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夫の死

「おかえりなさいませ」


 久しぶりに実家に足を踏み入れた時、妹から労うように声を掛けられた。嫁いだ頃から変わらない家の中と、懐かしい匂い。それらを全身で感じて、妹の前だというのに、思わず感極まってしまった。涙が目から溢れ、その一粒が静かに頬を伝う。


「姉さま、この度はご愁傷さまでした……」


 夫を突然亡くした悲しみだと受け取られたのだろう。妹に酷く同情された。それと共に彼女に身体を優しく抱き締められる。衣越しに仄かに伝わる温もりは、とても心を落ち着かせてくれた。

 けれでも、美朱みあかは本当のことを決して言えなかった。生まれ育った実家へ戻ってきて、可愛がっていた妹に迎えの挨拶を掛けられた。そのお陰で、やっと結婚の終わりを実感して安堵できただけだということを。


 人生五十年といわれる世の中。その中の三年半という夫婦生活は、きっと短い部類に入るだろう。しかし、まだ若い自分にとっては、その期間はとても長く辛いものだった。

 一週間前、美朱の夫が突然死んだ。死因は落馬だった。



 その日の晩、しんみりとした雰囲気の中、食事を家族みんなで揃って頂いた。当たり障りのない日常の会話でも、家族の変わらない様子は、美朱の気持ちをだいぶ和ませてくれた。そして、元々自分が使っていた思い出深い部屋に案内されて休んでいた。


 嫌々ながら夫の元に嫁ぎ、名ばかりの夫婦生活。それは自分が死ぬまでずっと続くと思っていた。それなのに、突然状況が変わった。理解して納得はしている。ただ、その変化に気持ちが全然ついていけなかった。


 葬儀が無事に終わり、夫の正妻だった美朱は、髪を下ろして出家することになった。後を継いだ子供は、まだ五つにも満たない。そのため、彼の補佐として自分が就くことになり、後家として嫁家に留まる必要が出たからだ。跡継ぎ争いを起こさないため、考える限り最善の方法だった。御仏に仕える尼になれば、夫の菩提を弔いながら夫の死後も貞節を守ることになる。還俗するまで再婚することはない。


 髪には魂が宿るとされて、身体の中でも非常に特別なものとされていた。旅先や戦地で亡くなった遺体を遺族の元へ帰すことができない場合、その者の切った髪を代わりに持ち帰り、それを故人として供養するくらいだ。そのため、俗世を捨てるために、大事な長い髪をばっさりと肩くらいまでに切るのだ。その後、仏門に入って戒名をもらい、美朱という人物はいなくなる。


「酒を」


 気付けば女中に頼んでいた。気持ちがとてもざらついて落ち着かなかった。それに尼になれば酒は口にすることはできなくなる。今日で最後だと思いながら、気ままな実家で一人酒を嗜んだ。そんな時、部屋に予想外の来訪があった。


「美朱様、左衛門さえもん様がおいでですが」


 女中に彼の訪問の取次ぎをされた時、一瞬頭が真っ白になった。何故、彼がここにいるのかと。そんな動揺する美朱を次に襲ったのは、激しい恐れだった。

 かつて彼とは想いを交わした仲だった。しかし、夫へ嫁ぐ際に彼と別れていた。


「申し訳ないけど、疲れているから遠慮して頂きたいわ。それと――お幸せにと伝えて」


 そう言葉にするだけで精一杯だった。彼には会えない。会ってはいけない。その強い想いが、拒絶の言葉として口から溢れ出ていた。


 義弟の左衛門は、遠いよその国で暮らしている。その彼には、もうすぐ婚儀があるはずだった。領主の不幸で喪に服すため、しばらく延期にはなるとは思うが、それでも彼は別の女性と結ばれる予定だった。

 自分たちは別々の道を歩いている。嫁いでから彼へ一度も連絡を取っておらず、会ってもいない。もう二度と関わることはないと思っていた。


 ただ茫然としていたら、いつの間にか部屋の中は薄暗くなり、女中が気を利かせて行灯を用意していた。白い紙が貼られただけの四角い味気ない行灯が、微かに部屋を明るくしている。

 自分の実家なので、女中に下がって良いと命じて一人きり。領主の屋敷では、常に女中たちがいて、一人になることはほとんど無かった。こうして寛ぐのも久しぶりだが、左衛門の訪問によって荒れた心では、味わう余裕もない。


 彼がここにいたのは、主君である夫が急逝したためだ。ただ、それだけだと自分に言い聞かせるように考えていた。彼との別れを自分で決断しておきながら、未だに彼によって心揺さぶられる己が罪深い。明日には、この腰まで伸びた髪を切るというのに。


 日が完全に暮れた後、心中を映すように外の天候は荒れ始めていた。強い風が家屋に吹きつけている。そのたびに家屋は震え、行灯の小さい火も揺れる。それに伴って視界が歪むように影が動く。

 やがて、ドンッと壁が強く押されたように風が吹いた直後、激しく火が動いたと思ったら吹き消されてしまった。一瞬にして部屋の中は真っ暗に。その暗闇の恐ろしさに身体が竦み、身動きすら取れない。悪天候を見越して、周囲は雨戸で閉められているのだろう。

 この部屋には、僅かな光も差していなかった。


(誰か、人を呼ばなければ――)


 けれども、女中は美朱自身が下がらせてしまったため遠くにいる。自分で呼びに行く必要があるが、暗闇の中では怖くて全く歩けない。小さな光でも、足元が照らされない限り。


(そうだ。私の希望の光は、既に自分の手で消し去ってしまっていた――)


 波のように何度も押し寄せる愛する者との別れの苦しみ。それは自分自身を何度も激しい渦に巻き込む。呼吸ができないほど重く深い。

 そんな時、外の戸が僅かに開き、僅かに光が差し込む。誰かが部屋に入ってきた。暗くて姿ははっきりとは見えないが、その輪郭は男の者だった。

 思わず誰だと叫びそうになった時、「俺だ」と小さな声が聞こえて、息を呑んだ。忘れるはずもない、左衛門の声だった。

 親同士が再婚してから十年近く、彼はこの実家で一緒に暮らしていた。そのため、彼は家の間取りだけでなく、使用人の配置までよく分かっていた。美朱の部屋に忍び込むことは、彼にとって容易なことだった。


「なぜ、あなたが……」


 驚いた美朱が戸惑いながら問いかけると、相手は見下したように鼻で小さく嗤う。


「俺と会うことを避けるとは、よほど後ろめたいことがあったらしい」


 左衛門の恐ろしいまでに刺々しい言葉に身が竦んで、声すら出せなくなった。

 彼はしゃがみ込んでいる美朱の元には近づかず、暗い行灯に火を灯していた。それから、明かりが戻った後、彼は素早く戸を動かし閉め切った。まるで逃さないと言わんばかりに。


「よほど俺に会いたくなかったか」


 部屋の中で立っている左衛門を仄かな光がぼんやりと照らしている。小刻みに揺れる小さな炎によって影が動き、彼の顔までも震えているようだった。

 顔を合わせなかった数年で、彼の顔つきは精悍さが増していた。最後に目にしたのは、元服直前。あの頃あった初々しさは既にない。

 元々整っている彼の顔立ちには、睨みの形相によって深い皺が刻まれている。まるで鬼のように恐ろしい形相を作り上げていた。


「上手く義父上を言い含めて、よくも俺を遠くに飛ばしたな」

 低く小さな恨みの声だけが部屋の中に響く。下から明かりに照らされて、壁には彼の影が映っている。まるで幽鬼が彼の背後に立っているように見えた。

「だが、内密に済ませようと、義兄上に何も事情を話さなかったのは、まずかったな。そのお陰で今回俺は戻ってこられた」


 左衛門が小さく嗤っていた。美朱に対する嫌悪を隠すことなく吐き出しながら。彼は慎重な足取りで、動けないでいる自分の元にゆっくりと近づいてきている。


「でも、貴方にはもう別の女性が」

「黙れ」


 怒りと共に投げつけられた言葉に少しも逆らえるはずもなかった。狭い部屋の中、彼に近づかれて、荒々しく肩を掴まれた。肌に力強く食い込む指に深い憎しみがひしひしと感じられる。


「俺と駆け落ちしていたとき、美朱が実家に手紙を送って、居場所を知らせたのは本当なのか?」


 それを聞いて息を思わず飲んだ。――彼から真実を問い詰められるときがついに来た。

 彼は座り込んで黒くて薄暗い目をまっすぐに向けている。頬にまで突き刺さるくらいの負の感情を感じる。答えによっては何をされるのか分からないくらい、彼から狂気じみた怒りが伝わってきている。それでも意を決して口を開かなくてはならなかった。


「ほんとうよ」


 その答えを聞いた途端、彼の眉がピクリと動いた。肩を掴む彼の指に力がますます入る。ただその苦痛に耐えていた。

 嫁入り話が決まった時、左衛門と遠い場所へ駆け落ちをした。しかし、その二か月後。これ以上、彼とは共にいられないと、決意を勝手に翻していた。


「どうして、俺を裏切った……?」

「色々と耐え切れなかったのよ」


 そう答えた直後、彼の眉間の皺がさらに深まった。彼は信じたのだ。あえて誤解させるために選んだ理由を。


「何度もお前に便りを出したのに返事もしなかったのは何故だ……?」

「必要ないと思ったからよ」


 彼の表情はますます辛く苦しげに歪む。


「……領主の後見になるというのは、本当か?」

「そうよ」

「領主のために操を立てるつもりなのか」

「そのために尼になるのよ」


 まっすぐに目を見つめながら、迷いなく彼にはっきりと言い切った。すると、彼の瞳は大きく見開いて、手に取るように彼の動揺が伝わってきた。

 肩を掴む彼の手がぶるぶると痙攣しているみたいに小刻みに動いている。怒りのあまりに力の加減を失い、食い込むくらい強く握られていた。


「俺があの時、お前に裏切られて、どんなに傷ついたか――」


 感情を堪えるよう途切れ途切れに話す声は、泣きそうなほど震えていた。それを聞くだけで心が張り裂けそうなほど罪悪感に苛まれる。

 彼が口にした”裏切り”という言葉。そこから、彼の自分に対する認識を十分に理解していた。


(後は彼がそんな酷い私を見限るだけ――)


 そう、自分の目論見通りにこの事態は進んでいる。辛くとも、そうしなければならない理由が美朱にはあった。

 彼は顔をゆっくりと近づける。その間近に迫る凶暴な目つきによって、彼の心の荒み具合が手に取るように分かった。


「本当に酷い女だ。目的のために手段を選ばない」


 言い終わると同時に美朱は左衛門によって床に押し倒された。彼の全身の体重によって、自分の身動きはあっさりと封じられていた。


「許さない。ずっと、苦しめばいい――」


 呪詛を呟く彼によって帯に手を掛けられ、乱暴に引っ張られる。それによって、自分の着物はどんどん肌蹴ていく。予想外の展開に酷く狼狽することになった。


「左衛門殿、なにを」

「うるさい」


 おとがいを彼に乱暴に掴まれると、彼の唇と無理やり重ねられた。口が塞がれて、これ以上何も言えなくなる。ただ、彼の激情に流されていく。

 彼の手が美朱の気持ちなど無視して、勝手に身体を嬲るように弄ぶ。愛を確かめ合う慈しみの行為は、憎しみをぶつけるための手段となった。


 それから彼によって強いられることになった。誰にも知られてはならない道に外れた逢瀬を――。


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