狸たちとの出会い(仮)
とある出会いの話をしよう。
あれはいつのことだったか。数年前の六月ぐらいだったと思う。その頃は森見登美彦氏原作のアニメ作品「有頂天家族」のプレミア試写をやるとかやらないとかいう時期だった。「有頂天家族」は狸たちの世界で繰り広げられる珍事と陰謀と、それらに立ち向かう家族の愛を描いた、京都が舞台の心温まるお話である。そのプレミア試写会の抽選に僕は当選し、いつにも増して浮き足立っていた。
そんなある日、京都の学校から帰ってきた僕は、最寄り駅から自宅へと続く道をいつものように自転車で軽快に走っていた。辺りはすっかり暗くなっている。人影は見当たらず、見上げると街灯に集る羽虫がはっきりと見てとれた。
ちょうどお寺の前の十字路に差し掛かったところで、黒く可愛いらしい影が蠢いているのが見えた。電柱街灯に照らされた蠢くものたちは、僕が近づくに連れてその全容を顕にした。それは狸だった。最初はアライグマかもしれぬと訝りはしたものの、やはり狸だろう。少なくとも浅学な当時の僕はそう思った。何匹もいた。大きいのが一匹、小さいのが3匹。親子であることはすぐ分かった。オスかメスかを咄嗟に判別するほどの知識はなかったけれども、なんとなくその親狸は母狸である気がした。その瞬間、「有頂天家族」の世界と現実とがリンクしたような気がした。とても愉快だった。
僕は5メートルほど離れたところで自転車を停め、束の間だが狸の親子たちに見入った。狸たちはこちらの気配に気付いたようで、自転車を停めてから三秒もしない内に奇妙な鳴き声を発しながら一目散に逃げ出してしまった。僕は咄嗟に彼らの姿をを目で追った。このまたとない機会を前に、やけに昂っていたのを今でも覚えている。気が付けば徐にスマホを取り出していた。もちろん愛くるしい毛玉たちをカメラに収めるためである。狸たちは一斉に路端まで駆けると、フタ付きの側溝の中へと潜り込んでしまった。彼らを見逃がしてなるものかと自転車を放り捨て、後を追って肩から上を側溝の中へと捩じ込んだ。
もし運悪く誰かが近くを通りかかったなら、その人はきっとゴミを見るような眼差しでこのあられもない破廉恥漢の醜態を捉え、侮蔑の篭った視線を容赦なく投げかけただろう。この時、誰も側を通りかからなかったのは幸いである。
僕は恐る恐る中を覗いた。
いた。
子狸たちを身を挺して守るように母狸が前に出て、こちらを警戒していた。かわいそうに。自分が狸だったら間違いなく深刻なトラウマを抱えて余生を過ごしていだろう。しかし、これはまたとない絶好のシャッターチャンス。僕は右手に持っていたスマホを彼らにかざし、容赦なく連写をかました。パシャパシャパシャ。もちらんフラッシュも欠かさない。目も眩むような閃光が側溝内を充たした。嗚呼、僕は今、狸たち非道いことをしている。パシャパシャ。パシャ。
斯くして、僕は狸の親子たちと運命的な邂逅を果たしたのである。
写真の中の狸の目はフラッシュによって妖しく爛々と光っていた。この時撮った写真は今でも大切に保存してある。
後日、残念な事実が発覚した。
狸だとばかり思っていたのものは実は狸ではなかったのである。これまで僕は狸の親子との邂逅について記述したけども、実はその親子は狸ではなくアナグマだった!
狸とアライグマとアナグマとハクビシンを見分けるのは案外難しい。過去にたぬき•むじな事件が起きたのも頷けるというものだ。気になる方は調べてみて欲しい。
ちなみにいうと、むじなは主にアナグマのことを指すらしい。地方によってはタヌキやハクビシンを指したりもするようだ。紛らわしいったらありゃしない。
出会ったのが狸であれ、アナグマであれ、その出会いが運命的であることには変わりないのだが、狸であってくれたほうが幾分か嬉しかったような気もしなくはない。いや、こんなことを言ってはアナグマに失礼だ。
狸でなかったのは少し残念だけど、それでもあの日アナグマと出会えてよかったと思う。