第2話「銀色の女神」
春の陽気は眠気を誘う。
どうしてこう春の授業というものは眠くなるのだろうか。もっとも卒業式の翌日なんて授業らしいものは何もないけど。
高校の一室で俺は眠気に耐えながら半ば茫然としていた。頭の中では金色の天使が白いワンピースを着て、笑顔を振りまきながら顔を近づけて「えっち」と連呼していた。
佐久間高等学校。俺が通う高校だ。苗字が同じなのは俺の叔父が理事長をしているから。とはいえ子供の頃に何度か会った程度の記憶しかない。
詳しくは知らないけど実家はかなりの金持ちらしくて、おばあちゃんは今住んでいるマンションの引っ越し費用もぽんと出してくれた。生活費も高校生一人分とは思えない金額が振り込まれてくる。
悠々自適な一人暮らしだが、おばあちゃんには感謝してる。俺が生活できるだけでなくティナの面倒も見れるから。
その日の学校は午前で終わりだった。
俺は授業が終わるといそいそと帰る支度をしていた。先生から高校三年生になってどうこう――主に進路のことだと思う――いろいろ話が出ていたがほとんど聞いていなかった。頭の中はティナのことでいっぱいだ。
その時、俺の隣の席に座ってる栗林京子が声をかけてきた。黒いセミロングの髪を揺らし人懐っこい笑顔を貼りつけている。
彼女は幼馴染で何かと一緒に行動することが多かった。
ゲームやアニメに詳しく俺ともよく話に花を咲かせる相手で、明るい性格で細かいことにはこだわらないサバサバ系女子。他の人から見ると「付き合っているの?」なんて言われるが、俺は異性として意識していないと思う。
それは向こうも同じようで「こいつはただの幼馴染だよ!」と反応も軽い。それがかえって俺には好印象だった。
「ねぇ映司。これから暇?」
「うん? なんかあんの?」
「あんたが好きそうなネタを持ってきた」
「好きそうなネタ?」
「……プラカードの女って知ってる?」
プラカードの女。
京子の話ではどうやら、俺達が住んでいるここ椋見市の駅でプラカードを持った女が立っているらしい。なんでもSNSでも話題になるほど超絶美少女だとか。
だけど書いてある文字が誰にも読めなくて、ネットで調べようにも検索にすら引っかからない。さらに写真を撮ろうとしたら突然、スマートフォンが潰れて壊れたという怪奇現象のおまけつき。
「SNSで見たんだけど行ってみない?」
「お前、授業中にそんなん見てたのかよ」
正直、興味はある。話を聞く分には胡散臭さ満点だけど、その超絶美少女とかいうは見てみたい気がするし。
だが俺にはティナがいる。家に帰れば金色の天使が俺を待っている!
「俺は今日、用事あるから京子だけで……」
そこまで言って俺は口を閉ざした。
バッグに筆箱やら詰め込んでいる時、気が付いたんだ。あの例のノートが入っていることに。
親父。俺にその子に会いに行けってことか?
「……京子。気が変わった。行ってみようぜ」
◇ ◇ ◇
柔らかい陽射しが降り注ぐ昼下がり。俺は京子を連れて駅へ向かっていた。
例の超絶美少女がいる椋見駅が見えてきたその時、俺の横を何かが吹き飛ぶ。耳に響くのは男の怒声と悲鳴に似た喧騒。
「はい?」
後ろを振り返ると地面には男が一人転がっていた。腰を打ったのか痛そうに擦りながら叫ぶ。
「あの女、化けモンだ!」
男が指さす先に視線を移す。
見ると人だかりができている場所で男が数人、吹き飛んでいた。みな一様に「化けモンだ!」とか怒声を響かせながらも体を引きずり逃げていく。
「なぁ京子。命の危険はないんだよな?」
「あたし、用事思い出したから帰るわ。またね。映司」
「お前が誘ったんじゃねぇか!」
逃げようとする京子を捕まえ、前へ進む。いつしか人だかりは姿を消していた。みな何事もなかったかのように素通りしている。
俺はおそるおそる近づいた。大の男を吹き飛ばすような少女なんて想像がつかない。柔道とかならわかるけど『化けモンだ』とか言ってたし。
だけど近づくにつれ視線が一点に集中した。不安も全て消し飛んだ。彼女を見た時、目が釘付けになって他のものが視界に入らなくなった。
そこには小さな女神が立っていた。
ちょっと癖のあるショートボブの髪は銀色に輝いていて。瞳はサファイアのような青。肌は雪のように白く、身長は百五十センチくらいだろうか。中学生くらいの小柄な体で純白のローブみたいな衣装を着ていた。
ルックスについてはもう絶句した。超絶美少女なんて京子は言ってたけど、決して誇張なんかじゃなかった。
彼女は先程の喧騒をもろともせず人形のように無表情で立っている。その小さな手に握られたのはプラカード。甲子園とかで選手入場の際、先頭に立つ女の子が持っていそうなものだった。
そこに書かれている文字は案の定、ティナがいたらしい世界と同じ言語。つまり解析ノートがあれば解読できる。
俺は一歩前に出た。彼女の瞳が反応して俺を見つめる。
バッグからノートを取り出し解読を開始。内容は「この言葉を読める人はいるか」だった。
紙にペンで「読めるよ」と向こうの言語で書き彼女に手渡した。一瞬、躊躇したようだったが受け取ると、彼女の目が大きく見開いた。
突然、彼女は持っていたプラカードを放り投げる。どこかの誰かに当たったのか「ぎゃあああ」という声が聞こえたが、意に介す様子もなく彼女は俺に近づいた。
近くで見ると本当に綺麗だ。イラストレーターが書いた理想の美少女をそのまま人間にしたみたいな、あるいは人じゃないと思えるほどの美貌。それにほのかに漂う花のようないい匂い。
そんな彼女はそっと俺の腕をキュッと握って……強引に引っ張った。
「えっえ? ちょっと!」
「ちょっと、映司!?」
後ろから京子の声が聞こえた。
うろたえる俺を無視して引っ張られるままに彼女は裏通りへと足を進める。人気が少なくなったあたりで彼女は俺から紙とペンを半ば強引に奪った。そして何かを書き始める。
見ると内容は「何故、わかるのか」だった。俺は解析ノートを彼女に手渡し紙に「これで解読できる」と書いて見せた。
彼女は興味深そうにノートをペラペラめくり読み始める。しばらくするとパタンと閉じ、まるで発声練習するかのように深呼吸をした。
「……あ、い、う、え、お」
俺はその光景に心底、驚いた。
彼女が発声練習しているのは紛れもなく日本語だ。あの解読ノートを読んだだけで習得しようとしている。
小鳥がさえずるような澄んだ綺麗な声。それが止んだ時、彼女はノートを俺に手渡した。
「……これで、すこしは、かいわできるか?」
「すげぇ。できるできる!」
「まずは、なをいおう。わたしは、リリーナ・シルフィリア。きみは?」
「俺は佐久間映司。君、何処から来たんだ? 俺の家にも君と同じ言葉をいう人がいて……」
会話が通じた喜びに思わず早口でしゃべる俺に、彼女は細く綺麗な指をそっと口に当てる。
「まだ、そのはやさだと、りかいがおいつかない」
「あっ、ごめん」
「きみのなは、さくま……」
彼女――リリーナはそこで小首を傾げた。
「えっち?」
「映司!」
ティナと同じ間違いをするところをみると、向こうの言語だと俺の名前は佐久間エッチになるのか。
エッチとかいう名前は嫌だ。つくづくこの世界でよかったと思う。
俺の反応に少し口元をほころばせた彼女がゆっくり顔を近づけた。鼻腔の奥を香しい花の匂いがくすぐる。
サファイアの瞳で一点を見つめて。だけどそこにあるリリーナの表情は、先程の笑みが消え氷のような鋭さを秘めていた。
「……きみ。なぜ、こくいんをつけている?」