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美朱と佐助 縁組

 美朱は父の書斎部屋に呼ばれていた。六畳ほどの小さな部屋の中央には机が一前あり、貴重な書物が重ねて置かれている。初秋の夕焼けが少し開いた障子戸から室内に差し込み、畳を赤く染めていた。

 寝耳に水のような縁談話に驚き、美朱は目を大きく見開いて正面に座っている父を凝視していた。その頬には、後ろに束ねきれなかった髪の一部が触れている。他の年頃の娘同様に華やかな薄紅色の小袖を身に着けていた。


「殿から直々に是非ともお主に来てほしいと言われた。そういうわけだ。武家の娘ならば覚悟せい」


 憂いを帯びた表情で父は淡々と告げる。その頭は初老に入って白髪と皺が一段と増えていた。


「恐れながら、広雅様には許嫁が既にいらっしゃったと思うのですが……」


 話を聞きながら、美朱はただ困惑していた。自分に輿入れ話が来るとは思ってもみなかったからだ。その相手の広雅とは領主と正妻との間に生まれた一人息子である。他に子はなく、揺るぎない血筋と唯一の後継者として、周りから既に擁されていた。そのため、幼い頃から釣り合いのとれた相手がいたと記憶していた。


「相手の姫は昨年病気で急逝してしまい、自然と破談となっていたのだ。その後、釣り合いのとれる相手を殿は探されていたところ、美朱お前に白羽の矢が立ったのだ」

「そうだったのですか。その、状況は分かりましたが……。正直なところ、私ではお役不足では……」


 領主の嫁となれば、子供を産むのは大事な仕事となる。けれども、そのお役目を果たすことは難しかった。


「うむ。私もお前の身体を理由に断ろうとしたのだ。だが……」

「だが、なんですか?」


 言い淀む父に食らいつく。


「子供は妾に産ませればよい、お前の賢さと丈夫さを求めているのだと、言われてしまったのだ。私が話した話を殿は覚えておられたのだ」

「父上は、何を話されたのですか?」

「先日、お前たちが山へ行った時の話だ」

「山、ですか?」

「そうだ、あの鉄砲水のことだ」


 美朱は下の弟たちの面倒をよくみていた。色んな場所に連れて行くことがあり、山で一緒に遊ぶこともあった。近くに水の流れが少ない渓流があり、そこで毎年夏場はたまに水遊びに興じることがあった。

 あの日も、朝からとても天気が良く、弟たちと家人を連れて山へ遊びに来ていた。ところが、自分たちが訪れた時は快晴だった空模様が、昼過ぎには怪しい曇り空と変化していた。雨など一滴も降っていなかったが、遥か遠くから黒い雨雲がどんどん移動し、やがて頂上付近全体を覆うようになっていた。それと共に強くなっていく風の流れ。不穏な気候の変化を感じて美朱は徐々に不安になっていた。


「天気が悪くなりそうだから、帰ろう」

「えー、いやだ!」


 弟たちはすごい勢いで却下した。まだまだ遊び足りなかったからだ。それに加え、自分たちがいたところは山の麓。悪天候の頂上から距離は十分あった。


「雲はあんなに遠くにあるんだから、大丈夫だよ!」


 そんな弟たちに諭すように語り掛ける。


「物は高い所から低い所へ落ちるでしょう? もし山のてっぺんで大雨が降っていたら、麓のほうまですごい勢いで流れてくるかもしれないわ」


 その理にかなった説明に弟たちは言い返せず、結局予定よりも早く帰ることになった。

 一行が家に着いた直後、突然降り出した土砂降りの雨。恐ろしいことに美朱の予想は当たったのだ。谷間を流れていた小川の状況はあっという間に急変して、怒涛のように流れる鉄砲水がいきなり発生していた。あのまま遊び続けていたら子供たちの命は非常に危なかったと、家人から事情を聞いた父は領主に何かの折にたまたま語ったという。


「お前の利発さをお館様はお気に召されたそうだ。主君の命には逆らえぬ。これ以上不服を申せば、私が許さぬぞ」


 娘の心情を察している父は、そう言い捨てて反論を無情にも封じた。




「あいつのところに嫁ぐなんて……!」


 そう嘆く美朱の前には佐助がいた。夕餉の後、普段と様子が違うと彼が自室を訪れてきたからだ。彼に子細を尋ねられた途端、堰を切ったように泣き出していた。

 両手で顔を覆い、子供のように泣き続ける美朱の肩を彼はそっと優しく抱き寄せてくれた。


「どうしてこんなことに……」


 彼の苦渋の声が美朱の耳朶にかかる。どんなに領主の息子である広雅のことを激しく憎んでいても、主君の命には従わなくてはならない。しかし、彼への生理的嫌悪感は凄まじかった。権威を盾に彼は美朱の幼馴染の想いと幸せを踏みにじり、彼女の人生を狂わせたからだ。今も彼女の様子が目に浮かんでいた。


「あの方への嫁入りがついに許されました。それから、お方様からの勧めもあって、来月からお館様のお屋敷でご奉公することになりました」


 そう目を輝かせながら話してくれた友人は沙紀さきといった。彼女とは乳兄弟で、ずっと親交が続くほど仲が良く、家族のように付き合っていた。

 彼女は身分の低い武家の出であったが、巷で噂されるほどの器量良しで人柄も良く、誰も彼女のことを悪く言う者はいなかった。そのため、かねてより想いを寄せていた相手と結ばれることになったのだ。同性の美朱でも沙紀の美貌は惚れ惚れするほどだ。


 あの時も、彼女は自分の前でまるで大輪の花のように美しい笑みを浮かべていた。

 主君の家で行儀見習いとして奉公に上がることは、武家の娘には良くあることだ。嫁入り前に無事に身分が高い家で勤め上げれば箔が付く。それに加えて沙紀の場合、彼女の家より嫁ぎ先のほうが格上だったため、尚更必要とされるお勤めだった。


「無事のお勤め、お祈りしてるわ」


 沙紀のことを心から応援していた。また、彼女なら問題なく一ケ月の奉仕を終えるだろうと考えていた。

 今回は領主の正妻から直々にお声が掛かったこともあり、沙紀には大きな味方がついているから大丈夫だと楽観していた。


 ところが、それを広雅が台無しにした。あっさりと彼女に手を出した挙句、自分の妾にすると言い張ったのだ。それだけではない。広雅は彼女の名誉すらも穢した。彼女に許嫁がいることを知っていた上で、その相手の前でいけしゃあしゃあとこう言ったのだ。


「沙紀がどうしても自分の情けが欲しいと申したのだ。それで妾にしてやったのだ」と。

 でたらめを言われても、それを身分の低い沙紀が否定できるはずがない。それほど広雅の身分は脅威で、不興を恐れるのは当たり前だった。


「御前様、有難き幸せでございます」


 沙紀は血の気の引いた顔で、ただ強張った笑みを浮かべて、震えながら返事を口にしたらしい。後でその話を周囲の人間から聞いた時、彼女の心境を想像するだけで胸が張り裂けそうだった。さらに、彼女に声を掛けた広雅の母もそれに一枚噛んでいたことを彼女自身から教えてもらった。以前から美人と評判の彼女に広雅は興味を抱いていたらしい。その息子の欲望を叶えようと、わざと彼女を奉公に上がらせて広雅の傍に仕えさせたのだ。

 涙ながらに話す彼女にどんな言葉を掛けていいのか分からなかった。ただ自分の無力さを感じるしかなかった。


(あいつの嫁になるなんて――)


 辛い現状をどうしても受け入れられず、佐助の前で唇を噛みしめながら涙を流すことしかできなかった。


(何故、自分がこんな目に――!)


 こんなことがなければ、もうすぐ佐助と結ばれるはずだったのに。目の前の幸せが一瞬にして非道にも踏みつけられた気分だった。ただひたすら何もかも恨めしかった。

 そんな美朱の耳元に彼はぽつんと呟く。


「一緒に逃げよう」


 彼の言葉に面食らい、思わず泣くのも忘れて唖然としてしまった。彼の顔を見上げれば、彼は固唾を呑んで返事を待っていた。その不安そうな彼の顔を見た瞬間、一も二もなく頷いていた。あの彼の目を見て、断れるはずなどなかった。


「大丈夫、俺に全て任せてくれ」


 彼はそう力強く言うと、固く抱き締めてくれた。すっぽりと彼の腕に包まれて、何よりも彼のことが愛おしく感じる。

 彼と離れたくない――。その強い想いが美朱の思考のほとんどを奪い去り、彼に行動の全てを委ねていた。

 二人でこっそりと数日かけて準備して、示し合わせて共に家を出た。不思議なことに彼と一緒なら何も怖くなかった。



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