美朱と佐助 後悔
それから夫婦となった美朱と佐助は美都に到着して、二人だけでこっそり暮らし始めた。今までと全く異なり、その日暮らしの貧しい長屋生活。
「えーと、ご飯ってどうやって作るのかしら?」
美朱はかまどを前にして、立ち尽くすことになった。お腹が空いても、以前のように誰かが用意してはくれない。全て自分で用意しなくてはいけなかったが、上流の武家で育った美朱は庶民の幼子よりも家事においては無力だった。
「まずは調理するための道具を揃えるところから始めよう」
佐助の提案によって、生活に必要な道具を教えてもらう。値打ちのある所持品を質に出し、そこで得たお金を使ってなんとか用意した。
「昔、使ったことがあるんだ」
そう言って、佐助がかまどの使い方を一から教えてくれた。火をおこし、煮炊きできるまでの火力を作りだすのは美朱にとっては非常に大変だった。美朱の家に来るまで、母と二人で暮らしていた彼は幼い頃から家事の手伝いをしていたらしい。彼がいなければ、駆け落ち生活は始まった途端に終わっていただろう。そう考えて、何も知らなかった自分がただ恐ろしく、同時に彼の存在が非常に頼もしかった。
「かまどにたまった灰は捨ててはだめだよ。洗濯に使うから」
「洗濯に?」
「そうだよ。そっか、それも教えないとね」
佐助は井戸端に美朱を連れていった。水瓶に井戸から水を汲むこと。洗濯する時は力を入れて擦りながら汚れを落とすこと。何もかも初体験で、佐助のお陰で生活していると言っても過言ではなかった。なにしろ、この自分たちのやりとりを傍で見ていた近所の人に「あんたの嫁さん、下手くそだねぇ」と美朱は呆れて笑われてしまうほどだった。恥ずかしくて、それに何も言い返せなかった。きまり悪く俯いていると、「そういえば――」と側にいた佐助が話しかけてきた。
「自分も行方家に来た時に同じように笑われたことがあったよ」
「え?」
彼の突然の告白に美朱は目を丸くした。今まで仲が良かったが、このことを聞いたのは初めてだったからだ。
「美朱の家に来た当初、勝手に水を汲んで飲んでいたんだ。使用人がいる場合、彼らに頼むのが家人としての正しい振る舞いだったのに」
「そう、だったの……」
身分の上下関係がある場合、それにふさわしい態度を取らなければ、問題行動として他人には映る。今回の場合、庶民の生活をしている美朱が、下々らしく自分で家事を全くできないので、無能者として笑われたのだ。
境遇の変化の戸惑いを理解して、お互いに顔を見合わせて笑った。
「辛くはないか?」
「ううん、大丈夫」
彼の気遣いと労わりのお蔭で、気落ちせずに頑張ることができた。
慣れない環境でも、彼がいれば幸せで、ただ無性に愛おしく夢のような心地だった。
そんな生活がずっと続くと思っていた。
冬が近づき、冷え込みは一層厳しくなっていく。
早朝、刺すような外気の中を美朱は歩き、集落の井戸の水を汲みにいく。そのついでに顔も洗うが、この時期の水はとても冷たく、触れるだけで差すような痛みが走った。自分の両手を見下ろせば、以前は瑞々しかった肌はあっという間に赤くなって荒れていた。
状態が酷くなっても、自分がやらなければ、家事は溜まる一方だ。水がたっぷり入って重い桶を家までこぼさないようにふらつきながら運ぶ。それから朝食の用意をして、仕事に行く佐助を見送った後は洗濯だ。
買い出しも美朱が一人で行かなければ、何も手に入れることができない。今までは良家の娘が一人で街中を出歩くことなどありえなかった。戸惑うことが多くても、甘やかしてくれる者は誰もいない。
日が暮れる前には佐助が戻ってくる。それまでにくたくたになりながらも美朱は夕飯を作り終えて待っていた。食事といっても、昔みたいにお膳におかずが沢山揃っているわけもなく、水をたっぷり含んだお粥のようなものに野菜を刻んで入れた簡単なものだ。
「ただいま」
佐助はそう挨拶して手足を土間で洗い、家に上がる。その後の彼は無言で出された食事をとるだけ。知らない場所で働きだし、彼も大変だったのだろう。疲れて家の中で一人不機嫌そうに黙っていることが多かった。
「今日の仕事はどうだった?」
「ああ、昨日と同じ感じだよ」
話しかけても、曖昧な相槌だけが返ってくることもあった。心底疲れたように漏らすため息も多くなっていた。
日が暮れて暗くなり、明かりをつけるのも勿体ないので、早々に寝床に入る。夜の寒さは一段と厳しい。お互いに抱き合い、暖をとるしかなかった。温め合うために身体を重ねて睦み合う。肌から直接感じる彼の存在によって、昼間の寂しさを埋められた。
「美朱、愛しているよ」
「私も……」
夜だけが二人の時間だった。この時だけ、この生活の意味を感じていた。
同じ生活の繰り返し。全ては彼と生きるために。そんな大変な生活でも次第に慣れてはくるものだ。美朱は周囲の様子を見渡せる余裕が徐々に持てるようになった。それと共に、その一人の時間が苦痛を伴うようになったのは、全くの予想外だった。
物干しに洗濯物を干している美朱の側を近所の子供たちが賑やかに駆けていく。その姿に、実家にいた幼い家族の姿が重なった。
買い物のために通りを歩いていると、武士たちとすれ違う。その姿を見るたびに実家の家族を思い出さずにはいられなかった。
自分たちがいなくなった後、彼らはどうしているのだろうか。そんな想いを頻繁に抱くようになっていた。
家臣は君主のために忠誠を。
武家の娘として生まれ、そう幼い頃から教えられ、忠義を尽くす家族を見てきた。
今回、自分と佐助が互いに添い遂げようと駆け落ちしたことは、それに反する行為だった。
もう自分たちの失踪は、主君に露見してしまったのだろうか。それとも、まだ隠し通しているのだろうか。
恐らく実家は領主によって罰せられる。このまま彼とこの生活を続けている限り。
嫁入りを拒否することは大きな反逆行為とみなされる。酷い恥をかかされたと、最悪な場合、父は極刑を申し渡されるかもしれない。そうすれば、家は断絶。女子供もあてもなくさまようことになるかもしれない。
全ては何もかも捨てて逃げた自分のせいで――。
何故、そのことが頭からごっそりと抜けてしまっていたのだろう。
輿入れ話を聞いて何もかも嫌で堪らなかった時、ちょうど佐助に手を差し伸べられて、流されるように逃げてしまった。
一日一日と過ぎるたびに、家族のことで頭がいっぱいになっていく。重しのように心を押し潰していく。罪の意識が美朱をだんだん苦しめていった。
「ゴホッゴホッ」
激しい咳が美朱の口から漏れる。
二人で暖を取るように丸まるように寝ていても、隙間風は寒く、よく眠れないことが多かった。そのため、体調を崩して寝込むようになった。冬に向けて寒くなるばかり。家出をした時期が悪すぎた。
「しっかり養生してくれ」
佐助は優しくそう言うと、毎日働きに出かけていく。朝から晩まで日雇いの仕事をする彼のお蔭で、自分たちは糊口をしのいでいた。物書きができる人材はそう多くない。それを活かして、彼は働き口をうまく見つけていた。
起き上がるのも辛くて、家事すらもままならない日々が続き、彼に世話を掛けるばかりだった。
「ごめんね、何もかも任せきりで」
何度も謝れば彼は気にするなと言わんばかりに優しく微笑んでくれる。
美朱の頭をそっと撫でてくれて、労わってくれる彼に感謝するばかりだった。けれども体調はなかなか良くならない。熱は下がっても咳がしぶとく続いていた。それでも、なんとか家事をこなそうと外に出る。
「ゴホ、ゴホ」
何をしていても、頻繁に出る咳を止められない。
「いやぁね」
「うつさないで欲しいわ」
井戸端にいた近所の人たちに白い目で見られてしまう。その視線に耐えかねて、美朱はすぐに家に戻った。生活が苦しい者たちにとって、病気は災いのもとだ。医者に診てもらうことができない。高い薬すら買えない。そんな中、うつされることを恐れて、病人は煙たがられる存在だった。
――厄介者。
まさしく美朱の存在は、それだった。自分のせいで、佐助にも迷惑をかけている。そんな状況に胸が押し潰されそうだった。
もし、このまま治らず、早々に自分が死んでしまったら、佐助はどうなってしまうのだろう。
実家を頼ることはできない。子供もいない。そうすれば、彼は一人孤独に生きていくことになる。この貧しい生活が生涯続くことになるのだ。
小さな借家を見渡しても、ほとんど何もなく、がらんとしている。
最小限の食器と、生活に必要な僅かな布きれ。今まで使っていたような布団は高級すぎて、今の美朱たちでは手に入らなかった。家を出る時に着ていた上等の衣類は全て売り払い、その代わりに質素な庶民の服を着るようになっていた。彼が小銭を稼いでも、日々の生活で瞬く間に消えていく。密かに持ち出した実家の貴重品のほとんどは、生活の足しになって既に無くなっている。
じりじりと崖っぷちに近づいている様が見て取れた。
「ねぇ、私がもし死んだらどうするの?」
いつものように暗くなって寝る前だった。美朱は急に彼に尋ねた。
「何を弱気なことを」
彼は軽く笑った。しかし、すぐに真面目な顔をした。
「美朱のいない世界に興味はない。すぐに後を追うよ。だから、ゆっくり休んで身体を良くするんだ」
そう言って大事そうに抱き締めてくれた。同じように美朱も抱き返す。その手に感じる彼の体の厚みが、以前よりも細くなっていた。身を削ってまで、自分との生活を続けようとしてくれる。そんな彼に泣かずにはいられなかった。
「ありがとう。私も大好きよ」
こんなにも自分を愛してくれる人は他にいないだろう。幸せだと感じる一方で、この幸せは他人を犠牲にした上で成り立っていることに気付いていた。
家族だけではない。心から愛している佐助すらも、今は本人が気にしていないだけで人生を台無しにするほどの被害を受けていた。
美朱の実家の後押しで、武士として順風な人生が待っていたはずだった。
そのことを彼に相談しようかと、悩んだ時もあった。
けれども、自分がいなくなったら、後を追うと断言していた彼を説得できるとは思えなかった。彼は自分のために何もかも捨ててまで尽してくれる。その彼の行為の全てを否定することを言えなかった。
美朱もなによりも彼を愛していたからこそ、彼を不幸にしたくなかった。だから、自分がいなくなったらあっけなく崩壊してしまう危うい現状をどうにかしなくてはと考え始めていた。手遅れになるまえに。
(きっと一生分、私は愛してもらった。だから、今度は私ができることをする番だわ)
自分さえ彼を求めなければ。自分さえ彼の手を離してしまえば。
彼の将来は違ったものになる。そして、今ならまだ間に合うはずだ。間に合って欲しい。
彼のように優しく有望な人は、幸せな家庭を築くことができたはずだ。多くの者に祝福され、多くの子供に恵まれる。自分以外の女性と結ばれれば――。
だんだん痩せていく彼の身体を見るたびに、その考えが正しいのだと、日を追うごとに深まっていった。
「ゴホッ」
ある日、佐助が痩せた背を丸くして、一つ咳をした。
それが罪の重さに耐え切れなくなった瞬間だった。
そしてついに、美朱は彼が仕事に出かけた不在の内に手紙を書いて実家に送った。大事にとって置いた母の形見である鼈甲の櫛を質に出して――。
きっと彼は自分のことを許さないだろう。でも、それで良かった。酷い女だと自分を見限り、別の女性と今後の人生を歩んでほしいと願うようになっていた。
彼の幸せが自分の幸せなのだと、純粋に信じていた。




