本心
(そうよ、彼女のように私も彼にぶつかるべきだったんだわ)
珠保院は芳乃の行動から学んだことがあった。
彼女は未練があって彼に必死に会いに来た。そして彼の正直な気持ちを知り、やっと自分の気持ちと折り合いをつけて納得することができた。それは相手と嘘偽りなく向き合ったからこその結果だった。
でも、自分の時はどうだっただろうか。
一方的に別れを選び、嘘で固めた理由を後になって相手に言っただけだった。あの時はそれで正しいのだと信じていた。それが原因で恨まれて自分のことを忘れて欲しいとさえ思っていた。でも、彼にはその方法では駄目だった。それに彼は納得できなかったから、いつまでも恨みを自分にぶつけ続けるのだと。
そう、あの二人のように本気で話し合って別れるべきだった。
相手が真剣なら、なおのこと。
(でも、彼女のように、その勇気が自分にはなかった――)
後悔の念が押し寄せ、目頭が熱くなっていた。思わず溢れた涙が床に零れるように落ちていた。
そんな時、開いた戸から突然一羽の小鳥が入り込んできた。予想もしない乱入に驚き、その白い鳥を注視する。鳥は畳の上に軽やかに止まると、姿をいきなり蛇に変えて赤い両目をこちらに急に向けた。
「遊びに来たぞ」
その声と姿形で、この怪しい正体にすぐに気付いた。
「サンゴ様でしたか!」
驚きの蛇の登場で、先ほどまでの暗い気持ちがすっかり吹き飛んでいた。都合の悪いところを見られてしまったと、慌てて目元を袖で押さえる。
「びっくりいたしました。サンゴ様はお姿を自由に変えられるのですね」
話しながら涙を誤魔化そうとするが、すぐには涙を完全に拭き取ることができず、顔を隠すように蛇に背を向けていた。
「うむ、過去に食べたものには姿を変えられるぞ。ん? どうした? なにかあったのか?」
珠保院の怪しい態度に気付いたのか、蛇の気遣う声と共に、畳を擦って近づいてくる音が背後から僅かに聞こえてくる。
「……ちょうど泣いていたのです。まずいところを見られてしまいましたね」
誤解させては申し訳ないと、小声で事情を話している最中、近寄ってきた白い蛇が座っていた珠保院の膝元にそっと触れていた。
「どこか具合が悪いのか?」
こちらに合わせて小声で蛇はひそひそと話す。頭部を持ち上げて、相手を覗き込むように見上げていた。その優しい相手の態度に思いがけず癒される。
「身体はどこも悪くありませんよ」
「じゃあ、どうして泣くのだ?」
蛇の真っ直ぐな問いに一瞬言葉に詰まった。
「……サンゴ様、人間は辛い時にも泣くのですよ」
「辛いのか?」
「そうでございます。こうやって泣いて、心の痛みを癒すこともあるのです」
「そうか。お主には色々と良くしてもらったのに、いま辛いと泣くお主を助けることができず申し訳ない」
「いえ、これは自分が悪いから仕方がないのです。ご心配をお掛けしました」
「そうか……」
しんみりとした蛇の消沈した声に気付き、慌てて話題を変えようと試みる。
「ところで、サンゴ様。今日はなにか御用がおありだったのでは」
「ああ、実は報告にと思ってやってきたのだ。山で悪さしていた変な奴は追い払っておいたぞ」
「まあ、それはわざわざありがとうございます。雨が止んで晴れ間が戻ってきたので、もしやと思っておりました。ご無事でなりよりでございます」
「うむ」
蛇が明るい声で返事をした直後である。「珠保院様、おられますか? 成田殿と加藤殿が参られました」
突然、部屋の外から女中の声が掛かった。
先ほど一旦別れた彼がやってきたらしい。
激しく動揺し、慌てて濡れた痕を残さぬように念入りに目元の涙を拭く。
(彼の前にサンゴ様が来てくれて良かった。そうでなければ、彼らが来る前に涙を止めることはできなかった)
気持ちを完全に切り替えて、彼らの前では平静であろうと努める。
「いつもの場所に案内する。用意せよ」
「畏まりました」
従順な女中の返事が聞こえた後、蛇と共に部屋をすぐに移動した。
いつもの密談する部屋に珠保院を中心として人が集まっている。
珍客のサンゴは、珠保院の横で大人しくしている。二人から報告があると言われていたので、女中のサエだけを残して後は下がらせた。彼女は今、部屋の外の廊下で大人しく控えている。
「やはり、珠保院様の読み通り、大蛇が暴動する数日前、普段ではありえないほどの酒を一度に納入させた客がおりました」
珠保院の正面に座っている加藤は、証拠の存在をさっそく知らせてくれた。
その結果が嬉しくて、思わず歓喜の笑みを浮かべた。
サンゴをもてなした時、お供え物の存在を思い出し、それを事前に用意した形跡がないか、領内の商店などを重点的に彼に調べてもらったのだ。
最初、お供え物の調査は諦めていた。そもそも犯人は国外か国内なのか分からなかったからだ。しかも、食材などは付き合いのある商店から買っていれば、お供え物としてなのか、普段用なのか区別が付きにくい。
ところが、国内の者の犯行であることが分かった後、犯人が国内でお供え物を用意した可能性が高くなった。それに加えて、毎回お供え物にあった酒樽。なにしろ、お供え物の酒樽は特別な大きさで、装飾も派手で明らかに普段のものとは異なる。扱いが異なる注文が必要であった。
「不審な点として追及することが可能でしょう」
ほくそ笑む加藤に笑顔で相槌を打つ。
「よくお調べ下さりました!」
「それと、食材も併せて大量に仕入れた形跡がございました」
「それは全て同じ人物でしたか?」
「はい、全て運び先は麻生殿のお屋敷でございました」
「そうでしたか……」
麻生が犯人だった。証拠から浮かび上がった人物に庇えるものは何もない。
犯行の動機は分かりやす過ぎる。彼は明らかに権力を狙っていた。
珠保院たちを引きずり落とすために罠を仕掛けたと考えるのが普通だろう。
しかし、酒樽の購入だけでは、口の上手い麻生にうまく言い逃れされてしまう気がした。
「そういえば、あの麻生の家来の、腕の怪我についてはどうなりました?」
以前、加藤に二つの調査を依頼した時、これも一緒に頼んでいた。
「実は珠保院様……、その件ですが」
すぐに反応したのは左衛門だ。加藤の横に座っている彼を見つめて耳を傾ける。
「なんでしょうか?」
「その件について、加藤殿を手伝い調べたところ、その男の名前は延方久義でした。麻生殿の配下の一人で、やはり蛇の騒ぎのあった頃に腕に怪我をしていました。彼は領内の医者に腕をみせていましたが――」
話を聞きながら、影の薄い家来を思い浮かべていた。
ところが、話が急に途中で止まったので、「どうしましたか?」と怪訝に思って先を促した。
「いえ、医者が申すには、延方の両腕の手首から肘にかけて、ただの引っ掻き傷が二、三本ほどあっただけだったそうです。ただ、延方はひどく怯えながら変なことを申していたようで――」
「変なこと?」
「はい、”傷から痣が広がっていて怖い”と。しかし、医者にはそんな痣は見えなかったそうです」
「痣が広がっている?」
珠保院の言葉に頷いた彼の顔は至って真面目で、ありのままを語っているようだ。
「はい、医者は不思議に思いながらも傷に効く薬を処方して帰したそうですが、数日後に延方が来たところ、全然効かないとひどく怒っていたそうです。同じように痣が広がっていると口にしていたそうですが、医者には何も見えなかったと申しておりました」
「一体、その方に何があったのでしょう?」
聞いた話の状況を想像するだけで恐ろしく感じていた。
「私にも分かりません。ただ医者がぽろりと口にしていたのですが、ああいう場合たいてい心を病んでいるか、誰かに呪われている可能性があると」
「呪いですか。また謎が深まるばかりですね。ただ、呪いが関わっているならば、私たちではこれ以上は手に負えません。また冴木様にお知恵をお借りするしかないでしょう」
「それがよろしいかと」
左衛門と加藤の二人は同じように相槌を打っていた。
「ところで、今日は珍しいお客様がいらしていたのですね」
左衛門が珍しそうにサンゴに視線を送っていた。
「ああ、サンゴ様のことですね。左衛門殿たちが来られる少し前にいらしたのです」
サンゴは頭を畳について大人しくしていたが、話題が自分にあると気付いて、おもむろに動き出した。
「邪魔しているぞ。どうやら、まだ犯人を調べている最中のようだな」
蛇は左衛門に向かって親しげに話しかけていた。
「はい、珠保院様を罠に嵌める悪い奴を早く捕えることができればよいのですが……」
「そうしてくれ。先ほど、彼女は心が辛いと泣いておったぞ」
蛇の暴露話に三人はそれぞれ驚いた表情を浮かべる。
(しまった、口止めを忘れていたわ!)
珠保院は自分の失態に大慌てである。
「サ、サンゴ様! そのようなことは内緒にして下さらないと……」
「む? そうなのか?」
「はい、大人が泣くのは恥ずかしいものなのです」
気まずさのあまりに顔を伏せると、左衛門がずいっと珠保院の方に膝を前に出してきた。
「あの……、泣いていたとは、一体どうなされたのですか?」
「いや、その……左衛門殿、それは」
おろおろと困り果てて言葉を濁していると、加藤の動く気配を感じた。
「報告が終わりましたことですし、某はこれにて失礼仕る。後は姉弟水入らずで話し合って下され」
気まずい空気を察したのだろう。気を利かせた彼はそそくさと席を立った。彼がいなくなった途端、部屋の中は急に静まり返る。
気付けばサンゴの姿も見えない。いつまにか部屋から消えていた。
探るような視線を寄越す左衛門にどのように説明すればいいのか。先ほど決心したばかりなのに、いざ本番になった途端、なぜか上手く言葉が出て来ない。焦るばかりで、時間が刻々と過ぎていく。結果、沈黙がずっと続いていた。
「何も説明してくれないのか」
「ち、違うわ!」
諦めたような彼に慌てて必死に否定した。
「何から話せばよいのか、分からなくなってしまって。ただ、あの時について説明したかっただけなのに」
「あの時?」
怪訝な目で見る彼に反抗するかのように彼と向き合う。
「駆け落ちをしていた時、私がどうして実家に手紙を送ったのか――」
覚悟して話し始めると、彼は目を見開いて息を呑んでいた。




