 いやだ。死にたくない!


 床に刺さったナイフを抜き、再び彼はそれを振り上げる。

 なんとかその場から逃げようとしたその時、わたしの右手に何かが当たった。それは先程、彼が蹴とばした火の灯っていない長い燭台だった。

 わたしは咄嗟にそれを拾い上げ、今にもナイフを突き刺そうとしている彼を殴りつけた。頭の側面に当たって鈍い音と共に彼は頭を抱え倒れ込んだ。


「死にたくない、死にたくない、死にたくない!」


 わたしは血のついた燭台を何度も彼の頭に振り下ろした。グシャっていう気持ちの悪い音がして鮮血が周りに散った。

 気が付くと彼はピクリとも動かなかった。それを見てわたしは思わず燭台を投げ捨てた。そして、自分の手と裸体についた血を見て、恐怖のあまり悲鳴を上げた。


 わたしは、彼を殺してしまった。


 

 ◇ ◇ ◇



 その後、わたしは服を着て館から抜け出した。そして近くの森を彷徨った。

 目の前は真っ暗で。方向感覚も定まらず疲れ果てたわたしは大きな木の根元にうずくまった。どこからか獣の吠える音が耳に響いて。わたしは縮こまりながら震えて寝た。


 朝になって視界が明るくなると再びわたしは森を彷徨った。その時、ぽつんと一軒の空き家を見つけた。

 中には誰もいなくて白骨化した人間のものと思われる骨が散らばっていた。バラバラになっているのは、たぶん野犬が食べたんだと思った。

 死んだ原因はわからないけど家具も最低限、揃っていて。裏に飲めそうな井戸もあって畑もある。以前の持ち主の骨を埋めて供養すると、わたしはここに隠れ住むことにした。

 

 森を抜けると近くに小さな街があって、そこで作物の種を買って自給自足の生活を始めた。お金なんてないから自分の髪を切って売った。髪なんてどうせまた伸びてくる。そう思っていた。

 だけど刃物を髪に当てる時、大粒の涙が出て止まらなかった。


 作物は必要最低限なものだけを育て、残った畑で花を育てて売った。得るお金はほんの僅かで、頑張って貯めたそれで服を一着だけ買った。洗って乾かしている間は裸同然の体に毛布を包めて生活していた。

 街にいけば物乞いと間違われ、子供からは石を投げられた。大人もそれを見て見ぬふりをしていた。わたしはそれを必死に耐えた。生きているだけでも十分だと思えた。

 そんなわたしを不憫に思ってくれたのか、街に住む老夫婦はわたしの売る花をよく買ってくれた。そして街の人の目を盗んで、たまに食料も渡してくれた。その人だけがわたしにとって唯一、心を許せる人だった。


 だけどわたしが十六歳の時、その老夫婦が死んだ。何でも山賊に襲われたそうだった。わたしの住む森の中で。

 何も持たない老夫婦なんて盗賊は襲わない。きっと彼らはわたしにお金を持たせるために森の中に入ったんだと思う。

 わたしが殺したようなものなんだって。わたしはその日の夜、ひたすら泣き続けた。花を売る気力も何もない。だってもう、買ってくれる人なんていないし、わたしに近づく人はみな不幸になる。


 そしてわたしを取り巻く不幸は、わたし自身にも襲いかかった。

 夜、わたしが隠れ住んでいた家に貴族がやってきた。この森に場違いな豪華な服を見て、明らかに街の人間ではないことを知ったと同時に恐怖に震えあがった。手にナイフを持って頭の側面には大きな傷跡があるその男は、わたしを買った幼児性愛(ペドフェリア)の性癖を持つ貴族だった。

 あの人は生きていた。


「ぎゃはははっ! 見れば見るほど当主様にそっくりだぜ。やっとお前を殺せる。フラン・エスペランスを殺せる!」


 血に飢えた狂気の瞳でナイフを振りかざす光景に、わたしの脳裏に浮かんだのはあの館での夜だった。

 咄嗟に逃げ出した時、背中を切りつけられて激痛が走った。だけど構うことなく森の中へと逃げ込んだ。自分に迫る死の予感に震えながら、ただひたすら「死にたくない」って叫び続けた。

 その時、暗闇の中、木の根に足をとられて転んだ。痛みに耐え起き上がると目の前には、あの男がナイフを手に近づいてくるのが見えた。銀色の刀身からはわたしの血がいまだ滴っていた。

 わたしは這いずりながらも何度も叫んだ。


 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!


「……死にたくない? 死を恐れ生を求める。本来あるべきなゴミの姿だわ」


 とても冷たい氷のような寒気が全身を襲った。

 わたしの後ろに誰かが立っていた。暗闇の中でもはっきりと浮かび上がるのは、血のように赤い瞳。

 月の光がさす中、黒髪の女性がそこにはいた。


「死にたくないのなら、私を受け入れなさい。霊的な籠よ。霊的な依代よ。そうすればあなたは……生きられる」


 ねっとりと肌に纏わりつく冷気に震えながら、その死神のような黒い女性をわたしは見つめた。整った唇は生に執着するわたしを蔑むかのように冷笑を浮かべている。だけどわたしには闇の聖母に見えていた。

 だってわたしは……生きたいのだから。たとえ悪魔に魂を売ったとしても、死んだらすべてが終わってしまうから。


 わたしは彼女の足に必死になってしがみついた。


「あなたを受け入れます! だから……助けて!」


 その声に彼女は口角をあげてわたしの額に触れた。心の中に闇が浸食してくるのを感じた。

 おぼろげな視界。意図せずに動く体。

 わたしのぼやけた視線の先で、襲いかかっていた貴族の男が細切れになって死んだ。そこでわたしの意識は途切れた。

 

 そして……。



 ◇ ◇ ◇


 

 わたしは映司君の目を見つめて。

 信じられないといった表情で悲しい顔をする彼に心がチクリと痛みながらも、わたしは過去を語り終えた。

 取り戻した記憶の全てを。


「そしてわたしは、死神になりました」

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