佐和羅山
佐和羅山は元々人を寄せ付けない威圧感のある恐れ多い山だった。大蛇が暴れ出してからというもの、今では危険地域とされて、山の近くにすら領民たちは恐れて一切近づかない。まるで侵入を拒むかのように鬱蒼と覆い茂っていた木々。今では、大蛇によって広い範囲で薙ぎ倒されてしまい、とても見通しの良い状態になっている。乱雑に開拓された空間は奥まで続き、山が訪問者を大蛇の元へ案内しているようである。
大蛇が残した痕跡だけでなく、頭上を飛び交う夥しいほどの烏も、より一層不穏な空気を醸し出していた。
珠保院は落ち着かない雰囲気を山からしきりに感じていた。早朝とはいえ、今は夏の暑い季節。木々の合間から零れるように日が差しているが、山の中を吹き抜ける風はなぜか刺々しい冷気を含んでいる。布越しに感じるとはいえ、否応なしに腕の皮膚が粟立っていた。しかも、烏以外の生き物の気配は完全に潜んでいるかのように消えている。まるで異様な緊張が密かに支配しているようだった。山の主である大蛇の存在を感じずにはいられなかった。
祭壇は山を少し登った中腹あたりに位置している。そこまでは通路がきちんと整備されていた。ところが、今回の騒動により、倒木が所々道を塞いでいるため、一行はそれらを苦労して避けながら山を登ってゆく羽目になっている。
今回の調査隊に参加した家臣は、計四人。それぞれ配下を連れているため、家臣を頭として固まりで慎重に行動している。そのうちの一人の家臣に山の麓の調査を指示したため、現在登山には同行していない。残りの家臣は、麻生や左衛門、そして加藤である。その三人を従えて移動している最中である。
加藤は珠保院よりも七つ年上で、兄とは年が近く懇意な間柄である。誠実で温厚な彼を家族共々信頼していた。
調査隊の装いは、珠保院の方針で身動きのとりやすい軽装備である。珠保院もいつもの尼の衣ではなく、紺色の小袖と脚の部分が細い山袴を選んでいる。さらに悪路でも歩きやすい草鞋を履いている。その隣には、同じように登山用の恰好をした左衛門がいる。前回、調査が決定した評定の直後、すぐに彼も同行の意を表して一員に加わっていた。
「馬鹿だな。自分の身を危険にさらすとは」
出発前に彼から耳打ちされた言葉が脳裏に甦る。頬に僅かに感じた彼の吐息と、一瞬だけでも間近で交差した視線。彼は咎めるような厳しい目つきをこちらに向けていた。
彼に対して唇を噛みしめて俯くことしかできなかった。
(自分の気持ちも、他人の思惑も、どうすることもできない)
振り向けば麻生ら一行の姿が見える。彼らだけは、戦にでも参るような出で立ちである。重々しい甲冑を身に着け、太刀だけでなく、弓まで装備している配下もいる。重量があるため大変そうだが、一行の最後尾にいるものの、遅れずについてきている。
短時間でよく準備ができたものだと、内心驚いていた。討伐を強く主張していただけあって、裏でこっそり手を回していたようである。
麻生は調査に参加した珠保院の姿を目にして、「おや?」と言わんばかりに予想外な表情を浮かべていた。理由をつけて来ないと予測していたのだろう。邪魔者が不在の間に手柄を立てるという目算がすっかり狂って、とても面白くなさそうであった。
彼の用意の周到さ。恐ろしく感じ、見えない駆け引きに今回は辛うじて勝ったものの、安堵とは遠い心境にあった。
「烏が一か所に集まっております」
隣で左衛門が呟く。その台詞を耳にした一行は、発言者が指差す先を辿る。通路からずいぶん離れた先。木々の隙間から彼の説明通りのものが見えた。烏たちが地面の一部に群がり、くちばしで何かを夢中になって啄んでいる。何か餌となるものが落ちているのか、我先にと競うように貪っているようである。鹿のような大きい獲物なのか、烏たちの集まりは比較的大きい。木漏れ日に照らされて濡れたように黒光りする羽の塊が、目の前に広がっている。
「烏は森の掃除人といいますし、動物の死骸でも食べているのでしょうか。いや、しかし、あれは……」
左衛門が烏の群れを見つめたまま言葉を濁す。すぐにその理由に気付いた。
烏が集まっている隣の地面に黒塗りの木箱が無造作に転がっていたからである。それは大人の背にちょうど良い大きさで、肩帯らしき紐が二本ついていた。人工的な日用品は、自然の森の中で酷く浮いていた。
「あ、あれをご覧くだされ! も、もしや、人の手では、ありませぬか!?」
同行者の一人が悲鳴を上げると、恐怖が伝染したように広がる。皆、目を凝らすようにして必死に観察し、一斉に息を呑む。
黒い烏たちの隙間から抜け出すように、地面の上に薄黒く変色した人間の腕が一本あった。野ざらしで置かれたそれは、血色すらなく微塵も動いていない。
「あれは、たぶん死体だ……」
誰かの呟きを消すかのように一層烏の声が響き渡る。
先ほどからずっと聞こえる鳴き声が、一際大きく聞こえたように感じた。
検死のため自分たちが烏の群れに近づくと、鳥たちは慌てて飛び立って獲物から離れる。食事中を邪魔されたためか、木の枝に移った後、樹上から不満そうに鳴いていた。
近づくごとに酷い臭いが死体から漂ってきて、生理的に耐えかねて思わず顔を顰める。
「加藤殿、見分のほどよろしくお願いします」
先頭を歩いていた彼に珠保院は仕事を任せた。遺体のある場所は通路から外れているため、足場が極端に悪くなり、とても移動しづらい。また、全員で死体を囲む必要はないと判断したからである。
体格に恵まれた加藤は、大勢でいても彼の頭だけが周囲から突き抜けていた。彼は目礼して指示に承諾の意を表す。
「珠保院様、死体など放っておけばよいではないですか? こんな状態では調べても無駄でしょう」
麻生が後ろから非難してきた。振り向けば、彼は険しい顔をしてこちらを見ている。彼らはこの暑さにも関わらず重装備なので顔が真っ赤だ。立ち止まっているだけでも辛いのかもしれない。
「しかし、見過ごす訳には参りません。ここは滅多に人が入り込まない聖地です。この騒動の最中、死体が転がっているだけでも不自然ではありませんか」
自殺なのか、他殺なのか。調べないと分からなかった。
麻生はそれに反論できなかったらしく、顰め面をしていたが、それ以上文句を言ってこなかった。
「では、ここは加藤殿にお任せして、先を急ぎませぬか。時間があまりありませぬ故」
「はい」
その彼の提案に頷くしかなかった。時間節約のため、手分けして作業した方が効率的なのは明白であった。
一行は早朝から出発したとはいえ、日暮れ前に山から下りて屋敷に戻るためには、それほど時間に余裕がない。それぞれ配下を従えて先を急ぐ。
現地に行けば、何か手がかりが掴めるのではと楽観視していたが、未だに収穫がない。そのため、徐々に黒いしみがゆっくり広がるように胸中に不安が芽生えていた。
もし調査に失敗すれば――。そう考えるだけで内心焦って必死になっていた。
思案している内に一行は、目的地の祭壇にやっと到着した。目前にあるのは、人の身長以上もある大きな白い岩。胴回りも立派なもので、周囲をぐるりと回るために十歩以上は掛かるだろう。そこに立派で太い注連縄が掛けられている。毎年、その前に民たちがお供え物を捧げ、きちんと祭祀拝礼を行っていた。
「なに、この有様は……」
珠保院は思わず顔を顰めて、呆然と目の前の惨状を見つめる。
大蛇が暴れたためか、岩の周りの樹木は、ほとんど根元から薙ぎ倒されていた。後処理もされていないため、ごろごろと大木があちこちに転がっている。見通しが良くなっているため、遮るものがない上空からは、眩しいほどの日が射している。さらに驚くことに、予想に反して祭壇が酷く汚れていた。祝い用に装飾された酒樽や、食べ物を入れる黒塗りの上等な容器などが周囲に散乱している。その残骸は明らかに供物だった。それらが乱雑に食い尽くされた跡が沢山残っていた。日数が経っているためか、食べかすはほとんど見当たらない。干からびたか、森の生き物によって、全て処理されたようである。
「おかしいですね。以前、供物を捧げたのは昨年の秋です。毎年、冬の前に祭壇は綺麗に片づけられているはずですが」
左衛門に疑問を投げかけられ、同様の思いを抱く。
「そうですね。祭事に関しての報告を管理者である宮司から直接受けていました」
記憶の中では、つつがなく行われていたはずであった。複数人が携わる作業なので、怠れば問題は発覚しやすい。
(隠れてお供え物を置いた者がいるということ……?)
なんとも不可解に感じるものの、それが土地神の荒ぶる理由と関係があるとは思えない。毎年お供えものをしているが、全く問題が起きなかったからである。
「とりあえず、綺麗に片づけましょう。神聖な場所が汚れたままでは、神が怒るのも道理です」
珠保院が率先して供物の残骸を一つずつ拾い集め出すと、配下たちも慌てて協力する。麻生たちは周囲の見回りを行うと言って、周辺をうろうろ歩いて警戒していた。
「残念ながら特に何も見つかりませぬ。こうなれば、あとは大蛇を成敗するしかありませんな!」
清掃作業が終わった頃、麻生が勝ち誇ったように笑みを浮かべて、自ら結果を報告してきた。
それを聞いて一瞬逡巡するが、「戻り次第、殿にご報告して話し合うつもりであります」とすぐに返答して、彼の言葉をこの場で是認するのは避けた。すると、彼はニヤリとほくそ笑む。
「まあ、大蛇討伐しか策は残されていないと思いますが。結論が楽しみですな」
そう厭味ったらしく彼が話しかけてきた直後である。急に空が陰り、薄暗くなった。それから、一行が集まっている場所を突風が吹き抜ける。激しい風圧が身体全身を襲い、倒れそうになって咄嗟に足を踏ん張って身構える。
低い風の唸り声が辺りに響く。まるで何かが怒り叫んでいるようである。周囲に辛うじて残っていた木々の枝葉がざわざわと強風に吹かれ、この場は激しい山籟に包まれる。一変して、訪れた不穏な状況。
珠保院は傍にいた左衛門によって突然肩を抱きしめられて驚く。彼を見上げて様子を窺えば、彼は険しい表情を浮かべて周囲を警戒している。まるで庇うように力強く立っている。
『――お前たちの仕業か!』
この場に野太い大きな声が響き渡り、そこに立っていた者たちの顔色が一斉に変わる。
ピリピリと刺激が走る皮膚の感覚。空気は凄まじく怒りに震え、恐ろしいほどの緊迫感で満ち溢れた。
『毒の入った食べ物を置き、我を討伐するつもりだったとは――!』
皆は声の主を探すが全く見当たらない。ただ、自分たちを見張る何者かの存在を肌でひしひしと感じていた。
『再び動けるようになったら、お前らを寄越した奴を食い殺してやる! 誰だ、言ってみろ!』
怒気と共に凄まじい殺気が突き刺さるように襲ってくる。
「ひぃぃ!」
耐え切れなかった配下の者たちから悲鳴が次々と上がる。恐れ慄いて地面に伏して震えている者もいる。
「あいつだ! あの女だ!」
全ての音声を押し退けるように殊更大きい麻生の喚声が聞こえた。
「あの女がそうだ!」
声の主に視線を送れば、地面にしゃがんだ麻生が怯えきった顔で珠保院を指差ししている。その指は恐怖のためか大きく震えて、吹き出た唾が泡のように口の端についていた。狂ったように同じ言葉を繰り返している。
取り乱した彼の行動に唖然として反論の言葉を一切失ってしまった。
『そうか、お前か――』
珠保院は自身に殺意の全てがじわじわと集まってくるのを感じた。
『お前のにおい、顔と姿も全て覚えたぞ。今度会ったら必ず殺す』
その言葉が最後だった。声の主は一瞬にしてここから去ったのか、張り詰めた空気がまるで潮が引くように消えて無くなった。隠れていた陽の光が瞬時に戻り、何事もなかったかのように再び明るく辺りを照らしている。
強い風は唐突に止んだが、珠保院の心中は嵐のようにいつまでも荒れ続けていた。