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冴木の妻

 珠保院と加藤を見送った左衛門は、冴木の方に向き直った。今回の働きの報酬として、冴木は人気のない場所に家屋と自給自足できるほどの田畑を望んでいた。


「場所については、家人に案内させましょう。家はこれから建てる予定ですので、ご希望があれば、お早めに伝えて下さい」


 すでにいくつかの土地を候補として押さえていた。行方家が任されている土地の一部である。雑草が覆い茂っているため手を入れる必要があり、手筈を整えなくてはと頭の中で考えを巡らす。


「妻と二人で暮らせればよいので、あまり贅沢は言いませぬ。ただ、今の地べたに雑魚寝は辛いので……」


 冴木は苦笑しながら現状を冗談めかして嘆いていた。


「確かに……あれでは冬を越すのは厳しいでしょうね」


 話しながら、以前訪れた彼の住処を思い出す。あれはあまりにも粗末な造りで、冬の寒さに耐えられそうには到底見えなかった。


「冴木様の腕前は私も保証しております。よろしかったら、仕官されてはいかがですか? 私でよろしければ推挙致します」


 仕事に就いて安定した収入を得られれば、極貧の生活からあっさりとお別れできるだろう。さらに有能な人材が領主の傍に仕えれば、義兄も助かるに違いない。色々な思惑から、仕事の口利きをしてみたが、左衛門の予想に反して彼は戸惑いの表情を浮かべていた。


「お気持ち感謝いたします。けれども、私は誰かに仕えるのは無理なのです……。私情がありまして、主君にご迷惑をお掛けしてしまう」

「そうでございましたか。残念です。冴木様の占術は驚くほど当たっておりましたので」

「ああ、以前ご縁がございましたな。失礼ながら、再びお会いできるとは思っていませんでした。まさか、こちらのご出身だったとは」

「私もです」


 互いに見つめ合い、苦笑した。


『成田様は今生で誰かと結ばれることは決してないでしょう。なので、今回の縁組は破談となります。日取りを決めない方がよろしいかと』


 昔、左衛門が彼に結納の日取りを相談しに行った際、このように断言された。結果を聞いた相手の家は非常に怒り、後日別の者に占わせることになった。そして、縁起の良い日にちに合わせて予定を組んだ直後、領主の広雅が急逝した。

 結局、彼の予言通り破談となり、今も左衛門は独り身を貫いている。


「あ、いたいた!」


 いきなり若い女性の声が広間に響いたので、左衛門は驚いて声がした方を見た。戸口の方には女性が一人立っていて、真っ直ぐに冴木を見つめている。その彼女の口元には笑みが浮かび、瞳は歓喜に満ちていた。

 その若い女性は、切れ長の印象的な瞳をしている。くたびれて黄ばんだような色の小袖とは対照的に首に赤い襟巻がある。


「もう、火士真かしまったら、どこに行ったのか探しちゃったじゃない!」


 その女性はずかずかと音を立てながら入って冴木に近づくと、他人の目があるにも関わらず、嬉しそうに彼に堂々と抱きついていた。


「これ、はしたない真似は止めなさい」

「えー、なんで? 嫁さんだからいいでしょう?」


 照れて恥ずかしがる彼とにやにやと嬉しそうに笑う彼女。このやりとりで、二人が仲の良い夫婦なのだと十分理解した。

 左衛門の手前、彼は妻を自分の身体から必死に剥がそうとするが、彼女には全く通じていない。弱り果てた彼はついに諦めたのか抵抗しなくなっていた。そんな彼に彼女は目を細めて、ますます嬉しそうにしがみついていた。仲睦まじい様子に思わず笑みが浮かぶ。


「冴木様が羨ましいです。自分のほうはそういうものとは縁がないもので」


 つい苦笑しながら本音を漏らすと、二人の視線がこちらに集まった。

 その時に気付いたのは、冴木に寄り添うように座っていた彼の妻の目だ。それは獣のそれと同じで、眼光が夜の獣のように一瞬光っていた。


(この女、物の怪か――!)


 目の前に物の怪がいる。その事実は否応なしに左衛門の身体を緊張させた。


「冴木様、これは一体どういうことですか? 物の怪と添い遂げるなど、正気とは思えません」


 この厳しい態度と詰問に彼は顔色を変えた。


「ばれましたか」


 彼は首の後ろを気まずそうに掻きながら苦笑する。その隣にいる妻は左衛門と彼の顔を交互に見つめて不安そうな顔を浮かべていた。


「そう仰せだが、惚れた相手がたまたま私の場合、彼女だったのです」


 彼は穏やかな表情で素直に答えてくれた。それを聞いた途端、彼の一途な気持ちを理解したのと同時に、彼の純真な想いを踏みにじってしまったことに気付いてしまった。


「そうだったんですね。先ほどの言葉、失礼いたしました」


 左衛門がすぐに詫びを入れると、彼はきょとんとした顔をした。


「いえ、むしろすぐにご理解いただけて驚きました」


 そう彼が感想を零すのも無理はない。物の怪は忌み嫌われた存在だ。それを相手に選ぶことは通常では考えられない。彼が美都での仕事を辞めた理由や士官できない理由も彼女が原因だろう。

 けれども、あえて障害のある恋の道を選び、二人で仲良く過ごしている姿がかつての自分と重なっていた。

 美朱と手と手を重ねて美都まで逃げたあの日の自分を。


「私は駆け落ちに失敗した人間なんです。貧しい逃亡生活に嫌気がさしたのか、相手にすぐに裏切られまして。だからなのか、苦難の中でも想いを成就されたお二人のことを尊敬せずにはいられません」


 二人に感化され、自然と己の胸の内を話していた。過去のことを誰かに話したのは初めてだった。


「駆け落ちされていたんですか! それはいつの話ですか?」


 彼は大変驚いていた。


「美都に来る前の話です」

「貧しい生活を嫌がったということは、もしやお相手は相当身分の高い方ですか?」

「ええ、まぁ。身分違いの恋でした」


 自分から話を振った手前、相手の質問に正直に答えていた。


「そうでしたか……。それは大変でしたね」


 彼の労わるような言葉に答えようがなく、曖昧に笑みを浮かべて誤魔化した。


「美都での仕事柄、駆け落ちを考えている若者たちの占いもしてきましたが、ほとんどの場合は実行せずに思い止まることが多いです。なにしろ、駆け落ちの結末は悲惨です。それを考えれば、上手く行かなくて、かえって良かったのかもしれませんね」

「かえって良かった?」


 彼の言葉を聞き捨てることができなかった。彼女に裏切られて自分がどれほど苦しんできたのか知らずに勝手な意見を述べないで欲しかった。


「ええ、貴方は彼女に裏切られ辛かったと思います。しかし、今の貴方様の安泰なご様子を見れば、ご自分のご家族に迷惑を掛けずに済んだのではないのですか?」

「え、ええ、まあ、そうですが」


 確かにあのまま駆け落ちを続けていたら、美朱は領主に嫁入りできず、事は露見して実家は処罰されただろう。けれども、自分たちの恋を成就させるためには、それは仕方がなかった。そう割り切るしかなかった。あえて考えないようにしていた事柄を安易に振られて、泥のように淀んだものが胸中に籠るようになっていた。


「しかし、相手に裏切られた辛い気持ちはいつまでも消えないんです」


「そうだったのですか。ですが、愛情よりも衣食住を優先したのなら、彼女の正体は自分勝手な方だったのでは? 縁が切れてかえって良かったと私なら考えそうです」


 聞いた瞬間、彼を思わず睨んでいた。確かに身勝手な理由で裏切られた。しかし、彼女は決して自分勝手な人ではなかった。連れ子でやってきた左衛門を気に掛けてくれた。剣術や馬の乗り方の楽しさも教えてくれた。生まれた弟妹を可愛がり、よく面倒をみていた。家のため、あんなに好きだった剣術まで諦めていた。そんな彼女だったからこそ、誰よりも好きになっていたのだ。何もかも捨ててまで駆け落ちを選んだくらいに。


 裏切られるとは思ってもみなかった。だからこそ、その悲しみは計り知れなかった。

 駆け落ちが失敗して、義父により都へ遠ざけられ、帰ることも禁じられ。左衛門に残されたのは、ぼろぼろになった自我だけだった。


 自然豊かな故郷が、何度瞼に浮かんだことだろう。野山を駆け巡り、くたくたになるまで彼女と一緒に遊びつくした懐かしい日々。

 空を覆うほどの緑と、梢から漏れる陽の光。息をするたびに青々とした冷たい空気が身体を巡る。その澄んだ香気を再び味わいたかった。

 記憶の中に美朱は必ずいた。彼女と過ごした穏やかな生活が、幸せそのものだった。


 気付けば、左衛門の目から涙が流れていた。

 彼女によって裏切られ、傷つけられたと恨んでいた。しかし、再び彼女に触れるだけで、抱き締めるだけで、これが求めていたものだと心の中で叫ぶのだ。


 そうだ、自分はまだ彼女のことを愛している。それがどれほど愚かなことだと分かっていても。たとえ彼女が嫌がっても、憎しみが無慈悲な行為を許し、欲望のままに彼女を欲していた。けれども、彼女は何度も体を重ねても、決して心を開かない。熱を持った眼差しでこちらを見つめ、求めるように抱き締め、なまめかしい声を漏らしながらも、最後には冷たい背中で拒絶する。目に見えない心の壁を張り巡らせ、決して立ち入らせないように。


「申し訳ないが、私はこれにて失礼します。後は家人から詳しくお話をお聞きください」


 左衛門は濡れた顔を袖で慌てて拭き取った。酷く狼狽して、このまま彼の前にはいられなかった。急に立ち上がり暇を告げると、相手は恐縮して慌てて頭を下げた。


「失礼なことを申し上げたでしょうか。ご気分を害してしまったみたいで申し訳ございませんでした」

「いえ、急用を思い出したのです」


 苦しい言い訳を言い残して、左衛門は出口に向かって歩き出した。



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