慮庵の不調
水たまりが眩しい日差しを照り返している。以前のようにぬかった道を珠保院は女中を従えて静かに歩く。
目的地は慮庵の元である。昨日のうちに先ぶれを出し、昼餉の後に会う約束を今回は事前にしていた。
前回の助言の礼と、彼から紹介してもらった与黄の件で話をするためだ。
昨日の夕方のうちに雨は止み、空を覆っていた重く暗い雲はいつの間にか消えていた。一夜明けて時間が経ち、地面の状態は良くなっていると考えていたが、連日続いた雨のせいか、まだ地面の水分はあまり乾き切っていない。
川の水量は濁流のようになり、もう少しで氾濫寸前だった。特に騒ぎの場となった佐和羅山周辺の作物は、瘴気の雨が原因で、だいぶ枯らされてしまった。さらに土地自体を変形させるほど荒らしてしまい、整地の必要が早急に出ていた。あと少し遅かったら、状況はまさに目を覆わんばかりになっていただろう。
来月には収穫の時期を迎える領内全域の稲が、今回の長雨の原因でかなり被害を受けたと聞いていた。佐和羅山周辺は行方家の一族の管轄地であったが、他の被害地域に家臣たちの知行地も含まれている。
家臣たちへの俸禄は、分け与えた土地から出る収益で賄われている。その一部を年貢として領主は徴収し、さらに朝廷に納めるため、領主の座を代々保証されていた。
この悪状況によって、家臣たちの取り分が多く減ってしまえば、彼らはさらに不満を募らせるだろう。麻生によって少しずつ不信感を植え付けられている状態では、今後の対応次第では敵になりかねない。首の皮がぎりぎりで繋がっていると感じずにはいられなかった。
(被害について、麻生からの糾弾が無いわけがない。対策について考えなければ――。でも、行方家の蓄えをあてにはできない)
全ての原因は夫の広雅と姑の仕業だった。
領主の命令で美朱が嫁入りしたのは、実家に連れ戻された翌年の春だった。
そこで待っていたのは、姑と夫の冷たい歓迎。新婚初夜、緊張していた新妻の寝所を訪れてきたのは、夫ではなく女中を従えた姑であった。
姑がはおっていた打掛は、暗がりでも分かるほど煌びやかな刺繍が施されていた。金糸や色とりどりの糸をふんだんに使い、その贅を凝らした作り。裕福だった美朱の家でも、なかなか手が出せないほど高価なものである。
姑は年配に差し掛かる頃だというのに、寄る年を誤魔化すためなのか、夜目にも白く浮き上がるほど白粉を顔に厚く塗っていた。唇に差した紅の色の、不自然に際立った鮮やかさ。先代領主は隠居後に髷を下ろして慮庵と名を改めたが、姑の髪は長いままで世俗から離れる気は毛頭ないように見えた。
姑の訪問をただ寝所で目を丸くして受け入れるしかなかった。冷たく見下ろす姑の表情は硬く、その目つきには明らかに蔑みが含まれていた。夜分の、さらに予想外の訪れだったため、姑はまるで禍々しい化け物のように目の前に立っていた。
「美朱とやら、そなたは子を産めぬそうですね。私はそなたを嫁としては断じて認めません。息子の広雅が、あなたの元を訪れることはないでしょう」
姑の一方的な発言に唖然としていると、さらに彼女は言葉を続ける。
「子を産めぬ嫁など、いりません」
まるで汚らわしいものを見るような目つきで言い捨てると、姑は用が済んだとばかりに踵を返して何事もなかったかのように帰っていった。
後で知ったのは、領主と正妻は不仲だということ。領主は美朱を気に入っていたが、姑は跡継ぎを産める娘を嫁に望んでいたのだ。
姑は勝手に最愛の息子の嫁を決めた夫に腹を立てていて、その怒りの矛先を美朱にぶつけた。しかも、肝心の夫は姑の言いなりで妻を庇う素振りも見せない。
こうして一人で夜を明かし、一人で起きる孤独な毎日が初夜から無情にも始まった。
沙紀の一件で、夫は決して良い領主ではないことを理解していた。事実、評定を開いても彼は政治に関心が薄く、領地の管理は全て家臣に丸投げ。話をしていても言動はとても頼りなく、教養不足は明らか。正妻として同席していて、そのことにすぐに気付いた。
関心は享楽にばかり向いていて、帳簿など目を通したこともないだろう。彼らに全てを任せていたら、この緋田地の国は、きっと酷いことになると感じずにいられなかった。
(味方がいないなら、作ればいいわ)
そう考えた結果、部屋に籠らないで積極的に屋敷にいる家人に話しかけたり、領内にいる家臣たちに話しかけたりした。幸いにも美朱は重臣の娘だ。元より父や兄が味方である。世間話から伝わる彼らの不満や要望を聞き取り、小さな悩みごとから解決していく。
作業の道具が古くて効率が悪そうだと感じれば、新しいものを購入したり、修理に出したり。水車の具合が悪いと聞けば、修理に金を回るように融通を効かせた。
姑や広雅の関心は主に自分自身に向けられていて、こうしたことについては無頓着であった。
領主である夫に言っても埒があかないが、嫁に言えばなんとかしてくれる。小さな成果を積み上げ続けて二年も経つと、そういう美朱に対する認識を家臣たちに植えることができた。
特に金勘定を任されていた家臣たちから信頼を得られたのは非常に大きかった。姑と領主にとっては皮肉になるかもしれないが、散財を繰り返す親子という共通の問題があったお蔭である。
彼らから教えて貰った行方家の極秘の情報。先代が隠居した後、姑は天下を取ったと言わんばかりに都から商人を呼び寄せて、好き放題に物を購入していた。先代の女たちの中で、唯一跡継ぎを産んだ自分のことを姑は鼻にかけ、夫もそんな母を誇りに思っていたようだ。段々と酷くなる姑の浪費癖を誰も止められず、とうとう見積もりを超えた支出になり、いざというときの蓄えにまで手をつけていた。なんと、家臣一年分の俸禄が軽く飛ぶほどの贅沢品までも購入していた。愚かな夫は美しい妾たちに夢中で、完全に姑の言いなり。どれだけ浪費しようとも、それに危機感を全く覚えなかった。
そんな時、皆が揃った評定にて家臣から相場を持ち掛けられたことがあった。家臣から聞いた話によると、今は例年よりも塩の値段が安く、大量に購入すれば利益も得ることができるとのこと。当時、美朱はよい話だと快く了承して、よく分かってなさそうな夫も曖昧な表情を浮かべて頷いていた。そもそも塩は山に囲まれて海の遠い緋田地の国では、他国から買い入れが必要な品だったため、買っておいても全く損はなかった。全ては問題なく話は進むと思われた。ところが、それ夫が台無しにしたのだ。美朱たちの知らないところで、勝手に彼が動いたからだ。
「値段が高いほうが、価値があるのだろう? なんでわざわざ安い塩を沢山買うのだ?」
夫は相場の仕組みを全く理解していなかった。物の値段は変動するため、安いときに買い、高いときに売れば、その差額は利益となる。
「高価な鉄のほうがいいだろうと思って買っておいたぞ」
夫はわざわざ相場で高値だった鉄を大量に買っていた。しかも、夫が勝手に取引した仲買人は自分たちの知る者ではなく、他所から来た悪徳業者だった。購入した鉄は、粗悪な品で額面の価値もないもの。それを大量に掴まされていた。結果、緋田地の国は大量の金子を失うことになったのだ。相場の話を耳にした夫が、興味本位で勝手に手を出した結果だった。
「お前が前に相場は儲かると、余計な話を余にしたからだ!」
「女子としての仕事を果たさず、殿方の仕事に口を挟むから、こういうことになるのです!」
夫と姑の両名から責任を擦り付けられて、美朱はついに堪忍袋の緒が切れた。
「もう我慢できないわ!」
怒りの矛先は舅である慮庵に向かった。激しい感情のままに舅の住まいを急襲していた。
「なぜ、慮庵様はご自分のご子息を教育なさらなかったのです! 跡継ぎがあのような阿呆なのは、先代の怠慢でございましょう!」
「一体なんの騒ぎだ?」
突然の訪問に舅と下人はただ唖然としていた。
「勝手にボロの鉄を買っておきながら、私のせいにするなど! 何もかも知らないくせに! あの馬鹿夫!」
夫を罵りながら説明すると、舅はすぐに事情を呑みこんだのか、心得顔で「お主の言い分はもっともだな」とあっさりと返事を口にしていた。
「分かっていらっしゃるなら、なぜ――!」
「なぜだと!?」
さらに言い募ろうとした美朱を制するように舅は殊更大きな声で叫んでいた。
そのように舅に返されるのは完全に予想外だったのと、彼の腹に力のこもった怒声に驚いて口を閉ざしていた。
畏縮した反応を見て、舅も深く息を吐き、気持ちを落ち着かせていた。
「俺だってあんな女、妻にはしたくなかった」
なるべく感情を押さえて、淡々とそう呟く舅の眼光は鋭かった。
「私だってこんなところに嫁に来たくなかったわ!」
美朱はそう叫んで、そのまま逃げるように屋敷に引き返していた。
(もう、何もかも嫌だ――)
我慢は限界に達していて、全てを捨てて楽になりたかった。しかし、決して逃げることを許されない現状に絶望して、酒を口にして嫌な現実から逃避することしかできなかった。
それから、あの事故が起きて夫は死に、後を追うように、姑は突然体調を崩して一ケ月後に亡くなった。
珠保院は嫌な昔を思い出し、沈むような面持ちで歩き続けると、慮庵の家が見えてきた。その入り口に誰か武士が一人立っていて、なにやら家の中の者に話しかけている。
(あれは――、麻生殿ではないかしら?)
ずんぐりと丸い身体をした彼が背中を向けて、珠保院たちに気付かず大きな声を上げている。
「慮庵様、本日も感謝いたします。これからも拙者の相談に乗ってくだされ」
「麻生殿」
珠保院が背後から静かに声を掛けると、彼は憮然とした顔ですぐに振り向く。そして、目が合ってこちらの顔を認識した瞬間、彼のへの字にしていた口が大きく開き、ぎょっとしたような引きつった表情を浮かべた。
「しゅ、珠保院様、このような場所でお会いするとは!」
彼にとって、よほど予想外のことだったらしい。酷く取り乱していた。挙動不審もいいところだ。
「それは私の台詞でございます。奇遇ですね」
「そ、そうですな! それでは、失礼いたします」
彼は慌ただしく頭を下げて礼をすると、逃げるように慌てて帰っていった。
(家来もつれずに一人きりとは。まさか慮庵様と付き合いがあるとは思ってもみなかったわ)
珠保院はその小さくなっていく麻生の背中を黙って見守りながら考えていた。意外な関係に驚きつつも、敷居を跨いで中へ入っていく。
今回は慮庵に上がるように勧められ、下人によって茶でもてなされた。
「夏は麦茶に限りますね」
初夏に収穫される大麦は、今回の騒ぎの影響を受けていなかった。そのため、例年通りに味覚を楽しめる。炒った大麦を熱湯で煮出したものを茶として飲用する。
湯呑につけた口元から麦茶の香ばしい味が広がって一息つけた。
「先日はお世話になりました。誠に感謝いたします。お蔭さまで、大蛇の件は解決することができました」
「そうか、それはなによりだ」
舅は素っ気なく返事をする。その態度は珠保院の話題に全く興味のないように見える。
「つまらないものですが、こちらをお受け取りください」
女中にそっと目配せして、彼女を介して風呂敷に包まれた箱をおずおずと差し出した。
「これはなんだ?」
「中身は書物でございます」
「ふん、暇つぶしにはいいかもしれぬな」
舅は嬉しくなさそうに返事をするが、突っ返さなかったところを見ると、彼にとっては悪くない品だったようである。以前、反物を持って行かせたら、「年寄りには不要だ」と受け取ってもらえなかったことがあった。
「そういえば、慮庵様からご紹介に預かった与黄という領民ですが、山で遺体となって発見されました」
「なんだと?」
舅の眉が跳ね上がり、無表情だった彼の顔に驚きが広がっていた。
「死因は?」
「恐ろしいことに殺されておりました。領民に貢献し、慕われていた人物が亡くなり、私としても誠に残念でございます」
「そうか……、殺されてしまったか……。あいつの作る薬は便利だったんだがな」
与黄とは少なからず交流があったのか、かなり心を痛めている様子だ。
「慮庵様もお世話になられていたのですか?」
「ああ、あいつの師匠の代からの付き合いだ。身体の調子が悪いときに世話になったことある」
「そうだったんですか」
舅も世話になるほど与黄の腕は良かったらしい。ますます彼の死が悼まれた。
「その与黄なのですが、大変申し上げにくいことに大蛇の騒動に関与している恐れがあるのです。慮庵様は彼に関して何かご存知ですか?」
「あいつがだと? そんな馬鹿な。あいつは誰かを謀ろうという奴ではないぞ」
語気がかなり荒く、心の底から彼の関与を疑っているようだった。
「ええ、彼の人柄については聞き存じてます」
「それに、あいつが術者ということは、あまり広く知られていないはずだ。それを知っている人間は限られているはず」
「そうなのですか?」
「ああ、術者と知られるだけで、色んな奴から利用されてしまう。だから、奴はそのことを知られるのを酷く嫌がっていた。だから、儂も念を押していただろう?」
確かに舅は与黄のことを紹介してくれる際に他に話すなと強く言っていた。
「では、他に誰が知っていたか、ご存知ですか?」
「さあ、自分以外は知らんし、お主以外に話したこともない」
「そうでしたか……」
相手がそう断言してしまって、それ以上のことは聞けなかった。今日の本当の目的はこれだと言っても過言ではなかったのに。
「そういえば、先ほど麻生殿が参られていたようでしたが、ご親交があったとは驚きました。仲がよろしかったのですね」
「ああ、勝手に来て話していくだけで、仲が良い訳ではない。まあ、あれでも身内だからな」
腹違いの弟を”あれ”呼ばわりする舅に内心苦笑するしかなかった。
麻生は行方家の主君筋の血を引いていた。行方家から分家する際に今の名字を授かったのだ。血筋が強いからこそ、珠保院たちにも強気の態度で接してくる。
相変わらずの毒舌である舅を見守っていると、彼は目の前で身体をいきなり折り曲げた。舅は息を凝らし、腹に手を当てて、痛みを必死に堪えているようだ。
「慮庵様! 大丈夫でございますか!?」
珠保院が驚いて腰を上げようとした時、舅が震えながら手を上げて制止するので思い止まった。
「いつものことだ、気に、するな」
その声はとても苦しそうで途切れ途切れだ。
「たまに痛むだけだ。しばらくすれば治まる」
「しかし……」
珠保院の心配な視線にはお構いなしに、舅は下人から慣れた様子で薬と湯呑を受け取ると、すぐに口に入れて呑みこんだ。
やがて、舅はなんとか息を整えて、辛そうでも姿勢を元になんとか戻していた。
「いやぁ、見苦しい所を見られてしまったな。すまんが、今日はこれで失礼してくれ」
あの気丈な舅が相当苦しんでいたところを見ると、だいぶ具合が悪いのだろう。
彼の住まいを後にする際、玄関を見送る下人にこっそり尋ねてみた。
「前からですか?」
何がとは詳しく言わなかったが、彼はすぐに察してくれた。
「ええ、もう一年ほど前になります」
主人に聞こえないよう小声で返してくれた。
「なるほど」
軽く頭を下げる下人を見る。舅と大して年の変わらない年寄りの彼の顔には酷い火傷の痕が昔からある。
恐らく舅は長くない。この下人は彼の傍仕えが終わった後、どうするのだろう。頼れる身内はいるのだろうか。この人相の悪さでは、相当他に雇われにくいにだろう。彼のことが心配になっていた。
「今更失礼だと思いますが、お主の名前は?」
「七兵衛と申します」
彼にとって予想外だったのだろう。質問に彼は少しだけ目を見開いて驚いていた。
「そう、七兵衛というのね。何かあったら、私を頼ると良いわ。決して悪いようにはしません」
話が唐突だったのか、彼はポカンと口を開いて、珠保院のことを見ているだけだった。しかし、段々と言葉の意味を理解したのか、「ありがとうございます」と戸惑いながらも恐縮して頭を深く下げていた。