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富士山頂でご来光を見る

 先日、富士山に行った時のことを記す。

 この夏、急に富士山に登りたくなった。急にというのは少し違うかもしれない。それまで胸の内で漫然と燻り続けていた思いがひょんなことから明確な意思となって浮上してきたと言った方が正しいだろう。日本で生まれ育った以上、死ぬまでに一度は富士山に登ってみたいと思うのはごく自然な衝動ではないだろうか。それに登るなら若ければ若いほど危険も少なくなるというものだ。体力があるに越したことはない。

 その日は京都駅からバスで富士山の五合目まで行き、そこから吉田ルートに入った。京都駅を朝の九時に出発し、十七時頃に到着した。外はまだ明るい。ガイド付きツアープランで行ったのだが、スタート直後の歩行速度は牛の歩みで、果たしてこの速度で大丈夫なのかと少し心配になった。長らく歩いているうちにこの速度こそが初心者が富士山を登る上でのベストな速度なのだろうと得心がいった。意外とキツいのだ。空気が薄いのもあるのだろう。五合目からの登山とはいえ、道のりは険しく過酷なものだった。心なしか地上にいる時よりも息が少し苦しいような気がした。眼下には山中湖、河口湖がある。やや遠くの方で街がいくつか広がっているのが見えた。それが箱根、東京の街だということをガイドさんに教えてもらった。途中の休憩所で食べたなんの変哲もないスニッカーズは、今まで食べたどのスニッカーズよりも格別に美味しかった。ただエネルギーを摂取することにのみ特化した激甘で繊細さに欠けるお菓子にこれほどの感動を覚えることができるのはおそらく山の上だけだと思う。

 七合目に到達した頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。眼下の街は闇の中から浮かび上がるように燦然と光を湛えている。ガイドさんが指を差して江ノ島の灯台の在処を教えてくれたが、視認するのは困難を極めた。夜空にはところどころ雲が見え、月はほとんど隠れてしまっている。雨は降っていないが、時折、遠くの方で稲妻が瞬いては消えを繰り返し、それに伴ってゴロゴロと重く不気味で控えめな雷鳴が響く。七合目から八合目にかけては過去の富士山噴火時に噴出したマグマで出来たと思しき岩場が延々と続いていた。一応ストックをレンタルしていたが、己の体力を過信していたため意地でもストックに頼らず登ろうとと試みるも、結局岩を手で掴みながら、這いつくばるようにして登るはめになった。流石に懲りたので途中からは素直にストックを使って登ることにした。

 八合目の山小屋に着いた頃には風は吹き荒れ、気温もやや低めであったことも相まって、防寒着に覆われていない顔はすっかり冷えてしまっていた。時計は二十三時を指している。早速山小屋に入り、幅の広い二段ベッドにツアー客全員で川の字になって、ご来光が見ることのできる時刻に頂上に辿り着けるように時間を調節するため、そしてここまで登ってきたことによって蓄積した疲労を少しでも解消するために仮眠をとった。僕は上の段で眠ったが、そこにあった枕との折り合いが大変悪く、半醒半睡の状態で仮眠時間を過ごした。起き上がる頃には首が少し痛んだ。

外では相変わらず強風が吹いているようで、山小屋の軋む音が引っ切り無しに聞こえ、時々何かが小屋を叩き付けるような音がガンゴンと響いている。もしかしたらトタンかなにかが風に吹かれてめくれかかっているのかもしれない。

 外に出ると、すでにツアー客たちは点呼に応じていた。時刻は午前1時半頃。ちょうど僕の名前も呼ばれたので慌てて応じる。

風は相変わらずその猛威を振るっている。気温が下がっているのか、小屋に入る前よりも若干肌寒い。全員揃ったらしく、ガイドさんは注意事項をいくつか申し渡して出発した。頂上までの道のりは、汗が冷えているせいなのか大変肌寒く、防寒着を着ているにもかかわらず僕は終始凍えていた。途中で寒さが極まり、薄い断熱シートで身を包んでみたが、大して意味を為さかった。

 頂上に着いた時、ちょうどご来光が始まろうといていた。まだ薄暗いが、東の空は微かに橙色がかっている。時刻は四時半頃だった。あたりは登山客で溢れ、控えめながら賑わいを見せている。どうやら海外から来た登山客も多いようだ。深呼吸をすると、清澄で冷えた山の空気が肺を満たした。

 日の出は五時頃だった。東の空に真っ赤な太陽がその眩い片鱗を見せた。その色はさながら日本国旗の日の丸の赤そのもので、年賀状などでこれまで漫然と目にしてきた初日の出の赤色が、ご来光を目の当たりにしたことによって決して大げさなものではないことを知った。

山間には残雪にも似た雲海が湛えられており、朝日を浴びて一層白く鮮やかに映えている。東の空から漏れた新鮮な光を反射させている山中湖は、雲海の前では赤子のように小さく、今にも飲まれて消えてしまいそうなくらい儚げで、どこか哀愁を帯びていた。富士山頂で見た景色は今まで見たどの山頂からの景色よりもスケールが大きく、そしてただ美しかった。

 ご来光を堪能した僕たちツアー客は早速下山に取りかかった。帰りのバスが出発する時間に間に合う範囲であれば各自自由なペースで下りてよいとのことだった。僕はストックを駆使しながらそこそこのスピードで駆け下りた。もっとも、実際に駆けてしまうのは危険が伴うので早歩きの範疇で道を急いだ。帰りは行きにかかった時間よりも遥かに早いペースで下りることができたのだが、延々と単調なジグザグ道を下り続けるのは精神的にかなり堪えた。朝日で視界がはっきりしている分、その道のりの長さをしっかりと認識できてしまうので余計に心苦しい。

 五合目に帰着した時には足はボロボロになっていた。これといった怪我はないが、隈無く痛い。しかし、無事富士山を登頂し、下山も滞りなく終えた僕の胸中は充足感で満ちていた。足の痛みもその充足感で幾分か相殺されているような心地がする。それに最後まで高山病にかからなかったのは何よりだ。

 また登りたい、とは思えなかった。やはり五合目スタートとはいえ天下に名を馳せる富士山は伊達ではない。登山愛好家の間ではそれほどでもないそうだが、登山素人の僕にとってはその道のりは非常に険しく長いものだった。

 五年後か、十年後か、あるいはもっと先か。今すぐもう一度登りたいとは思えないが、いつかまた登りたくなる。そんな予感はしている。多分、次はもっと上手く登れるだろう。富士山に限らず、僕は次に登る山を、あるいは山ではない何かを、今までになく上手に登ることができる。そういった力強い自信を、自負を、僕は富士登山で得られた気がするのだ。


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