エピローグ
三ヶ月後の平成二十九年一月。夜の浄ヶ原市民公園、日時計オブジェの隣。
「うん満腹! ごちそうさま!」
巡の料理を食べ終えた女郎蜘蛛ヤツデは腹に手を当てて長く息を吐いた。
「ここ最近、良く食べるな」
「慣れれば意外と、この味付けもイケるね」
「まさかそっちが私の料理に適応するとは思わなかったぞ」
いつもよりも多めに食べたヤツデは、普段よりも多めの金額を支払い、去っていった。
(この三ヶ月で、収入もだいぶ安定したな)
日疋タトの圧力が消えた事で、屋台の売り上げは通常に戻った。
(これはひょっとして、思ってたよりも早く自動車屋台が買えるんじゃ…)
そんな事を考えていると。
「おいっス! 巡っち! 景気はどうっスか!?」
新たにやって来た客は、神仏連の職員、野衾桃だった。
「タトさんは?」
「支部長、今日はパスだって言ってたっス」
「最近、なかなか顔見せないな」
神仏連の支部長が足しげく通うと、他の客が来づらくなるから。というタトなりの気の使い方だった。
「あれから三ヶ月。何か変わった事はあったスか?」
「ねぇな特に」
この三ヶ月。当たり前の日常が続き過ぎて、あの出来事は夢だったのでは、と思えてくる。
(でも、夢じゃないんだよなぁ)
首筋をなぞる。指で触れて若干の凹凸が感じられる程度の、注視しなければわからない小さな傷痕が確かに残っている。
(あの後は、神仏連の力の大きさに、改めて気付かされたな)
消滅したぬらりひょんは、海外に移住した事になっている。火の不始末で実家を全焼させた彼は、屋敷が建て直されるまで海外旅行に出かけたのだが、旅行先の環境を大変気に入り、偉業建設の会長の座を辞して移住を決意。現地の投資家として、相変わらず羽振りの良い生活を送っている。そういうカバーストーリーが設けられている。ハワイの一等地に住んでいるとか、フィリピンで無人島を買っただとか、ドバイの超高層ビルの最上階にオフスを構えているだとか、定期的に根拠の無い噂が耳に入る。
ぬらりひょんの部下だった者達の多くは、彼の能力の影響で、本人の意思と関係なく傾倒させられていた事がわかり、カウンセリングの後、解放された。あののっぺらぼう二人組も、今ではパントマイマーのような多彩な動きで感情を表現するようになっている。
「どうも巡さん。席は空いてますか?」
野衾に続き、今度は蟹和尚がやって来た。
「いらっしゃい。空いてるよ。暖簾外すよ」
「結構ですよ。他のお客さんのご迷惑になりますし」
そう言って彼は頭を蟹から、人間に変え、普通の客と同じ立ち振る舞いでカウンターについた。
「やっぱ良い男だな」
蟹和尚の人間の顔をじっと見つめる。
「オイ。このナマグサ坊主。なに未成年に色目使ってるんスか?」
野衾が彼の脇腹を何度も小突く。
「そんなつもりはありません。やめてくださいってば、痛い、痛いですって」
「ところで和尚、新築の寺の住み心地はどうだ?」
話題は崩壊した寺に移る。
「前よりも立派にしていただいて、大変感謝しております」
両手を合わせて野衾に一礼した。
「そこはもう神仏連の威信が掛かってるんで、出し惜しみはしないっスよ」
神仏連からの潤沢な資金で、寺はより煌びやかさが増した。完成もあっという間だった。
「じゃ、巡っち。注文良いっスか?」
「私も注文を」
その後。食事を済ませ、報告すべき事を一通り話し終えた野衾と蟹和尚は、去っていった。
終電の時間が近づき、店仕舞いを始めようとした時。
「こんな深夜まで大変だね。今日はもう終わりかな?」
「あっ、市長さん。いえ、まだ大丈夫です」
流石に弓削の前では、敬語になる。
「コーヒーを一杯だけ頂こうかな」
飲み食いするつもりで訪れたのだが、店仕舞いしようとしていたため、そう注文した。
「かしこまりました」
紙コップに粉を入れ、水を張った鍋を火にかける。水が沸騰するのを待つ間に、彼の前にシュガースティックを何本も置いた。
「コーヒーは、砂糖をたっぷりと入れて飲まれるんですよね?」
「これは驚いた」
その通りだった。甘党の彼はコーヒーを無糖で飲む事は出来ないでいた。
「ずっと前の広報誌のインタビュー記事に、そう書いてあるのを思い出して」
「読んでいてくれて、すごく光栄だよ」
「ここで屋台が出来るのは、市長のお陰ですから。恩人の事は少しでも知っておきたいっていうか…」
図書館にある資料等で、彼の来歴や市政運営の理念については、一通り頭に入っている。
「ならば君に一つ謝らないといけないね」
「なぜです?」
「私が市長になった理由を知っているかい?」
「前市長だったお父上に憧れてたのと、故郷であるこの街と市民の暮らしをより良いものにしていきたいから。でしたよね?」
実際にはもっと長文で、小難しい言葉がたくさん使われていたが、そんな内容だった。
「少し、語っても良いかな?」
「どうぞ。ここはそういう場所です」
了承を得ると、彼はテーブルに両肘を突き、手を組んで額に当てた。その姿はまるで懺悔するかのようだった。
「本当はね、もっと不純な動機だった。ある女性を救いたいが為に、それまでなるつもりのなかった市長に立候補した」
それは、巡が生まれるずっと前の出来事。
「僕は三十代前半の頃、民俗学者を気取っていた」
地元の伝統継承に一役買ってはいたが、本人としては仕事というよりは道楽に近かった。
「資料を求めて市内の山村を巡っていた時に、その女性と知り合った。彼女は当時まだ十三、四歳だった」
今思えば、一目惚れだったと彼は思う。
「その女性は、悪しき風習を持つ村の住人だった。交流を重ねたある日、彼女はある儀式の人柱に選ばれた身である事を知った」
巡は黙って、ただ彼の言葉に耳を傾けた。
「儀式が開かれるのは一年後。丁度、浄ヶ原市長選挙が執り行われるのと同じ時期だった」
女性を助けるためには、より強い力を持つ必要があった。父の稼業を継ぐのが最も有効的だった。
その一年は死に物狂いだった。父に今まで放蕩息子だった事を詫び、出馬の意思を伝えてからは、人脈の構築、政治家になるための勉強を曜日の感覚を忘れる程明け暮れた。選挙の結果は巡の知っている通りである。
「当選してすぐに、私はその圧倒的な権力を持って村長をなかば脅迫する形で説得した。そしてなんとか、彼女が衰弱死する一歩手前で助け出す事ができた」
そのタイミングは彼にとって、手遅れとも、間に合ったともいえた。
「その後は彼女と一緒に暮らした。籍こそ入れなかったが、僕たちは夫婦だった」
互いに愛し合ってはいたが、彼女は結婚するのを拒んだ。
「僕の任期が終わりに近づき、再び市長選が始まるという頃。彼女は突然、家を出たいと言い出した。お腹に僕たちの子がいるというのに」
彼には最初、その言動の意味が理解できなかった。
「根気強く対話してようやく理由を話してくれた。彼女は、自分の存在が明るみになれば、市長選に影響が出ると思ったらしい」
自身の存在が、他の候補者にとっての絶好のネタになると考えた故の申し出だった。
「元々、彼女を救うために市長になった。だからもう市長の座に未練なんてなかった。けれど彼女はこう言った『もっともっと世界で活躍する貴方を見せて欲しい』と」
彼女はそれを心から望んでいた。
「それから数日後、彼女は家から姿を消した」
職権濫用して探すと、市内の粗末な造りの借家で暮らしているのがわかった。
「場所はすぐ分かった。しかし会うべきか、会わないべきか当時の僕は決心が定まらなかった」
そして無駄に時間だけが流れて行った。
「陰ながら彼女と我が子の暮らしを援助したけれど、それが正しかったのか、今でもわからない」
丁度その時、鍋の水が沸騰した。紙コップに熱湯を注ぎ、市長の前に置く。
「君の家も母子家庭だったろう。父親がいなかったから、苦労したんじゃないのかい?」
「父親っていうのがどういう存在なのか、イマイチわかりません」
「そうか」
彼は俯き、目をぎゅっと閉じた。
「でも憎いだろう? 自分達を捨てた男が」
「母さんが、その男に対して恨み事の一つでも言っていれば、私も憎んでたと思います」
「言っていなかったのかい?」
「むしろ誇っていました。私のお父さんは、大勢の人を助ける英雄なんだと。山一つ動かせる力を持ったデイダラボッチのような人だと」
まるで絵本でも読み聞かせるように言われたのを思い出す。
「そう語る母さんは本当に嬉しそうで、その人の活躍を耳にするのが母さんにとっての生き甲斐なんだとわかりました」
「生き甲斐、か」
そう呟き、砂糖を三本入れたコーヒーを、時間をかけて静かに飲み干した。
「ありがとう。閉店前だったのに悪かったね」
立ち上がり、コーヒー代を置く。
「次の市長選も頑張ってください」
「大丈夫。まだまだ若い候補者には譲らんよ。君のこの場所は、なんとしても守るよ」
とても生気に満ちた表情で、彼は去っていった。
気付けば十二時を回り、日付が変わっていた。
「おっ、もうこんな時間か」
食材をクーラーボックスに全て戻し、調理道具を片付け、屋台を解体してリアカーに乗せて、公園を出発する。
「ん、メールだ」
予約の通知が入っていた。
「九時から十一時まで四名で貸切か。でも誰だ?」
身に覚えのないアドレスに首を傾げつつ、画面をスクロールする。
「そういえば今週、門ストアは飲料水安かったな」
『サイダーを決して欠かさぬよう』最後の一文にはそう書かれていた。
これにて完結です。ここまでお付き合いしてくださり、ありがとうございました。