慮庵
「という訳で、早急に麻生殿を黙らせるような策を出さなくてはならなくなったの」
珠保院は左衛門に先ほどの話を談話室で早速伝えていた。彼は帰宅せずに面会が終わるのを待っていたのだ。先ほどとは違って山千代が昼寝のために不在の中、二人向き合って話していた。
「美都からの返答は通常でも一ケ月くらいかかることもあるわ。急いでも次の評定までに間に合わないでしょう。しかも、やっと返答を貰っても、麻生殿の強硬な反対にあうかもしれない。だから、美都への依頼は無理だわ」
そう珠保院が告げると、彼は顔を顰めていた。
「しかし、さっきも言った通り、他に手段は思いつかないぞ。それに、大蛇が出たときから、さっさと行動していれば、このような事態にはならなかったと思うぞ」
二人きりということもあり、彼の口調は砕けている。しかも、それみたことかと冷淡な顔つきを浮かべている。その突き放したような態度はあらかじめ予期していたが、今回の対応の悪さをこうも率直にねちねち非難されるとは思っていなかった。そもそも彼の言う通りだったため、それに何も反論できなかった。思わずじめじめと暗い思考の海の中で落ち込みそうになるが、そんな暇は全くない。
「うん、だから、ご隠居様に大蛇について尋ねようと考えているわ」
「ご隠居様って、慮庵様のことか?」
彼の慎重な確認に黙って頷く。
慮庵は珠保院の夫の父、つまり舅であり、父方の伯父にあたる。一人息子に跡を継がせた後、髷を落として悠々とした隠居生活を送っている。平素、簡素な造りの庵に引き籠もり、質素な日々を送りながらも、たまに家臣だった者たちを呼び寄せて趣味の囲碁に興じていると聞いていた。息子と正妻を相次いで亡くしても、そののんびりとした暮らしはずっと変わっていない。いつも心境が落ち着かない珠保院にとっては、全く羨ましい話である。
「しかし、あの方は気難しいと有名だろう」
「ええ、確かに……」
機嫌を損ねやすい舅とは確かに付き合いづらかったので、彼の心配も無理はなかった。
舅は隠居して政への関心は失せたのか、今まで口を出すことは全く無かった。わざわざ「儂に頼るな」と厳しく釘を刺すほどの念の入れようだった。
だが、今回は非常事態。すごく嫌がられると分かっていても、彼を頼らずにはいられなかった。藁にもすがるような思いだった。
舅の領主としての手腕は優れていたと推測している。彼の治政時、珠保院たちは何事もなく平穏に過ごしていた。つまり、騒乱を起こさないよう治め、あったとしても最小限に抑えてきたのだ。それだけの手腕があったという証拠である。
「助けを乞うのは大変かもしれないけど、なんとかあの方の経験と知識をお借りしたいと思ってる」
そう自ら訪ねることを決意すると、左衛門は渋々ながら了承した。
翌朝、珠保院は左衛門と女中を従えて、慮庵のもとを急いで訪ねた。
未明に雨が降ったため、ぬかった道を無言で歩き続けていくと、寂れた場所に目的の家はあった。元は領主とは思えないほどの農民と同じような茅葺屋根の木造住居である。他に隣接している家はなく、小さな田畑の傍にぽつんとそれだけ建っていた。
珠保院たちが着いた時、家の戸や窓はすでに開いていた。声を掛けて中を覗くと、囲炉裏のある広間が見えた。壁際に使い古した家財の箪笥などが並び、その上には細々とした日用品が置かれている。さらに、机の上にはよく使い込まれている筆と硯などの道具が出しっぱなしになっている。
生活感が漂う雰囲気の中、そこには三人の男たちがいた。主である慮庵と彼に仕える下人、それから先客である。客と慮庵は碁盤を挟んで座っていて、対局の真っ最中のようである。碁石の置かれる小さな音が、不規則に響いている。家の主は珠保院たちに小柄で華奢な背中を向けている。彼の髷の無い白い短髪頭が見えていた。
(ちょうど間の悪い時に来てしまったのかもしれないわね)
碁の対局中では、自分たちの来訪は邪魔以外なにものでもない。難しい頼み事だと分かっていたが、いきなり都合の悪い状況に苦笑いしそうになった。
下人が珠保院に気付いて土間の近くに駆け寄ると、板の間の上でこちらに深々と叩頭する。彼は長く慮庵に仕えている男で、年の頃は主人と変わらず年寄りだ。彼の顔に大きな火傷の痕があり特徴的だったため、彼のことをよく覚えていた。ところが、主人が彼を「おい」「お前」と雑に呼ぶため、下人の名前を未だに知らない。
「珠保院様、今日はどのようなご用件でしょうか?」
「急な訪問、申し訳ございません。主の慮庵様に尋ねたいことがあり、参った次第なのですが……」
珠保院は玄関の土間で立ったまま、口を開いた。二人の会話はよく通り、広い部屋の中に響く。ところが、慮庵は全く聞こえないふりをして、こちらを全然見もしない。
「申し訳ございません。只今、来客中でして」
無視をする主人の代わりに下人が頭を下げていた。それに反応したのは客のほうで、ちらりと気遣うようにこちらへ視線を寄越していた。薄くなった白い頭と皺のある顔が見えた。彼は舅と同じように隠居の老人のようだ。
「よろしいのですか?」
客が慮庵に尋ねていた。その身なりは農民ながらも、質の良いものを着ている。恐らく有力農民の一人と思われた。
「構わん。先触れのない訪問者など待たせておけばよいのだ」
慮庵はそう悪態をつきながら、黒い碁石をのっそり置く。小気味良い音が辺りに響くと、客は碁盤を見下ろして思案顔を浮かべる。それから少し間を置くと、次の手を打った。
「恐らく、大蛇のことで困られて相談に参られたのでは?」
客の言葉に珠保院は反応して「その通りでございます」と珠保院はすかさず合いの手を入れた。図々しいとは思ったが、そうまでして縋らないと、彼から情報を貰うのは難しいと感じたからだ。ところが、その横槍に慮庵は何も反応せず、黙々と碁盤に向かう。パチンと石を置く音がすると、「大蛇の件は、儂もわからん」と舅が小さく呟く声がした。その彼の答えに驚いて珠保院が大きく目を見開くと、ちょうど彼がくるりと振り返った。
「だいたい、困ったことがあれば、すぐに儂に頼るのは安易すぎるぞ。隠居を巻き込むのはやめろ」
久しぶりに見た慮庵は少し老けた気がしたが、声だけは変わらず元気そうである。不機嫌そうな目つきでこちらを一瞥した後、また碁盤に向き直る。
予想通りの拒絶の反応に気を引き締めていた。
「申し訳ございません。けれども、誰か物の怪に詳しい者をご存じありませんか? 地元の宮司たちは力になれないと申しておりまして、状況が悪化すれば兵を挙げる必要が出て参ります」
必死の懇願に少しも耳を貸さないつもりなのか、慮庵は相手と碁を黙々と打ち続けていた。
珠保院はしばらく立ち尽くしたまま待ったが、彼からの反応はない。焦りばかりが、どんどん募っていく。さらにお願いするため、その場にて深く頭を下げる。
「このまま対処できなければ、罪のない民が被害に遭うかもしれません。どうかお考えを改めて頂けないでしょうか」
懇願したままの姿勢を続けたが、相手からの返事は無情にも何もない。その頑なな拒絶にこれ以上為すすべがなかった。舅を頼るのを諦めた方がよいと、遂に悟るしかなかった。
背筋を戻し、下人にちらりと視線を送れば、彼は間の悪そうに困惑した表情を浮かべて傍に控えていた。その彼に済まなそうに微笑んだ。
「急に参ってお騒がせして申し訳ございません。これにて失礼いたします」
落胆しながら再び深く頭を下げた。そして後ろ髪を引かれるように踵を返した時だった。「ちょっと待て」と慮庵から憮然とした声が掛かったのは。
驚いて急いで振り返ると、彼は腕を組みながら渋面を浮かべていた。
「全く――儂は無能者を殿の補佐に推薦したわけではないと思ったのだがな。仕方がない、その道に詳しい奴なら心当たりがある。そいつに訊くがよい」
憎まれ口を叩きながら慮庵はのそのそと机に向かうと、紙に筆で何かをさらさらと記す。それをすぐに下人経由で珠保院に渡してくれた。
「お手数おかけして申し訳ございません。かたじけなく存じます」
文句を言いつつも窮地を慮り手助けしてくれた。一時は諦めていただけに、嬉しさは一入だった。そのことに感激して礼を述べたが、彼からの返事は意外なものだった。
「術者に関して決して余人に漏らすな。それと、麻生殿は色んな方に根回ししているようだぞ。気を抜いて出し抜かれないようにな」
彼の言葉に改めて気が引き締まる思いが強くした。美都への依頼といい、恐らくかなり出遅れている。
丁寧に頭を下げると、その庵をそそくさと後にした。珠保院は外を出てから、貰ったばかりの覚書を早速見てみる。そこには一人の名前とその者の所在場所まで書かれていた。全く知らない人物である。
弱り果てた嫁に対する舅からの情けだったのだろう。珠保院は帰宅後にすぐに手紙を認め、ずっと付き従っていた左衛門に渡した。
「これを急ぎ、与黄という人物へ届けて貰いたいの。よろしく頼みます」
無言で彼は封書を受け取ると、すぐさま屋敷を出て目的地へ向かった。