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三章:平成二十八年十月十七日 ~ 十月十八日

 平成二十八年十月十七日。土曜日。農業祭当日の早朝。

皆本巡みなもとめぐる迦楼羅かるらは屋台を構える場所へやってきた。

「なんじゃ、結局ここなのか?」

日時計のオブジェの隣。そこで迦楼羅は巡から屋台の組み立てを命じられる。

「祭りの会場は一区画向こうではないのか?」

「だって、露天商組合に所属してねぇもん」

露天商組合に所属していれば、祭りの会場で店を開けるのだが、会費が高いという理由で加入していなかった。

「そもそもこの場所で商売する許可貰ってんだから入る意味がねぇ」

「いつの時代も、そういう組合は未加入者に陰湿な事をするが、お主は大丈夫なのか?」

「最初の頃は色々と嫌がらせもあったぞ。でもしばらくしたらパッタリ」

「しばらくとはどれくらいじゃ?」

「始めて二ヶ月くらいか? 化生のお客さんが増えて、軌道に乗り始めた時期かな」

(大方、こいつを贔屓にする妖怪が、牽制をかけたのじゃろう)

迦楼羅の予想通り、巡の屋台を気に入ったとある客が組合に圧力をかけて手出しさせないようにした。その事を巡本人は知らない。

「やぁ、巡さん」

準備中の屋台の前に一人の男性がやってきた。

「え、はっ!? し、市長?」

この町で最も偉い人物が訪ねて来て、慌てふためく。

「今日は開会式の挨拶を任されているんだけれど、それまで時間が空いてしまってね」

暇になったため、秘書の目を盗んでぶらついていた。

「良かったらどうぞ」

丸椅子をひっぱり出して弓削ゆげに勧める。弓削は腰かけると、巡の表情を見て微笑んだ。

「私の顔に何か?」

「ああ失礼。あの頃に比べて、だいぶ明るくなったと思ってね」

彼はここから少し離れた場所に建つ図書館に目を向けた。

「この場所を君に預けて正解だったよ」



■■■



それは巡の母が亡くなり、二ヶ月後の事だった。

「ご多忙の中、わざわざお越しくださいましてありがとうございました」

閉館時間が迫った浄ヶ原じょうがはら図書館の会議室。館長の男性が弓削に恭しく頭を下げる。この日、古くなった蔵書の処分と再利用先についての協議が行われており、彼も出席していた。

「ここの本は市民の財産。僕が出席するのは当然の事です」

出席せず後から会議の議事録に目を通しても良かったが、彼はあえて参加した。

「それでは、僕はこれで」

館長に別れを告げ、図書室を横切った際。窓際の長机に見覚えのある少女がいる事に気付き、思わず足を止めた。

(彼女は…)

机の上に本を詰み、ノートにメモを取る巡の姿があった。

「ここは良く利用するのかい?」

そう声を掛けて対面の席に座る。利用者はもう彼女しか残っていなかった。

「え、あっ、市長……さん?」

「あれから何か困った事はあったかい?」

「いいえ。お陰さまで、不自由なく暮らせています」

相変わらず顔色は悪かったが、二か月前に比べればマシな方だった。

「それは良かった。今日は何か調べものかな?」

「高校を卒業したら、屋台で稼ごうかと思って」

その為に必要な届出や資格、経営のノウハウを調べていた。一週間前から通っていた。

「進学はしないのかい?」

「学費、とても払えませんから」

「奨学金は検討を?」

「利子付きのしかもう残ってなくて、諦めました。良いんです、それほど頭も良くありませんから」

「なぜ、屋台を選んだんだい?」

料理を作る事に興味があるなら、調理師学校に通うなり、飲食店で働くのが普通である。何か別の理由がある気がした。

「母さんは近所の料亭で働いてて、そこでカウンター割烹みたいな事をしていたんです」

女将さんのご厚意で、料亭の賄いを夕飯としてご馳走になった事が何度もあり、その度に、母が働いているのをこっそり見ていた。

「お客と話して、料理を作る。それがとても楽しそうだったんです」

働いている母はとても活き活きしており、幸せそうに見せた。

「私って、ちょっと人と感性が違うみたいで、何やっても楽しいとか思えないんです」

同級生達が盛り上がる話題、娯楽、流行、遊び場。何一つ共感できなかった。

「母さんがいなくなって二週間くらいして、さらに物事に興味が無くなって、一切合切が面倒になって、このまま死んでもいいかなって思えるくらいになって」

この時、彼女の心臓は止まりかけていた。比喩ではなく、本当に身体が死ぬ準備を始めていた。

「そんな時にふと浮かんだのが、母さんが働いてる姿でした」

止まりかけた心臓により、彼女は走馬灯を見た。

脆い心臓というハンディキャップを抱えている中でのイジメ、味覚と人間性を失い、そしてとうとう母まで喪った。挫折と理不尽で埋め尽くされた生涯の中で、数少ない楽しい思い出が、母が働く姿だった。

「私も、アレなら楽しいと感じるかもしれない。母さんみたいに笑えるかもしれない。そう思ったんです」

その瞬間、止まりかけていた心臓が動き出した。縋れる程楽しい思い出が、それくらいしかなかった。しかし、それが彼女を辛うじてこの世に繋ぎとめた。

息を吹き返した彼女は、どうすれば母と同じ事が出来るか考えた。それしか考えられなかった。

「屋台が一番手っ取り早いと思いました」

料亭に勤めたら何年かかるかわかったものではない。

「…」

巡の話を彼は黙って、じっくりと聞いた。

「屋台は始められそうかな?」

「営業の許可申請は通ると思います。必要な資格も数時間の講習で取れるものですし、料理を仕込む場所は、母さんが働いてた料亭の台所を貸して貰います。ただ…」

「ただ?」

「営業する場所が見つからないんです」

それさえクリアできれば、屋台の経営ができた。

「わかった。しばらくここで待っていてくれないかな?」

「あの?」

「すぐ戻る」

席を外し、階段の踊り場まで移動すると、秘書に電話をかけた。

「僕だ。市長が持つこの公園の権限について確認したい。そうか、ああ、つまり僕が書類に印鑑を捺せば通るんだな?」

そこまで話すと、電話の向こうから「何故、一市民にそこまでするのか?」と尋ねられた。

「市のスローガン。その第三項は『挑戦する若者を全力で応援する街づくり』だ。ここで力を貸さない方が市の是に反する」

叱りつける口調でそう言ってから携帯電話の電源を切った。

「待たせたね」

戻って来ると、巡は本を棚に返し終えて、鞄にノートを仕舞っている所だった。

「もし良かったら、あの場所なんてどうだい?」

窓の外。公園の南側にある日時計のオブジェを指さした。



■■■



「それじゃあ僕は行くよ。今日は売れると良いね」

「はい、頑張ります」

元気の良い返事に頷き、弓削は本部のテントがある方向へ歩いて行った。

「行ったか?」

周囲と同じ模様になった翼でその身を包んでいた迦楼羅。翼を広げてその姿を現す。

「なにも隠れるこた無いだろ」

「なんとなくじゃ」



巡たちが屋台の準備を再開させた頃。

祭りの会場の本部が置かれている農業組合のビル。その裏手にある文化劇場のロビーにタトはいた。

「休日出勤とか勘弁して欲しいっスよ支部長」

遅れてやって来た野衾桃のぶすま ももは、そうぼやいてから大きな欠伸をした。ダメージジーンズによれたTシャツ姿、ボブカットの前髪をカチューシャでとめて額を大きく出していた。

「遅いわよブス。私が電話したら五分で来なさい」

「その呼び方、本当にやめてください」

「顔もブスなんだから良いじゃない。化生化した時の方が可愛いくらいよ」

「うう、折角の休日なのに」

「代休申請して明日休みなさい」

「というか、私に何させる気っスか? 他の皆は?」

「アンタだけの特別任務よ」



市長の挨拶が終わり、九時から正式に始まった農業祭。

「ホットドッグ二つ」

「毎度」

公園でも関連の催し物が行われている影響で、巡の屋台の前も人通りが多く、順調に客が訪れた。

「ありがとうございます」

巡が鉄板でソーセージを焼いてパンに挟み、迦楼羅がそれにマスタードとケチャップをかけて客に提供する。

「飯時じゃないのに良いペースで売れてんな」

他の屋台のホットドッグと同じ値段に設定したにも関わらず好調に売れている事に驚く。

「相変わらず、客は化生の比率の方が大きいがな」

「うっせ」

この日なら日疋ひあしタトの目に留まりにくいと考えた常連客も売り上げに貢献してくれていた。

「いつか人間にも味が評価されると良いな」

「そうだな」

そう会話する二人の前に、新たな客がやってきた。

「あっ、いらっしゃい」

まだまだ客足が途切れる事は無さそうだった。



そして時刻は午後の三時。

「在庫は残りいくつだ?」

「もうないぞ。今鉄板に乗っている分が売れたら完売じゃな」

迦楼羅はクーラーボックスを開けて、中が空なのを報告した。

「こんな事なら、二日目の分も持って来りゃ良かった」

ここまで売れるのは予想外だった。

「二人も店番する必要ねぇな。おい」

迦楼羅に千円札を一枚渡す。

「臨時ボーナスだ。これで祭りに行って来い」

「良いのか?」

「千円くらいで有り難がるな。昨日は良い収入だったんだから」

「かたじけない」

「帰って来る頃には完売してると思うから、その時は片付け頼むぞ」

「お安い御用じゃ」

「あと、なんかあった時の連絡用だ」

巡から千円札と一緒にスマートフォンを受け取ると、軽快な足取りで、一区画先にある歩行者天国へ向かって行った。



 「毎度ありー」

迦楼羅が去って十五分後に、ホットドックは完売した。

(それにしても。なんで私、あんな似合わない事したんだ?)

完売の喜びは薄く。彼女の思考は今、「なぜ自分は迦楼羅にあんな大盤振る舞いをしたのか?」という疑問が大半を占めていた。

(どうも、アイツに対して、他の奴には向けた事の無い感情を抱いてる気がする)

それが何なのかを考えながら、迦楼羅の帰りを待っていると。

「やっほー」

巡のすぐ隣。迦楼羅が座り巡の補助をしていた丸椅子に何者かが無断で座った。

「鯖料理でも食いに来たのかタトさん?」

「是非いただこうじゃない」

「生憎品切れだ。運が良かったな」

「あら残念」

白々しい声でそう言った。

「こういう日は大人しくしてて欲しかったんだけどなぁ」

「私の勝手だろ」

「あと一週間でカタが着きそうなのよ。だからそれまでの辛抱」

「嘘臭ぇな」

「本当よ。あと一週間したら『屋台の料理に異常なし』って通知も出す。二度と営業妨害はしないわ。市長の前で誓っても良い」

普段はまず見せない真剣な面持ちだった。

「本部の連中の手が、巡ちゃんに届かないようにしてんだけど、それの準備に一週間くらいかかるのよ」

「私の屋台に通う客が、強くなるのを好ましく思ってたんじゃないのか?」

「あー、そっちに関しては別にどうだって良いわ。レベルアップでも、限界突破でも、好きにしたら?」

あっさりと言い放った。彼女が警戒しているのは、神仏連の本部の動向だけだった。

「考えてもみなさい。こんな人間が優位な法治国家で、厄災クラスの力を得たって一円の得にもならないわよ? 巨大怪獣を追い返せる破壊兵器を人間は持ってて、いつでも使える状態にあるのよ? 力を求めるのが馬鹿馬鹿しくなるわ」

知能が高い者が優位に立ち、金を持つ者が上へ行く現代社会。

「屋台で飲み食いできる知能のある奴らが、それを知らないワケないしね」

「それでも、中には力を求める奴もいるんじゃないか?」

すぐ身近に、力の為に巡の料理を求める者がいるからそう考える。

「何の為に神仏連浄ヶ原支部があると思ってるの? 悪巧みを考える化生も、巡ちゃんに手を出す不届き者も、私達が追い払うに決まってるじゃない」

「本当に今まで私を神仏連の上層部から遠ざけるためにやってたのか?」

「もしかして信じてなかった」

「全く」

「うっわー」

脱力するタト。打ちひしがれているのがよくわかった。

「精神にダイレクトでダメージきてる」

「悪かったよ。だって色々と胡散臭いんだもんアンタ」

「なんでよりにもよって屋台なのかしら? 乗馬とか、囲碁とか、編み物とか、そういう趣味だったらいくらでも応援できたのに」

「屋台だから良いんだよ」

「まぁ、一般人と一線を画すところが巡ちゃんらしくて良いけど」

席を立つタト。

「何にせよ、誤解も解けて良かったわ。とりあえず、残りの一週間は大人しくしててね」

「断る」

「そういう頑固な所、嫌いじゃないんだけどなぁ」

苦笑し、去っていった。



 街が祭りでまだまだ盛り上がっている頃。巡の屋台がある公園から北へ三キロの場所に、標高五十メートル程の小高い丘がある。森がそのまま隆起したような外観から浄ヶ原小山と地元民から呼ばれており、その丘の中腹に建つ真円寺にぬらりひょんは訪れていた。

「本日はどういったご用件で?」

本堂で蟹和尚かにおしょうが彼の応対をする。蟹和尚の背後には、住職が二人控えている。一人は人間の青年、もう一人は顔が魚のイワナになっている化生で、どちらも彼の弟子である。

「儂の趣味を知っておるか?」

「曰く付の品を集める事でしたっけ?」

「そうだ」

ぬらりひょんが引き連れて来た二人ののっぺらぼうが、ジュラルミンケースをそれぞれ一つずつ持って彼らの前に置く。

「吾輩は頭の固い化生でな。このご時世でもキャッシュカードだの、小切手だの、電子マネーだの、そういうモノに抵抗がある。つまり」

のっぺらぼう達が、ケースの持ち手部分にあるダイヤルを回して開錠。その中身を蟹和尚に見せる。

「現物しか持ち歩かん」

右のケースには札束、左のケースには金の延べ板がぎっしり詰まっていた。蟹和尚の背後の弟子二人はアッと息を呑む。

「これと、この寺に納められている御札を交換だ」

半ば決定事項のような物言いだった。

「そういう話は神仏連を通してください」

しかし蟹和尚は普段と変わらぬ口調で返す。

「つまらん嘘を吐くな。寺にある物の扱いは、その寺に一任されているのは知っている。それに、別に悪用するワケじゃない。ただ単に、飾って眺めて悦に浸るだけだ」

「どのような理由、対価でも、御札を譲るわけにはいきません。お引き取りを」

両手を突き、頭を下げる。後ろの二人もそれに倣う。

「馬鹿な者どもだ」

好々爺の顔が一変、目玉を大きく見開き口の両端を吊り上げる。のっぺらぼうが動き、彼の弟子を拘束する。

「なんのつもりですか!?」

振り返り、のっぺらぼう達を怒鳴りつける。

「素直に欲に従って生きておれば良いものを。戒律? 解脱? そんなものに何の価値がある?」

蟹の甲羅にぬらりひょんの手が触れる。

「思い出させてやる、妖怪の本分を。己の力を振るう悦びを」

「ウウっ」

蟹和尚の頭に、ぬらりひょんの妖力が流し込まれる。



 日時計のオブジェの隣。

「戻ったぞ。堪能してきた」

迦楼羅が帰って来た。

「早いな、もっとゆっくりして来ても良かったんだぞ」

「十分じゃ。良き物に出会えた」

その手には祭りで買った瓶入りのサイダーが握られている。

「風情のある意匠じゃ。夏にこれを飲んだら、さぞ心地良かろう」

「ご満悦な所悪いが、片付け頼むぞ」

「よしきた」

迦楼羅の手により、普段の数倍の早さで片づけが終わり、あっという間に家に戻ってくる事が出来た。

「器具の片付けも儂がやっておく、お主は休んでおれ」

その言葉に甘えて、巡は手提げ金庫だけを持って、先に家の中に入って行った。

(よくもまぁ、あの細腕で今までここを往復したのう)

道具が満載のリアカーを庭の端に寄せながら思う。

(調理器具の扱いだって、楽ではないというのに)

リアカーから、鉄板を引っ張り出して庭先にある蛇口で洗う。片付け作業は思いのほか、重労働だった。

片づけが終わり、軽くなったリアカーの縁に腰を下ろす。

(さて、こいつを飲みきったら戻るとするか)

そう思い立ち、鈴懸からサイダーの瓶を取り出した時。家の前を、この街で最も権力のある人物が、横切った。

「…」

迦楼羅は静かに、その後を追った。



祭りの会場から徒歩十五分。弓削は『浄ヶ原文化劇場』と書かれた看板が立つ施設内に足を踏み入れた。祭りへの配慮で、この日は工事を行っておらず、敷地の中は無人だった。

弓削は、コンクリートが剥がされ、土が剥き出しになる地面を歩き、プレハブ小屋のすぐ横にある自販機の前で立ち止まり、五百円硬貨を投入した。

「何か飲むかい?」

振り返り、迦楼羅に尋ねる。

「サイダーはあるか?」

特に動じることなく、迦楼羅は答えた。

「普通の味と、この市の名産品であるニンジンを使ったニンジンサイダーがあるよ?」

「普通ので良い」

「この市の名産品のニンジ…」

「普通のが良い」

「ニンジンの甘さと炭酸がほど良く調和してて…」

「くどい」

少し残念そうな顔をしながら普通のサイダーのボタンを押し、自分用に加糖の缶コーヒーを買った。

「ここで立ち話もなんだ。中で話さないかい?」

軽く押すだけで、劇場の扉はあっさりと開いた。

ロビーを抜け、通路をしばらく進むと、両開きの防音扉を明けた。

「ここなら落ち着いて話せるだろう」

そこは小さなコンサートホールだった。スクリーンが吊られた舞台の前に、横一列が二十席で構成された列が十五並んでいる。十席目と十一席目の間は観客が通るための中央通路になっており、距離が空いている。

扉を開けた弓削は、すぐ目の前、スクリーンから遠い十五列目の十番目の座席に座り、迦楼羅は十五列目の十一番目の席に座った。二人の間に一メートル程の距離ができる。

「昔は旬の過ぎた映画を格安で上映していて、僕も良く通ったものさ」

缶コーヒーで手を温めながら、弓削は首を回してホールを一望する。

「ちょうど今は改修中で、もうじき壁もステージも一新される。とても築四十年には見えないだろう? ここを建てた偉業建設の腕には、本当に驚かされる。今回も偉業建設が手がけているから、きっと素敵に生まれ変わるだろう」

「その話は長くなるのか?」

遮り、サイダーを一口飲んでから迦楼羅は口を開く。

「弓削敦。齢六十歳。二十四年間、一度も途切れる事なく市長を続けている」

迦楼羅は図書館にあった、彼に関連する資料に目を通し。暗記した内容を読み上げる。

「市への移住者は年々増加。政策でも批判らしい批判は無く。地域の行事にも積極的に参加する、か。良き長じゃな」

「ありがとう」

「父も祖父も、曾祖父も市長だったらしいな」

「弓削家は八百年前、ある大妖怪を封印した功績が認められてね。それ以来、政に深く関わるようになったんだ」

図書館の資料には、浄ヶ原の藩主も弓削家だったという文献があった。

「では、お主の息子が次期市長か。良い身分じゃな」

「それはどうだろうね」

「何故じゃ?」

「子供がいないんだ。未だ独身でね」

「その地位なら、選びたい放題じゃろうに」

「昔、恋人がいたんだけど、病気で亡くした」

「ずいぶんと律儀な男じゃな」

サイダーをもう一口飲もうと思ったが、すでに空になっていた。

「それで、僕にどういった用件かな?」

「弓削の末裔がどんな面をしておるか拝んでやろうと思ってな。相変わらず小憎らしい顔をしておる」

「君が迦楼羅さんだね?」

「ほう。儂を知っておるのか」

「天狗の総大将が岩棺に封じられている事は、一族の間でのみ代々語り継がれていた」

このような可愛らしい容姿をしているとまでは聞かされていなかったが。

「封印されている間の意識は?」

「無かった。瞬きした間に八百年も過ぎておった」

それが幸か不幸か、迦楼羅にはわからない。しかし、これだけは言えた。

「たった一回瞬きした間に一族は滅び、故郷はダムの底に沈んだ。こんな理不尽があるか」

「憎いかい僕が?」

「憎いに決まっておろう」

即答だった。しかし、その声色には殺意も怒気も籠ってはいなかった。

「じゃがまぁ。妖怪が祟れるのは七代までじゃ。それより先は祟る気になれん」

八代先の祖先など他人に等しいというのが妖怪達の持論で、彼女もそれには同感だった。

「お主も、大昔の先祖が買った恨みで死ぬなど、馬鹿らしいじゃろ?」

「全くだ」

「最も、お主に戦う意思があるなら話は別じゃがな。今ここでもう一度、封印してみるか?」

その挑発に弓削は静かに首を横に振った。

「天狗を討った褒美に都仕えとなった弓削家は、退魔の力を全て手放した。僕も父も祖父も、印の結び方も、祝詞も何一つ教わっていない」

それどころか、化生は良き隣人と教わって生きてきた。

「退魔の技術こそが弓削家の専売特許であろう。手放す必要がどこにある?」

「天狗が消えた次の年、人間の長と、とある妖怪は共存の道を選び、共に歩むと宣言を出した」

その時から、お互いに牙となるものを捨て始めた。

「今のような社会が出来たのは、ほんの最近さ。八百年の歳月と、たくさんの犠牲を払い、ようやくここまで漕ぎ付けた」

「儂らもその犠牲の一つだったというわけか」

今ならわかる。人間が宣戦布告してきた理由が。

「天狗は邪魔だったのじゃな。人と妖怪が共存する新しい世界には」

天狗はその性質上、他種族との共存を望まない。何より人間を見下していた。

「天狗だけじゃない。共存の障害になる存在は、人、化生、物、分け隔てなく排除された」

全てを排除し終えてから、共存の宣言が出された。

「結局、優れた妖怪と謳われた儂ら天狗も、時代のうねりの中では無力じゃったワケか」

脱力し、深くシートに座り込んだ。



文化小劇場のロビー。

「さて、どうなったかしら?」

歩くタトのその手には、全長が八十センチある大型のクロスボウが握られていた。

(これ使うの久しぶりだし)

屈強な成人男性が両手でやっと扱える重量のそれを、片手で軽々と持ち上げて壁に向ける。クロスボウの先端にはレーザーサイトが取り付けられており、壁に赤い点が浮かぶ。

「よいしょっと」

木製のグリップをしっかりと握って引き金を引く。発射された三十センチの長さの鉄芯は、レーザーサイトが照射した位置と寸分違わぬ場所に刺さった。

「よし、腕は鈍ってないわね」

矢を撃ち出してすぐ、内蔵されたモーターが回り、弦が素早く巻き戻る。弦が完全に引き絞られると、発射台の溝から、内部に収納さえていた矢がせり上がってきて装填が完了した。アンティーク品のような外見なれど、最新の技術が詰まっていた。

「もうちょっと威力上げとこうかしら?」

コンサートホールの扉の前で立ち止まり、矢の補充と、弦の張りの調整を、手早く終わらせた。

「八百年ぶりだし、私だってわかるかしら?」

戦の支度を万端にしてから目の前の防音扉に手を振れて、音を立てぬよう、慎重に開けた。

開けると、すぐ目の前で、天狗の長と市の長が話していた。

「これからどうするつもりだい? 一族を代表して詫びたいという気持ちはある。戸籍の手配、住まいの提供から、生活の支援。出来る限りの援助はするつもりだ。生き甲斐探しだって手伝おう」

「その必要はない」

「なぜだい?」

「生き甲斐はまだ失っておらん。力が戻ったら、儂はここを発って全国を行脚する」

ダムから帰って来て以来、ずっと考えていた。今の自分が何をすべきかを。何が出来るかを。

「始まりの天狗である儂がすべき事は一つ。生き残りや、儂のように封印されている同胞が何処かにおるやもしれん。彼らを束ね、一族を復興させる」

「それはオススメできない」

「何故じゃ?」

「神仏連が黙っていないだろうからね」

「その神仏連というのはなんじゃ?」

巡や蟹和尚から何度か聞いた名だが、その全貌はまだ調べきれていない。

「鎌倉時代の初期に結成された、化生を管理する集団だよ。時代と共に名前や組織形態を変えていき、現在は化生にとっての行政機関として機能している」

「なるほど、面倒な連中じゃな」

「君が浄ヶ原市民になるのなら、僕は市長として君を全力で守ろう。そうでないなら僕は何もしてあげられない。だからよく考えて欲しい。市に留まりながら仲間を探す方法だってきっと…」

「ッ!」

弓削の言葉の途中、迦楼羅は座枠を蹴って前方に跳んだ。背後から不穏な気配を感じたためである。その直感は的中し、たった今座っていた背もたれから、鋭利な先端の鉄芯が生えた。

「何奴っ!?」

八列目の座席の背もたれの上に、右足の爪先だけで器用に着地し、襲って来た者の顔を見るために振り向こうとする。

「くっ」

しかし、そこへ二発目の矢が飛来。更に前方へ跳躍し、身を捩って躱す。躱し終えても間髪入れずに三本目の矢が射出される。

「『燕尾えんび』!」

まだ空中にいた迦楼羅は、ツバメの翼を模した鋼鉄の刃を顕現されて矢を払い落としてから、舞台と一列目の間の床に降り立つ。そうやく相手の顔を確認できた。

「相変わらず獣じみた反射神経ね」

「『相変わらず』じゃと?」

まるで自分を知っているかのような口ぶりの妙齢の女性を見て訝しむ。

「この顔に見覚えない? あの頃よりもほんのちょーーーとだけ成長しちゃったんだけど」

言われ、そして気付く、その顔には、かつての部下だった娘の面影があった。

「未来へようこそ、迦楼羅様」

「…お前は」

奥里美山での、ぬらりひょんの言葉が蘇る。

『是害坊とかいう天狗が裏切った事で、集落に張ってあった霧が晴れ、それが天狗の崩壊に繋がった』

あの時は、呆然自失の中でただ聞き流してしまっており、その情報の重要さに気付いていなかった。

「是害坊ォォォォ!!」

叫び、弾丸のような速さで突出し、中央通路を一瞬で駆け抜け、扉の前に立つ彼女へ肉薄する。

「そんな古くてダサい名で呼ばないでよ」

タトはクロスボウを足元に捨てて、長羽織の袖から短剣を取り出していた。

「貫け! 『燕尾』!」

彼女の心臓目がけて、前に翼を突き出す。

「今は日疋タトっていうお洒落な名前があるんだから」

刀身が鞘に納まったままの状態で翼を受ける。胸のすぐ手前で翼は止められた。鉄拵えの鞘と翼、鉄と鉄が擦れる、まるで鍔迫り合いのような音がコンサートホールに響く。

「答えろ!! 貴様がなぜここにいる!!」

「生きているからに決まっているでしょう。足だってちゃんとあるわよ?」

日疋タトは涼しい表情でそう返した。

「なぜ裏切った!?」

「裏切った? アイツ等が私を味方だと思った事なんて一度もなかったでしょうが。知ってるでしょ? アイツ等が私にした仕打ち」

「それが滅ぼして良い理由になるか!!」

「人間には勝てないって事を、一番理解してたのはアンタじゃない? 私が寝返っても、寝返らなくても、天狗の負けは決まっていたわ」

「他に道はあった! お主と儂が上手く立ち回れば、人間との誤解を解き、生き延びる未来もあった!!」

迦楼羅の怒りに反応して、翼の先端が激しく小刻みに揺れる。

「無かったからこうなったんでしょうが」

タトは鞘で翼を払い上げてから身体を引き、この鍔迫り合いのような状況から脱出。そしてすぐさま抜刀した。刃渡り三十センチ程度、極限まで磨かれた鏡のような刀身と、その表面に浮かぶ不規則に波打つ刃紋が外気に晒される。タトは鞘を捨てると、両手で柄を握った。

(なんじゃこの感覚?)

タトの剣にただならぬ気配を感じた迦楼羅は、本能的にツバサを盾のように前にかざす。

「どっらぁ!」

まるで野球の打撃フォームのように、力いっぱい短剣をぶん回した。

「ぐぅっ!」

翼が弾かれて、迦楼羅は大きくのけ反った。

(なんじゃ今のは!?)

威力もそうだが、彼女が驚いたのはもっと別の事だった。短剣の刃は、翼に届いてはいなかった。

「まだまだぁ!」

不可解な現象に戸惑う迦楼羅に次の一撃が迫る。今度は上から下。大上段からの一閃。迦楼羅は全力で後方へ跳んで回避。しかし今度も、十分な距離があったにも関わらず、下駄の爪先部分に刀傷ができた。

(間違いない。あの剣、妖刀の類じゃ)

短剣を観察する。そして、自分の持つ記憶の中に、一本だけ見知ったものがあるのを思い出す。

「その刃紋。まさか、鞍馬天狗の宝刀、今剣いまのつるぎか!?」

「気付くのがちょーーとばかし遅かったわね」

「なぜ貴様が!? それは元々、鞍馬天狗が牛若丸に譲った刀のはずじゃッ!!」

大昔、鞍馬天狗という大妖怪がいた。彼は自分の長刀を打ち直して作った護り刀を、とある人間に餞別として持たせた。それが今、タトの手にあった。

「苦労したのよ。衣川の戦いで、人間からも妖怪からも気付かれずに回収するのは」

柄に頬擦りをする。その表情を見て、かつて彼女が鞍馬天狗に憧れ、あの刀を欲しがっていたのを思い出す。

「当時、宝刀だったこれも、今じゃ妖刀の類になっちゃってね」

今剣を下に向ける。地面に触れていないにも関わらず、地面に切り込みが入った。

「この刀。元が長刀だったせいか、どうも自身の刃の距離を勘違いしちゃってるみたいでね」

鞘から抜いた瞬間、かつてあった刃が、不可視の状態で出現する。それがこの刀に備わった異形の力である。

「折れず曲がらず、切れ味はあの頃と変わらず」

切っ先を向ける。しかし、そこへ。

「話が違うぞ」

二人がにらみう合うその間に弓削が割って入る。両手を広げてタトと対峙した。

「僕が彼女を浄ヶ原市に留まるよう説得している間は、何もしないと約束したはずだ」

「国中歩き回って天狗の復興ぉ? 立派な内乱陰謀罪じゃん。無理無理。生かしておく理由が無いわ」

剣先を左右に振って、彼をそこから退くように促す。

「まだ僕と彼女の話は終わっていない」

しかし彼は毅然とした態度を崩さない。タトは呆れたように溜息を吐いてから、天井を仰いだ。

「ブス、市長を連れてここを離れなさい」

「了解っス」

直後、天井から巨大なモモンガが降ってくる。最初の段階から、そこに張り付き身を潜めていた。

「失礼するっスよ市長」

長い尾を彼の腰に巻き付け、尾の力だけで持ち上げる。

「待ってくれ! まだ話は…」

尾を振りほどこうと抵抗するも虚しく、緩やかに歩く野衾と共に扉から退場させられた。

「全く。とんだ邪魔をしてくれたわね……ん?」

中央通路で睨み合っていた迦楼羅の姿が忽然と消えた。瞬きしたその一瞬である。

「どこいったアイツ……なんてね」

足元に置いたクロスボウを爪先で蹴りあげて、右手で掴む。掴んですぐに真横、彼女から見て右側、何も無い空間に向けて引き金を引いた。射出された四本目の矢は、壁に刺さることなく、その途中の空間でピタリと止まった。

「同じ天狗にそれが通じると思ってるの?」

その言葉のすぐ後、突然迦楼羅が姿を現した。周囲の景色に溶け込む能力を持つ翼が矢を受けた事で擬態が強制解除された。

「チィ」

翼に刺さった矢を抜き、座席の中へ飛び込んだ。タトにとって追撃するまたとない機会だったが、クロスボウの装填数は四本まで。装填を終えた頃には迦楼羅の姿を見失っていた。

(どこに隠れた?)

椅子の林は小さな身体を隠すには最適だった。

「すごいでしょコレ? 文明の利器ってヤツ?」

座席のどこかへ潜む迦楼羅へ話しかける。

(乗って来るかしら?)

「そんな玩具に頼るとは。弓の名手の名が泣くぞ?」

すぐに返事は帰って来た。

「あんな真っ直ぐ飛ばない不良品、こっちから願い下げよ」

クロスボウを構えながらゆっくりと中央通路を降りていく。

(最前列の右端)

声の反響具合から迦楼羅の位置を特定した。

「本当は拳銃とかバンバン撃ちたいんだけどね、財団法人も所詮は民間組織だから、火薬類の使用は許可されてないのよ」

五列目まで降りてきたタトは足を止めて、すぐ隣のシートに足をかけた。

「アンタを仕留めるには十分だけどね!」

座席を踏み台にして高く跳ぶ。一列目の右へクロスボウを向ける。

しかし、そこには誰もいなかった。

(おかしい、声は他の位置からは聞こえなかった)

振り向きあたりを確認する。そしてすぐに自身の感覚が誤った理由を知る。

(やられた)

振り返った真正面。同じ一列目の左側に迦楼羅はいた。その背中には白い、ふんわりとした輪郭の翼が生えていた。

(フクロウの羽で音を喰ったんだ)

迦楼羅は座席の中に隠れた際、音を吸収する能力を持ったフクロウの羽をばらまきながら進んだ。タトの言葉に返事をした際、設置された羽が声を吸収した事により、タトに位置を錯覚させていた。迦楼羅は白い羽を引っ込めると、今度はその真逆の色、墨のように真っ黒な翼を出現させ、翼から一本羽を引き抜く。

「ヤバっ」

その翼、カラスを模した翼の羽が持つ特性をタトは知っていた。

(あれは掠っただけでもアウト!)

一瞬で昏睡状態に陥らせる神経毒を持った羽が、タトに向けて放たれる。回避が間に合わないタトは咄嗟にクロスボウを前にかざす。側面の木板に羽が突き刺さった。

「運の良い奴め」

追い打ちはせず、再び座席の中へ隠れる。

(またカラス羽で狙う気?)

しかし、その予想は外れた。今度はスクリーンから一番遠い十五列目の後ろからひょっこり顔を出して舞台の前に立つタトを見下ろしながら右腕を挙げた。右腕には、表が黒、裏が白色のっぺりとした板のような物が、ガントレットのように装着されていた。

「押し潰せ。『海拿かいな』」

強化された腕で座席を殴る。容易く座席は吹き飛んだ。

「その程度!」

その場から離れず、短剣で飛来した座席を打ち払う。迦楼羅が座席を続けざまに二つ飛ばすが、それも全て薙ぎ払った。

「是害坊!」

椅子で十分に体勢を崩せたと判断した迦楼羅は背中の羽をツバメに変えて吶喊する。

「死して詫びよ!!」

「てめぇが死ね!!」

固く鋭利な翼と、不可視の刀身が何度もぶつかり合う。

(決め手に欠けておる)

タトの剣術は守りが固く、妖刀は何度打ち込んでも折れる素振りを見せない。

(増援が来るやもしれん)

先程の野衾がいつ戻って来るかわからない。今が引き際だと判断した。

隙を作れないかと画策する。

「棒を吐き出す玩具に盗品の妖刀。厳しい修行の末に得た神通力で、多くの敵を屠ったかつての術師はどこにいった?」

「時代は変わったのよ。人間は妖怪を殺傷する事を目的とした陰陽道の技を、妖怪は人間を殺傷する事を目的とした妖術を完全に秘匿し、放棄する道を選んだわ」

彼女もそれに従った。

「神通力は修行を怠れば、いずれ使えなくなるからね。今じゃ肉体強化くらいにしか、妖力の使い道がないわ」

「嘆かわしい事じゃな」

「アンタだって、人間に媚び売って暮らしてんでしょうが。巡ちゃんも災難ね」

「知っておるのか、あの小娘を?」

「そりゃあ禍福を生み出す貴重な子だもん。ずっと気にかけてたわ」

幼い頃から見守って来た。

「気に掛ける、とは片腹痛い。何も知らんくせに」

「知ってるわよ。あの子の事ならなんだって。学校の成績、屋台の売り上げ、スリーサイズ、入院履歴に至るまで」

「ならば当然。味覚障害なのも知っていよう?」

「味覚障害? あんた何言って…」

「あとで本人に直接聞け! 信頼されておるのならな!!」

タトが動揺したその一瞬。

「払え! 『円鷲えんじゅ』!」

燕尾を消して灰色の翼を出現させ、音と強風を発生させる。

「うおっ!?」

腕を挙げて強風から顔を守るタト。風が落ち着てから腕を下ろすと、コンサートホールの扉を蹴破る迦楼羅の後ろ姿が見えた。

「逃げんな!」

急ぎクロスボウを拾って引き金を引くも、矢は閉じた扉に阻まれた。

「くそっ」

その後を追い、廊下を出たタトは無線機を取り出して、近くで待機しているであろう野衾と交信する。

「(あーもしもし。そっちに逃げたから追跡しなさ……ってあれ?)」

喋っているはずなのに、何も聞こえなかった。足元を見ると、白い羽が落ちていた。

「(相変わらず抜け目ないわね)」

悔し紛れに、フクロウの羽を踏みつけた。



皆本家。

「あいつどこ行った?」

巡は、何時までたっても居間に来ない迦楼羅を不審に思い、玄関から外を眺めた。

「図書館にでも行ってんのか?」

居間に戻り、腰を下ろして天井を見上げる。

「そういえばアイツに、携帯持たせたままだ」

仕事用に使うスマートフォンを取り出す。仕事とプライベート用は、失くした時にすぐ探せるように、GPSでお互いの場所がわかるアプリを入れてあった。

「別にアイツが心配ってワケじゃないからな」

誰に対してなのかわからない言い訳の後、アプリを起動させる。画面に地図が表示されて、地図上に赤い点が浮かび上がる。

「なにしてんだアイツ?」

赤い点は、障害物を無視して一直線に真円寺に向かっていた。



 屋根から屋根へと飛び移り、迦楼羅は真円寺を目指す。寺に納められている物に用があった。

「近くで見ると立派な門じゃな」

遠巻きに見た時は何も感じなかったが、間近で見ると威圧感を感じた。

「……なんじゃこれは?」

しかし、山門を潜ったその先は状況が一変していた。

「戦でもあったのか?」

本堂に禅堂、書院、鐘楼までもが倒壊していた。崩れた建物ばかりの中で、迦楼羅は動くものを見つける。

「何があった蟹和尚!?」

壁が剥がされた本堂の中、壁に背中を預けてぐったりと項垂れる蟹和尚に駆け寄る。

「み、んな…は?」

他の住職たちを心配していた。

「わからん。ここにはお主しかおらんようじゃが」

見渡すが、彼以外にここの住人は見当たらない。血痕も無いため、犠牲は出てはいなさそうだ。

「良かった、どうやら逃げられたよう、ですね」

「誰にやられた?」

「私、です。たぶん、いえ、きっと」

目が頭の中に引っ込み、両手で頭を抱える。

「これは全て、暴走した、私が……ウウウ」

「おい! しっかりせんか!」

「貴方も逃げてください、早く。でないと、私が、また」

「その前に、何があったのかをちゃんと説明し…」

言葉を言い終わる前に、迦楼羅は腹に強烈な打撃を受け、本殿の外まで吹き飛ばされる。身体を打ち付けながら転がり、鐘楼の瓦礫にぶつかりようやく止まった。

「全く。私物を取りに来ただけじゃというのに、とんだ藪蛇じゃったわ」

何事もなく立ち上がる。さほどダメージは受けていないようだ。

「ソモサン。四手八足両目天ヲ指スハイカニ?」

本堂の屋根が吹き飛び、中から声が聞えて来た。

「せっぱ。それは今のお主の事か?」

「ゴ明察」

壁を押しのけて出て来たのは巨大な蟹だった。一軒家と同じくらいの大きさ、ハサミのサイズは軽自動車と同程度である。

「お主を正気に戻してから、団扇の在処を訊くとしよう」

化け蟹は、その小さな身体めがけて鋭利なハサミを突き立てる。迦楼羅は軽く跳んでそのハサミの上に乗ると、顕現させたツバメの翼で足元のハサミを斬りつける。斬撃はわずかに表面を削る程度に留まった。

(固いか)

ハサミの付いた腕を足場にして、化け蟹の身体をいっきに駆け上がる。

「『烏刻うこく』」

翼をカラスに切り替え、その羽を一本手に取ると、突き出している目に向けて放る。だが、羽の先端より蟹の目のほうが固く、羽は弾かれた。

「斬っても刺しても駄目だというなら」

背中の甲羅の上に乗っかり、ペンギンの翼を腕に装着し、甲羅の中心に、手刀を叩き込む。化け蟹は大地に全身を投げ出すようにうつ伏せで倒れた。

「正気に戻ったか?」

地面に降りて、眼球に話しかける。しかし、化け蟹はすぐに起き上がり、両手を広げてその場でコマのようにスピンした。広範囲を巻き込む攻撃ではあったが、すばやく伏せることで事なきを得た。

けれど安心したのも束の間、八足の足で高く真上に跳び上がり、右のハサミを金槌のように振り下ろしてきた。

「もっと蟹らしい動きをせんか!」

ハサミが降りて来るよりも先に懐に潜り込み回避。右ハサミの生えた腕の根本、殻の薄い関節部分にツバメの翼を叩き込む。翼は半分まで斬りこんだが切断には至らなかった。

「ぐぉ! ぬ、抜けん!?」

甲殻に刃がガッチリと食い込み。引く事も押す事も出来ない。そうこうしていると、背後から左側のハサミが迫り、その開いたハサミの中心に迦楼羅の身を収める。

「待て待て待て!」

胴を真っ二つにすべくハサミが閉じられる。咄嗟に身を捻るが、僅かに間に合わなかった。

迦楼羅の身は無事なものの、翼の根本が挟まれ、数トンの力をもってせん断されて、迦楼羅の身体から離れた。燕尾は右腕の関節に刺さったまま静かに揺れていた。

痛みは無いものの、こうなってしまっては再生するまでかなりの時間を要するため、しばらくは使う事ができない。

「こんのぉ!」

ペンギンの翼で、消失途中だった燕尾を殴る。燕尾がくさびの役割を果たして化け蟹の右腕を切断した。落ちた腕がズシンと地面を揺らす。

落ちた右腕をペンギンの腕でガッチリ掴み、力にものを言わせて振るった、化け蟹は自らのハサミに身体の側面を思い切り叩かれ、その衝撃で、本堂へ突っ込み、反対側の壁から出て来た。それによりついに本堂は端の柱を残して完全に倒壊した。

「む?」

辺りに散らばった本堂の瓦礫、その中にいくつか重箱が混じっていた。もしやと思い近づく。札が何枚も貼られた異様な風貌の一段重箱を見つけた。

「儂を封じておった御札と文面が似ておるの」

早速拾い上げ、開けようと試みる。

「くおおおおおおお…」

どれだけ力を入れても蓋が開く気配はない。

「こんな時、アヤツがおれば」

そう思った時に。

「なんだこりゃ?」

山門の方から声がして、顔を向けると巡の姿があった。

「大砲でも撃ち込まれたみてぇになってんじゃねぇか」

「何しにここへ来た!?」

「てめぇが何時までも携帯持ってるからだろうが、それよりなんだこの状況!?」

合戦場跡地のように荒れ果てた神社を見渡す。その最中、本堂の瓦礫が大きく動いた。

「伊達に長く生きておらんというわけか」

仰向けに倒れていた化け蟹の足がピクピクと動き始めた。

「なんだあのデカイ蟹? 和尚の知り合いか?」

「本人じゃよ。何者かに無理矢理、あの姿にさせられたようじゃ」

巡に重箱を放る。

「死にたくなければ、その箱を開けろ」

化け蟹は巨体をゴロリと転がして起き上がる。切断された右腕の断面から、すでに新しい腕の再生が始まっていた。

「開いたぞ」

あれだけ力を込めても開かなかった蓋が、巡の手であっさりと開けられる。

「これを探してたのか?」

出て来たのは鳥の翼骨だった。肩から指先までの、三本の骨が連結し、構成されている。

「うむ! まさしく儂の団扇じゃ! その札も剥がしてくれ!」

箱と同じように、団扇も御札で雁字搦めにされていた。

化け蟹は巨大な目玉を一度引っ込め、すぐに出す。その先端の黒点は二人を見つめている。

「命令ばっかりしやがって、バイトだろテメェ」

大妖怪ですら剥がせない封印の札。それを巡は事も無げに剥がす。封印による影響か、骨はどこも劣化しておらず、時の流れをまったく感じさせなかった。

(でっけぇ手羽先だな)

これ一つで何人前になるのだろうかと考える。

「見惚れてないで早う渡せ!奴が来る!!」

化け蟹は身体を前に傾けて、四対の足で突進してきた。

「なんで蟹なのに前向きに歩くんだよ!」

「儂が知るか! 早う渡せ!」

「わぁってるよ!」

全ての戒めから解かれた翼骨を放る。迦楼羅は骨が一番太い、根元の部分を握った。

「起きろ」

手にした翼骨にそう呼びかけて、妖力を注ぐ。翼骨の先端から真ん中に掛けて、純白の羽が生えた。ようやく団扇らしい見た目になった。

すぐそこまで迫っている化け蟹を見据える。

「一切合切、吹き飛ばせ。『大鳳たいほう』」

居合のような構えから腕を振り抜く。目の前の化け蟹の巨体が浮き上がり、まるで枕のように軽々とその身は弾き飛ばされた。化け蟹は緩やかな放物線を描きながら、五十メートル先に落下する。小さな地響きがしたのを巡は確かに感じた。

「なんなんだよその団扇。台風発生機か?」

一度扇げば強風を生み出す団扇。まるで夢物語から飛び出してきたような道具だった。

「この翼骨は、妖怪の翼を口寄せできる特殊な代物でな。今のは大鳳という、一打ちで嵐を起こす妖怪鳥の羽を口寄せした」

「すげぇ骨なんだな」

「当然じゃ、なんせ元々は儂の左翼の骨だったからな」

「そうなのかよ! 思いっきり触っちまったじゃねぇか!」



 寺と森の敷地境界線。傾斜が急になり始めるその場所に、蟹和尚は倒れていた。

「大丈夫か和尚? 良い感じに出汁が出そうな顔してるぞ?」

蟹の頭に人間の胴体、普段の姿に戻った彼の姿は酷い有様で、顔の甲羅は何ヶ所も罅が走り、隙間から液体が滲みだしている。

「助かるよな?」

「この程度なら死なんじゃろ。相当苦しいとは思うが」

それを聞いた巡の顔付きが神妙なモノになるのを、迦楼羅は見逃さなかった。

「手当したいか?」

「そりゃまぁ、餓鬼の頃から世話になってるし」

「そうか、では一つ、試すとするか」

迦楼羅は鈴懸の隙間からペットボトルを取り出す。弓削が自販機で買ったサイダーが入っていたものである。

「これに水を限界まで入れて来い」

言われ、山門近くにあった水道から水を汲んで戻って来る。

「満タンにしたぞ、これからどうすれば良い?」

「手を見せろ」

巡の手を取ると、彼女の親指の腹に自らの爪を押しあてる。

「少し痛いぞ」

素早く爪を擦らせた。出来た小さな傷口から、ゆっくりと血が滲み出す。

「一滴で良い、それ以上は猛毒だ」

親指を下に向けて、滴った一滴だけをペットボトルの中にきっかり垂らす。

「軽く振ってから飲ませよ、一口で十分だ」

ゆっくりと傾け、観音開きの口に水が届いたらすぐ戻した。

「かっはっ!!」

まるで電気ショックでも受けたかのように、蟹和尚の身体が跳ねた。

「あれだけ薄めてもまだ濃かったか」

「大丈夫なのかこれ?」

「良く見ておれ」

傷口から煙が上がり始める。煙が止むと、その箇所は綺麗に修復されていた。

「これなら後遺症も残らんじゃろう」

「そうか良かった……っておわぁ!」

「どうした?」

「和尚が、和尚の顔が!」

蟹だった頭は、いつの間にか人間のものに変わっていた。ぱっと見て二十代後半の男性、赤みがかった髪、やや痩せこけた頬は貧相さよりも渋さの方が強く感じられた。

「こんな姿初めて見る」

「そうなのか?」

(ちょっとタイプかもしれない)

そう思っている所に。

「あらら、和尚が人間の顔になってる。かなり消耗したのね」

音もなく現れたタトが、一緒になって和尚を覗き込んでいた。

「和尚が人真似の術をするとこの姿になるの。でもこの顔ってかなりイケメンじゃん? ご婦人が寄って来たら修行にならないから、余計な妖力を消費して、あえてあの姿になってるのよ」

「タトさんはなんでココに?」

「祭の警備からバックれるために近くをぶらついてたら大きな音が聞えたから」

タトは覗き込むのを止めて、あたりを見渡す。

「で、どうしてこうなったの? 断捨離も極めると家まで不要になるのかしら?」

そう言いながら携帯電話を取り出して、支部に電話する。

「もしもし私。今、真円寺に居るんだけど二課と五課の連中を回して頂戴。あっ、今回警察は呼ばなくて良いわ。寺の中で起きた事に、警察は介入させたくないし。それじゃ」

携帯電話を切って長羽織の袖に仕舞う。

「私ちょっと辺りを見回ってくるから、ここから離れちゃ駄目よ。もうすぐ神仏連の連中が来て現場検証しに来るから、指示に従ってね」

そこまで言って迦楼羅を見た。この場所に来てから、二人の視線が交錯するのはこれが初めてだった。

「アンタも来る? なんか強そうだし。犯人と鉢合わせした時に頼りになりそう」

「良かろう」

迦楼羅は大きくゆっくりと頷いた。

「巡ちゃん、いくらイケメンでも襲っちゃ駄目よ?」

「誰がするか」

そして二人は森の中へ続く階段を登っていく。生い茂る木々ですぐにその姿は見えなくなった。その時、巡はふと、ある事に気付く。

「あれ、そういやペットボトルどこ行った?」

蟹和尚を救った、巡の血が入ったペットボトルが、失くなっていた。



階段を登った後、正規の道を外れた二人は、人気の無い勾配の急な斜面を歩いていた。

この小山に生える木はスギやヒノキが主で、秋の訪れと共に、優雅な薄黄色に染まっていたが、今の二人に紅葉を楽しむ余裕はなく、ただ足裏から感じる腐葉土の柔らかさに、気持ちの悪い浮遊感に覚えるだけだった。

「蟹和尚に何があったの?」

「わからん。ただ、何者かによって無理矢理暴れさせられていた、というのは間違いない」

「犯人に心当たりあるわ。あの糞ジジイ、後で締めあげて、なに企んでるか吐かせないと」

「代わりに儂がやっておこう。蟹和尚には恩がある」

その言葉の意味をタトは理解する。

「弓削を許したんだから、私の事も許さない?」

「何を世迷言を。貴様は裏切った当人だ。報いはきっちり受けて貰う」

「そっか」

斜面を登り切った二人の足が止まる。木々の開けた平坦な場所で、天狗二人は対峙する。

「このまま『よーいどん』始めても良いけど。もうちょっとだけお話ししましょうか?」

「構わんぞ。お互いに顔を合わせるのもこれで最後じゃしな」

迦楼羅は団扇を、タトはクロスボウを同時に下ろした。

「まずここまで来てくれてあんがとね。あの子を巻き込みたくないし、血生臭い場面も見せたくなかったから」

「ずいぶんとあの娘に肩入れするんじゃな」

「可愛い子でしょ?」

「顔は悪くないが、あのひん曲がった性格はいかんともしがたい」

「それがまた可愛いのよ。長く付き合えばそう思えて来る」

「まるでずっと見てきたような口ぶりだな」

「そうよ。産まれた時から気にかけてた。職権濫用して、学校の成績書や、病院の診断書も手に入れてたりしたし」

それ故に、誰にも申告していない味覚障害には気付けなかった。

「味覚障害以外なら知ってるわよ全部。あの子の身体が禍福を精製する事も、そのせいで虚弱体質なのも、母親がワラズマだという事も」

「そうか。やはり巡の母はワラズマにされた者の生き残りか」

ワラズマの子供は、立てていた仮説の一つだった。

「這蛇村の悪しき風習。人間の命を禍福に変換して、家に福を呼び込む儀式。あの子の母親はその為に育てられたわ。十五の頃にワラズマになる呪術を施されてから、土蔵に封じられた」

特殊な呪術を施した人間を屋敷の部屋の中に閉じ込め、衰弱死させる事で、その家に富と幸福を呼び込む禁術。座敷童の役割を、人間に無理矢理務めさせる外法中の外法である。

「衰弱死する寸前である男に救助されて、その男との間に生まれたのがあの子」

ワラズマに選ばれた者が生き残るなど絶無。巡は本来なら産まれるはずのない子供だった。

「母親は施された呪術により、禍福を体内に溜め込み、貯蔵できる体質になっててね」

「つまり、禍福の混じった羊水の中で巡は育ったというわけか」

「人間の適応力ってのは大したものね。禍福に晒され続けた事で、それが生きるために必要な成分だと胎児だったあの子は認識しちゃったのよ」

胎内で育つ過程で、心臓が血を送る役割とは別に、禍福を生み出すという機能を持ってしまった。

「生命力の一部を禍福に変換する機能を持ってしまったせいで、心臓の筋力が常人よりも脆弱になった。というワケだな」

「そゆこと」

ひとしきり説明を終えると、タトは肩をすくめる。

「もっと驚きなさいよ。ワラズマの子供よ。古今東西、未来永劫、あの子と同じ存在は生まれないでしょうね」

「生憎と、封印が解けてから今日まで、驚きの連続でな。驚き疲れてしまったわい」

一瞬で届く手紙。空飛ぶ鉄塊。宇宙計画。今が八百年以上先の未来なのではないかと思えるほどだった。

「それにしても意外じゃな。禍福を生み出せる事を知っておきながら、利用せんとは」

野心家の彼女が、巡を野放しにしたままなのが意外だった。

「最初は利用しようと、赤ん坊の時から監視してたんだけどね。頑張ってるあの子を見てたら、母性が刺激されちゃった」

圧倒的なハンティキャップを抱え、度重なる理不尽と逆境で精神を壊してなお、懸命に生きる彼女が他人とは思えなくなった。

「本音を言うと、屋台も出来る事なら畳んで欲しいんだけどね」

「巡は屋台経営を生き甲斐にしておる。それを奪われたら奴には何も残らんぞ?」

「死ぬよりマシでしょ?」

「壊れかけた身体と心を持った皆本巡にとって、屋台は唯一の原動力じゃ。それを取り上げられれば、死んだも同然じゃぞ」

「昨日今日知り合っただけの奴が、あの子を語るんじゃないわよ」

クロスボウを迦楼羅に向ける。お喋りの時間が終わった事を告げる合図だった。

「仮に何百年同じ時を過ごそうと、我が身可愛さに仲間を売るような性根の腐ったお主に、あの娘の覚悟と決意は理解できん」

団扇をタトに向ける。

「無念のまま死んでいった仲間の仇。ここで討たせてもらおう」

「そんなに好きなら会わせてあげる」

迦楼羅はタトの装備を確認する。右手にクロスボウ。長羽織の下、スーツの左腰に妖刀今剣を差している。靴や羽織の袖には、何かを仕込んでいるようには見えない。

(む?)

この時、タトのスーツの上着のポケットが不自然に膨らんでいる事に気付く。ポケットの口から、ペットボトルの白いキャップが見えていた。

(あれは…)

「そんなに気になる? これが?」

挑発するように、クロスボウのレーザーサイトを点滅させる。

「ひょっとしてアンタ。今、自分の方が不利だと思ってる?」

「正直、そう思っとるよ。いつ発射されるか怖くて堪らん」

そう答えた瞬間。団扇を中心に小さな竜巻が発生する。

「そんな一振りで城を落とせる兵器持っといて良く言うわっ!」

迦楼羅が前に飛び出すと同時に、タトは後方に跳びながら引き金を引く。迦楼羅はそれを避けることなく、ただ団扇を前にかざした。

団扇が纏う小さな竜巻により矢の軌道が僅かに変わり、迦楼羅の頬を掠めた。二人の距離は一気に縮まる。

「小細工ばかり使いおって!」

振るった団扇が、タトの手からクロスボウを弾き飛ばす。

(掛かった!!)

クロスボウを失った時にはすでに、左腰に差してある妖刀の柄を、左手逆手で握っていた。

最初からクロスボウは、迦楼羅を懐に飛び込ませる為の餌だった。

(その団扇、手首ごと貰う)

迦楼羅の手首を狙っての逆手抜刀。通常なら届くことのない間合い。しかしその妖刀はそれを可能にする。

タトの視線から彼女の狙いを看破した迦楼羅は、腕を引っ込めるが僅かに間に合わず、見えない刃によって団扇の柄を叩かれ、地面に落とした。

「くっ」

落ちた団扇を拾おうとするも、タトの返す刃によって後退を余儀なくされる。

(これで私と天狗の因縁は全部終わり)

妖刀の柄を両手で握り直す。腰を深く沈め、刀身を横に寝かせてから、力を両足に溜めてから踏み込む。

「ああぁ!!」

渾身の刺突は迦楼羅の右胸を貫いた。

「……かぁ、はっ」

迦楼羅は血の混じった泡を吐いた。傍から見れば、短剣の切っ先が僅かに右胸を軽く突いているだけだが、その実、彼女は一メートル以上ある刀身にその身を貫かれていた。

「その傷でも天狗じゃ即死できないでしょ? 今、楽にしてあげるわ」

腕に力を込める。刃は内を向いており、あと数センチ内側に切り進めれば心臓に達する。

「おっ?」

しかし迦楼羅は刀身を掴み、刃の進行を阻止していた。

「粘るわね」

「ぐぉらぁ!!」

「なっ!?」

あろう事か迦楼羅は、自らを貫く刀身を引き込み、自分から更に深く刺さりに行った。無理矢理に距離を詰めた迦楼羅は、刀身から手を離してタトのスーツの上着を掴んだ。

「おおおおおおおおお!!」

獣のような咆哮をあげながら口を大きく開け、首を伸ばす

(ここまで身を削ってする事が、ただの噛み付き?)

散り際の一矢として、何か仕掛けてくると警戒していたタトだが、あまりにも幼稚な技に落胆する。

しかし、次の瞬間、迦楼羅の狙いに気付く。

「コイツ!」

迦楼羅はタトの上着のポケット、そこに仕舞われていたペットボトルを奪った。

その中身は巡の血が解けた水である。先ほど、密かに回収しておいた。

「ガウッ!」

天狗の牙がプラスチック製の外装を破った。そこから零れる始める水を一滴でも多く摂取しようと、まるで咀嚼するかのように懸命に顎と舌を動かした。

「あああああああああああああああ!!」

空になった容器を捨て、その身を貫く刀身を掴み、外側へ無理矢理スライドさせた。

肋骨がこすれる嫌な音を立てながら、刀身が体外へと排出された。

「『円鷲えんじゅ』!」

出現したワシの翼が羽ばたくと、彼女を中心に突風が発生する。

「チィ!」

あまりの強風に、タトはそのままの姿勢で二メートル後方へさがった。文化小劇場の時よりも明らかに威力が上がっていた。

「全く! トンでもナいなあノ娘は! 少し飲んでこレとは。どっチが化物かワかラんぞ!」

致命傷であるはずの胸の傷が、煙を上げながら塞がっていく。

「危険な賭けじゃが上手く行ったわい!! 身体が軽いぞ!」

不死身になった気分だった。

「馬鹿なのアンタ!? これが他の中身だったら無駄死にだったのよ!」

「馬鹿はお主じゃ! 蓋が見えた瞬間、それが儂の持っていたサイダーの容器だと即わかったわい!」

迦楼羅は灰色の翼を消すと、フクロウを模した翼を背中から展開する。

(なぜフクロウ? いや、今はそんな事よりも)

浮かび上がった疑問を捨て去る。修復中で隙だらけの今が、迦楼羅を討つ最後のチャンスである。妖刀を担ぎ駆け出し、迦楼羅を両断すべく、渾身の力を持って振り下ろす。

迦楼羅はその場に立ったまま、身体を捻った。自身が斬られる事はなかったが、代わりに翼がバッサリと斬り落とされた。

(ワザと斬らせた?)

タトの眼にはそう映った。その直後、辺り一面に大量の白い羽が舞い上がった。

舞い上がっているのはフクロウの羽。それにより辺りが無音になる。

「(しまった!)」

周囲の音が消え、羽により視界を塞がれた事で迦楼羅を完全に見失う。

羽はすぐ霧散し、迦楼羅を見つけた頃には、すでに団扇を拾い終えていた。

「皆に会ったら、ちゃんと詫びるのじゃぞ」

「…」

両者の視線が交錯する。どちらもその涙腺に、涙が滲んでいた。

迦楼羅は別れを惜しむ愁傷から、タトは超える事が出来なかった悔しさから。

(避けられるかな?)

これから見舞われる技の威力を、昔、嫌という程見て来た。

走馬灯ともいうべきか、景色はスローモーションで流れるのに、思考は普段と同じ速さで展開される。

(そういえば、あの子の場所は…)

顔を迦楼羅から背け、巡がいる寺の方を見る。

(あの位置なら、巻き添えは喰らわないわね)

安堵の表情を浮かべた時。団扇が真一文字に振り払われた。その直後、タトの体感時間が元に戻った。

耳をつんざく轟音。木々は容易くなぎ倒され、切り株は根元から引き抜かれ、岩は浮かび、地面は巨大な爪で抉られたように捲れ上がる。

タトの身体はその渦中の真っ只中に晒される事になった。



「本当に、しぶというのうお主」

岩や切り株達と一緒に数十メートルを転がった後、倒れた木々の下敷きになったタトを見下ろす。その目には怒りも憎しみもなく、ただ憐れみだけがあった。

「この。鬼畜…妖、怪」

仰向けの状態で、腹を木に押し潰されているタトは、ドス黒い血を口に貯めながら呪詛を吐く。

「なんで、中途、はんぱに…手加減したのよ。即、死……できなかった、じゃない」

本気でやれば、痛みも感じる間も無く五体がバラバラになり、楽に死ねるはずだった。そうしなかった迦楼羅を非難した。

今の彼女は、四肢は全て繋がっているものの、全身に裂傷を負い、内臓の多くを損傷、じわじわと時間をかけて死んでいく事になる。

「お主があの時、巡の位置を確認せねば。そうしておったよ」

「しょうが、ない、でしょ。身体が勝手に、ああいう行動を取ったんだがら」

「その思いやりの気持ちを、なぜほんの少しでも同胞に注いでやれなんだ?」

「同胞? 私を散々迫害して…いざ戦が始まった瞬間、真っ先に、矢面に立たせる、そんな奴らが?」

喉に溜まっていた血を吐き捨てる。それが会話の阻害をしていたらしく、途端に口調が饒舌になる。

「天狗は人間に滅ぼされたんじゃないわ。自分達の傲慢さで自滅したのよ。買わなくても良い恨みと喧嘩を買い続けた。その結果がこれよ。もし、この世に天狗という言葉が存在してたなら『傲慢・慢心』の代名詞として使われてたでしょうよ」

「…」

迦楼羅の脳裏。鍛えて欲しいと、師事を仰ぎに来た天真爛漫な少女の姿が一瞬だけ浮かんだ。

「言いたい事はそれだけか?」

「んーまぁ、そんなところ」

「後悔しておるか?」

「何に対して?」

「無いなら良い」

「あ、でも。心残りなら一つあったわ。あの子に一言、さよならくらいは言っておき…」

タトが何かに気付き、言葉を失った。迦楼羅はタトが見ている方を向く。

「どうなってんだコレ?」

巡が呆然とした表情で、タトの惨状を見ていた。

巡は到着した神仏連の職員に蟹和尚を任せた後、二人の後を追って山の奥へ来ていた。

そしてこの場所から轟音が聞こえ、駆けつけてみれば、この惨状が広がっていた。

先程の蟹和尚の時は、酷い怪我だが助かるだろうと感じた。しかし、目の前の光景からは、タトが助かるという姿が全く想像できなかった。

「どういう、事だよ」

夢でも見ているのかと思った。

「なんでタトさんが?」

巡にとってタトは、浄ヶ原最強の化生で、力の象徴であり、殺しても死なない不死身の存在のように思っていた。

「嘘だろ」

死の間際にいる知人。絶対的象徴の崩壊。巡のキャパシティを超えた情報量に、ただ呆然とするしかなかった。

「迦楼羅、これは、お前が?」

そうとしか考えられなかった。

「そう…」

「あー、待って巡ちゃん。そのチビッ子は無関係よ」

タトが言葉を被せた。

「蟹和尚をあんな風にした下手人を見つけて、倒したんだけどこの様」

その言葉に迦楼羅は耳を疑う。

「……そっか」

タトのすぐ近くまで歩み寄って座り、顔を覗き込む。

「らしくないな。死にそうじゃないか」

こんな時、どう声をかけて良いかわからず、結局、いつもの感じで話しかける。

「ハハハ、つーかもうすぐ死ぬわ」

かすれた声で笑う。視線が虚ろで、目はもう見えていないようだった。

「実は私、貴女のパパが何処にいるか知ってるんだけど、知りたい?」

「今更いらねぇよそんなモン」

「ぶん殴りたいとか思わない?」

「母さんがそいつを恨んでるようなら代わりに殺してやっても良かったが、一度も親父の事を悪く言うことはなかった。だから知る必要なんてない」

「やっぱり強いわね、巡ちゃんは」

「あんた程じゃないよ」

「もうすぐ死ぬけどね……ぐっ」

潰れた内蔵が痛みだしたのか、顔をしかめる。口の端には再び血が滲み出す。

「私がいなくても、あと一週間で本部に対しての隠ぺい工作は完了するわ。だから本当に大人しくしててよね?」

「断る」

「ほら、この子こういう子よ? 目的の為なら底なし沼にだって平気で入っちゃう子よ?」

巡を指さして迦楼羅がいるであろう方向を見る。

「私の『ほっとけない』って気持ちわかるでしょ?」

「そうじゃな」

同感だと言わんばかりに大きく頷いてやった。

「下山してからブスに、私がこうなった事を連絡してくれない? アイツには色々と伝えてあるから」

「わかったよ」

「よろしい」

手を伸ばし、巡の頬に触れる。震える手で、自身の顔の前まで巡を引き寄せ、弱々しく唇を動かした。

「幸せになりなさい」

「努力するよ」

その直後、タトの全身から力が抜けた。



 時刻は夕方六時。太陽の半分が西の空に沈みかけていた。

タトをあの場に残し、枕木で整えられた緩やかな角度の階段を二人は下る。

「寺は今頃、野次馬がすごいんだろうな」

左右を草木で覆われていたため、その場所から寺を一望することは叶わない。

(タトさんの怪我、あれは明らかに)

迦楼羅を見る。タトはああ言ったが、あの場で何があったのか、大体の察しはついていた。

「訊けば全て、嘘偽りなく答えるぞ」

迦楼羅も、タトのあの台詞で誤魔化しきれるとは思っていなかった。

しかし、巡は首を振る。

「タトさんはあの結末に納得しているみたいだった。だから私がとやかく言う事じゃない」

「そうか」

「ああ、でも。これだけは言わせてもらう」

あの惨状を目の当たりにした時の事だった。

「お前が無事で良かったよ」

確かにそう思った。

(本当に、どうしたんだろうな私は)

そう考えてすぐ、階段の先に、人影を見つけた。

「誰だ? 神仏連の職員か?」

巡にはわからなかったが、迦楼羅にははっきと見えた。

「さがれ、儂よりも前に出るでないぞ」

手を横に出して、巡を制する。

「ぬらりひょんの手下だ」

こちらを見上げる、スーツを着たのっぺらぼう。ゆっくりと階段を登って来る。

(表情が無い分、何を考えているか全く読めんな)

彼から目を切らないでいると。すぐ横の茂みがガサリと揺れた。

「んだテメェ!」

飛び出してきた管狐が、巡の襟を噛み付くと、そのまま茂みの中に引きずり込む。

管狐から遅れて、もう一人ののっぺらぼうが茂みから飛び出す。その手には伸縮性の警棒が握られており、それを躊躇なく迦楼羅に振り下ろす。

「どけ!」

警棒が頭に触れるよりも速くしゃがみ回避。低い姿勢のままのっぺらぼうの右足首を掴んで引っ張り、仰向けに倒し、その腹に掌底を打ち込む。

「仲良く遊んでろ!」

掴んでいる右足首を持ち上げ、階段を駆け上がってきているもう一人ののっぺらぼうに向けて放り投げた。激突したのっぺらぼう同士は階段上で倒れ、ピクリとも動かなくなった。

「無事か巡!」

巡を追って、茂みの中へ飛び込む。巡の姿はすぐに見つかった。

「おい! 早く引っ張ってくれ!」

茂みのすぐ向こうは崖になっており、巡の身体は崖の斜面に触れていた。近くに生えていた細い木の幹を懸命に掴んでおり、手を離せば数十メートル下の谷底へ身を投じる事になる。

(罠か)

迦楼羅の隙を作るために、管狐が意図的にやったのだとすぐわかる。しかし迦楼羅は迷わない。

「堪えろ。すぐ行く」

巡の手を掴むと、彼女もその手を掴み返した。その時。

「ご苦労だった、迦楼羅天狗よ」

迦楼羅の後頭部にカツリと固い物が当たる。ぬらりひょんがクロスボウを突き付けていた。

このクロスボウ、タトが使っていた物で、先ほど管狐が回収し、彼に渡した。

「どういう事か説明してくれんか?」

「その娘を手に入れるには、タトの奴が邪魔だった。しかし奴は強い。だからお前を復活させ、戦うように仕向けた。ご苦労だった。もう退場して良いぞ」

「今撃てば、この娘も一緒に落ちるぞ?」

「その時はしょうがない。血をかき集めるだけだ。二十四時間は禍福の効果は残るからな」

(そうか、生け捕りが目的か)

しょうがない、という発言から巡を積極的に殺す意思が無いとわかった迦楼羅は、巡を引っ張り上げ、自分の隣に座らせる。

「何を考えている? あの状況なら色々と交渉の余地もあったろうに」

「巡の命を担保に、貴様のような下種と駆け引きするくらいなら、死んだ方がマシじゃ」

「流石は大妖怪、吾輩のような弱小とは口も聞きたくないか」

引き金に指をかけ、いつでも撃てるようにする。

迦楼羅は、自分がここで終わる事を悟った。

「巡よ。儂は妖怪の名に恥じぬ、あくどい事もそれなりにやって来た。ロクな死に方をせん事くらいわかっていた。その時が来たようじゃ」

覚悟を決めたその時。

「だからそんな簡単に生き甲斐を捨てんじゃねぇ」

ふいに巡が迦楼羅の髪を掴み、引き寄せる。自らの唇と迦楼羅の唇を重ねる。ほんの二、三秒。迦楼羅が状況を理解する前に唇が離れた。ぬらりひょんが無理矢理引き剥がしたのだ。離れた瞬間「迎えに来い」と言う声が微かに聞こえた気がした。

「良い土産を貰ったな」

眉間と心臓、至近距離から矢を撃ち込まれ、迦楼羅は崖へと転落した。それを見届けてから巡を見る。

「どうした? 寝食を共にして情が移ったか?」

「かもな」

ぬらりひょんはフンッと鼻を鳴らしてから、管狐達に巡を拘束するように指示した。



崖の底。

「生娘が、いっぱしに背伸びしおって」

日は完全に落ち、夜の闇に覆われている森の中、迦楼羅はむくりと上半身を起こした。

「これで生きているとは、禍福は本当に規格外じゃな」

眉間にも心臓にも、まだ矢が刺さったままである。

「唾液だけでもこれ程の治癒力が得られるとは」

矢を抜くと同時に、傷口は塞がってしまった。

「なにそのダサいカッコ?」

タトが姿を現す。かなりおぼつかないが、自らの足で歩いていた。

「もう立てるのか、本当にしぶといな」

「まんまとハメられたわクソ爺に」

タトはその場に座り込み、呼吸を整える。

「アイツは神仏連に巡ちゃんの情報の一部をリークして、私が巡ちゃんの存在を隠ぺいするように仕向けた」

巡の情報を、自身の権限で隠せるモノは可能な限り隠した。

「もしそんな状態で私と巡ちゃんが消えたらどう思う?」

「お主が巡の能力を独占するためにかどわかした。と、思われるじゃろうな」

「そう。皆本巡の存在が明るみになれば、自分の物にならなくなると考えた日疋タトは、彼女を誘拐して姿を消した」

ぬらりひょんは、周囲にそう思わせようとしている。そして、そのままいけばそれがこの社会での真実となってしまう。

「携帯電話持ってる? 巡ちゃんから預かった」

「それがどうした?」

「貸して。すぐ返すから」

スマートフォンを渡すと、慣れた手つきで操作し、アプリを起動させる。

「巡ちゃんの現在位置は…アイツの屋敷に向かってる最中ね。車で移動してるわ」

「わかるのか?」

迦楼羅の問いを無視して、巡のスマートフォンから電話を掛ける。

「もしもし、巡ちゃんだと思った? アンタの上司よ。そんで今は最悪の事態。ぬらりひょんが巡ちゃんを拉致ったわ。他の連中には知らせないでアンタだけで屋敷に行きなさい。巡ちゃんを助けられても、ウチの上層部に知られちゃ意味ないわ。それじゃあ」

電話を終えると、スマートフォンを投げ返す。

「私はもう動けないけど、頼れる部下を一人寄越すわ。中々優秀な奴よ」

そこまで言って大の字に倒れ込んだ。蘇生したての身体でここまで来るのは堪えたらしい。

「ところで、なんで私生きてるの?」


■■■


 木の下敷きになったタトが意識を失ってすぐの頃。

「せめて、身体は綺麗にしておいてやるか」

「そうじゃな」

迦楼羅が木々をどかす等して周囲を片付け、巡が衣服を整えている時だった。

(む?)

遠く、木々の隙間から一瞬だけのっぺらぼうが見えた気がした。

(まさか、ぬらりひょんの目的は…)

巡の方を向く。巡はタトをぼんやりと眺めていた。

「なぁ、もうこの状態になったら、禍福でも助からないのか? 血を直に飲ませるとか」

「お主の血など、一滴でも口にしたら、万全の体調でも死ぬぞ」

「そっか」

「なんなら、血以外で試してみるか?」

今、この場には水もペットボトルも無いが、一つだけ方法があった。



 「どうした? 早くやらんか」

迦楼羅はタトの顔を押さえ、口を開けさせていた。

「いや、でも、普段から世話になってる人にこれは流石に」

「サイコパス女が何を戸惑う」

「サイコパスじゃねぇよ! ヤるよヤる! 時間もねえしな!!」

意を決し、巡は口を閉じ、数秒天を仰いでから下を向く。

「かーーっ、ぺっ」

「よし、さっさと帰るぞ」


■■■


「ひょっとして、私の死を悲しんで、零れた巡ちゃんの涙が偶然口の中に落ちた的な?」

「ま、まぁそんな所じゃな」

唾を吐き入れたと知ったら、ショックで冥府に逆戻りする気がしたので黙っておく。

「巡に感謝する事じゃな」

タトを助けたのは、ぬらりひょんが巡を攫いに来た時の保険、という要因が大きい。自分がこの街を去った後、彼女なら巡を悪いようにはしないと判断した。

(しかし、是害坊を助けた事で、儂まで命拾いするとはな)

唇に触れる。唾液にも回復効果がある事を教えていなければ、矢と転落したショックで間違いなく死んでいた。

「アンタなら、いくらでも邪魔できたんじゃない? 裏切り者を許すの?」

「お主への報復は、さっきので完遂した事にしてやる。まだ邪魔するなら容赦せんがな」

「わかったわよ。国内でも国外でも、好きに生き残りを探しなさい」

「巡を助けてから、そうさせて貰う」

「勝てるの? 大勢の部下を相手にする事になるわよ?」

「問題ない。禍福をたっぷりと貰った」

幸いにも、この山からぬらりひょんの屋敷はそう遠くはなかった。



ぬらりひょんの屋敷。固く閉ざされた門の前に迦楼羅は立つ。日が完全に沈み、街灯の少ない路地は足元すら満足に確認できないほど暗い。

「ぶち抜け『海拿かいな』」

出現するペンギンの翼。しかしその様子は今までと異なっていた。右翼が腕に装着されると、翼の一部が肥大化、変形し、装甲の厚みが増し、形状がより破壊に特化したものへ変わる。これが本来の形だった。

「懐かしいのう、この感覚」

ゆっくりと振りかぶり、勢い良く振り下ろす。交通事故のような音がした後、門そのものが吹き飛んだ。迦楼羅が敷地内に足を踏み入れると、屋敷に散っていた管狐達が門へと殺到する。

「なんじゃその陣形は? まさか大妖怪である儂が、貴様ら格下相手に、裏口からこそこそと侵入するとでも思うたか?」

「ギイイイイ!!」

通常なら、身の危険を察知して逃げる所だが、今の彼らはぬらりひょんの手により理性が飛び、力を限界まで引き出されているため、恐れる事無く一斉に飛び掛かる。

「追い落とせ『烏刻うこく』」

夜の闇と区別のつかない程黒いカラスの翼が出現し、彼の身を一度包み込んでから、大きく広がった。翼の羽が一斉に放たれ、景色が黒一色に染まる。全ての羽が地面に落ちた時、そこに立っているのは迦楼羅だけだった。七十五匹の管狐達は、カラスの羽の神経毒により、身じろぎ一つ出来ないでいた。



 ぬらりひょんの屋敷の最奥。床、壁、天井、全てが板張りの部屋。そこに巡とぬらりひょんは居た。

「良い趣味してんなぁ爺さん。こういうのは駅裏にある店でやってくれ。私みたいな素人じゃなくて、プロが相手をしてくれるぞ」

巡の衣装は、管狐達の手で巫女服に着替えさせられていた。

「生贄はその衣装が、古くからの習わしだ」

巡の両手首は木枷にはめ込まれており、自由を制限されていた。

「私を攫ってどうする気だ?」

「吾輩は強くなりたい。その為に貴様の禍福が必要だ」

「膨大な資産に、大勢の部下。十分強いだろ?」

「金や手下など、吾輩を飾りたてる装飾品に過ぎん。吾輩が真に求めるのは金でも地位でも権力でもない、全てをねじ伏せる純粋な『力』だ」

「そうは言っても、やっぱりこのご時世、金と地位だぞ?」

「貴様ら人間ならば富を築き、大勢の部下たちを従えれば満たされるだろう。しかし吾輩は妖怪だ。力を求めずにはいられない」

そう言って壁を叩いた。しかし板張りの壁はびくともしない。

「ぬらりひょんは鍛えたところで、人並みの力しか得られない種族だ。それが悔しくて悔してくて、しょうがなかった。吾輩は、鬼のように人間の英雄と丁々発止で打ち合い。九尾のように退魔師と大立ち回りを繰り広げ。龍のように天災と同等に恐れられる存在になりたいのだ」

「で、私に何して欲しいんだよ?」

「貴様はただ座っていれば良い。儀式の段取りは全部こちらでやる」

「儀式?」

「貴様をワラズマの人柱にする。ただの人間を生贄に捧げるだけで、儀式を行った部屋から十年以上、禍福が湧き続ける。貴様で同じ事を行えば、千年は禍福が湧き出すだろう」

「そうなると、私はいつ屋台を公園に出せるんだ?」

「この期に及んでまだ屋台の心配か。貴様がもっと吾輩に従順だったなら、姫のように扱い、何でも与えてやったのに」

「屋台止めてお前の姫とか、死んだ方がマシだなそりゃ」

「そうだ。だから死ね。どうせその心臓もあと十年で使い物にならなくなる。吾輩が有効活用してやろう」

言い終わってからぬらりひょんは顔を上げて周囲を見渡す。屋敷の中に何者かが入って来たのを察知した。

「あれで生きているとは信じられんな。まぁ良い、対策はしてある」



 迦楼羅は最奥の間。全面が板張りの部屋に辿り着く。

「巡はどこじゃ?」

中央に座り茶をすするぬらりひょんに問う。

「先ほど、部下に連れて行かせた」

「それは好都合だ。これ以上あやつに血を見せては、貧血をおこす」

「おお、怖い怖い」

そう呟き、ぬらりひょんはゆっくりと壁の隅に近づく。

「だが、来てくれて嬉しいぞ、お陰で無駄にならずに済んだ。手間暇かけて準備したのだからな。タトか貴様か、生き残った方をここに誘い込むつもりだった」

ぬらりひょんは懐から御札を取り出すとそれを捨て、同時に襖を開け放ち脱出した。放った紙はヒラヒラと風の抵抗を受けて舞いながら、ゆっくり落ちる。

「それはっ!!」

その紙には見覚えがあった。

「儂の封印に使った御札か!?」

同じ札が四方の壁と天井に貼られている事に気付く。

「気付くのが遅いぞ間抜け」

御札は床に落ちて貼り付いた。その瞬間、部屋にある全ての御札が青白い光を放つ。

「全盛期の力を取り戻して慢心したか?」

「黙れっ!」

迦楼羅はぬらりひょんに向け、手にしていた団扇を投げる。

「おっと」

赤い羽の生えた団扇はぬらりひょんの背後、廊下の壁に突き刺さった。

その瞬間、結界が張られ、その部屋は世界から隔離された。

「ぐぅぅ」

身体が少しずつ重くなっていく。目は開けられなくなり、激しい睡魔が襲う。指先から徐々に身体が痺れ、蝕まれていく。

「この部屋は貴様にやろう。好きに使うと良い。何百年、何千年とな」

ぬらりひょんはのっぺらぼうと共にその場を去っていった。

「儂は、あの、時とは違う」

薄れゆく意識の中で口にする。

「対策は万全、妖力は潤沢じゃ」

廊下に刺さった団扇が震えだす。

「吐き出せ『波山ばさん』」

壁から煙が出始めた。



 十五分後。ぬらりひょんの屋敷は火に包まれていた。部屋の結界は消えており、その中心で迦楼羅は気を失っていた。迦楼羅の身に炎が刻一刻と迫る。

「火災原因発見。要救助者一名も発見っと」

燃え盛る部屋の中に、巨大なモモンガの姿をした野衾桃が入って来る。火で囲まれている状況でありながら、その栗色の毛皮には焦げ目一つ無い。

「ハァー、スゥゥゥゥ」

野衾が息を吸い始めると、部屋の中にあった火は全て彼女の口の中に移った。

「やっぱり、木から出る火が、一番上手いっス」

長い尾に迦楼羅を巻きつけ、部屋を出る。廊下にも火の手が回っていたが、それも全て彼女の口の中に吸い込まれた。



 ぬらりひょんの屋敷を脱出し、屋敷の裏手まで移動した所で迦楼羅の意識が回復する。

「お主、確か是害坊と一緒におった」

「とにかくここから離れるっスよ、そろそろ消防車とか来る頃っス」

モモンガから人間の姿に変わり、そこに停めてあった原付に跨る。

「儂の団扇を知らんか?」

「これっスか? 出火原因だと思って、持って来たっスよ」

赤い羽が生えた団扇を受け取る。

(これが無ければ、永遠にあの中じゃった)

赤い羽の名は『波山』。火を吐く巨大な妖怪鶏の羽である。団扇から生える羽は、妖力を注ぐ事で高温になり、一度振るえば炎の壁を生み出す。その能力を脱出に利用した。

御札は結界を張った時点で手出し出来ない。しかし、それが貼り付く壁は別である。結界の外にある壁ならば、外部から干渉できる。御札は貼り付く事でその真価を発揮するが、一度剥がれれば紙きれである。

だから巡は提案した「壁自体がなくなれば、それは剥がれたと言えるのではないか?」と。

(結界が完成しようとしまいと、御札が貼られた対象を破壊すれば良い、か)

今回は条件が良かったお陰で、結界の外から波山で壁を焼き払う事ができた。

(儂の方が助けてられてばかりじゃな)

「ほら、巡っちを助けに行くっスよ」

「もちろんじゃ」

野衾から予備のヘルメット受け取り、バイクの荷台に乗った。



 野衾の運転する原付が堤防を走る。

「巡っちの現在位置は?」

「奥里美山へ向かっておる。そしてこの速度。おそらく車に乗っておるのじゃろう」

位置情報アプリで巡の位置を特定する。使い方はもう覚えた。

「山に隠れるつもりっスかね?」

「用意周到な奴じゃ、拠点も手配済みじゃろう」

思考を巡らせる。もし自分が私利私欲に塗れた俗物なら、巡で何をするか考える。

「巡でワラズマの儀式をするつもりなら、這蛇村跡地に篭るじゃろうな」

ワラズマの儀式に最も適したのが這蛇村の位置である、そこを根城にするだろう。

「しっかし、このご時世に強くなってどうするんスか? 誰もが羨むような生活を送ってるっていうのに」

腕っぷしの強さより、手に職、足に職が求められる現代社会。職を転々として食い繋いでいた過去を持つ野衾にとって、ぬらりひょんの行動は理解出来ないものだった。

「もし、自分の事を妖怪だと呼ぶ者がいたらどうする?」

「そんなの、首根っこ掴んで怒鳴りつけるに決まってるっス『私は化物じゃない』って」

「なら覚えておくと良い。いつの時代も、化物(妖怪)は力を求めずにはおれんのだ」

ここまで言って迦楼羅は気付く。

「おい、山から遠ざかっておらんか?」

巡から逆に離れていた。

「しょうがないっス。向こう側に渡るのに一番近い橋はこっちにしかないんスから」

「むむむ」

今は一分一秒が惜しかった。

「おおっ、そうじゃ」

迦楼羅は懐から団扇を出して見つめる。

「お主、ムササビじゃったな?」

「モモンガっス。良く見るっス。尾の形が全然違うっス」

「そんな事はどうでも良い。お主、凧揚げというのをした事はあるか?」

「はえ?」



 奥里美山の入り口。ダムが夕方五時で閉鎖する関係で、その場所には立ち入り禁止の看板と、木製のバーが設置されていた。それが立った今、黒の高級車に撥ね飛ばされ、粉々に砕け散った。

「馬鹿者。下手に騒いで神仏連の奴らがここを嗅ぎつけたらどうする」

後部座席のぬらりひょんが、運転するのっぺらぼうを叱る。その横には轡を食わせさせられて無理矢理座らされている巡の姿があった。

昼間はダム行のバスや観光客の車が通るアスファルトの坂道を、車は無灯火で疾走する。

あと五分ほどでバスの停留所やダムの観光施設が並ぶ場所へ到着するという所で。

「ぬわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

車から前方百メートル程の場所に、何かが降って来た。着地すると同時に周囲を強風が襲い、車のハンドルが一瞬奪われる。

「し、死ぬかと思った…」

モモンガ姿の野衾が荒い呼吸を繰り返す。

「ちゃんと落下する瞬間に逆噴射してやったろうが」

その背中には団扇を手にした迦楼羅。

「何が『凧揚げをした事はあるか?』っスか!? 人を紙飛行機みたいにふっ飛ばして!」

モモンガの滑空能力と、迦楼羅の団扇『大鳳たいほう』から発生する暴風を組み合わせて、ここまで飛んで来た。

「ってあの車、まさか!」

ようやくすぐ傍まで車が迫っている事に気付く。

「轢け」

ぬらりひょんの指示で車のエンジン唸る。

「うおっと!」

しかし、寸でのところでジャンプして車を飛び越え回避する。

「追え! 逃がすな!」

「合点!」

モモンガは迦楼羅を背に乗せたままアスファルトを強く蹴る。

「もっと急げ! これでは追いつけんぞ!!」

「離されない事をまずは褒めろっス!」

付かず離れずで、追いつける気がしなかった。

「獣が道路で車に勝てるか! ショートカットせいショートカット!」

「うっす!」

林の中へ飛び込む野衾。木々を蹴りながら林の中を高速で駆け抜ける。車道はカーブが連続しており、林の中を抜ける事で移動距離の短縮に成功する。車との距離が徐々に縮まる。

「良い調子じゃ、このまま一気に…なんじゃアイツ!?」

林の先、黒い巨人が二人の行く手を塞ぐように立っていた。その両手には岩が一つずつ握られていた。

「ヒョロリン、ヒョロリン、スッテンボー」

「大入道! なぜ奴が出て来るんスか!?」

「そういえば、この山にいるほとんどの化生は、奴の配下じゃったな」

山の主に会う為にこの地を訪れた際に、一度遭遇していた。その際、この山の化生達がぬらりひょんに頭を垂れていたのを思い出す。

大入道は投石を開始した。木々の隙間を縫い、一直線に岩が向かってくる。

「危なっ」

野衾は減速する事無く、僅かに身を捻る動作だけで岩を回避する。

投石してすぐ、大入道は右足を後ろに大きく引いた。二人を蹴り上げるつもりのようだ。

「いったん道路へ…」

「このままだ! 突っ切れ!」

迦楼羅は腕にペンギンの翼を装着する。

「邪魔するな!」

繰り出される黒い右足と、迦楼羅の翼が激突する。大入道が車道へ弾き飛ばされ、車の前方に落下し、影に戻る。

大入道に驚いたのか、車は急停止してアスファルトに濃いタイヤ痕を残した。

「よし! 追いついた!」

車に近づくと、中からのっぺれらぼう二人が出て来る。

追いかけるのに夢中で気付かなかったが、この場所がバスの停留所やダムの土産屋がある終着点だった。のっぺらぼう達から遅れて、巡を肩に担ぐぬらりひょんが現れ、子ザルのような身のこなしで、山の中へと走っていった。

「コイツらは私が引き受けたっスから、巡っちを!」

のっぺらぼうの一人を爪と牙で押さえつけ、もう一人は尾を巻きつけて足止めする。

「頼むぞ」

野衾にこの場を任せ、ぬらりひょんを追いかけて山に入る。

「なんじゃ?」

山に踏み入ってすぐ、ワラワラと、山に住む化生達が集まって来る。大雑把に数えて三十近くは居た。

「馬鹿正直に相手にすると思うか? 一蹴しろ『円鷲えんじゅ』」

最初の頃の大きさに比べて二倍近くある灰色の翼を顕現させて、三百六十度、全方向に突風をぶつける。身体の小さな者や比重の軽い者は吹き飛ばされ、運も悪い者はその先にあった木や岩に身体を強打して気絶した。全員が怯む隙に迦楼羅は森の奥へ進む。

「どこに行った?」

スマートフォンを手に取り画面を覗き込む、赤い点は山の中へと更に進んでいた。



やがて迦楼羅は荒廃した山村の跡地に辿り着く。

(ここが這蛇村のようじゃな)

見渡せば、崩壊し、蔦に侵食された木造の家屋がいくつも目に着いた。その中で一つ、小綺麗に改修された立派な屋敷を見つける。

「あの中で間違いなさそうじゃな」

スマートフォンの画面の赤い点は、屋敷がある位置で点滅していた。いざ向かおうとすると、廃れた家屋の陰から何かがゾロゾロとあふれ出し、こちらへ近づいてくる。

(四十、五十、六十……まだおるな)

ざっと見積もって七十体の化生。姿の違う、様々な種が入り混じった軍勢が立ちはだかる。

(さて、どうしたものかの)

振り返れば、先ほど突風で蹴散らした追っ手も合流し、合計で百近くに囲まれていた。

(流石は百鬼夜行の番頭と称される者。そくもまぁこれだけの数を従えた)

しかし迦楼羅に臆した様子は無い。

「じゃが、魑魅魍魎をいくら集めた所で、儂には及ばん」

骨の状態の団扇を手にし、妖力を篭める。

「儂の翼は臨機応変、適材適所。多勢に有効なモノもちゃんと揃っておる」

空を見上げて月を眺める。月の位置からして、そろそろ日付が変わる頃だとわかった。

「夜更かしする餓鬼どもに、灸を据えてやる」

妖力が十分に溜まり、団扇を解放する。

「食い散らかせ。『ぬえ』」

骨の先から、拳大のクチバシが生える。そしてクチバシに続き、爛々と輝く二つの目、そして頭と、鳥の頭部がまるまる出現する。

「フィィッー、フィィッー」

遠くまで響く甲高い不気味な鳴き声は、聞く者全ての不安感を掻き立てる。

そして頭部から下、首の部分までもが出現し始め、首の肉は、団扇を持つ迦楼羅の右腕を取り込み、迦楼羅の腕と鳥の顔は一体化してしまった。

左腕にも変化が現れ、左肩から先は爬虫類の尾のような、ウロコに覆われた鞭に変わってしまう。鞭の長さは一メートル程で、不規則に動くその様子は、迦楼羅の意思とは関係なくのたうっているように見えた。

「何度やっても、この姿は慣れんな」

背中からは翼が両翼出現し、上層の羽は青、中層の羽は紫、下層の羽は橙と、どの鳥にも該当しない奇抜な色をしていた。

鳥の頭と化した右腕、極彩色の翼、爬虫類の尾となった左腕。趣味の悪い着ぐるみを纏っているようだった。

「どうした? 早くせんと、コイツがもっと『成長』してしまうぞ?」

その言葉を聞いて先陣を切ったのは鎌鼬だった。両手が鎌になった小柄なイタチは、ジグザグに疾走して軌道を悟らせない動きで急接近。死角に回り込み、背後から襲い掛かる。襲い掛かった際、右腕の頭と目が合った。裸電球のようなまん丸の目を見て思う「今にも光りそうだ」と。そう考えた瞬間、その目が本当に閃光を放った。

「ヌゥッ!?」

鎌鼬と共に迦楼羅に躍りかかった者達は、至近距離で光を受け、一時的に視力が麻痺した。そんな状態の彼らを、迦楼羅は左腕の鞭の一打ちで払い飛ばす。

(一匹、打ち漏らしたか)

黄土色で、長さ五十センチ、幅十センチの口だけで目も鼻もない蛇のような姿の化生ノヅチは、その小ささと地を這う習性により難を逃れていた。ノヅチは飛び跳ねて、大口を開ける。大口を開けた瞬間、その身体は風船のように膨らみ、迦楼羅の鞭と化した左腕を丸々呑み込んでしまう。口に含んだ鞭の質感はトカゲのモノと非常に似ていた。それ故にこう思う「自切して逃れる機能があるのでは?」と。そんな考えが頭を過った瞬間、迦楼羅の左肩から先が独りでに切断された。

「ォゴっ!」

呑み込んだ鞭が、体内で暴れまわり悶絶するノヅチ。

「早う吐き出した方が良いぞ。それが次に何をするかは儂にもわからんからな」

既に迦楼羅の左肩からは、先ほどよりも太く長い鞭が生えていた。一瞬での再生だった。

「貴様ら、せっかく仲間が隙を作ったというのに無駄にしてどうする?」

山の化生達の足は、迦楼羅と一定の距離を保ったまま進もうとしない。本能が目の前の相手に挑むことに警鐘を鳴らしていた。

「興ざめじゃ」

心底つまらなそうな表情であたりを見渡す。

(八百年後の後進達が、どれほどの進歩を遂げたか、密かに楽しみにしておったのに、こんなモノか?)

迦楼羅を取り囲むのは、当時、彼が一目を置いていた種族ばかりである。

(恵まれた能力の上にあぐらを掻きおって、これではデカイ獣と変わらんではないか)

その目はまるで、興味を無くした玩具を見るように冷めきっていた。

(なるほど、これではもう、妖怪とは呼べんな。だから化生と言うのか)

妙に納得できた。全員にわかるようにオーバーにため息を吐いてから、集団の中心に向い歩き出す。化生達は恐れて道を開けた。

「それで良い。賢い判断じゃ。儂も争いは好まん」

殺気を引っ込めて警戒を解き、身体から力を抜いて進む。しかし。

「ゴオオオォッ!」

今の迦楼羅を隙だらけだと判断した迂闊な化生が一匹、死角から飛び出す。それに扇動され他の化生達も雄叫びを上げて、一斉に大地を蹴った。

彼らには彼らなりの意地があった。

「それならそれで構わん」

右腕を正面の化生達に向ける。クチバシがパカリと開いた。正面の先頭に居たのは泥田坊という、身体が泥で構成された上半身だけしかない片目の化生だった。彼は両腕を交差させた。泥の身体であるため、そのクチバシから火だろうと、石だろうと、何が出て来ても防ぎきる自信があった。そんな時、先ほど目から閃光を発した事を思い出し、考えた。「ひょっとしたら、体内で電気を生み出せるのか?」と。

次の瞬間、開いたクチバシから、紫色の雷がほとばしった。

泥田坊とその背後にいた者達は感電し、その場に倒れて、激しく身体を痙攣させる。

「これだけ集まっていると、流石になんでもありじゃな」

そのすぐ後、翼の羽が周囲に飛び散った、刺さった者へ電流を流して意識を奪った。

続いて、左腕の鞭が触手のように伸びて、近くにいた化生を捕えて電撃を浴びせた。

「ここまで来るとどうなるか知らんぞ儂も」

右腕の肘のあたりから、頭部が新たにもう一つ生えて、クチバシから黒い煙を吐き出す。その煙にまかれた者達は目の激痛を訴える。

先ほどノヅチに呑まれ、今は地面に転がっている自切された尾。その断面図がうごめき、そこから身体の再生が始まり、ものの数秒で人間の口をした大蛇が誕生した。

「ここまで大きくなれば十分か」

迦楼羅が軽く肩を上下させると、纏っていた鵺の身体が分離する。別れた鵺の身体は戦闘を継続しながら、時間の経過と共に顔の数を増やしていく。

顔はそれぞれが異なる能力を持っていた。

ある固体はクチバシから土の礫を、間を置かずに吐き出し始め。

ある固体のクチバシに噛まれた者は理性を失い、仲間へ襲い掛かる。

ある固体の鳴き声を正面から聞いた者は、平衡感覚を失い立てなくなる。

ある固体の目を凝視してしまった者は、自分か誰かわからなくなった。

それらの頭はある程度大きくなると、まるで熟した果実のように地面にボトリと落ち、首から先を生やして一体の化生として活動を始める。

這蛇村跡地は阿鼻叫喚の地獄と化し、迦楼羅が生み出した化物と必死に抗う者、負傷して動けない者、恐怖で蹲る者、襲い来る仲間と戦う者、命乞いをする者、逃げ出す者。誰も迦楼羅を見ている余裕などなかった。

(さて、巡を追うか)

屋敷へ足を向けると。

「オラ達の負けだ! だからアンタさんが生み出したあの化物を引っ込めてくんろ!!」

泥田坊が地面に倒れた状態で訴えかけて来た。

「何か勘違いしておるようじゃな。アレを生み出したのはお前たち自身だ」

「な、なにを言ってるだ?」

理解できない、という表情の彼に説明してやる。

「鵺に決まった形は無い。敵対する者の思考を読み、相手が想像する力を身に着け、姿を変える特性がある。お前たちが恐怖に縛られて、いらぬ想像をすればする程、鵺は凶悪な化物へと変わっていく」

誰かが「光るかも?」と想像したから光った。誰かが「雷を吐くかも?」と想像したから雷を吐いた。誰かが「分裂するかも?」と想像したから分裂した。

「加減して妖力は注いである。それが切れるまで耐えるんじゃな」

彼らの健闘を祈りつつ、その場を後にした。



屋敷の裏手にある土蔵の中に巡とぬらりひょんはいた。

「出せよクソ爺」

土蔵の真ん中は格子で区切られており、巡はその中、ぬらりひょんはその外にいた。

「もう諦めろ」

格子を隔てて二人は対話する。

「いくら迦楼羅天狗でも、百を超える化生に勝てるワケが…」

いきなり土蔵の扉が将棋駒のように倒れる。扉のあった場所には片足を上げたままの迦楼羅が立っていた。

「迎えに来たぞ」

「遅ぇよ馬鹿」

「本っっっっ当に可愛げのない奴だなお主は」

怪我一つ負っていない迦楼羅に、ぬらりひょんは自制できない怒りに身を震わせ、割れんばかりの勢いで奥歯を噛みしめた。

「ふざけるな! 百匹以上の化生を寄越したのだぞ!」

「あんなもやしっ子。仮に千体揃えても足りんわ」

団扇を携えて、土蔵に足を踏み入れる。

「それ以上は近づくな! コイツを失うのは、貴様も都合が悪いだろ!」

ぬらりひょんは牢の鍵を外して中に入り、巡を羽交い絞めにする。

「おいおい、マジかよ。時代劇の悪代官でも、もっと機転が利いた事するぞ」

巡は呆れかえる。迦楼羅も同様の表情をしていた。

「儂はもう十分妖力を回復し、力も全盛期の頃に戻った。故にもう禍福に頼る必要はない」

「だってさ、どうすんだ爺さん? 全部、秘書が勝手にやった事にするか?」

自分の身の安全などお構いなしに、楽しそうにぬらりひょんを煽る。

「ぬらりひょん。お主は憎たらしいが、儂の封印を解き、是害坊への制裁に一役買ってくれたのもまた事実。さて、どうしたものか」

「待てよ馬鹿。何勝手にこいつの処遇決めようとしてんだ? テメェはタトさんと因縁があったみたいだが、コイツとは特にねぇだろ」

「お主にはあるのか?」

「屋台の経営を邪魔された」

殺されかけた、という事よりも彼女にとってはそっちの方が大きかった。

「なぁ爺さん。私がずっと前に、『人の生き甲斐を邪魔したら、殺されても文句言えない』って言ったの覚えてるか?」

「お主、自分の置かれている状況がわかっておるのか?」

巡は今、人質の身である。下手にぬらりひょんを刺激すればどうなるかわからない。

「なるほど。私自身で決着つけろって事だな」

「そうではない」

「よし、爺さん。アンタにこの状況を切り抜ける最後のチャンスをやる」

巡は巫女衣装の襟元を引いて、首筋を露出させる。

「ぬらりひょんっていう化生は、天狗と同格なすげぇ化生なんだろ?」

首を傾けて、首筋を見せつける。

「私の血を飲んでみろよ。上手くいけば念願の力が手に入るんじゃないのか?」

その言葉に、迦楼羅は軽い眩暈に襲われる。

「そいつは狡猾だけが取り柄の妖怪。腕っぷしは子ザルにも劣る。お前の血を一滴でも口に含んだら、耐えきれずに粉みじんに吹き飛ぶぞ」

「やってみなきゃワカんねぇだろ」

「無理じゃ無理。無意味に乙女の柔肌に傷をつけるな」

「黙れ貴様ら!!」

ぬらりひょんの怒号が響く。

「これ以上の愚弄は許さんぞ!」

「その意気だ爺さん。ガブっと来い!」

「煽るな馬鹿者! お主はもっと身体を大事にしろ! それとぬらりひょん! 二度と姿を現さんと誓えば、今回は大恩情を持って見逃してやる!」

「テメェの方が煽ってんじゃねぇか! 爺さん! 悔しくねえのか! やり返してやれ! どうした? 何迷ってんだ!? アンタ強くなりたかったんだろ! 八百年間も『金持ってるだけの雑魚』って思われてて悔しくないのか!?」

「あああああああああああああああああああああ!!」

半狂乱な声を上げながら、ぬらりひょんは巡の首筋に噛みついた。

「いっでぇっ!」

歯が皮膚を食い破り血が滴る。幸いにも肉を噛み千切られる事はなかった。

「はぁーもう、儂は止めたからな?」

迦楼羅は額に手を当てて、天井を仰ぐ。

「うっ、ぐっ、お、ぉぉぉ」

巡の血を口に含み、飲み込んだぬらりひょん。その場で千鳥足となり、散歩下がってから膝を突く。

「かはっ、あっ、あっ」

まるで嘔吐感を堪えているかのように、喉を押さえ、体を前に傾けて悶絶する。

「がんばれ爺さん。気合と根性だ!」

解放された巡は彼を見守りながら牢を出る。

「もう奴には何の音も聞こえんよ」

迦楼羅は落ちていた戸板を拾い、巡の背後に立てる。その直後、風船が割れるような音がして、戸板が血で汚れる。

「行くぞ、外の景色だけ見ていろ」

決して振り返らないよう言い聞かせて土蔵を出る。

土蔵を出た瞬間、巡は全身から力がドッと抜けた。

「疲れた」

「無理もない。子供はもう寝る時間じゃ」

「餓鬼扱いすんじゃねぇよ」

「自分を生娘だと言ったのはお主ではないか」

ワシの翼が開き、巡を優しく抱き寄せて包み込み、その身体を持ち上げる。

「温かいな、ちょっと良い値段の寝袋みたいだ」

「しばらくその中で休んでおれ。安全なところまで運んでやる」

その言葉の後、すぐに巡は眠りについた。



次に目が覚めた時、巡は葉がざわめく音と土の匂いで、まだ自分は山の中にいるのだとわかった。

ゆっくりと眼を開ける。日はまだ昇っておらず、空は闇の色に染まっていた。巡の身体には、村の屋敷でくすねたと思われる毛布が掛けてあった。

「どれくらい寝てた?」

こちらに背を向ける迦楼羅に問いかける。

「ほんの三~四時間程度じゃ」

振り返ることなくそう答えた。

「麓は近いのか?」

「まだまだ先だ。ここで少し道草を食っておった」

「ここって確か」

辺りを見渡す。見覚えのある場所だった。

「あの時は、ちゃんと墓参りできなかったからな」

先日、迦楼羅とやってきた、天狗の仲間の慰霊碑のある場所だった。

「それに、次はいつ戻って来られるかわからんからな」

振り向いた迦楼羅の目は赤く腫れていた。

「そうだな。墓参りは大事だ」

その理由を訊くほど、巡も野暮ではなかった。

「さて、そろそろ麓へ戻るとするか」

その時、ふいに迦楼羅の袖が振動した。巡のスマートフォンがその震源だった。

「野衾からじゃ。今、何処に居るかを訊いておる」

ディスプレイを操作してから、巡に返す。画面には『送信完了』の文字が浮かんでいた。

「祠の近くに居ると伝えた。直に迎えが来る。下山したら、すぐに医者に連れて行ってもらえ」

タトなら手当てや諸々をすぐに手配してくれるだろうと考えての行動だった。

「お主には本当に世話になった」

巡の隣に座り、肩を寄せる。

「頼むから今日のような無茶はするな。自分を大事にしろ」

ぬらりひょんに付けられた傷口を優しく撫でる。

「ここでお別れか?」

「すまんな。せっかく雇ってくれたのに」

これだけの騒ぎを起こしたのだ、この街に留まるのは難しいだろう。そして何より、迦楼羅には目的がある。

「全くだよ。私の舌になるとか言いながら、一日で反故にしやがって」

「面目ない」

(ああ、そうか)

今になってようやく、巡は迦楼羅に対して抱く感情の正体がわかった。

(私はコイツともっと、屋台を続けたいんだ)

秘密を共有し、協力関係を結び、自分の事を理解しようとしてくれた。

迦楼羅は巡にとって、仲間と呼べる生まれて初めての存在だった。

(私が心の底から願えば、コイツは私を支え続けてくれるんだろうか)

そんな考えが過ぎった瞬間、迦楼羅を突き飛ばしていた。

「なんじゃいきなり?」

「もう良いからさっさっと行けよ。仲間の子孫や生き残りを探すのが、今のお前の生き甲斐なんだろ?」

生き甲斐は、全てにおいて優先されるという信念が、迦楼羅を自身から遠ざけさせた。

「そうじゃな。もうじき夜が明ける。妖怪の時間は終わり、人間の時間が始まる」

別れの時間に相応しい。と呟き、迦楼羅は立ち上がり、歩き出す。

「妖力が減ったら戻って来いよ。そん時は、一緒に風呂入ってやるよ」

「案ずるな。ここまで回復したら、禍福に頼る事はもうあるまいて」

「女に恥かかせんじゃねぇよ馬鹿」

暗闇に紛れて、その姿は見えなくなる。

「もしまた訪れるとしたら、仲間を見つけた時じゃ。その時はサイダーを忘れるでないぞ」

その言葉の後、彼の気配が完全に消えた。


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