四万温泉にて
群馬県の四万温泉に行った時のことを書く。
あれは2月下旬のこと。僕は深夜に京都駅から東京駅行きの夜行バスに乗った。東京駅に着いたのは朝6時頃である。四万温泉行きの高速バスが出る9時頃までまだ時間があったので川端康成の『伊豆の旅』を読んで時間を潰した。氏の伊豆に関する作品や随筆を集めた本だ。内容も温泉に関するものが多かったので、伊豆の温泉に思いを馳せながら、ついでに今から向かう四万温泉に対する期待を膨らませながら読んだ。
定刻が近づいてきたので本を閉じてバス停留所へ向かう。停留所にはすでに何人か並んでいた。カップル、老夫婦、マダムたち。いずれも何人か連れ立って並んでいるようだ。たまたまかもしれないが停留場に並んでいる客層を見る限り、今回、僕のように一人で四万温泉に赴く人はそう多くはないように見受けられる。全国の温泉客全体のうち、一人で温泉を巡る人の割合はそんなに低くはないはずだ。はずなのだがこうも少ないとなんだか無性に心細くなってくる。とはいっても、湯の中で育まれる親交は確かに存在する。よって仮に行く時は一人でも、もしかしたら温泉地で見知らぬ人と出会い、そこで新たな交流が生まれる可能性はなくはない。だから一人で行く温泉は決して淋しいものとは限らないのだ。
基本湯船の中では人は優しい。その心は満たされ、皆穏やかな表情を湛えている。今までの僕の経験上、温泉地にはネガティブな感情はあまりない。たとえ行くまでにネガティブな感情が内で渦巻いていたとしても、湯船の中では皆朗らかだ。それにどうやら入浴と仏教はなかなか密接な関係にあるようだ。禅の教えを説いた『碧巌録』に入浴のことが出ている。風呂に入って心が落ち着き、清らかになり、仏の気持ちになることによって、物の本質を捉えることが出来るというのである。空海や行基が発見したと伝えられている温泉も数多くあるようだ。極楽とは温泉のことと見つけたり、と『有頂天家族』の矢三郎が言っているが、まさしく至言だと僕は思う。温泉の歴史は長く深い。それだけ人と温泉が密接に結びついてきたということだろう。温泉は現代人にとっても一時的に浮世の邪念を忘れさせ、極楽浄土へと誘うものといえるかもしれない。人は生きながらにして極楽へと至る最も簡便で安上がりな近道を温泉に求めるのだ。
しばらく停留所でぼんやりしているとようやくバスが入ってきた。若い男性乗務員が下りてきたのでチケットを渡して乗り込んだ。中を見回したが何の変哲もない普通の観光バスの装いだ。両サイド二席一組で奥まで並んでいる。
自分の席に座って早速コンビ二で買っていた丸善のチーかまを一本咥えた。これが美味い。僕の旅はいつもチーかまで始まる。もったいつけてチビチビと、時間をじっくりかけて食すのだ。齧ればほぼ必ずチーズも一緒に口に入ってくる。かまぼこのほのかな甘さとチーズの味が実によく合う。チーかまは丸善が生み出した人類の叡智の結晶、自然界からの極上のギフトであることをここに宣言したい。
やがてバスが動き出した。四万温泉までは3、4時間かかるということなので、先ほどまで読んでいた『伊豆の旅』の続きを開いてみたが、夜行バスで東京まで来たために疲れているのか少し眠い。このまま読んでも頭に入ってきそうにないので一眠りすることにした。椅子を少し倒して目を瞑る。途端に意識が薄くなる。心地よいバスの振動が身体を伝い、それが一層意識を微睡みの淵に追いやった。
◇
四万温泉に到着する寸前に目を覚ました。乗務員のアナウンスを聴きながら窓の外を見ると、バスが山間の道を走っているらしいことが窺われた。バスは川沿いの道をずんずん進んでいく。最後に小さな橋の上を通過してようやくバスは四万温泉のバスのりばに到着した。
バスを降りるとそこは川のすぐそばだった。近くの山の緑が目に優しい。僕は四万温泉に来た一番の目的を果たすために歩みを進めた。すぐそばの温泉まんじゅう屋の横を通り抜けていくとすぐに目的の旅館が目に入った。今回はここの温泉に浸かりに来たようなものだ。その旅館は赤い橋を渡ったところにある。名を積善館。創業320年以上の老舗旅館である。木造湯宿建築の本館は元禄4年に建てられたという。群馬県の指定文化財にも登録されている歴史的価値の高い建物だ。近代建築的な浴場もあり、和風建築的な外観も合わさって非常に雑多味溢れる趣を堪能できる。それになんとこの積善館、『千と千尋の神隠し』に出てくる湯屋のモデルになっているというはなしだ。建築様式に関してはそれほど詳しくはないのでどこがどうとは言えないが、ざっと見てみると確かにそんな感じはする。橋にかんしてはなかなか通ずる部分も多い。
しばらく眺めていたが、寒風で身体が冷えてきたので小走りで正面玄関から中に入った。中は木造で、どこか懐かしい感じがした。受付で入浴券を購入し、早速浴場へ向かう。引き戸を開けるとすぐに浴場だった。脱衣場なんてものはない。近代建築的な趣のある立派な浴場だ。床は一面タイル張り。人っ子一人いない。浴槽はなぜか5つもある。どれも似たり寄ったりな構造で、それぞれに無色透明のお湯が湛えられている。たとえば温度が違ったりといったふうに、もしかしたら各浴槽でなんらかの差別化が為されているのかもしれない。床はほのかに温かく、まるで床暖房だ。おそらく温泉の熱によるものだろう。そう思うと期待が膨らんだ。服を脱いで掛け湯を済ませ、とりあえず手前の浴槽に入ってみた。とてもいいお湯だった。微かに香る臭い。硫黄臭だろうか。あるいは別の臭いかもしれない。温泉成分が肌を通して五臓六腑に染み渡るような心地がして実に快適だ。何より浴場が視覚的に楽しい。5つある浴槽にそれぞれ試しに入ってみたが、特に違いは感じられなかった。強いて言えばやはり微妙に温度が違うような気がしたが、気のせいかもしれない。しかし、湯に浸かっているうちにその真相がなんとなく掴めてきた。まさにエウレカ。アルキメデス顔負けの閃きである。つまりこういうわけだ。小さな湯船は広い湯船よりも温度を均一に保てる。循環も早い。つまり新鮮なお湯が満たされ続ける。そんな湯船を5つも設ければ、少し狭いがたくさんの人に新鮮なお湯に浸かってもらえる。同じ浴槽内の人との親交も深められるやもしれない。そして何より湯船一つ一つが小さいので掃除がしやすい。恐らくこういうことなのだろう。想像の域を出ないが、もし本当にそうなのだとしたらなかなか粋な設計ではないか。
浴場の隅に目を移すと、そこには取ってつけたように体を洗うスペースが一人分ある。本当に小さい。その横に2つ、蒸し風呂の戸があるのが確認できた。とても小さな戸で、屈まないと入れそうにない。俄然興味が湧いたので入ってみることにした。戸を開けると濃密な蒸気が中からムワッと噴き出て来た。一瞬視界を奪われ、思わず踏鞴を踏む。改めて中を覗くと、タイル張りの寝椅子のようなものがあるのを確認できた。人が一人入れる広さだ。おそらくこの上に寝転んで蒸し風呂を楽しむのだろう。一応中をお湯で洗ってから入って戸を閉め、そして仰向けに寝転ぶ。中はとても暗く、小さな窓が唯一の光源である。閉め切った押し入れの中にいるような心地がする。外界から遮断された密室。暗闇の中でひたすら己と対峙する濃密な時間がそこにはあった。これなら考え事が捗ること湯水のごとしである。しばらくぼんやりしたり物思いに耽ったりしていると、流石にのぼせてきた。おぼつかない足取りで外に出ると、中に比べるとやや冷たい(それでも温かいが)、新鮮な空気が肺を満たした。この時に吸った空気は実に美味かった。その後何回か浴槽の湯を堪能して、浴場を後にした。
浴場を出た僕はすぐに館内にあるもう一つの浴場を目指した。こっちは岩風呂らしい。しかも混浴だ。そして混浴だ。混浴。イェイ。
二階へ階段を上がるとすぐに廊下に出た。尋常の廊下ではない予感がしたので探検してみることにした。探検の成果として見つけたものは、趣のある和室を数室と、奇妙なのっぺり廊下だ。これはテレビで見たことがある。確か壁や床を湯が伝って流れていた。しかし、僕が見たときは特に流れたりはしていなかった。残念。
探検に区切りをつけ、僕は岩風呂を目指した。廊下に面した引き戸を開け、一階へと続いている階段を下りると、男女別の脱衣場があった。早速脱衣して浴場に入ると、やはり立派な岩風呂が目に入った。男性用の脱衣場の扉と女性用の脱衣場の扉は隣り合ってついている。やはり女性はいなかった。そして人っ子一人いなかった。さっきの浴場といい、こうしてお風呂を独占できるのはなかなか贅沢なことじゃないか。一頻り入浴を済ませ、僕は積善館を後にした。とても満足のできる温泉体験だった。
外へ出ると、打って変わって冷たい空気が僕の火照った身体をやさしく冷やしてくれた。赤い橋を渡り、バスのりばに戻ると、川に面したところに奇妙な建物を発見した。バスのりばから見ると円柱形の小さな建物が地面に埋まっているように見えなくもないが、川に面した部分は埋まっていない。そこが入り口になっている。どうやら共同浴場のようだ。河原の湯というらしい。なるほど、河原にあるから河原の湯。そのままだ。
中に入ってみると、そこは窮屈な脱衣場だった。僕はそのまま脱衣し、浴場への扉を開けた。そこには石造りのしっかりした浴槽があり、奥にはむき出しの厳めしい岩肌が露出していた。床はところどころ赤褐色に塗れ、鉄臭さが鼻腔を満たす。ほのかに硫黄っぽい臭いもする。これは名湯に違いない。手っ取り早く掛け湯を済ませ、はやる気持ちを制止しながら勢い盛んに、しかし水しぶきをあまりたてないようにゆっくりと湯船に飛び込んだが、その結果、湯のあまりの熱さに悶絶し、すぐさま湯船から飛び出して床を転げ回るハメに相成った。無様と笑ってくれるなら存分に笑って欲しい。その方が僕も転げ甲斐があったというものだ。その後何度か挑戦して、ようやく肩まで浸かることに成功した。ものの十秒と堪えることはかなわなかったが、いい湯であることには違いない。湯の湧出口の上にコップが二つ置いてある。おそらく飲泉が可能であろうということで試みた。とても味わい深い湯だった。やはり硫黄と鉄分がたくさん含まれているような味で、かすかに塩気も感じた。気に入ったのでそのまま4杯も飲んだ。
河原の湯を出て冷たい風に当たる。火照った身体にてきめん心地よい。時刻は4時半くらいか。そろそろ宿泊する宿に向かうとする。宿までは少し距離がある。
しばらく歩いていると上乃湯という共同浴場が目に入った。もちろん入った。ここの湯も格別だった。先客が浴場で眼鏡を探していたので一緒に探してあげた。結局眼鏡は服と一緒に脱衣所に置いてあった。さてはおっちょこちょいかと心の中でほくそ笑む。上乃湯を出ると少し日が暮れていた。
上乃湯からまたしばらく歩いてようやく宿に着いた。ぱっと見でちょっと古い感じがしたが、今日泊まるのは間違いなくここで、他にあてもないので重い足取りで玄関の戸を開いた。中も相変わらずな感じだ。しばらくすると気の良さそうな初老の男性が出てきた。この宿のご主人だ。諸々の手続きをして宿泊料金を払ってようやく部屋に通してもらう。するとご主人、何故か地下へ続く階段をどんどん下っていく。え、地下なのか。ぼくの部屋は地下にあるのか。一抹の不安を抱えながら進んでいくと、ようやくご主人が止まった。
「今日はこの部屋で泊まってください」
やはりばりばりの地下だった。廊下の電気はついておらず、とても薄暗い。それになんだかジメジメしている。まあ値段が値段だし、それに自炊だから仕方ないかと諦め半分で引き戸を開けた。そこでまた愕然とした。恐ろしく昭和だった。少し埃っぽかった。畳もまあまあ古い。本当にここでぼくは一夜を明かすのかと思うと急に不安になってきた。しかし、窓の外には川を見下ろせる見晴らしのよい景色が広がっており、ほんの少しだけ安堵した。
居心地が少々悪かったので、早速、町営四万清流の湯に向かった。有料の浴場である。宿から徒歩でそんなにかからない。外に出ると既に日は沈んでいて、夜の暗幕が下りていた。少し歩くと川の向こう岸にたくさん明かりが灯っているのを見つけた。ライトアップの類いだろうか。周りに残っている雪が光を暖かく受け止めていて、とても優しい印象を抱いた。幻想的な光景だったが、温泉をはしごしている疲れからか近くで見る気力は残っていなかったので遠くから眺めるだけにとどめておく。
清流の湯に着いて中に入る。中は大変小綺麗で居心地がよさそうだ。受付で入湯料金を支払い男湯の暖簾をくぐる。脱衣場もやはり整っていて居心地がいい。善は急げと華麗に服を脱ぎ捨てて浴場に向かう。浴場もやはりキレイだった。もしかしたら最近新しくできた施設なのかもしれない。早速掛け湯をしてお湯に浸かったが、やはり素晴らしい。骨までしみる。どうやら露天風呂もあるようなので外に続く引き戸に手を掛けた。すでに外は真っ暗で、遠くにある建物の明かりだけが見える。冬の夜風がむき出しの身体に容赦なく吹き付ける。ぼくは震えながら岩作りの広い浴槽に身を沈めた。冷えた身体が急速に温められていく。とてつもない快楽だった。空には星がチラチラと瞬いている。やはり夜空を眺めながらの入浴は格別だなと思った。これほど贅沢なことはないだろう。木々のざわめきも心地よかった。川の流れる音がよく聞こえる。なるほど、清流の湯か。まさしくその通りだと思った。
清流の湯を出て宿に戻り、少しくつろいだ。液晶テレビは何故か画面の中央あたりの色が、まるでブラウン管テレビの画面に磁石でも近づけたように変色していて、とても見にくかった。もはやご愛嬌である。そろそろ内風呂に行こうと立ち上がる。非常灯の明かりだけを頼りに地下へ続く薄暗い階段を下りて行くのはなかなか恐ろしかった。男湯の脱衣所の電気を付け、無闇に周囲を警戒しながら脱衣して風呂場に入る。そこには意外にもちゃんとした風呂場があった。岩ごしらえでなかなか立派だ。しかし、注ぎ口はなんとホースだった。少し残念な気持ちになったが、その湯は絶品だった。温度もちょうど良い。それで一気にそれまでのマイナスが嘘のようにプラスになった。調子の良いことに、いい宿だなと本気で思った。ただ、窓の外に広がる闇からは終始なるべく目を背けていた。じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうな心地がしたからだ。
上機嫌で部屋に戻ると一気に現実に引き戻された。そうだ、今夜はこの居心地のよろしくないところで寝るのだ。その晩、僕は電気をつけながら寝た。何故かは言うまでもないだろう。それでも必死に目を瞑っているといつのまにか眠りに落ちていた
◇
朝起きてまた内風呂に入った。朝風呂、しかも自分の他に誰もいない温泉に入ることはこの上なく贅沢なことだ。浴場に朝日が差し込み、昨晩入った時とは打って変わって気分も澄んでいる。
部屋に戻って適当にくつろいでチェックアウトの準備に取りかかった。荷物を整理してフロントで鍵を返す。そこでご主人としばらく世間話に興じた。この宿は昭和初期からあるとか、風呂場の注ぎ口はメンテナンスが大変で、恥ずかしながら塩ビホースのほうが手っ取り早くて安いとか、戦時中は俳優の児玉清が四万へ疎開に来ていたとか、凡そそんな感じの話を聞いた。残念なことに児玉清のことはあまり知らないのでなんとも言えなかった。一通り話したところでお礼を言い、いい湯でしたと言い添えて宿を出た。
バスのりばへ行く途中でまた上乃湯に入り、そのあとおばあさんが一人で切り盛りしている焼きまんじゅう屋まで歩き、そこで焼きまんじゅうを一つぺろりと平らげた。小さくふっくらしたパンに秘伝(多分)の味噌をたっぷりしみ込ませて焼いたものだ。長いくしに3つもついている。素朴な感じがするがこれが実に美味だった。噛めば味噌がジュワッと染み出しパンによく馴染んだ。
バスのりばに着いたものの、バスが来るまでにまだ時間があるのでもう一度そばの河原の湯に入ることにした。脱衣場ですっぽんぽんになって掛け湯をして恐る恐る浸かってみると、依然熱かったが昨日よりかは入りやすい熱さだった。バスが来るまでたっぷり堪能した。
河原の湯から出るとやはり心地の良い冷風が頬を撫でた。この時、僕は自分の心が幸福で満たされているのを感じた。改めて温泉の魅力を再認識した瞬間であった。
バスが到着したのでチケットを渡して搭乗する。腰を落ち着けて一息ついていると、やがてバスが動き出した。窓の外の四万温泉が遠のいていくにつれて、川端康成風に言わせてもらうならば、脳裏を四万で肌を重ね合わせた湯たちのことが過った(『伊豆の旅』に収録されている随筆の中で氏は温泉を女性に例えている)。さらば四万温泉。キミのことは忘れないヨ。僕は多分、浴場に欲情している。言ってしまった。
バスは山間の道路をゆったりと進む。四万の町が山の緑に塗りつぶされていく。やがて町全体がすっぽりと山に飲まれたところでようやく、僕は目を瞑って四万での思い出の整理に取りかかる。
どれも素敵なお湯だった。浴場の構造、浴槽の大きさ、立地、景観、湯に向ける想い。泉質は似通っていても、どれも一様ではない。だからこそ、一回一回の入浴の時間を大切にし、存分に休まらなくてはならない。まさしく一期一会。これはどの温泉地でも言えることだ。
次に四万を訪れるのはいつになるのか分からない。五年後かもしれないし十年後かもしれない。あるいはもう二度と訪れることはないのかもしれない。もしそうなってしまったとしても後悔はない。それほど僕は今回、四万温泉を堪能した。四万温泉でそうしたように、次に訪れる温泉も、そのまた次の温泉も、僕は最後のつもりでそこで過ごす時間を大切にしたいと思う。
さて、次はどの湯に会いにいこうか。
とまあこんな具合で四万温泉での記録を締めさせていただく。四万温泉はなかなか見所のある温泉地なので機会があれば是非。