麻生
屋敷の広間へ珠保院が向かうと、すでに下座の板の間には、麻生とその取り巻き連中があらかじめ坐して待ち構えていた。彼らはこちらの到着に気付くなり、次々と頭を深く下げる。
領内の家臣たちが何十人と集まる広間は、屋敷の中で一番部屋が大きい。その広間には、今は上座付近に来客が四人しかおらず、後方には何もない空間が広がっている。閑散としていて、艶のある茶色の板の間ばかりが目に入る。小さな物音が余計に響くようである。少人数と面会するために不必要な大きさだが、彼らを自分たちが住まう屋敷の内部に案内したくはなかった。
女子一人に意見を言うために麻生が単身で来たことはない。多勢に無勢。彼はいつもこんな調子だ。
向かい合うように腰を下ろす。それから目の前に座る彼らを見つめて、いつものように声を掛けようとした時、その中の一人に違和感をあって目が留まる。怪我でもしているのか、袖から覗く両方の腕に布をびっしり巻いていた。気にはなったが、挨拶が先だったため、すぐに気を取り直す。
「お待たせして申し訳ない。楽にして下さい」
慣例的に声を掛けると、ゆっくりと麻生たちは顔を上げる。彼のがっしりと肉付きのよい体格は、黙っていても威圧感がある。
「お忙しいところ、お時間をお取りいただき、ありがたく存じます」
麻生は決まりきった挨拶の口上を淡々とする。その直後、彼の眉間に皺が寄り、中年の若くない顔つきが厳めしくなる。
「ところで、珠保院殿のお耳にお入りかと存じますが、大蛇の件について本日は参りました」
単刀直入だった。懸念通り、彼はあの騒動について、すぐに話を切り出してきた。
「再び大蛇が現れて、領内は上から下に大騒ぎでございます。この災いをいち早く治めなくては、さらなる被害を生み出すかもしれないと拙者は大変心を痛めております。殿には早急に対処していただきたくお願いに上がった次第です」
麻生はいかにも憮然といった様子である。未だに策を打ち出さない珠保院たちへの不満を隠そうともしてない。彼は今回もご多分に漏れず文句を言う気満々だ。
「今、それを殿は考えておられるところで……」
それとは対照的に珠保院は弱腰で返答するしかない。情けないやら、歯がゆいやら。
美都に依頼するかどうか悩んでいる最中なんて口が裂けても言えない。
「なんと悠長なことを仰せられる!」
自信のない態度を見て、彼らはさらに勢いを増した。
「拙者の不安は見事的中しましたぞ。珠保院殿があの時、拙者の意見に耳を傾けさえしてくれれば、今頃こんな事態にはならなかったと思うが、いかがお考えか!?」
「それは、確かに……申し訳なく思っております」
相手の叱責にただ謝ることしかできなかった。これまで何も問題なかったこともあり、心配し過ぎだろうと、あの時の彼の意見をあっさりと聞き流していた。
そんな弱気な珠保院に対し、彼は呆れるようにため息をつく。
「殿がまだ幼いからと、ご隠居様の薦めで後見を務められている珠保院殿がこれほど頼りないとは! 恐れながら、この一件、拙者に全て預からせて頂きたい。すでに手は考えておりますので」
補佐として政治を任されたばかりの頃から、頼りないと麻生は不満を零し、口をよく挟んできた。恐らく、彼は自分こそが上に立ちたいのだろう。彼のみえみえの権力への執着が、とても邪魔だった。
「お待ち下さい。何も策が無いと申している訳ではありません。結論を迷っておられるだけです。それに、麻生殿の手を聞いてからでなくては、殿も一任はできかねるかと。是非聞かせて下さい」
今のところ、立場はこちらが上である。策を聞かせろと言われて彼が断れる訳がなく、酷く悔しそうに口を開く。
「大蛇を討伐すればよろしいかと!」
相手の怒鳴り声だけではなく、その言葉に驚いて目を見開く。黒い袖を口元にあて、これ見よがしに眉を顰める。
「討伐とは。これはまた、いきなり手段が荒々しいのでは?」
この批判に麻生は馬鹿にしたように顔を顰める。彼の眉間の皺がさらに深まった。
「しかし、物の怪の対処に長けた者がいない現状では、それしか手はないかと。まさか、自分たちで何もしない内に他所の国に助けを求めるような情けない真似はできませんからな!」
その彼の反論を取り澄ました顔で聞きながら、背中に冷たい汗が流れた気がした。
策を読まれたとはいえ、口元に笑みを浮かべ、余裕の態度を貫くしかない。
「では今度は、珠保院様の策を聞かせて頂きたい!」
「はい」
わざと大仰に頷く。
「殿のご結論は、評定にて皆様方にお伝えしたいと存じます。その時までお待ちください」
しれっと悪びれもなく告げた内容に麻生たちは唖然とする。しかし、口を開いて放心したのは一瞬で、すぐに「珠保院様!」と抗議の声を上げる。策を尋ねているのに堂々と答えをはぐらかされたからである。
麻生たちの不満を涼しい顔で平然と受け流す。彼らの反応は予想通りだ。しかも、ここで怯んでしまっては、彼の思うつぼだ。
「先に麻生殿にお話しすれば、不満を持つ者が出るかもしれません。殿に麻生殿の策は伝えておきますので、失礼いたします。麻生殿、ご注進ご苦労様でした」
雲行きが怪しい場合、上手く誤魔化して時間稼ぎする。この手法が皮肉なことに得意になっていた。この家に嫁いでから現在に至る五年の間で。
話し終わると、すぐに立ち上がって広間を後にする。小さな衣擦れの音だけが有り余る空間に響く。それから廊下へ出て、麻生たちの視界から消えた途端、やっと安堵することができた。ところが、大きな罵声が背後から聞こえてきて、身体が瞬時に強張る。
「全く、なんだ! あの態度は!」
彼らの野次が広間の外にいる珠保院の元まで届く。歩いていた足が凍ったように止まった。
「また有耶無耶な返答か!」
「我らを小馬鹿にしおって!」
「先代に嫌われた理由がよく分かるものぞ!」
次々と麻生たちの吐き出す不満が耳に入ってくる。強い彼らの怒りが身体に針のように次々と突き刺さるようだった。
しばらく立ち尽くしていると、やがてぶつくさ言う声は途絶えて辺りは静かになる。彼らが別の出入り口より広間から去って行ったようだ。
それを察して、今度こそ緊張が抜けた。
口から漏れるのは、深く長いため息。一瞬だけ顔を歪ませたものの、それから気を引き締めるように強い眼差しで前を見据える。そして、何事もなかったかのように再び歩き出す。窮地を抜け出すためには、ただ行動を起こすしかなかった。