僕の部屋のエアコンについて
唐突ではあるが、僕の部屋のエアコンについて記そうと思う。
とある一軒家の二階に位置する僕の部屋の天井の隅にそのエアコンは設置されている。購入してから十年以上の月日が経つ、いわゆる年代物というやつで、どうやら相当ガタが来ているらしく電源を付ければ引っ切り無しにキィキィという金切り音を近隣に撒き散らしている。当然、その音は部屋の中にも響いてくる。残念ながらエアコンが壊れているのか、室外機が壊れているのかは定かではない。どちらか片方だけかもしれぬし、あるいは両方かもしれぬ。
怪音は一向に止まることを知らず、僕はしばしば我が身の安寧、すなわち寒暖に左右されることのない快適空間を取るか、あるいはご近所さんのパーソナルな暮らしに水を差さないように努めるかの極めてアンビバレントな境遇に身を置いている。
直せと言われればそれまでの話だが、なにぶん此の身は居候の身であるーーまあ、所謂実家暮らしなのだが、実質二十歳を過ぎた大の男が何の対価も払うことなく家に留まっている状態を居候と表現してもなんら差し支えないだろう。腐れ学生という、身の振り方さえ定まっていない身の上で厚かましくも自分の部屋のエアコンの修理、あるいは買い替えを両親に進言することのどれほど億劫なことか。いつまでも実家で、アルバイトもせずに限られた穀を食い潰し続けるのはいくら鈍い僕でも良心が痛まないでもない。こうしている今も良心と両親の間で絶えず呵責に苛まれている。お、上手い。
しかしながら、普段からあまりエアコンを使わない僕でも、極まった夏と冬をエアコンなしで過ごすのは少々骨が折れるというものだ。今まで夏場は扇風機の強風を終日浴びて過ごしていたのだが、その扇風機もとっくの昔に使い物にならなくなってしまい、代替品も調達できそうにないので途方に暮れている。
時として誘惑に屈し、やむにやまれずエアコンのスイッチを入れてしまうことがある。そんな時は例に漏れず件のエアコンは断末魔のような叫び声を上げる。叫び声と書いたが何も安易に比喩しているわけではない。何度かその音を聞いているうちに、ふと、これは地獄の底から響いてくる亡者の怨声なのではないかと錯覚し、細やかながら恐怖する瞬間があるのだ。しかし、その悲鳴にも似たソレも機会を重ねるうちにすっかり慣れてしまった。慣れというものは恐ろしいもので、聞けば誰もが嫌悪するであろうその音に対する耐性のようなものが、僕の中で我ともなく育まれていた。喜ぶべきか悲しむべきか。良くも悪くもその音は、今ではそれなりに小気味の良い子守唄のような存在へと昇華しつつある。しんと静まり返った夜闇の中で間断なく響くその音は、さながら暗い荒野を行く夜行列車の警笛のように、冴え冴えと昂る僕の意識を夢うつつの彼方へと誘っていく。夏には蛙や夜蝉、秋には秋虫の鳴き声が混じり合い、心なしか多重奏音楽でも聞いているかのような贅沢な心地になる。そんな時はいつにも増して愉快になるのだ。
そして、善良な近隣住民の安らかな眠りをしばしば阻害するのである。
やっぱり、そろそろ本腰を入れて両親にエアコンについて進言しようと思う。