芳乃の目的
珠保院が領主の屋敷に戻ったところ、予期せぬことが起きていた。部屋に戻る途中、二人の女性が広縁で騒がしく言い争いをしていたからだ。日中、戸は全て開け放たれているため、外から完全に丸見えである。
彼女たちから少し離れたところから、家人たちが心配そうに見守っていて、人垣ができていた。周囲はすっかり物々しい雰囲気になっている。
珠保院が近づいて様子を窺えば、一人の見知らぬ若い女が感情的な様子で女中に何かを訴えているようである。
驚くことに相手の女中は珠保院が信頼しているサエである。彼女は困りきった表情を浮かべて、女の訴えを必死に退けていた。
「だから、珠保院様にお願いするのは無理だと何度申せば分かるのです!」
サエが心底迷惑そうにしているので、彼女の窮地をさっそく救うべく歩み出ていた。
周囲にいた家人たちは珠保院にすぐに気付き、頭を下げながら隅に移動して道を譲ってくれる。
「どうしたの、殿がいらっしゃるのに騒々しい」
咎めながら近づくと、すぐにサエが気付いて慌てて膝をつき叩頭する。それから「珠保院様であらせられるぞ」と小声で相手に伝えると、顔色を変えた女はサエに倣うように慌てて廊下に平伏した。
「申し訳ございません」
「サエが悪いのではありません。そちらの女が無理を申していたのでしょう?」
「はい、珠保院様に会わせて欲しいと勝手なことを――」
サエは迷惑極まりない口調で答える。
「お、恐れながら――! 私はただ帰る前にあの御方にお会いしたかっただけなのです。それで口添えして頂けたらと!」
震えた若い娘の悲痛な声がよく廊下に通った。
(まさか、彼女は――!)
見知らぬ年頃の女は、まだ顔つきにあどけなさを残している。ようやく大人の仲間入りをしたばかりと見た。
「女、名前は何と申すのですか?」
珠保院の動揺を隠した問いに「申し遅れて申し訳ございません。芳乃と申します。この度はお助け下さり、誠に感謝しております」と女は素性を明かした。
「貴女が芳乃殿でしたか……」
凄まじい衝撃が襲い、咄嗟に次の言葉を続けられなかった。ただ彼女へ視線を送り、その様子を見続けるだけだ。
彼女の容貌は特に際立ったところもない。よその家で騒ぐ非常識な娘だ。
そう考えていく内に胸中にどす黒い感情がみるみる芽生えていく。
「体調を崩していたとお伺いしておりましたが、先ほどの様子では、すっかりお元気になられたようでなによりです。これならご実家から迎えが来られても大丈夫そうですね」
珠保院の嫌味と素っ気ない態度に驚いたのか、芳乃は許しもないのに頭を上げる。その表情はとても切羽詰まっていた。意を決したように彼女は立ち上がると、すぐに縁側から地面に下りて、ぬかるんだ場所に膝をつく。そして、彼女は頭を下げて土下座した。
「後生でございます。何卒、お口添えを……!」
周囲から息を呑む音が聞こえた。続いてどよめきの声が漏れる。
雨が続いて泥水だらけの庭に芳乃は汚れるのも厭わず、膝をついたからだ。その彼女の必死さに思わず心打たれるものがあった。
(こんなにも彼のことを――)
思い出すのは、昔の自分。かつて、恋という獣みたいな激しい感情に支配されたことがあった。恐らく彼女も彼のことを同じように愛しているのだろう。
「芳乃殿、貴女の気持ちはよく分かりました。折を見て、その機会を作りましょう」
「あ、ありがたき幸せ……!」
彼女は頭を下げたまま感極まった様子で礼を述べた。
珠保院がその姿を切なげに見守っていたら、いきなり背後に気配を感じた。
「いえ、それには及びません」
驚いて振り抜けば、そこには忽然と左衛門が立っていた。彼は渋面を浮かべて、芳乃を見下ろしていた。
「芳乃殿」
彼女に掛けた彼の声は静かだった。
「左衛門様!」
頭を下げていた芳乃は、彼の存在に気付いた途端、嬉しそうに顔を上げた。
その目は感激で潤み、今にも泣きそうであった。
「お会いできて、うれしく存じます」
彼女は言い終わると同時に立ち上がり、縁側に近づいてきた。案の定、着ていた物には泥がこびりついて汚れている。
彼女は彼の傍まで寄ると、地面に立ったまま彼を見上げている。
「ご健勝そうで良かったです。先代が亡くなり状況が変わったとはいえ、こちらから縁談を断った非礼、私からも深くお詫びします」
左衛門は膝をついて彼女に頭を下げていた。
「いえ、頭をお上げください。私は謝ってもらうために来たのではありません。ただ、貴方様の本心をお聞きしたかったのです」
「本心?」
彼は怪訝そうな顔をして、目の前にいる彼女に尋ねていた。
「ええ」
芳乃は頷く。
「私のことをどのように想われていたのか」
「え……?」
周囲の空気が固まる。左衛門も彼女の言葉に戸惑っていた。
「世辞ではなく、どうか本心を教えて下さい」
思いつめた彼女に対して、どのように答えるのか。周囲の視線は彼に集まっていた。
そんな中、無表情の彼はおもむろに口を開く。
「素直ではきはきとした明るい方だと思ってました」
「では、私のことは好ましく思って下さったのですね!?」
「好感は持っておりました」
左衛門の答えを聞いて、芳乃の顔に歓喜が浮かぶ。
「では、破談は左衛門様にとっても不本意」
「いえ」
芳乃が最後まで言い終わる前に彼は彼女の発言をはっきり否定していた。ばっさりと言い切られて、彼女の顔は僅かに引きつっていた。
「仕事でいつもお世話になっていた貴女様のお父上様から縁談の話を頂き、あの当時は断る理由もなかったため、お受けしただけです」
芳乃の顔がみるみる歪み、今にも泣きそうに見えたが、彼女は泣かなかった。
「そう、でございましたか」
感情を堪えるように返答を絞り出していた。
「はい」
泣かせた当の本人は、特に動揺することもなく、淡々と対応している。その態度の差はそのまま二人の温度差を表しているようだった。
「とてもお優しかったので、誤解しておりました。辛いですけど、これですっきりしました。やっとこれから前に進めそうです」
彼女は目を赤くしながら苦笑していた。恨み言を一切口にしない彼女の健気さ。それにとても心打たれるものがあった。
(自分には、到底真似できないわ)
人目があるところで騒ぐ彼女の身勝手さには目に余るものがあったが、この潔さは純粋に称賛するところがあった。
皆も何か思うところがあったのだろう。その場はしんと静まり返っていた。
「珠保院様、お騒がせして申し訳ございませんでした」
芳乃は丁寧に頭を下げた。そして、再び背筋を伸ばした時、彼女の顔は先ほどの言葉通りに非常に晴れやかであった。彼と出会う前の思いつめた感情は全くなくなり、気持ちの整理が完全についているようだった。
その彼女の表情が、何故か脳裏に焼け付いて離れなかった。




