領内の異変
珠保院が訪れた場所は、日頃内密に談話する際によく使用している部屋だ。非常に簡素なもので、広さは八畳ほど。縁側に面した白い障子戸は、今は全て閉められている。
部屋に踏み込んだ時、坐して待っていた二人の武士の背中が見えた。風通しのよい麻でできた素襖を着ている。彼らは座ったまま振り向き、烏帽子をかぶった頭を無言で下げた。
小柄な兄の角衛門と一緒にいたのは、左衛門だ。見慣れた中肉中背の彼の体格。それに気付いた途端、心臓の鼓動が僅かに速くなる。思わず見とれるくらい、濃紺の布が彼に良く似合っていたが、こちらを見つめる美しい眼差しは刃のように鋭い。
目が合った瞬間、いつものように身体中が緊張で硬くなる。だが、すぐに意を決して、再び部屋の中を何事もなかったように歩き始める。上座に腰を下ろした直後、最も信を置く女中によって、奥の廊下から部屋の戸が静かに閉められる。
そこは三人だけの密室となった。熱がこもりがちになるが、少しの間の我慢である。
「兄上、ご足労をお掛けしました。聞けば火急とのこと。挨拶は抜きでお話し下さい」
さっそく話の口を切ると、「実は……」と兄がすぐに反応して話し出した。ところが、その表情は酷く困り果てていた。しばらく躊躇した後、口をやっと動かし出す。
「大蛇が現れたのだ」
兄の絞り出すように吐かれた台詞を聞くや否や、珠保院は目を大きく見開いた。
「今、なんと……?」
報告の内容に耳を疑い、思わず聞き返していた。その戸惑った眼差しを受けて、兄は真面目な顔つきで「大蛇が現れたと言ったのだ」と今度は強めに繰り返した。
兄は八つも年上で、普段から仲が良かったので、特に頼りにしていた。同じ父母から生まれただけあって、彼の二重の少し下がった温和な目つきは、兄妹でよく似ていると言われる。
「それこそ見上げるくらい大きく、胴回りだけでも大木並みだったとか。それが佐和羅山から突然現れて、暴れていたそうだ。そして最後には煙のように消えたらしい」
そう説明する兄の口調と態度は、人目がないこともあり砕けたものになっている。
「そのような化け物が現れるとは……」
俄かには信じられない事実だった。けれども、兄はそのような冗談を口にする性質ではないことから、困惑しながらも漸う事実として受け止める。
今日のように、小物の物の怪が目撃されたり出現したりすることはたまにはあった。しかし、人間にとって脅威となるような大きな化け物は、これまで現れたことはなかった。
緋田地の国は、四方を山で囲まれ、交通が不便な場所である。しかし、神の加護が厚いお蔭で悪しき物の怪が現れず、そういった面で非常に治安が良いと評された土地だった。
ただ愕然としていたが、すぐに我に返った。
「被害のほどは?」
「大蛇が通った際に山の木が倒され、付近にある田畑が荒らされたそうだ」
「人への被害は……?」
「うむ、それは聞いてない」
それを聞いて、ひとまず安堵した。最悪な状況には至らずに済んだからだ。
「そう……。それは良かった」
そう呟いて、再び重く口を閉ざす。人の被害がなかったことはなによりだったが、暴れる大蛇は大問題だ。厄介ごとが起こってしまったと、内心暗然とするばかりだ。
元は武家の娘であった珠保院は、只人と変わらない。大蛇は完全に手に余ることだった。
それに加え、いざというときに物の怪を対処できる優れた人材を領内で全く召し抱えていなかった。
「……大蛇はまた現れるのかしら?」
今回は運が良いことに大事には至らなかったが、もう二度と起こらないという保証はどこにもない。思わず口から不安を漏らしていた。
緋田地の国は、山々に囲まれ林業が盛んな反面、農地が少ない。開墾して得られた僅かな土地から穀物を収穫しているのが現状である。そのため、民だけではなく田畑も守る必要があった。
「それが一番の不安だな。過去に同じような事例があったか、調べてみるとしよう」
兄の提案にすぐに頷く。言われるまで残念ながら今後の対策を一つも打ち出せなかった。物の怪の対策に不慣れなのが、一番の問題であった。
「そうそう、この件の調査についてだが、左衛門に任せたいのだが良いか?」
「「えっ」」
珠保院と今まで黙って傍に座っていた左衛門から、まるで示し合わせたように異論の声が上がる。二人の顔に「それは嫌だ」と、露骨に拒否の気持ちがそれぞれ表れていた。
それを見て、兄は口を曲げて顔を顰める。
「もう、おぬしら。仲違いもいい加減にせぬか。昔は仲睦まじい姉弟だったではないか」
説教をする兄に対して、左衛門は恨めしい目をこちらにも向ける。
「もともと血は繋がっておりませんし、珠保院様は出家されて俗世とは縁を切られた方。今は他人と同然です」
と素気無く言い捨てると、彼は可愛げなくそっぽを向く。
「美都にいたせいですっかり性格を捻じ曲げおって」
生意気な義弟に兄は心底呆れていた。両腕を組み、苦々しい顔で左衛門を睨み付ける。
「だが、その物の怪の多い美都に住んでいたのだから、他の者よりは少しは対応に慣れているだろう?」
そこまで機転が回っていなかったので、思わず兄の采配に感心していた。左衛門も同感だったのか、それには異を唱えなかった。
「だから、何を言おうと、義兄の命には従ってもらうぞ。よいな?」
兄が厳しい口調で言い聞かせると、左衛門は観念したのか、不承不承ながら慇懃に頭を下げる。父の病死によって、兄は二年前に実家を継いでいた。家長の命令にさすがの彼も逆らえないらしい。
「承知致しました」
けれども、言葉とは裏腹に不満な気持ちを露わにした物言いに、兄はやれやれと深くため息をつく。
「全くもう。これ以上、付き合いきれんな!」
兄は突然荒々しい口調で言い放った。
その大声に驚き、珠保院は目を丸くして兄の様子を見守る。
兄はそのまま勢いよく立ち上がり、自分たちを強張った顔で見下ろす。
「それでは、拙者はこれにて失礼する」
兄は憮然と言い捨てると、挨拶もそこそこにこの部屋から足早に退出していった。荒々しい足音が徐々に遠ざかっていく。
出入り口の戸は、外で控える女中によって再びしっかりと閉じられる。何も命じてはいなかったが、彼女なりに気を利かせてくれたのだろう。
兄が居なくなった途端、この部屋は急に静かになる。外にいる蝉の鳴き声が、微かに聞こえるばかりである。
大蛇だけでも大問題なのに、その調査を左衛門と共に行う必要が出てきてしまった。それを考えるだけで胸中は複雑になる。この場に彼と二人きり。意識した途端、どんどん動揺してしまう。そのため、彼から視線を外し、何もない畳の上をしばらく見つめる。
今までの彼からの仕打ち。それを思い出すだけで、意に反して身体の中は火が灯ったように熱くなっていく。部屋に籠る暑さのせいだけではなかった。
「仕事には私情を挟みませんから、ご安心を」
予想外にも彼から落ち着いた声を掛けられる。視線を向ければ、彼は薄く笑っていた。
兄の提案に動揺した自分の態度に彼はしっかりと気付いている。ばつが悪いあまり、目を伏せるだけで何も答えられなかった。
「それにしても、知らぬとはいえ義兄上もお人が悪い」
兄は自分たちの関係も全然気付いていなかった。そうでなければ、彼に命じたりしないだろう。口出しできる立場にないため、彼に何も返せなかった。
「そういえば、母上が珠保院様のことを気に掛けておりました。お忙しいとは思いますが、是非家にもお寄りください」
その言葉で実家にいる継母のことをすぐに思い出す。二年前に父が亡くなり、珠保院と同じように出家していた。二度も夫に先立たれ、とても心寂しくしていた。
「う、うん……。それは申し訳ない」
年をとった彼女は膝が悪かったため、遠い領主の屋敷まで足を運ぶことは難儀だった。そのため、珠保院がたまに訪問して顔を見せていた。しかし、一年前に夫が亡くなってから、すっかり疎かになっていた。目の前にいる彼のせいで。
何度、実家に帰った際に彼の部屋に呼ばれたことだろう。それを頑なに拒否できない未練がましい己も十分愚かだと分かってはいたが――。
「俺のことを避けているのだろう?」
揶揄しながら左衛門が膝をついた格好でゆっくり間合いを詰めてくる。その彼の口元には、嘲笑するような笑みが。あっという間に肩を遠慮なしに掴まれた。間近に迫る彼の鋭い眼差しに心は激しく揺さぶられる。彼の筋の通った高い鼻が頬に僅かに触れてきて、そこだけ火傷しそうなほど熱くなる。
「ち、違う……」
彼の図星の言葉に内心焦るが、苦しい言い訳なのはばればれだろう。答えた途端、急に身体を彼に押し倒され、荒々しい手つきで畳の上に寝かされた。体重を掛けて両手首を押さえつけられ、簡単に身動きを封じられる。
何度もぶつけられる彼の激しい憎悪の感情。
最初、彼の怒りはそのうち自然に治まると考えていた。ところが、この関係はずっとこじれたまま変わらない。むしろ、だらだらと流されるように密会を続けているうちに、悪化しているような気がしていた。武家の娘としての己を選んだ自業自得とはいえ、誰かに知られでもしたら、全てが水の泡になる。
彼を傷つけてまで、別れた意味がなくなってしまう――。
「左衛門殿、いつまでこのようなことを」
訴えるようにそう呟いた瞬間、それまで余裕のあった彼の顔色が変わり、彼の眉間に深い皺が寄る。
「黙れ」
彼の怒気に怯え、二の句を失う。
「お前が言うな。裏切り者のくせに――」
押し殺した激情と共に左衛門が口を強引に塞ぐ。それは深く激しかった。身も心もかき乱されるくらいに。