二回目の報告
「また大蛇が現れたとは……」
領主の屋敷の一室にて、珠保院は左衛門と内密に会っていた。
一回目の大蛇出現の報告から六日後の本日。ちょうど昼餉を終えた時、彼が二回目の報告に急いで来たからである。
いつもの談話部屋の四方は閉ざされており、密談がしやすい状況になっている。障子の白い紙が夏の厳しい日射を柔らかく遮っている。ただ、熱気だけは完全に防げず、風が通りにくいせいで暑さがじわじわと中に籠っている。
賑やかな虫の声が、ずっと外から聞こえ続いている。
上座にいる珠保院の隣に山千代も少し硬い表情をしながら同席している。口を閉じたまま大人しく二人の様子をずっと見守っていた。幼くとも、非常事態を察しているのだろう。彼の賢さには、たまに驚くことがある。
珠保院たちと面した下座には左衛門がいる。急いできたのだろう。彼の顔は湯気が出そうなくらい、とても上気している。さらに、胸元には粟粒のような汗が小さく吹き出ている。襟元から僅かに覗く、熱で赤く染まった彼の地肌。否応なしに恥ずかしい過去の出来事が思い出され、無理やりそこから視線を外した。
出入り口の襖戸の傍には、信頼している古参の女中が静かに廊下側で控えている。名前をサエと言い、前回も傍にいたのは彼女だ。中年なので白髪交じりの頭ではあるが、まだ元気に仕えてくれている。屋敷に仕える他の女中と同じように袖と袂が短くて動きやすい小袖をいつも着用している。
「前回同様に暴れて、力尽きたように動かなくなり、やがて姿を消したそうです。領内全体にも噂が広まり、街中でも領民に不安が広がっています。そのため、普段は賑やかな通りが、大蛇を恐れて人気もなく閑散としている状況になっています」
「……そう」
その呟きが思いのほか暗くて珠保院は少し焦った。主君がいる手前、平静を努めて話しているが、内心では恐れていたことが起きてしまったと大きく動揺が広がっていた。
「佐和羅山には祭壇があり、宮司が管理しております。その者が申すには、その山では蛇が神として祀られているとのこと。今回の暴れた大蛇は、もしかしたら、ここの神かもしれないそうです」
淡々と続く彼の説明はきわめて冷静沈着だ。彼の口調が改まっているせいか、事務的といえば聞こえは良いが、まるで他人事のような口ぶりである。
「あの山を祀っているのは知っていたけど、ご本尊は大蛇だったとは……」
話を聞きながら脳裏に僅かな希望が浮かぶ。正体が分かっていれば、過去の出来事も追いやすいからだ。
「もしかして、以前も同じように暴れたことはあるのかしら?」
解決策がすぐに手に入るかと期待して口に出していた。ところが、左衛門が無情にもあっさり頭を横に振る姿を見て、瞬時に落胆する。
「いいえ。代々宮司に伝わる逸話は、全て領民を助ける良い話ばかりでした。そのため、神として領民たちは蛇を大事に祀るようになったそうです」
一度も大蛇が暴れたことはなかった。それを聞いて、ますます謎が深まるばかりだった。
「ではなぜ、今回大蛇は暴れ出したのかしら? 何か神の怒りに触れるようなことをしたのかしら?」
率直な疑問に左衛門は困惑しながら首をそっと傾げる。訊かれても困ると言わんばかりだ。
「それは何も聞いていませんし、私にも分かりかねます。ただ、神のいる地を穢してはならないと、山の奥深くに神事以外で立ち入ることを厳しく禁じているそうです」
「では、普段の生活で領民がうっかり神を怒らせた――ということはないのね?」
「恐らく」
問いかけに彼は小さく頷く。
「では、一体大蛇に何が起こったの……?」
眉間に皺を寄せながら呟くと、左衛門も困り顔を浮かべる。正直、彼も全然予想がつかないのだろう。
「それは宮司もさっぱり見当がつかないそうで。悪さをする小物の物の怪だったら宮司たちも追い払うことも可能ですが、大蛇などの大物は全く手に負えないそうです。今回ばかりは他所の国にいる専門の者に素直に頼りましょう」
彼の提案は尤もである。宮司たちの仕事は主に祭事関係だ。穢れや厄災を払うこともあるが、悪いものを家に寄せ付けぬよう厄除けのお札を檀家に配るくらいだ。そもそも物の怪の討伐には不向きである。
「他所というと、美都のことかしら?」
「そうです」
左衛門は自信をもって即答する。
美都は周辺諸国の中でも一番栄えた国だ。文化の発展は美都を中心になされていると言われるほど、様々な技術や芸術が集まり必要とされている。贅をつくした煌びやかな建物が見られるのも美都ならではだ。人口が多く物資の流通も盛んで賑やかな反面、多くの物の怪が出没することで有名である。当然ながら、物の怪の専門家も大勢いることだろう。大蛇の暴動の調査も慣れた者に任せた方が確実で安全である。さらに、左衛門は美都に住んでいたことがあった。その国の名を出す以上、彼なりにあてになる人物がいるのかもしれなかった。
「でも、依頼は簡単ではないわよね?」
「そうですね、遠方のためにやり取りに日数が掛かる上、足元は確実に見られましょう」
彼は言いながら、僅かに渋面を浮かべる。その推測に珠保院も全く同感だった。
わざわざ貴重な人材を他国に寄越すのだ。しかも、大蛇という素人でも分かるくらい大物だ。そのため、派遣代をいくら請求されるのか、わかったものではなかった。
しかも、領内で解決できぬと領主の評判が落ちる可能性もあったが、領内で不安が大きく広がっている以上、大蛇を野放しには決してできない。そのことを幼い主君の前で口にするのは非常に憚られた。
この手段も色々と問題が多くて、決断にとても迷っていた。
(でも、早く決定しなければ、ここぞとばかりに文句を言うものが出てくる)
いつも手厳しい身内を思い出して、口には出せない本音を心の中でこっそりと呟いた。
今回、彼らから何も非難が来ていない。その静寂が不気味なものとして感じずにはいられなかった。そんな時、部屋の襖戸の向こう側から人の気配が徐々に近づいてきた。珠保院は顔つきを引き締め、音のする方に視線を送る。
「珠保院様、失礼致します」
若い女の声が奥の襖戸越しに聞こえてきた。
「どうしたの?」
返事をすると、戸が少し開かれて、平伏した黒髪の女中の姿が現れる。
「お目通りを願いたいと、麻生様たちが参られました」
訪問者の名前を耳にした途端、珠保院は顔色を変える。
(そのうち来るとは思っていたけど、まさか二回目に大蛇が現れた直後だとは。広がった噂を耳にした途端、やって来たのかしら?)
無意識に気合が入るのが分かった。その時、正面から視線を感じてそちらを見れば、左衛門が声を出さずに口元に笑みを浮かべていた。美しく凄みのある双眸と目が合った瞬間、胸のあたりが重苦しく痛んだ。眩暈まで起こるような激しい衝撃があった。
私情を挟まないと言った手前、報告に嘘はないだろう。しかし、内心では珠保院の失態を彼は心待ちにしているのに違いなかった。