領主の屋敷
真夏の焼けるような強い日差しは、朝から容赦なく辺りを照らしている。
ここは緋田地の領主である行方山千代の屋敷の一角。
珠保院は広い縁側で静かに座っていた。墨染衣を身につけ、髪を隠すほどの長い頭巾を被った姿は、尼である。その傍には、小袖姿の二人の女中が大人しく控えている。
ちょうど大きな軒先が日差しを遮り、心地よい日陰を作っている。その目の前で、たすき掛けをした袴姿の子供たちが木刀を手に元気に素振りをしていた。豪邸とも言えるほど大きな平屋住居の前には、灰色の細かい砂利が贅沢に見渡す限り敷き詰められていた。
「やぁ!」
気合の入った掛け声が、山千代の口から勢いよく発せられる。それと共に、草履で地面を踏みしめる足音が小さく響く。彼を筆頭に同じ年頃の男子が共に剣術を学んでいる。その顔つきは真剣で、炎天下の中、滝のように流れる汗を気にもしない。
その傍らに立つのは巨漢な武士だ。青年の彼は黙って鍛錬を見守っていた。目鼻立ちのはっきりした彼が、木刀を持ちながら立つ様子は、まるで仁王のように迫力がある。
「もう良いでしょう。今日はここまで!」
男は突然大きな制止の声を上げた。途端に子供たちは破顔しながら力を抜き木刀を収める。
「今日もご指導ありがとうございました!」
幼い子供たちが殊勝な態度で頭を深く下げる姿はとても微笑ましい。
今年で五歳になる山千代は、以前より難しい言葉を理解し始め、大人も感心するようなことをたまに口にする。
「沢山汗を流されたので、水物をお召しになって下さい」
珠保院が柔らかい声で彼らに声を掛けると、一斉に子供たちたちが振り向く。次に彼らの視線が、縁側に置かれた大皿に集まる。そこには切られた西瓜が沢山のっていた。
子供たちはその瑞々しい果肉を目にした途端、歓声を上げて足早に集まってくる。一緒に置かれていたおしぼりで手を急いで拭いた後、西瓜に迷わずかぶりつく。赤い汁を滴らせながら、美味しそうに頬張っていた。甘いご褒美に彼らの手が次から次へと皿に伸びていく。
「なあ、珠保院。余は少しこの者たちと遊びたいのだが良いか?」
山千代は言いながら、一緒にいる家臣の子供たちに視線を送る。その珠保院を見つめる目は期待に満ちていた。
「ええ、次の書き写しまで時間がございますので、是非お遊びなさいませ」
「そうか! それじゃあ、皆の者、余に着いて参れ!」
食べ終わるや否や、山千代たちは仲良さそうに庭の散策に向かう。互いにじゃれ合う姿はまるで子犬のよう。身分の差があるとはいえ、小さな子供同士ではあまり関係なかった。楽しそうな雰囲気に大人たちの顔に思わず笑みが浮かぶ。ただ、安全な屋敷内とはいえ、大事な子供たちから一時も目を離せない。珠保院に目配せされた一人の女中は合点して、彼らの後をこっそりつけていく。
「加藤殿、今日もご苦労でした。良かったら、貴殿もどうぞ」
珠保院が愛想よく声を掛けると、剣術の師範を勤めていた男は「それは忝い」と心底嬉しそうに縁側に腰掛ける。それから勧められるままに西瓜を手に取り、すぐに噛り付く。西瓜の美味さにまるで子供のように幸せそうに顔を綻ばせる。背も骨格も一般的より大きい彼は、一口で食べ終えていた。
「そういえば、先日の評定についてですが」
加藤が次の西瓜を迷わず手に取りながら、若干気を遣った口調で話しかけてくる。彼は魚のように大きく人懐こい目で珠保院を見つめていた。
「なにか?」
昔から家同士で交流のある彼に自然な様子で窺う。すると、彼の太い眉が困ったように僅かに下がった。
「いえ、麻生殿が問題にしていた件ですが」
加藤が躊躇いながら続きを言いかけた時である。恐怖で慄いた女性の甲高い悲鳴が遠くの方から響いてきた。
一体どうしたのかと珠保院と加藤が戸惑いながら互いに顔を見合わせると、先ほど出かけて行った山千代たちが賑やかな様子ですぐに戻ってきていた。
「殿、それを早くお捨て下さい!」
その彼らの後ろで女中が必死の形相で叫んでいる。
「なにを申す。ただの可愛い猫ではないか」
女中の慌てた声とは反対に、呑気そうな様子の山千代の声。
珠保院の視界に一匹の白い猫を抱えた彼の君の姿が映る。特に変わった様子を感じられない。一体何があったのかと、黙って様子を窺うしかなかった。
「珠保院、変わった猫を見つけたぞ!」
山千代が嬉しそうに報告するので、思わず微笑み返そうとした。ところが、その表情がすぐに強張った。猫の怪奇なところに気付いたからだ。
「にゃー」
その猫は特に暴れる様子も無く、大人しく腕の中に抱えられていた。ただ、普通の猫とは違い、揺れる尻尾の数が二本もあったのだ。珠保院の背筋に冷たいものが走る。
「山千代君、それは物の怪でございます!」
その慌てた声に山千代は目を丸くする。驚いたせいで彼の腕の力が緩み、抱えていた猫を離してしまう。自由になった猫は軽やかに砂利の上に着地する。きょとんとした顔を猫はしていたが、周囲の人間が一斉に険しい視線に向けていたため、すぐに怯えた表情を見せて毛を逆立たせる。それから素早い動きで逃げ出し、庭の植木の陰に瞬く間に隠れて消え失せた。
不気味なほどの静寂が一瞬にして庭に訪れる。皆、驚愕のあまりに口も利けず、少しも動けなかった。
「なんということ……! 早く殿から穢れを払わなくては!」
恐怖の沈黙を打ち破ったのは、珠保院だ。狼狽しながらも立ち上がり、「誰か」と部屋の中で控えていた女中に急いで声を掛ける。
「お呼びですか」
近づいた女中が丁寧に頭を下げる。その際に首の付け根あたりで束ねた女中の長い垂髪が揺れる。
「遣いを出し、すぐに宮司を呼ぶように」
珠保院は感情を殺したような低い声で簡潔に命を下した。子供たちを見れば、周囲の慌てた反応に呆然と立ち尽くしている。中には今にも泣きそうな者もいた。そんな彼らに落ち着いた様子で、縁側から下りてゆっくり近づく。
「山千代君」
怒られると思ったのか、名前を呼ばれた山千代の顔がとても悲しそうに曇る。その目は亡き夫に、鼻筋が通り整った顔つきは、彼を命と引き換えに産んだ側室に似ていた。
珠保院は主君の前で膝をつき、互いに見つめ合う。
「物の怪に触れてはなりません。あれらは悪しき存在と言われております」
物の怪は人に害をなすことがあると言われている。山で靄のような物の怪に遭遇した後、高熱を出して寝込んだ者もいるという。
今回、山千代が触れた猫の物の怪が人に安全かどうかは分からない。そのため、警戒が必要だった。
「でも……」
山千代は不服そうに言い返そうとするが、少し尖った口からは言葉は続かなかった。
「領主であらせられる山千代君が気軽に触れて良いものではありません。殿になにかあれば、悲しむ者がいることをお忘れにならないでくださいませ」
珠保院の切実な気持ちは、すぐに山千代に通じた。彼ははっとした様子を見せると、すぐに態度と顔つきを改める。
「すまない」
彼は反省した面持ちで、すぐに詫びを口にしていた。
「ご理解頂き、嬉しゅうございます」
それを見て、思わず顔に笑みが浮かぶ。山千代が優しく賢い子供に育っていて、心から喜んでいた。
「ところで、余は大丈夫なのか?」
状況を理解した山千代から不安そうな呟きが漏れる。主君の動揺に気付き、彼を落ち着かせるため、そっと優しく抱きしめる。
「穢れを払う宮司を呼びました。すぐに問題はなくなりますので、ご安心くださいませ」
その穏やかな声を聞き、山千代の表情がやっと平静に戻る。
「わかったぞ」
彼の声も落ち着きを取り戻していた。その返答を合図に珠保院は彼から身体をゆっくり離した。
「珠保院の香りは、とても落ち着くな。とと様を思い出すからかな」
自分の着物には、位牌に上げるお香の匂いがいつもしみ込んでいた。微笑ましいことを口にする彼の君に目を細める。その時、背後に誰かが近づく気配がした。
「申し訳ございません。私がついていながら」
後ろから震える女の声が聞こえ、そちらを慌てて振り返る。騒ぎのあった時、山千代の傍に仕えていた女中が砂利の上で必死に土下座していた。穢れと言われる物の怪を山千代に触れさせてしまったと、彼女は自責の念に駆られていた。理由がどうであれ山千代が害されること決してあってはならない。身を挺してまで守るべきとされている。しかし、今回の件は、同情の余地があり、彼女だけを責められなかった。
「いいのよ、あなたのせいではないわ。屋敷に物の怪が入り込むとは、誰も想像もしなかったのだから。それより、山千代君の着替えの手伝いを」
珠保院は気分を切り替えるように殊更明るく声を出した。その言葉に救われたのか、女中は感極まった声で小さく了承の返事をする。けれども、子供たちの方は先ほどまでの元気をすっかり失い、非常に気まずそうだ。立ち上がった女中に促されながら、消沈した様子でしずしずと一緒に去っていく。
「他所ならともかく、まさか昼間の屋敷の中で物の怪が出るとは思いもしませんでしたな」
心配そうに見送る珠保院の隣にのんびりと加藤が近づいて話しかけてきた。
「確かに。今までこんなことはなかったのに……」
そう言いながら、思い出していた。加藤の口から先ほど出ていた、先日の評定のことを。
領主の屋敷にて、所領を許された家臣たちの集まりがある。それを評定と言い、そこで家臣たちから領主が話を聴く機会を設けていた。その時、麻生が指摘していた点が物の怪対策だったのだ。あまりにも不用心だと彼は珠保院に強い口調で意見していた。
「失礼いたします」
そんな思案顔の二人の元に屋敷の奥から女中が静かに近づいてきた。丁寧に頭を下げる女中の申し出に珠保院はおもむろに頷く。
「許す、申せ」
「行方角衛門様がお越しでございます。火急のご用件とのことで……」
「兄上が?」
女中の話を聞いた途端、珠保院は怪訝な声を出してしまった。先ぶれのない兄の急ぎの訪問によって、心が小さく騒めいた。