第1話「美少女との文通生活」
意識が急激に覚醒する。
耳に響くけたたましいアラーム音。そして目ざめかけた頭に鈍い衝撃を感じて……。
重い瞼を開けた時、眼前は真っ暗。といってもただ単に本が顔に覆いかぶさっていただけだ。
耳に鳴り響いていたのはスマートフォンの目覚ましアラームだった。俺は本を顔に乗せたまま音を頼りに手探りでスマートフォンを見つけ出し、アラームを止めた。
俺を起こした元凶の一つ……目の前の本を取り除く。それは古ぼけたノートだった。
「お前は俺の目覚まし時計かよ」
寝ぼけ眼でノートを見つめながらつぶやく。どことなく古雑誌のようなカビの匂いがした。
これは親父である「佐久間裕司」が遺した一冊のノート。意味不明な言語が書かれた解析書だった。
実家から今、住んでいるマンションに引っ越す時、持ってこなかったはずだった。だけど気が付いたらバッグの中に入っていた。
俺はその出来事に気味の悪い因縁を感じた。しかし、これを手放せなくなる要因となった「彼女」と出会ったから、今はノートが手元にあることに感謝している。
ベッドから起き上がり部屋を出て洗面台へ歩く。
鏡を見るとやはり「数字」が浮かんでいる。今は三百六十四だ。
「……俺、生きてるんだよな」
あの黒髪の女が脳裏に蘇って一瞬、体を身震いさせた。
俺は女に襲われた後、生きていた。気が付いたら病院のベッドの上だった。
警察の事情聴取が終わった後、医師の診断で体に異常なしと言われ病院を出た。その時から俺の頭の上に数字は浮かんでいたが、他の人には見えないようだった。
『あなた。死んで頂戴』
俺の耳に確かに届いた呪いの言葉。頭の上に浮かぶタイムリミットを思わせる数字。
それらが結びつける不吉な予感に押し潰されそうになって、俺は追い払うかのように顔に水を被せた。
水と共に流れる不安に入れ替わって脳裏に浮かび上がるのは、金髪の美しい「彼女」の姿だった。
そして、今日も解析ノートを手に美少女との文通生活がスタートする。
「起きてるかな」
女の子に会う時の男の心は何故、こうも高揚するものなのだろうか。
ほんのり熱を溜めこんだ頭を動かし、リビングへと足を動かす。俺の目に映ったのは朝日を浴びた金色の天使。
白いワンピースを着た清楚な姿に満面の笑みを添えて。腰まで伸びた金髪が揺れ、翡翠のように輝く瞳が俺を見つめる。
彼女が両手で持ち前へ突き出した紙には文字が書いてあった。俺はその意味だけは昨日、必死になって覚えた。
何故なら彼女と何度も交わすだろう最初の言葉だから。
「おはよう。ティナ」
◇ ◇ ◇
彼女の名前はティナという。下の名前は覚えていないと聞いた。
昨日、黒髪の女に襲われたあの日。病院の帰り道で彼女に出会った。何かに誘われるように入り込んだ人気のない空き地にティナは倒れていた。
彼女は意識を取り戻した時、激しく動揺し怯えていた。俺はなんとか落ち着かせようといろいろ話かけたが、そこであることに気が付いた。
会話ができない。
彼女の口にする言葉は聞いたことがない言語だった。発音は日本語に近い気がする。だが意味がまったくわからない。
彼女も俺の言葉が理解できないようで、混乱しているようだった。そこで俺はバッグの中から紙と鉛筆を取りだして彼女に渡す。文字を書いてくれればスマートフォンなりで検索して文通ができるかもしれないと思ったからだ。
紙と鉛筆を見て俺の意図を察したのだろう。彼女は慣れない手つきで紙に何かを書き始めた。そして震える手でそれを俺に渡す。目に映った言語を見て俺は固まった。
意味がわからない。
書いてある内容がわからないどころの話ではなく、どこの国の言語なのかさえはっきりしない。楔形文字? ラテン文字? いろんな言語が合成されたような言葉だ。
ただどこかで近い文字を見かけた気がした。それも最近に。
俺の脳裏にパッと閃いたのは親父の意味不明な言語解析ノートだ。思い出してみると形が似ている。だけどあんなノート持ってきているはずがない。ましてや卒業式になんて。
だがまたしても奴は俺に付きまとっていた。持ってきたはずがないのに、バッグの中にある。
幼い記憶の中にある親父の声で『これを使え』と言われている気がした。
親父が遺したノート。それはこの少女の言葉を解析した翻訳書だった。
何故、親父がそれを知っていたのかはわからない。でも今、このノートが目の前の少女との架け橋になっていた。
そこから文通がスタートし、彼女の名前が「ティナ」だということ。何故、ここにいるのかわからないこと。記憶もないこと。そして彼女が……こことは違う世界から来たということが判明した。
俺はその話が本当かどうかは別として、悩んだ末にティナを家に連れていくことにした。
言葉が通じるのが俺一人。それに彼女も会話が成立したことで、すこし安堵の表情を浮かべていたから、一度家で落ち着いたほうがいいだろうと判断した結果だった。
家に到着後、リビングに茫然と立っている彼女にメモ紙で「ここにいて」とだけ短く書いて渡すと、俺は家を飛び出した。
彼女に今もっとも必要なもの。それは服だ。あんな綺麗な子がなんで汚い服を着ているのか。色あせ所々ほつれたそれは、まるでファンタジー作品に登場する奴隷服のようだった。
彼女に合いそうな白いワンピースを持ち急いでリビングへと駆け込む。見慣れぬ光景に今だ茫然とした様子のティナを見てほっと一息。いなくなっていたらどうしようかと内心、不安で仕方なかった。
俺を見つめてどことなく安堵な表情を浮かべた彼女にワンピースを手渡す。
受け取った彼女はそれを見て一瞬、固まって。
「え?」
翡翠の瞳から大粒の涙を流してワンピースを抱きしめた。
そんな彼女を見た時、俺の心臓がビクンと跳ね上がった。燃え上がるような高揚と涙を流す彼女を守ってやりたいという感情が駆け巡る。夕陽を背景に溢れる涙を必死に払おうとしている彼女がとても切なくて可愛くて。
たぶんそれは一目惚れだったんだと思う。女の涙は卑怯だよ。本当に。
◇ ◇ ◇
そしてティナはそのまま居候として家にいる。
白いワンピースは彼女に我ながら感心するほどぴったりで。出会った翌日の朝、柔らかな光を浴びた清楚な天使は、頬を赤らめ上目遣いで俺を覗き込んだ。
いつものように紙に文字を書かない。もしかして簡単な日本語は言えるようになったのだろうか。昨日の夜に一生懸命、勉強していた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
一瞬、戸惑いの表情を見せて視線を逸らし、それでもじっと俺を見つめなおすティナの唇がゆっくり動く。
はじめての会話に俺は期待を膨らまして……。
「えっち」
「はい?」
今、エッチって言った? 恥ずかしそうにそれでも男を落とすような上目遣いでそう言った?
俺、これから学校だしそれより朝だし……ってそういう問題じゃない!
内心、慌てふためく俺をよそに、ティナは口元に手を添えて頬を赤らめながら視線を逸らす。明らかに俺からの返事を待つ体勢。
前屈みのせいでティナの胸元が見える。わざとか忘れただけなのか。ワンピースのボタンは何故か数個外れていて、否応なく俺の目線を奪う。
けっして大きくはないけど、それでも女性的な膨らみを見せつけられて、俺の全身が震える。
誘ってる? でも俺には二次元の彼女が……いやだが、リアルの女性を経験してこそ二次元の彼女への妄想もはかどるのではないか。三次元の女が二次元の女に勝とうなどど恥を知れなんて思ってきたが、やはり何事も経験だ!
こんなチャンスは滅多にこない。世の中の男の童貞率、知ってるか? 十代だと七十パーセント以上だぞ!
そんな目的のためにこの家に連れてきたって思われる? いやいやこれ同意の上だし!?
支離滅裂な思考と脳内発言を繰り返す童貞、佐久間映司。朝からまさかの試練が圧し掛かる。
焦りながら解析ノートをペラペラめくり、紙にペンで文字を書く。「そういうのは夜に」と書こうとしたが手が震えてミミズみたいな文字になって会話が成り立たない。
ティナはなおも「えっち」という単語を繰り返し追撃してくる模様。その時、俺の脳裏にある予想が飛び込んできた。
もしかして……。
「……さくま……えっち」
「映司だ!」
自分の名前を向こうの言語で書いた紙を見て、ティナはうんうんと頷いている。
どうやら発音がうまくいかず俺の名前の「映司」が「えっち」と聞こえていただけのようだ。そのボタン外しとノーブラはいったい何だったんですか。
一気に高揚感が冷めていく。だけど、こくこくうなずく彼女は、何かの小動物みたいで可愛らしい。思わず笑みがこぼれた。
俺は安堵のため息を吐き出し心を落ち着かせると紙にいろいろ書きこんだ。これからしばらくいなくなること。ご飯は冷蔵庫にあること。誰か来てもいないフリをすること……など。
トイレの使い方とか冷蔵庫の使い方とか日常、使いそうなものは昨日のうちに教えた。食べ物は調理の必要がないパンとかにした。
そこまでティナに教えると彼女は紙に何かを書き始めた。金髪の美しい天使は満面の笑みで二枚の紙を俺に見せる。
「ありがとう」
「やさしい。またえいじくんのいいところ、みつけた」
たどたどしい日本語で書かれたそれに俺は笑顔で答えた。
その日、決められたルートを歩く学校への足取りは、普段より軽くまるで天使の翼が生えているかのようだった。