決着
そして次の日、予定通り珠保院は評定を開き、家臣一同を広間に集めた。
山千代の訪れを付き人が告げると、雑談していた家臣たちは一斉に平伏して主君の登場を待つ。
静まり返った中、山千代は珠保院を従えて上座におもむろに腰を下ろした。
「一同、大儀である。面を上げよ」
幼い主君の静かな声掛けで家臣たちはゆっくりと正面を向く。
「この度の被害に余は大変心を痛めておる。それについて、珠保院から話がある。よく聞くがよい」
さっそく主導権を渡された珠保院は、目の前に控えている家臣たちをじっくりと見渡す。
前方にいる重臣たちの中でも、麻生だけが鋭い目つきでこちらを見ている。まるで今から斬り掛かってきそうな気迫である。その彼の後ろには家来の延方たちがいる。
彼らから視線を外して他の場所をふらりと見渡す。ところが、いつもの場所に左衛門だけがいなかった。
(一体、どうしたのかしら? 昨日はとても友好的な態度だったのに――)
それだけで不安が一層強くなってしまった。動揺を隠しつつも、なんとか気合を入れて口を開く。
「皆様もご存じの通り、佐和羅山で発生した大蛇の暴動を発端に、悪しき物の怪が領内に侵入して長雨を発生させて作物に被害をもたらしました。特に佐和羅山の周辺の被害は甚大です。これにより、田畑を荒らされた領民に対する救済と、現地の復旧に対して、殿は手を差し伸べたいとお考えです」
一気に説明したため、一呼吸置く必要があった。口を休めている僅かな間に家臣たちの様子を窺いながら見渡していた。その時、「恐れながら」という声がすぐに麻生から上がった。
「麻生殿、なにか?」
予想通りだったため、落ち着いて彼の発言を許した。
「珠保院様は暴れて被害を生み出した大蛇を捕えながら、大蛇に何も罰を与えず、しかも庇護して大量の食事とお酒でもてなしたと聞いております。そもそも大事にするべきは、領民ではござりませんか? それなのに領民に犠牲を強いて、騒ぎの原因となった大蛇を大事にするとは、納得できません!」
責める麻生の語気は相変わらず荒々しいが、彼の言い分にいつものように呆れるばかりだった。今回は自分自身の行動に根拠があったため、珠保院は決して動じることはなかった。
「麻生殿、大蛇は佐和羅山で祀られている神でございます。それに、大蛇は毒入りのお供え物を食べたせいで苦しみもがいていたのです。貴殿も山に放置されていたお供え物の残骸を一緒にご覧になられたと思います。大蛇自身も” 毒の入った食べ物が置かれた”と叫んでいたのをお忘れでしょうか? 騒ぎに巻き込まれたのは、大蛇であり、被害者でもあります。しかも、神を罰するなど恐れ多いことです」
強い口調で反論しても、しぶといことに彼は食い下がる気配を全く見せなかった。
「けれども、誤解とはいえ、珠保院様を殺そうとした罪や被害は無くなりませぬ! しかも、大蛇の騒ぎを鎮めた途端、別の物の怪を呼び出すことになり、さらに被害は深刻になりました。そもそも、大蛇が神だというならば、珠保院様がお願いすれば、この惨状をどうにかして頂けるのでは?」
彼の反論を聞いた後、わざと周りに分かるように失笑した。
「そもそも、誤解を招く発言をしたのは、麻生殿が原因でしょうに。大蛇をこれ以上責めるというなら、貴殿の責任についても追及が必要となります。また、神とて万能ではございません」
皮肉を交えた厳しい反論に対し、麻生は一瞬憮然とし、口を歪ませる。ところが、すぐに次の手を思いついたのか、皮肉気に笑みを浮かべる。
「神とて万能ではない。では、何をもって大蛇を神と仰せなのでしょう。奇跡も起こせず、図体がでかいだけの物の怪を神と誤解した可能性もあるのでは? しかも、大蛇の対応が遅れた結果、他の物の怪まで呼び寄せてしまいました。これはもはや珠保院様の不手際としか言いようがございません。私めが何度も申しておりました通り、すぐに討伐していれば、禍の目は早急に摘めたのではないでしょうか?」
「大蛇が元気になり、山に戻ったお蔭で、悪さをした物の怪を退けることができたのです。麻生殿の申す通り、大蛇を討伐していたら、あの物の怪を追い払うことはできなかったでしょう」
間髪入れずに説明するが、相手は一向に引き下がる気配はない。しつこい彼の難癖に心底嫌気がさす。
「さらに、領民に補償すると仰せでしたが、その財源は借入ではございませんか? 昨年、珠保院様が亡き殿をそそのかし、くず鉄を大量に買わせてしまったために、財源が底を突いたと聞いております」
珠保院は聞くなり顔色を変える。
「それは――!」
すかさず反論しようとしたが、麻生の言葉に驚いた家臣たちの声によって掻き消された。
家臣たちのざわめきが聞こえる中、必死に考えを巡らしていた。
(何故、鉄くず購入の件で亡き夫と姑から責任を擦り付けられたことまで麻生殿が知っているの――?)
塩の相場の話は家臣たちの前で出ていたが、実際に鉄を購入した事実は、夫が内密に行ったことなので、周知のことではなかった。主君が大損をしたという明らかに外聞の悪いことをわざわざ漏らす訳にはいかなかったからだ。珠保院自身も領内の詳しい事情を誰かに明かした覚えはない。勘定を担当する家臣も誰かに話すとは思えなかった。
それに加えて、気になる点があった。
(こちらの手が麻生に読まれている――。筒抜けと言っていい具合に)
背筋に冷たい汗が流れたように寒気がした。
勘定を任せている家臣との打ち合わせで、山を担保に借金の話が出ていたのは事実だった。一時的に借りて少しずつ返していけば良いと考えていたのだが、麻生はそこを鋭く突いてきた。当家の懐が厳しい中、領民たちに十分に補償するための手段は、他に思いつかなかった。
「それは誤解です! 確かに、借入も予定しております。けれども……」
事実と虚言を織り交ぜた麻生の発言を家臣たちに鵜呑みにされたら、信頼が崩壊してしまう恐れがあった。そのため、慌てて正しい事実を説明しようとした。
しかし、珠保院が弁解を言い終える前に、周囲から再びどよめきが上がり、言い訳すらできない状態になってしまった。
「麻生殿の話を認めたぞ」
「一体何をしていたんだ」
麻生が指摘した借入が正しかったことから、勝手に他の発言まで事実のように家臣たちに受け取られてしまった。しかも、よりによって慌てた珠保院の態度そのものが、状況をさらに悪化させてしまっていた。
「損失に関わられていた珠保院様にこのまま殿の補佐をお任せして良いのかと、不安に思わずにおられません!」
声の大きい麻生はさらに大声を張り上げる。広間中に彼の怒声が響き渡っていた。
「そもそも、毒を入れた犯人がいると以前から仰せだが、それも今日まで証拠すらお目にかかったことはございません! 家臣として、これ以上珠保院様のお言葉を信じることができましょうや!」
麻生に加勢して、彼の家来たちが「そうだ、そうだ!」とうまく調子を合わせて尻馬に乗っている。
他の家臣たちは麻生を諫めることなく、互いに顔色を見合わせて動向を窺っている。少しずつ珠保院に対して疑いの目を向け始めている。
事実を話しても言い訳としか捉えられない。さらに、財源が乏しいのも悲しいことに事実である。
「待て、私の話を――」
聞いて欲しいと呟いても、自分のか細い声は男たちの荒々しい声に到底敵わない。胸中に暗く悲しい雨雲が覆い始める。
(もはや、これまでなの――?)
追い詰められ、反論できる糸口もなく。逃げ道を失い、すっかり窮地に立たされていた。
あまりの悔しさに唇を噛みしめる。
そんな時、勢いよく戸が開く音が大きく響く。その突然の物音に驚いた一同は口を閉ざして一斉に背後を向く。珠保院も思わず広間の隅にある入口に視線を送っていた。
「お望みの証拠なら、私がお見せいたしましょう!」
場を制するような鋭い男の声が広間に突き抜けた。そこで仁王立ちして、麻生を睨み付けているのは左衛門だ。その後ろには直衣姿の冴木がいる。顔を伏せて彼に大人しく従っていた。
左衛門は一同の視線を集める中、ずかずかと怯むことなく広間を歩く。そして、麻生の傍まで来ると、立ち止まって流麗な所作で腰を下ろした。後ろについて歩いていた冴木も彼の後ろに音もなく座り込んでいた。
左衛門はこちらを真っ直ぐ見つめると、「その前に珠保院様から今回の騒動の真相について話して頂きましょう」と話をすかさず振って来た。そのお陰で皆の注意が再びこちらに戻った。
名誉を挽回する機会を得て、心の中に再び光が照らされる。ここぞとばかりに気合を入れ直し、泣きそうだった顔つきを真剣なものにすぐさま改めた。
「では、私の推理をお話し致します。何故、大蛇が暴れたか。これは皆様もうご存知でございましょう?」
「毒であろう」
珠保院の前にいた山千代がすかさず返答していた。今まで黙って様子を窺っていた彼の君。形勢の変化を敏感に察したのだろう。得意げな顔をして、珠保院を振り返って見上げていた。
そんな彼の君に優しく微笑む。幼子に思いがけず励まされて、心に少しずつ余裕ができ始めていた。
「そう毒でございます、殿。お供え物に呪術が仕込まれていたのです。大蛇を鎮めた日に冴木様によって取り除かれたところを多くの者が目撃しております。それは黒い棘の形をしておりました。犯人は術者に呪いを依頼したのでしょう」
主君に語り掛ける内容を家臣たちも固唾を呑むように聞き入っている。
「その術者は誰だったのか。それを調べようとした矢先、佐和羅山で発見された遺体の身元が判明したのです。ちょうど私たちが調査の時に見つけた遺体は、与黄という庶民でした。領民相手に医者まがいなことをする術者で、目撃証言と遺体の痛み具合から、大蛇が二回目に暴れた後、後ろから斬られて殺害されていたのです。騒動が起きる前に急に羽振りが良くなったという証言もあり、犯人によって彼が殺された可能性があると見ています」
「恐れながら、その与黄という者が、いったん依頼を受けて報酬まで貰っておきながら、殺される理由が分からないのですが」
ちょうど話の区切りが良い所で中断すると、すかさず家臣の一人が質問をしてきた。
「与黄は善良な庶民だったのです。多くの者を無償で助けたと聞いております。ですから、そういった人間が土地神である大蛇を害する可能性は私も低いと思いました。そのため、犯人によって騙されて依頼を受けたのではと推測したのです。けれども、その嘘に与黄が気付いてしまったために犯人によって殺されたのではと見ています」
「では、何故与黄は騙されたと気付いたのですか?」
先ほど質問してきた家臣が続けて疑問を投げかけてきた。あまりにも良い合いの手に、さらに説明がしやすくなっていた。
「呪術というのは、失敗すると術者に返ってくるものらしいのです。苦しんでいた蛇の体内から出てきたのは、黒い棘でした。与黄の背中に細い刺し傷があったことから、大蛇を蝕んでいたものと同じ棘が与黄自身にも返って傷つけていたのでしょう。たぶん、全ての術が巧く成功したわけではなかったようです。与黄はさぞかし苦しんだことでしょう。そんな時に与黄は大蛇の騒動を知り、慌てて依頼主に直接尋ねたのだと思います」
「それで与黄は依頼主に問い質して殺されたのですか? ですが、何故大蛇が現れた直後ではなかったのですか?」
家臣の質問と同じ疑問を珠保院も随分長く抱いていた。
「領内に大蛇のことが一気に広まったのは、二回目に大蛇が出現した時だったからです。与黄は広まった噂を聞いて、自分の術が佐和羅山に住む大蛇に使われたのだと、やっと気付いたのです。聞いていた話と違えば、与黄も怒るでしょう。そして、依頼主に問い詰めてしまったため、与黄は口封じに殺されてしまったと思われます」
ここまで言い終わって皆の顔を見渡せば、一同が固唾を呑んで真剣に話に聞き入っていた。すっかり皆を納得させ、場の掌握を果たせているようだった。
「なるほど。では、犯人は何故大蛇を呪ってわざわざ暴れさせたのですか?」
他の家臣からも積極的に質問が上がる。
「それは大蛇の騒動を使って、私を陥れるためでしょう。突然現れた大きな物の怪相手に私は手を拱くばかりでした。色々な助言や手助けがあって、やっと原因を調査して治めることができた状態でしたから」
「では、犯人は誰だとお思いなのですか?」
家臣に直球で尋ねられて、真っ直ぐにその視線を麻生に向ける。
「一番、私を失脚させたい人物が怪しいと思われます。そうでしょう? 麻生殿」
珠保院の迷いのない言葉によって、麻生の周囲にいた家臣たちがぎょっと顔色を変えて急いで彼を振り向く。
「それは本当でございますか、麻生殿!?」
慌てて真相を問いただす他の家臣たちに少しも動じず、麻生は身じろぎせずに上座を鋭く睨みつける。
「珠保院様のお話は分かりました。けれども、犯人が私だという証拠はあるのですか? 先ほどからお見せしてほしいとお願いしておりますが」
彼は余裕たっぷりに笑みを浮かべる。
「証拠もないのに麻生殿に失礼でございましょう!」
彼の家来たちも勢いよく反論をぶつけてくる。よほど捕まらない自信があるようだ。
「それでは、調査で得た証拠をお見せしましょう」
成り行きを見守る家臣たちのために加藤に目配せする。彼はすぐに頷くと、一枚の紙を颯爽と取り出して堂々と立ち上がる。
彼は大きな身体でもって他の家臣たちを悠々と見下ろしていた。
「これは、とある問屋の納品書の写しでございます。そこには、祭事に使われる大きめな酒樽の納品先が書かれております。ちょうど八月の一日。大蛇が最初に暴れる数日前でございます。そこに書かれているのは、麻生殿、貴方様のお屋敷でした」
彼の明確な説明を受けて、家臣たちに動揺の声が上がる。しかし、まだ麻生の表情は笑みが浮かんだままで変化はない。
「たまたま酒を多めに買っただけで、犯人扱いとは。珠保院様も随分疑り深いですな」
麻生は余裕の態度でそう言うと、わざとらしく首を横に振り、やれやれと大きなため息をつく。
そんな憎々しい彼の態度ですら予想の範囲だった。
「麻生殿。お供え物に使う樽は、日常のものと異なり、樽の造りが派手になります。さらに、問屋に普段の麻生殿の注文の量を見ても、この日だけは不自然に多い注文数だったと、店の者も申しております!」
「たまたま、身内のお祝い用に買っただけでございます。言いがかりは止めて下され! それより、他の証拠はないのですか? あれだけ自信がおありだったのですから、決定的なものをお持ちなのでは?」
麻生の口の端が持ち上がる。不敵な様子で笑う彼は、まるで後ろめたいところなどない様子である。
(そんな――。やっぱり駄目だったの!?)
こちらの策は既に尽きていた。悔しげに彼を睨み付けることしかできない。
麻生の横にいる延方に目を向けるが、彼は視線が合うなり目を背けた。その彼の腕には相変わらず白い布が巻かれている。
買い付けは肝心の証拠だったが、やはり相手を追いつめるには至らなかった。珠保院は悔しくて思わず自分の拳を固く握りしめる。
「申し訳ないが、証拠は――」
負けを認めたくはないが、正直に白状しようとした矢先のことだ。
「恐れながら」
左衛門の声がそれを突然遮った。驚いて彼を見れば、彼は落ち着いた双眸をこちらに向けていた。その頼もしい知的な眼差しを見て、すぐに了承していた。いつも彼がこんな顔をするときは、信じて良いのだと経験上知っているからだ。
左衛門は冴木に合図して二人でその場に立ち上がった。
並んだ二人に注目が集まる。
「こちらにいらっしゃる冴木様に調べて頂いたのは、大蛇から取り出された黒い棘でした。犯人を特定するために、これが非常に有効な証拠になるのです」
珠保院は左衛門の言葉を聞いて驚き、大きく目を見開く。彼が話す内容を一切事前に聞いていなかった。緊張しながら、彼の意図を見極めるべく、黙って話を聞き続ける。
家臣たちも同じように彼の話に熱心に聞き入っている。
「実は、冴木様の術によって、この黒い棘が犯人の元へ飛んでゆくのです。術を返せば、術者の元へ飛んでいきます。それは与黄の遺体の状況から明らか。烏に荒らされずに済んだ彼の背中には、針のようなもので刺された傷がありましたから。けれども、術者は既に亡くなっています。その状況で術を返した場合、どうなるのか冴木様にお尋ねいたしましょう」
彼に話を振られた冴木は無表情のまま口を開く。
「それは呪術を依頼した者へ飛んでいきます」
その言葉を聞いて、周囲から感嘆の声が上がった。説明通りならば、すぐに犯人が特定できるからだ。
「呪いとは、恐ろしいものです。間接的とはいえ、依頼してでも他人を呪えば、その報いは必ず降りかかります。その深い業により、身体を少しずつ蝕まれることもあるくらいです」
冴木が淡々と語る中、いきなり床を叩くような大きい音が響いた。その発生源を見れば、麻生の傍にいた延方が足を崩して両手を床につけていた。その表情は酷く動揺して怯えている。
「ましてや、その術者が殺されたとなれば、相当の恨みが残っていることでしょう。それにも反応するはずです。では、さっそく術を試しましょう」
麻生が延方を叱責し、彼の姿勢を直させるが、その後も彼の挙動は見るからに落ち着きがなく、視線がきょろきょろと彷徨っている。
皆が見ている前で冴木は懐から白い布を取り出す。そこに包まれていたのは、黒い棘だ。彼がそれを掴むところを珠保院も確認する。
以前、冴木から報告を受けた時は術者の特定は無理だと言われていた。しかし、先ほど彼の口から出たのは、全く別の話だった。
(一体、何がどうなっているの――?)
今は黙って彼らの行動を見守ることにした。左衛門が一枚噛んでいるのだ。何か意図があってのことだと、それだけは説明されずとも理解していた。
冴木が小さく呪文のような単語を呟き始める。すると、黒い棘は彼の手から浮かび上がって、ゆっくりと曲線を描くように回り始める。
静まり返った広間に冴木の抑揚のない声が響き、まるで不思議な力で支配されているようだ。
やがて、棘の動きが止まり、尖った先端がある方向を指す。それはある人物の方をちょうど向いている。一同が一斉にその方向に視線を送る。そこにいるのは、延方だ。彼の上げた小さな悲鳴が、静まり返った広間に響く。その時、流れていた冴木の声が突然止まる。
「そうそう、言い忘れていましたが」
棘が宙に固定されたまま、冴木が唐突に話し出す。その隙に延方が、にじりながら移動する。しかし、彼の動きに合わせて棘の向きまで動くので、彼の表情が途端に恐怖で歪む。
「この棘は刺しどころが悪ければ、死ぬこともあります。お心当たりのある方は、お逃げになった方がいいですよ」
「ひぃぃぃ!」
冴木が言い終わるや否や、延方が恐れ慄きながら絶叫する。隣にいた麻生が止める間もなく、這う這うの体で彼は広間から走り去っていく。
その異様な態度は、自分が犯人だと言っているようなものだった。彼は自ら墓穴を掘った。
何よりも待ち望んでいたものが目の前に広がっていた。興奮が珠保院の身体を駆け巡る。
恐らく、日に日に腕を病んでいた延方を狙って、この方法を左衛門が思いついたのだろう。彼と冴木の策略によって延方を騙すことができた。きっと、それは与黄の残した念が彼を疲弊させて追い詰めてくれたお陰だ。彼の無念がとうとう犯人を炙り出したのだ。
「誰か、追って下さい!」
呆気にとられて茫然としていた家臣たちに向かって、左衛門は鋭く命ずる。すると、彼らはすぐさま我に返って、逃亡者を追い始めた。
広間が騒然とする中、皆の視線は一人の男に注がれていた。
「さて、もう言い逃れは許しません」
珠保院は立ち上がり、下座にいる彼の者へ足を運ぶ。そして、男の前に立ち、今までの恨みを込めて見下ろしていた。
「麻生殿、延方殿が逃げ出した理由をお聞かせ願いましょうか」




