美朱と佐助 求婚
美朱の目の前で、突然佐助が従弟に殴り掛かった。なにしろ一切不穏な予兆がなかったので、予想外な展開に美朱は酷く狼狽した。
従弟のほうは、殴られてかなり痛かったのだろう。すぐに佐助に対して激昂して、殴り掛かってやり返していた。こうして少年二人の、取っ組み合いの喧嘩がいきなり始まった。
普段は他人に手を上げることなどしない佐助の突然の粗暴な振る舞い。それに家族の誰しもが驚いた。
家族に喧嘩を止められ、理由を尋ねられた佐助は、「あいつが美朱の悪口を言ったんだ」と答えるだけ。
「あいつがいきなり殴りかかってきたんだ!」
従弟は突然乱暴をしてきた佐助に酷く怒って彼を責めたが、佐助の言う悪口に美朱は心当たりがあった。きっと、無理やり剣術の相手をやらされた挙句、「おてんば娘」と言われた自分のために怒ってくれたのだと。
「ごめんね、佐助は家族想いなの」
佐助の行為はやり過ぎだと考えていたが、普段大人しい彼が酷く怒ったという事実を無かったことにできなかった。そのため、美朱は従弟ではなく義弟のことを庇った。
「なんであいつのことを怒らないんだ!」
それが原因で従弟と仲が悪くなってしまい、結局気まずいまま彼は家族と帰省してしまった。
「私のためにあんなに怒らなくても良かったのに」
わざわざ佐助が嫌われ役をしなくても良かったのだ。言い方は悪かったかもしれないが、相手には悪意はなかったのだから。
「でも」
佐助は何かを言いかけたが、唇を噛みしめて口を閉ざしてしまった。けれども、こちらを見つめる彼の目は、それまで見たことがないものだった。内に秘められた激しい感情をまるで訴えているみたいに美朱をしっかりと捉えていた。その力強い双眸によって、全く動けなくなる。彼にまるで捕らわれているようだ。
しかし、その緊迫したやり取りはすぐに解かれた。彼はおもむろに恥ずかしそうに視線を伏せたからだ。それから彼は最後まで何も話さないまま立ち去った。
それは自分の知る佐助ではなかった。まるで知らない一人の少年が現れたようだった。
美朱の心に波紋を投じた出来事だった。
「ねぇ、ご存知でした? ○○様のご主人、よそに妾を囲っていたのが奥方にばれて、喧嘩になったらしいわよ」
「まあ! 本当ですの?」
いつものように美朱が参加しているお茶会では、本当か嘘か分からない噂話で盛り上がっている。ここにいるのは皆、若い女ばかり。自分の好きなように話しているように見えて、相手の機嫌を損ねないように当たり障りのない言葉を選んで返答している。
(早く帰りたいなぁ……)
女性たちの集まりでは、取り繕った態度ばかりで、いつも気疲れてする。家に帰って、縁側に座って干し柿を食べている佐助を見た時、思わず安堵してしまうくらいに。
今日は風のない穏やかな晴れの日だった。外で遊ぶには最適なので、下の弟妹たちは女中たちと一緒に出掛けているようだ。お陰で、いつもは賑やかな家の中が今は静かである。
「美味しそうなもの、食べているわね」
美朱が佐助の横に座り込んで話しかけると、彼は柿と美朱を交互に見て、気まずそうな表情を浮かべる。
「干し柿、これしかないんだ……。食べかけでもいいなら、食べるか?」
彼はそう言いながら、半分まで減っている柿を差し出してくる。歯形までついているそれを見て、思わず噴き出してしまった。
「やだ、おねだりしているように聞こえちゃった? いいわよ、佐助が全部食べて?」
「そうか?」
すぐに彼はもぐもぐと黙って食べ終えていた。その様子を眺めていると、それまでの憂鬱な気分がなくなり、不思議なことにとても落ち着いていた。彼といると、素のままの自分でいられて、とても安心する。今も心から笑うことができて、温かな日の光のように穏やかな気分に戻れた。
佐助とは子供の頃、体を使ってよく遊んだものだ。時には体と顔を寄せ合い、くすくすと笑いながら、今となっては馬鹿らしいことを言って盛り上がっていた。そんなことを思い出して、懐かしさのあまりに昔と同じように美朱は彼の肩に頭を傾け、自分の体の一部を密着させる。すると、彼はびくっと体を強張らせて、慌てて美朱から離れた。
彼に拒絶された。その意味を理解して、胸が苦しくなるくらい悲しくなる。
「あ、ごめんね。なれなれしかった?」
泣きそうになり、謝って去ろうとすると、彼は首を激しく横に振る。
「違う、びっくりしただけだ。驚かせて悪かった」
「そ、そう……?」
再び彼に座るように促されて、浮いていた腰を下ろすが、先ほどと同じように触れ合おうとは二度と思えなかった。落ち込んでいると、膝に乗せていた手に何かが触れる感触がする。見れば、佐助が手を握っていた。驚いて彼の顔を見つめれば、従弟と喧嘩した時と同じように感情が張り詰めた目をこちらに向けていた。その強い彼の想いを感じて、美朱の心臓の鼓動が一気に激しくなる。頭が真っ白になるくらい緊張して、体中が熱くなる。不思議とその感覚が嫌ではなかった。逆に嬉しさのあまりに浮かれて舞い上がりそうになる。
彼が触れている個所に全ての感覚が集中する。ドキドキすることで精一杯で、反応に戸惑っていると、こちらを窺う彼と目が合う。その顔には照れくさそうな笑みが浮かんでいる。つられるように美朱が微笑んだ。
(そうだ、私にとって、佐助は特別だったんだ――)
自分の気持ちに気付き、同時に悲しみも襲ってくる。この想いが叶うことは、絶対にないと感じたからだ。お互いの立場が違い過ぎた。たとえ、奇跡的に許されたとしても、美朱自身が妻としての勤めを果たせなかった。
ただ彼が傍にいるだけで楽しかった幼い子供ではなくなっていた。
美朱たちは他に人の気配を感じるまで、ずっと手を握り続けていた。
ただ何事もなく穏やかに月日は流れていき、美朱は十五の夏を迎えた。
「佐助~? どこにいるの?」
道場から帰ったという彼が見つからない。そのため、屋敷中をくまなく歩いて探したら、井戸の傍でやっと出会えた。
佐助はちょうど袖から腕を抜き、上半身裸の状態で自分の体の汗を拭いていた。彼の身体には痣がいくつもできている。激しい打ち合いによって汗を沢山流し、さらに打撲もしたのだろう。見るからに痛々しかった。
彼の身体は美朱よりも大きくなり、常に見下ろされるようになっていた。体つきもどんどん男らしく筋肉がつき、骨付きがしっかりとしてきた。幼い頃とは違い、女の自分とは違う性を感じずにはいられなかった。
だからなのか、糸がぴんと張ったように美朱の身体は緊張し、熱を帯びたように顔が熱くなっていた。
「姉上、どうしたの?」
動揺して何も声を掛けない美朱を彼は不審に思ったのだろう。わざわざ問われてしまった。
「うん、知り合いから手紙を預かっていたの」
内心慌てながらも、袖の袂に入れていた文を彼に差し出した。
「ああ……」
彼は身体を拭きながら気の無い返事をした。ちらりと持っていた紙を見てくれたが、興味なさそうにすぐに視線を逸らされた。
最近、佐助の剣術評判が上がっていた。道場に通っている同じ年頃の男子の中では上位に入るくらいの活躍らしい。元々顔立ちも良く、礼儀正しい彼が若い女子たちの間で噂にならない訳がなかった。
そのため、今日みたいに他の家の女子から手紙を託されることが増えていた。美朱の心中など、お構いなしに。
「悪いけど、いらないから返しておいて」
素っ気ない彼の返事に驚く。気が進まない頼まれごとだったとはいえ、自分が同じように手紙を返されたら、悲しむに違いないからだ。
「そんなことできないよ。断るにしても、同じように手紙を書いた方がいいと思うよ」
「そうなのか……?」
彼は面倒くさそうな返事をしたが、美朱の睨みに負けて、結局は渋々ながらも頷いていた。
「あと、怪我は大丈夫? 最近、頑張っているみたいだけど、無理はしないでね」
彼の身を案じて声を掛けると、彼に軽く首を振られた。
「いや、今は特に気合を入れないと。義父上に認められるように」
「そっか、来年には元服があるものね」
来年の冬には成人の儀式が彼には待っている。髷を大人と同じように結うようになり、名前を幼名から改めることになる。それから兄のように父の仕事も手伝うようになるのだろう。
(佐助には夢があってよかったね)
美朱は年頃になっていたが、それまで来ていた縁談話を全て断り、静かな生活に身を置いていた。同い年の友人や知人たちは嫁入り話で浮ついているというのに。
「それじゃあ」
そう言って彼から去ろうとした時だ。急に腕を彼に握られたので、動きを止められた。
驚いて振り返り、彼を見上げる。すると、彼は切羽詰まった顔つきをしていた。真剣な眼差しをして、こちらのことを食い入るように見つめていた。
「姉上に縁談が来ない理由を家人から聞いたんだけど……」
「えっ?」
彼の言葉を聞いた途端、胸の内にざらざらとした砂で擦るような嫌な感情が押し寄せてきた。
遂に彼にも知られてしまった。自分の体のことを――。
すぐに逃げたくても、彼によって手を掴まれているため、この場に居続けなければならなかった。これ以上、何も聞きたくない。そう願っていたのに、彼は無情にも言葉を続ける。
「姉上は子供が産めないって……」
「止めて!」
彼の口を黙らせたくて、はっきりと拒絶を口にする。泣きそうになりながらも、さらに言葉を続ける。
「その話はこれ以上しないで。あと、手を離して」
不機嫌な口調で強く命じても、彼は美朱の言葉に素直に従ってくれなかった。
「違うんだ。俺は姉上を傷つけたかった訳じゃないんだ。ただ、それが本当なのか、聞きたかっただけなんだ」
「聞いてどうするのよ」
美朱は年頃になっても月の障りが来なかった。心配になって医者に診てもらったところ、子供ができない体質だと言われてしまった。
そのため嫁ぎ先で苦労するのは忍びないと、良家の娘ながら縁談とは無縁の世界にいた。
子供を産むのが女の第一の仕事だとされ、武家の生まれなのに嫁にもいけない自分の状況は辛いものがあった。そのことに触れられるだけで、ただのごく潰しの立場だと、改めて言われているみたいで嫌だった。しかも、佐助にだけは知られたくなかった。
「姉上はずっと家柄の良い相手に嫁ぐものだと思っていたんだ。でも、それが無理なら、俺にも望みがあると思ったんだ」
「望み?」
訊き返せば、彼の顔がみるみる赤くなっていく。裸の上半身までもうっすら染まっているように見えた。
「だから、待っていてくれないか。俺が元服するまで」
何を待てば良いのか。彼ははっきりと言葉にしなかった。しかし、美朱には分かった。今、彼が言葉にできない気持ちも、その意味も。理解した途端、顔が熱くなっていく。まさかの展開に嬉しい反面、戸惑いを隠せなかった。
「で、でも、子供が産めないのに」
「いいんだ。俺は別に家を残す必要はないし。元服したら義父上にお願いしようと思ってる」
「そ、そっか……」
「嫌か?」
「ううん、嬉しい」
思わぬ申し出に浮足が立ちそうなくらい心躍った。抑えきれなくて嬉しさのあまり顔がにやついてしまう。
他に人気のない時に、佐助はそっと美朱の身体の一部に触ってくることがあった。それは髪の毛だったり、指先だったり。まるでこちらを試すように遠慮がちな手で。彼の意味深な態度を見るたびに、もしかして――とずっと思っていた。
だから、今日やっと彼の本心を知ることができたお陰で、長年の気がかりが解消されてすっきりしていた。
彼の顔を見上げれば、彼もこちらを見つめながら微笑んでいる。
「あ」
ずっと掴まれていた腕を引かれて、彼の胸の中に飛び込む羽目になった。直に肌に触れて胸の鼓動が高鳴る。彼の鍛えられた腕でぎゅっと抱きしめられた。
「ずっと、大事にするから」
そう優しく告げられて、幸せを感じずにはいられなかった。
「うん、約束よ」
まだ初々しい自分たちの想いは、近い将来確実に叶うものだと信じていた。翌年の秋、父から領主の家に嫁入りの話をされるまでは。
「私が広雅様の元へ嫁ぐのですか?」
特に何事もなかったある日、自室にいた美朱は父に呼び出されて、唐突にその話を申し渡された。