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短編作品集

海峡の底、トンネルの先に

作者: 青樹加奈

 もう一度、このトンネルを歩いてみよう。


 下関と北九州市の間には人が歩いて通れる小さな海底トンネルがある。関門海峡の地下深くひっそりと人道のトンネルがあるのだ。

 私は下関側からエレベーターで地下へと降りて行った。

 エレベーターを降りてトンネルの入り口に立つ。

 幅四メートル、青く塗られた壁面を白い蛍光灯が照らしている。

 長さ七百八十メートルの真っすぐなトンネルはすり鉢状になっていて、門司側の出口は見えない。まるで、人生みたいだ。先が見えているようで見えない。

 あの日も、私は父の言葉を信じてこのトンネルを歩いた。


美弥みや、トンネルを抜けたら、そこで待ってるんだよ。必ず迎えに行くから」


 私は何も考えず、父の言う通りにした。

 トンネルは明るかったけど、誰もいなくてちょっと怖かった。

 五歳だった私は、壁に描かれた魚達をみながら歩いた。そして、トンネルを抜け門司側のエレベーターに乗って地上に出た。トンネルの入り口の前は海だ。真っ暗な海から吹き付ける風が冷たかった。震えながら私は父を待った。でも、父は来なかったのだ。


 その日、私は父に捨てられた。


 何故父は私を捨てたのだろう?

 母が亡くなり、男手だけでは、私を育てられなかったのだろうか? 

 中学の時、育ててくれた叔母に思い切って父の事を訊いた。

 父はどこへ行ったのか?

 今どうしているのか?

 何故、私を捨てたのか、父に会って訊きたかった。

 ところが、叔母は困った顔をして父とは全く連絡が取れない、どこにいるのかわからない、というのだ。


「お父さん、一体どこに行ってしまったの? 何故、私を捨てたの? 迎えに来るって言ったのに」


 記憶の中の父に尋ねても答はない。

 このトンネルを抜けても父はいない。

 わかっていても、もう一度、このトンネルを抜けたかった。

 トンネルを抜けたら、何かわかるかもしれない。


 来年、高校を卒業する。叔母は東京の大学に行けと言ってくれるけれど、私は地元で叔母の仕事を手伝いたい。大学に行かなくてもと思うけど、叔母は若いのだから、世界を見ておいでという。


「若いんだから。いろんな事を経験して、いろんな人と会って、デカい女になりな。あ、太れって言ってるんじゃないよ。大きな心を持てっていってるんだよ。広い視野とね」


 叔母の言いたい事はわかる。だけど、父に捨てられた私が、世間に出ていいのだろうかとつい、思ってしまう。自分を卑下するわけではないけど、つい「私なんか」と思ってしまう。


 このトンネルを抜けたら。


 父が私を捨てた同じ日、同じ時間。もう一度、このトンネルを抜けたら何か答えが見つかるような気がする。


 ツンと海の匂いがした。ここが深い海の底の底だと感じる。頭の上に何トンもの海水と土があるのだ。


 県境の標識が見えた。


 ガーッガーッ


 突然、スケボに乗った少年達が猛スピードでやって来た。


「え!」


 思わず、飛び退く。


「行け行け!」


「ヒャッホー!」


 トンネルに反響する少年達のかしましい声。


「うっ……」


 背中が痛い。思い切り壁にぶつけたようだ。


(おまえの娘か?)


 え? 何? 今、何か思い出しかけた。

 あの時、あの時も背中をぶつけた?

 父ではない。もう一人いた?


「大丈夫ですか?」


 壁際に座り込んだ私にジョギングをしていた人が声をかけてきた。


「あ、はい、大丈夫です。立てます」


 私は礼を行って、また歩き出した。すり鉢の底を抜けたのだろう、遠くに出口が見えてきた。



 再びエレベーターに乗って、門司側の地上に出る。入り口の向うには真っ暗な海が広がっている筈だ。私は震えた。もう一度、捨てられたという絶望に向き合うのか。誰か、勇気を下さい。いや、誰も背中を押してはくれない。自分で扉を開けるしかないのだ。


 私は扉を押した。


 そして、外へ。





 違う。あの時と違う。暗い海だけど、意外に明るい。

 関門大橋の灯り、行き交う船の灯り、対岸の家々の灯り。

 灯りの中に二つのシルエットが浮かんだ。


「さあ、ユキオさん、ホームに帰りましょうね。ね、誰もいないでしょう?」


「いや、娘がいるはずなんだ。看護師さん、お願いだから探して下さい。ここで待つように言ったんです。娘は私がいなければ、ひとりぼっちなんですよ。頼みますから」


「でもね、あなたは自分の名前も思い出せないじゃないですか? いきなり、ここに行くって言い出して暴れるから連れて来たけど。さあ、帰りましょう。風邪を引きますよ」


 まさか、まさか、まさかね、そんな都合のいい事、起るわけない。でも、でも。


「あの、、あの、すいません」


 私は看護師に声をかけていた。


「この人、名前を思い出せないんですか?」


「ええ、そうなんですよ。十年以上前に行き倒れていてね、記憶がないんですよ。その上、身元の確認になるような物を何も持っていなくて。私達は便宜的にユキオさんと呼んでいるの。行き倒れの男の人だから」


 私はその人の顔を覗き込んだ。


「お父さん?」


 お父さんだ。痩せてるし、年を取ってるけど、お父さんだ。


「お父さん! 私よ。美弥よ」


 それからはトントン拍子だった。


 父は私を捨てたわけではなかった。父は当時高級クラブのホステスと付き合っていて、そのホステスのひものような男に呼び出されたのだ。父は私に危害が及んではいけないと、咄嗟に門司側に逃がした。その後、男と喧嘩になり突き飛ばされて海に落ちたらしい。

 叔母はその女と出て行ったと思いこんで捜索願いを出さなかったのだ。

 トンネルをもう一度歩いて良かった。父にもう一度会えた。勇気が奇跡を生んだのだ。

 今度は元気になった父と一緒に歩いてみよう、海の底をつなぐ小さなトンネルを。



(了)

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― 新着の感想 ―
[良い点] ああー泣。 いい話だった泣泣。 そう繋がってくるとは予想外でした。 海は暗くて怖いイメージもありますが、キラキラ輝いててどこまでも広い希望な雰囲気もありますね。 こちらはどちらも描かれてい…
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