最後の女
珠保院が耳にした吉乃という女性は、左衛門の元婚約者だ。彼が美朱と別れた後に美都で出会い妻と望んだ。彼にとって最後の想い人。そう思うと、とても大きな重しが胸にぶら下がった気がする。
「全くもう、困ったな……」
サエの報告を聞いていた兄の角衛門が顔を顰めて腕を組んでいた。どうしたのかと視線を向けると、兄は言葉を続けた。
「ちょうど左衛門の縁談話が出ているのだ。彼女を当家で身柄を預かれば、よからぬ噂が立つかもしれない。しかも、お互いに醜聞が立ってはまずいだろう。悪いがそちらで便宜を図ってもらえないだろうか」
兄の話を聞きながら、初耳だった彼のお見合い話に驚いていた。
「左衛門殿にそんな話があったのですか」
思わず声に出して反応すると、傍にいた当の本人も困惑した表情を浮かべていた。
「あの、義兄上。私は何も聞いていないのですが」
「ああ、大蛇の騒ぎで、それどころでなくてな」
兄の言い分は尤もである。確かにこんな状況では、呑気にお見合い話もできないだろう。
さらに、兄の配慮は当然のことだ。領主の急逝が原因で左衛門の縁組が破談となったとはいえ、元は深い縁があった二人。その男の実家に世話になっていると知られれば、根も葉もない悪い噂が立つ恐れがある。
なにしろ、左衛門は羨望の都で勤めた経験があり、領主と側近からの信任も厚い。若く美貌の独身男は、年頃の女の注目の的であった。
(やっと、彼の身辺が落ち着くことになるのね)
彼との別離を選んでから望んでいたことであり、頭では理解していることだった。しかし、心では焼けるような苦い思いを感じていた。
「そうですね、兄上分かりました。……サエ、良しなに頼みます」
命と目線を受けて、サエは深く頷いた。
(辛くとも、私は前に進まなくてはならない。それが私の選んだ道なのだから――)
自分の気持ちを消し去るしかなかった。
頭巾に隠れている尼削ぎした髪。山千代の後見を選んだあの時、左衛門との未来を全く考えていなかったのだから。
前回大蛇が暴走してから六日が経過した。
佐和羅山の麓には、馬に跨る珠保院がいる。調査した日と同じように、紺色の小袖と身動きのとりやすい袴を穿いている。ただ、一点だけ違うのは、頭巾の上にさらに笠を目深にかぶっているところだ。顔が少しだけ覗いている状態であった。
この日は風の強い晴天。白い雲が流れるように青い空を移動してゆく。刺さるような強い日差しが辺りに降り注いでいた。
すでに珠保院の指示によって近隣住民は他の場所へ避難している。
麓には開墾された田畑と農道が広がっているが、大蛇の出現によって土地が荒らされて、ぐちゃぐちゃになっていた。長い年月をかけて整えてきた領地を誰かの身勝手な謀略によって台無しにされてしまった。湧き上がる怒りによって、恐怖心を押さえつけていた。
「佐和羅山に住まう蛇よ! 私の声が聞こえるならば、応えて頂けないでしょうか!」
珠保院が山に向かって叫ぶと、目の前に広がる木々の中から一斉に烏が飛び立ち、上空をあちこち飛び回り始める。青い空が黒い鳥で埋め尽くされて、辺りが一瞬で騒然となる。
その時である。山の中に白い大きな靄が突如立ち込め始めていた。ちょうど大蛇の暴動によって拓かれた見通しの良い個所である。その靄はやがて長細い形になってゆき、白い巨大な蛇となる。
『我を呼んだのはお前か……。わざわざ殺されに来るとはいい度胸だな』
日の光を浴びた白い鱗が反射して、キラキラと輝く蛇が恨めしそうに低く呟く。山から距離があるにも関わらず、珠保院のところまでその声はよく聞こえた。
「どうか私の話を聞いてもらえないでしょうか!」
腹に力を入れて、ありったけの声を蛇に向かって張り上げた。なによりも誤解を解くために。作戦を実行する前にも説得を試みようとあらかじめ決めていた。あの蛇とは会話すれば分かり合えるのでは、と僅かな可能性を捨ててはいなかった。なぜなら、あのとき蛇は尋ねたからである。「お前らを寄越した奴は誰か」と。蛇がもとより聞く耳を持たぬ性分だったなら、尋ねることもなかっただろう。蛇は犯人に恨みを向けてはいるが、その場にいた人間全員を攻撃する気は全く持ってなかった。そのことから蛇は理由のない残虐行為はしないだろうと考えていた。
『命乞いなど聞く耳持たぬわ!』
ところが、そんな望みも虚しく、大蛇は話を一蹴してしまった。怒りに満ちた咆哮からは、話し合いの余地を感じられない。疑いもなく、蛇は目の前にいる珠保院が苦しみのもたらした張本人だと信じ切っている。
「やはり、駄目か……」
まずは蛇のあの激しい怒りを鎮めなくては無理なようだ。気持ちを切り替えて、作戦その二を実行する。そう、左衛門が考案したものだ。
珠保院は馬を操り、行き先をくるりと後方へ変更する。あらかじめ逃走経路を下見して、馬でも駆けられる場所を既に頭に入れてあった。一目散に蛇のいる山から遠ざかってゆく。主に田畑の間にある農道が馬を走らせやすいので、進行方向と道が同じ場合はなるべく整った場所を選んでいる。
『おのれ、逃げる気か!』
蛇の怒声が背後から飛んでくる。必死に振り返れば、真っ直ぐにこちらを見つめる大蛇と視線が合う。その目は鮮血のような色をしていて、恐ろしい双眸には思わずぎょっとして身体が竦んだ。
白い蛇は左右に長い身体をくねくねと動かしながら、器用に樹木を避けて山を下りていく。
(やはり、大蛇は私を追いかけてくるのね――!)
ますます必死になって馬を走らせ大蛇から逃げる。珠保院は乗馬が得意な方であった。幼い頃から馬に親しみ乗り慣れていたが、このような命がけの状態は初めてだった。
胸が張り裂けそうなほど切羽詰まった心境を抱えながらも、左衛門の指示通りの経路を辿っていく。
(余計なことを考えちゃだめ。ただ、目的地に向かって走らなくては!)
大蛇との距離は一向に変わらない。相手も必死に身体をうねらせて前進している。
恐怖で身体が震えそうになるが、歯を食いしばってなんとか堪える。普段からは考えられないほど、ものすごい勢いで馬を走らせている。目的地は決まっていた。そのため、やむを得ず農道の順路から外れなければならず、田んぼに勢いよく下って走り抜け、さらにまた別の農道に駆け上がる。その高低の差がある場所を駆け抜ける時の振動は凄まじく、気を抜けば馬から振り落ちそうになった。
(もうすぐ、打ち合わせ通りに林に到着するわ!)
張り詰めた糸が切れそうなほど、緊張のあまりに気が高ぶっていた。あともう少しだと自分に必死に言い聞かせて、無我夢中で走り続けている。手綱を握る手の感覚がもはや無くなっていた。
やっと目の前に林が見えてきた。そこに馬ごと駆け込み、死角となって大蛇から姿を消す。
『おのれ! 隠れても無駄だ!』
大蛇の怒鳴り声が、空気を振動させながら辺りに響いた。




