第40話「パンドラの箱」
リリーナが帰宅したのは朝だった。
彼女はひどく思い詰めたような表情で玄関に茫然と立っていた。俺とティナが声をかけるも反応がなくて。動いたかと思うとよろよろと自室へと歩いていった。
擦った痕か目元は少し赤く腫れ、生気を失ったサファイアの瞳でじっと床を見つめている彼女はまるで抜け殻のようで。時間がないから学校へと家を出たものの、そんなリリーナの姿が頭から離れなくて授業にも集中できなかった。
その日は急いで帰宅。ティナに聞くも、リリーナはあれから部屋に閉じこもって反応がないらしい。昼食も食べていないそうだ。
ただシャワーは浴びたらしく浴室は濡れている。見ると鏡に奇妙な痕があった。
小さい握りこぶしのような形のそれは、彼女が鏡に映る自分を殴った痕だった。
結局、夕食にも顔を出さず何度も部屋の前に行くもノックすらできず。コネクトで通話を試みるも反応はなく、ただ時間だけが過ぎていった。
深夜。ティナを自分の部屋のベッドに眠らせた俺は、ソファーに座りぼんやりと天井を眺めていた。
リリーナが急におかしくなったのはあの電話からだ。昨日の夜、俺は深夜になっても帰宅していない彼女が心配になって電話していた。通話に出た彼女はいつも通りで。今朝みたいに思い詰めた様子はまったくなかった。
ただあの時、彼女は何かに気が付いた。
急に通話を切って。それから連絡がつかなくなって帰ってきたらあの抜け殻状態だ。あの時、俺は何の話をしていた?
ティナ……。ピアス……。そう。ティナにプレゼントした「アメジストのピアス」の話だ。その途中でリリーナは急変した。
彼女は、いったい何を見たのだろう。何を知ったんだろう。
その時、扉が開く音がした。
見ると部屋からリリーナが出てきて。「お前、大丈夫なのかよ?」という俺の声に反応がない彼女は、俺の隣に座った。
かける言葉も見つからず薄暗い中、ただ時間だけがゆっくりと流れていく。すると突然、彼女の頭が俺の肩にコツンと当たった。
体を任せ俺の手をそっと握るリリーナ。それはまるで温もりを求めているかのような、そんなか弱い手だった。
「……君は以前、言った。重要なのは今の私であって過去の私ではないって」
「言った。覚えている」
「それは本当なの?」
薄暗い中、僅かに差し込む月の光にサファイアの瞳が輝く。目元が潤んだ青い宝石はじっと俺を見つめていた。
その時、気が付いた。彼女の目元が赤いのは、泣いた痕だって。
「あの言葉に嘘はないよ」
「激情に駆られて殺戮し、目的のために大量の屍を積み上げてきた私の過去を君は関係ないって言った。だけどこの世界に当てはめたら私はただの大量殺人者。過去も今もその事実は変わらない。それでも君は同じ事が言えるの?」
そっとリリーナは体を寄せる。
密着する体から感じるのは、熱意でも愛情でもなかった。絶望に似た深い悲しみだ。
形の整った唇がゆっくりと動く。まるで俺の心に直接、問いかけるように。
「教えて。映司」
俺の答えは決まっていた。
確かに彼女は前にいた世界で大量に人を殺してきた。たとえ世界が変わろうとその事実は無くならない。彼女の手は血で濡れている。どんなに洗ってもどんなに祈ってもその血が流れ落ちることはない。
だけど。
「前にも言った。お前は幸せになってもいいと思う。俺はそのためなら何でもする。そう決めた」
そう。だけど彼女はこの世界で幸せを掴んでもいいはずだ。
殺人者という過去をこの世界では誰も責めたりなんてしない。彼女の罪状を読み上げてそれを罰しようなんてしない。誰も彼女が不幸になることを願ったりなんてしないんだ。
それにリリーナは俺を助けてくれた。死神から救ってくれた。そして今も刻印を消すために協力してくれている。理由はわからないけど今、彼女が思い詰めているのもおそらく俺の刻印に関係したことなんだ。すべては俺のためなんだ。
だから俺はどんな事があっても……。
「俺はお前を信用している。たとえお前が過去にどれだけ人を殺してようと、これからお前が何をしようと俺はお前を裏切らない」
その時、リリーナの体が大きく震えた。
サファイアの瞳から大粒の涙を流して。あの墓地で見るようなほんの僅かの間ではなく、間近ではじめて見る彼女の涙。それをじっと見つめる俺から突然、目線を逸らすとそっとリリーナは体を離した。
「……言えないよ。やっぱり言えない。言えるわけがない。知ったら君は激しく傷つく。だから言えない。でも逃げられない」
声が震えていた。今にも泣き崩れそうな彼女からは、あの気丈さも強さも何も感じられなかった。
リリーナは小柄な体を何度も震わせている。それはまるで捨てられ寒さに震える子猫のように。
「……むしろ、私を殺人者だと蔑んでくれたほうが良かった」
彼女は消え去りそうなほど小さな声でそう言うと、立ち上がって部屋へと消えていった。
俺はその震える背中をただ黙ってじっと見つめる事しかできなかった。
そして朝。リリーナは俺の家から姿を消した。
◇ ◇ ◇
リリーナが失踪してから二日後。刻印の残り日数あと「百二十四」日の朝。
いつもは楽しいはずの週末。だけど俺の心は沈んでいた。リリーナが姿を消したあの夜、その時の彼女の表情が今でも忘れられない。悲しみに暮れたサファイアの瞳を。
ティナもどこか元気がない。日曜だけど特に出掛けるわけでもなく、俺はただ茫然とソファーに座っていた。
一人でこの場所に座っているとあの夜の光景が今でも鮮明に頭の中に蘇る。あの彼女の苦悶に満ちた顔が。悩んで悩み抜いて、結論を出さなければならないのに、その答えが自分の願いと反している。
いやたぶんリリーナの願いじゃない。俺だ。彼女の出した答えが俺にとって最悪の結果を生みかねない事をリリーナは知っているんだ。
『言えないよ。やっぱり言えない』
彼女の震える声で紡がれたこの言葉が、俺の脳裏にずっとこびりついていた。
その時、突如、家のインターホンが鳴る。
不安と静寂を薙ぎ払ったこの音にティナは驚いてビクッと体を震わせた。ただ俺はリリーナが帰ってきたかもしれないという淡い期待を抱いた。
カメラを確認することなく玄関へと急ぐ。だがその時、急激に背筋に寒気が走って扉を開けるのを一瞬、戸惑った。
パンドラの箱。小説などに出る災いが詰まった箱の扉を連想してしまった。玄関のドアを開けたら災いと悲劇が襲ってくるような気がして。
だけどその不安を押し切って扉を開ける。そこに立っていたのは黒い髪に紺のスーツを着た長身の男性、赤坂さんだった。
「赤坂さん?」
挨拶をするわけでもなく彼は懐から一つの手帳を見せた。それは警察手帳だった。
すでに面識がある赤坂さんがその行動を取った理由を即座に察して、俺は驚きで目を見開いた。
「死神の件に関して、ティナさんに署までご同行願います」




