二章:平成二十八年十月十三日 ~ 十月十六日
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これは彼女の二年前の記憶。
「おっかしぃな」
脱力して壁にもたれる巡は、うわ言のように呟いた。
「一年前に医者から、もう長くないって言われて、それなりに覚悟してきたってぇのに」
遺影の中で微笑む母に視線を移す。
「実は私さ。言われてから毎日毎日、こうなった時の事を想像して、シミレーションしてたんだ。そうすれば少しは悲しさが薄れると思ってさ」
毎日毎日母が死んだ光景を思い浮かべて、今の状況に少しでも耐性を付けようとしていた。
「全然意味なかったよ」
涙腺から一滴、水滴が零れ、頬をつたった。
「ああ、クソッ。世界が曇って見える」
想像以上の喪失感が、彼女の精神と思考を抉り取っていた。
「つーか、なんで直葬なんて勝手に予約してんだよ」
母は生前の内に葬儀屋と『葬儀は行わない火葬のみ』の葬儀形態で契約を交わしていた。そのせいで、母の葬儀代や埋葬費は、恐ろしい程に安くすんでしまった。
「このご時世、ペットだってもっと豪勢に弔って貰えるのに、何やってんだよ本当に」
独断で決めた母が悪いのか、母に気を使わせてしまった自分が悪いのか。何を責めれば良いのかわからず、それが更に彼女の思考を曇らせる。
「お陰で後を追う気力もねぇよ」
指一本動かすのでさえ、今は億劫だった。
「お邪魔するよ」
そんな時である。その男が訪ねて来たのは。
「この度はご愁傷さまです」
母の死は新聞の訃報欄にひっそりと掲載されただけだったが、彼だけは唯一それを見落とさなかった。
「決して怪しい者ではないんだ」
黒のスーツに小豆色のネクタイを着用した男の顔には見覚えがあった。否、日常的に目にしていた。
「市長、さん?」
「ありがとう。知っていてくれて」
訪ねて来た男の名は弓削淳。浄ヶ原市の市長である。
「君のお母様には生前、とてもお世話になっていてね」
線香をあげ終えて、巡と膝を合わせると、巡の前に書類を並べ始めた。
「気持ちが十分に落ち着いてからで構わないから、これに目を通しておいて欲しい」
遺族年金受給の手続き用紙や、これから役所で行わなければならない届出等、各種の申請書である。
「可能な範囲、こちらで記入させて貰った。空欄の部分は君のほうで全部埋められるハズだ」
高校生の巡にもわかるよう、難しい用語や言い回しの箇所には、解説の書かれた付箋が貼られていた。付箋の字は全て手書きである。
「どうして、ここまでやってくれるんですか?」
「さっきも言ったけれど、僕は君のお母様に生前、とてもお世話になった。そして何より、未来ある若者を助けるのが市長の義務だからね」
そこで巡の夢は終わった。
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平成二十八年十月十三日。火曜日。
午前九時。目覚まし時計のアラームで皆本巡の目が覚める。
「…っせぇなあ」
二度床を叩いてからようやく、時計のボタンを押した。
(いつもより早いと、寝起きのダルさも別格だな)
のそりと布団から身を起こす。
(なんで今更、あの時の事を夢で見てんだろうな)
そう考えてすぐ、ちゃんと切欠があったのを思い出す。
(久しぶりに、ひとりぼっちじゃなくなったからか)
隣の布団を見る。
「あれ?」
そこには、蹴り飛ばされたように捲れる布団があるだけだった。
「どこ行ったあのチビ?」
「なんじゃ今の音は!?」
すぐ近くから声はすれども姿は見えない。天井に張り付いているわけでもない。
「おい、どこにい…」
「ココじゃココじゃ」
すぐ目の前にある襖の模様が動いたと思ったら、いきなりそこから迦楼羅が姿を現す。
「お前、透明になれるのか?」
「違う、この翼の能力じゃ。名を『覚鷺』と言う」
迦楼羅の右の肩甲骨の部分から、襖と全く同じ模様の翼が生えていた。翼が生えているのは右側だけで左側には何も生えていない。
「この翼の羽は、周囲の景色と同じ色に変異する特製を持っておる」
迦楼羅が右手の指をパチンと鳴らすと、翼は消える。
「仲間からは『天狗の隠れ蓑』なんて呼ばれておってな…」
「興味ねぇ」
迦楼羅の説明を一蹴し、洗面所へ向かい顔を洗う。台所でインタントコーヒーの粉末を、手の上に零して口に運んだ。
「よく直で食えるのう」
一度もコーヒーを口にした事はないが、漂う匂いだけで苦いとわかった。
「目覚まし時計に起こされた日は、こうしないと頭が冴えねぇんだよ」
朝食もそこそこに、出掛ける準備を始める。
「よし、行くか」
着替え、昼ごはんの入ったリュックを背負う巡。
「お主、ちと山を舐めておらんか?」
茶色のロングスカートに白のブラウス姿に苦言を呈される。
「草木が生い茂り、虫が我が物顔で跋扈する山ぞ? そんな恰好で歩けるか」
「あの山に限っては、この恰好で十分だ」
「どういう意味じゃ?」
家を出て二十分ほど歩き、駅と一体化しているバスターミナルに到着する。迦楼羅がここに来るのは二度目になる。
巡はチケット売り場の自動販売機に紙幣を投入し、少し迷ってから大人と子供の券を一枚ずつ購入した。
「すんません。奥里美山の乗り場は?」
「九番乗り場です。あと五分ほどで出ますからお急ぎください」
「だってよ、ほら行くぞ」
係員が教えてくれた乗り場に停車中のバスに二人は乗り込む。
幸い、平日な事もあってか乗客はまばらで、二人は並んで座る事ができた。
【まもなく発車します。危険ですので、ご着席願います】
運転手のアナウンスが聞えた後、バスはガタガタと揺れ出し、アクセルが踏まれるのを待ちわびる。
「これが自動車というヤツか、乗り心地はいかがなものか」
「申し訳ありません。小さなお子様は、必ずシートベルトの着用をお願いします」
「ああ、これはすまな……おおう!?」
注意されて振り向くと、すぐ目の前に、運転席に座っているはずの車掌の顔があった。
(ろ、ろくろ首かコヤツ)
運転手は注意し終えると、伸ばした首をしゅるしゅると縮め、頭を元の位置に戻した。
「なんで人間の私より、化生のお前のほうがビビッてんだよ」
「いきなり目の前に顔が来たら、普通驚くじゃろ」
迦楼羅がシートベルトを締めた瞬間、ガタンと一度大きく揺れてからバスは前進した。
【この度は、奥里美山ダム行きのバスをご利用いただきありがとうございます】
天井のスピーカーから、録音した音声が流れ始めた。
「ダムとはどういう事じゃ?」
ダムという言葉に迦楼羅は異様な胸騒ぎを覚えた。
「ダムってのは水を溜めるでっかい池みたいな場所で…」
「治水や発電のために、人工的に造られた構造物であろう。本で読んだ」
知りたいのはそういう事ではなかった。
「儂が知りたいのは、なぜダムなんぞ造ったという事じゃ」
【ダムの歴史は古く。江戸時代、大規模な山火事により、洪水や土砂崩れの被害が後を絶たず。見かねた当時の藩主、弓削元春が一時的に水を貯蔵するため池を作ったのが始まりです。それから今日まで何度も手が加えられ、現在のダムに…】
「ちょうど今、ダムの説明が流れてるから、大人しく聞いてろ。私は寝る」
腕を組んで顔を背けた。
「…」
ニ十分ほど、当時の時代背景や現在のダムに使われている技術などの説明が延々と続いたが、迦楼羅が一番確認したかった事には一言も触れられなかった。
バスは予定時刻に一分も遅れる事無く目的地へと到着した。
「一時間以上同じ姿勢は腰にくるな」
巡は降りてすぐ、腰に手を当ててストレッチを始める。
「ずいぶんと、建物が多いのう」
迦楼羅が辺りを見回す。食事ができる休憩施設、土産物屋、山の歴史を展示する資料館等が、駐車場を取り囲むように建ち並んでいた。
「ダムって言えば観光地だからな。道だって舗装されてるし……オイ、どこ行く?」
迦楼羅は一人、案内看板を頼りにダムのある方へ駆け出した。しょうがなく巡もその後を追う。
数分後。コンクリートで構築された巨大な堰堤の上に到着する。ここはダムの水面を一望でき、放水も間近で見られる事から、一番の人気スポットである。
「で、この山がお前の故郷かどうかわかったか?」
手すりに寄り掛かり、眼下に広がる水面を見つめる迦楼羅に問いかける。
「あの辺にな、儂らの集落があった」
虚ろな目で、ダムの中心部を指さした。
「西の方に儂の家があり、その隣が会合所じゃった。その裏には猟の名手が住んでおって、よく鹿の干し肉を分けてもろうた。で、そいつの家の東側に物見やぐらがあってな…」
当時、存在していた家屋とその住人の思い出を一つ一つ語っていく。
「それが少し目を離したら、全部水底じゃ」
手すりを握ったまま俯き、膝を突いた。
「皆、どこへ行ってしまった」
「知るかよ」
「…」
迦楼羅は急に立ち上がると、林の方向に向かって走り出した。
「待てよ。次はどこ行こうってんだ?」
その問いに迦楼羅は足を止め、振り返る。
「山の主に会う」
「山の主?」
「当時、この先に主を祀った祠があった。今もあるか怪しいがな」
その者に会えれば、全てわかると考えた。
「それって遠いのか?」
「大した事はない。ここからなら三十分もあれば着く」
登山道と書かれた看板を指さし、進んでいった。
「その三十分ってお前基準じゃねぇだろうな?」
巡は人の手がほんの少しだけ入った山道に、げんなりした顔で足を踏み入れた。
進むこと十分。徐々に道の舗装が粗くなり、生えている草木の量が増えてきた。
「ヒヒヒ、なぁお嬢さん達…」
「触んな変態」
歩いていると突然。何者かが背中に組み付いてきたので、巡は足元に転がる尖った石めがけて背中から倒れ込んだ。
「ウゴアアアアアア!!」
ゴリッという嫌な音の後、巡にイタズラを仕掛けた全身黄土色で低身痩躯な男の化生は、背骨を限界までのけ反らせて悶絶する。
「うるせぇよ馬鹿」
巡は起き上がると、近くに落ちてい野球ボールと同じサイズの石を両手で拾い上げ、その顔に何の躊躇いもなく落とした。しかし狙いは外れ、石は男の耳を掠めて地面に窪みを作るに留まった。
「ヒィヤアアアアアアア!!」
生命の危機を感じた化生は跳び上がり、茂みの中へと逃げて行った。
「何だったんだアイツ?」
「あれはヒダル神と言って、悪霊の一種じゃ。憑りついた者を空腹にして、衰弱死させる厄介な奴じゃ」
「石がもう少し軽けりゃ、顔面を潰せたんだがな」
「今のは威嚇でやったのではないのか?」
信じられないという顔で巡を見る。
「私の落とす石なんざ、当たったって、別にどうって事ねぇよ」
「妖怪だから死なんと思ったら大間違いじゃぞ?」
「相手が人間でも同じ方法で撃退してたから心配するな。私は人間も化生も平等に扱う」
そんな的外れな回答をした。
「そうではない。最悪の事を想像できんのか?」
「虚弱体質の私がこうして生きてんだぞ。健常者がそんな簡単に死ぬわけないだろ」
「お主は一度、精神科に行った方が良いぞ?」
「ん?」
巡は視線を感じて顔を上げた。
「今度は何だ?」
大木の枝に座りその位置から二人を見下ろす、一つ目の小僧がいた。
「さっきの仲間か?」
「山童じゃな。安心せい、気性の穏やかな連中じゃ。木の上で遊んでおったら、偶然儂らを見かけて眺めておるのじゃろう…………じゃから石を投げようとするな!」
迦楼羅は慌てて巡の腕を掴む。巡の手の中には小石が数粒握られていた。
「チッ」
軽い舌打ちの後、手を開いて石を全て放棄する。山童は殺気に慄いたのか、姿を消してしまった。
「人との暮らしに適応できん者は、こうして山で昔ながらの生活をしておるようじゃな」
「社会不適合者どもが」
目的地までの距離はまだ遠い。
山道に入り歩くこと二十分。とうとう道から人工物が消えた。
「ほとんど獣道だな」
「この地形には見覚えがある。祠はすぐ近くのはずじゃ」
「なぁ、ちょっと休憩しねぇか?」
「あと少しじゃ、そこまで頑張…どうした?」
振り返ると。巡は手を胸に当てて身体を丸めていた。
「大丈夫か?」
「な、んでもねぇ。たまにクる、不整脈、だっ」
心臓を普段よりも酷使したためか、突然の不整脈に苛まれていた。
「そういう時は冷たい水が良い。少し温いが飲めるか?」
迦楼羅は巡の鞄からサイダーが入ったペットボトルを取り出す。
「構うな、いつもの事だ、すぐ、治ま、る」
苦しみながらも、その眼光は鋭く、近づく迦楼羅を威嚇していた。
「禍福の宿る心臓を持って生まれてしまうとは、お主も難儀な身の上じゃな」
「なん、だよ。それ?」
始めて耳にする単語だった。
「ここまで連れて来てくれたんじゃ、こちらも約束を果たさねばな」
山に連れて来る見返りに、体質について教える。それが約束だった。
「もう少し容体が安定したら、儂の知る範囲で教えてやろう」
「今だ。すぐに話、せ」
真っ青な顔、小刻みに震える手で迦楼羅の襟を掴んだ。
「慌てるな。ちゃんと待っておるから、しっかり息を整えろ。万全にならねば何も語らん」
襟を掴む手を優しく解いてから休息を命じる。
「くっそ……」
しばらくの間、巡はその場で何度も何度も深呼吸を繰り返した。
五分後、ようやく巡の呼吸は落ち着いた。
「さっさと話せ」
「そう生き急ぐな」
顔の血色が先程より良くなったのを確認して、迦楼羅は話し始める。
「原因は不明だが、お主の心臓は禍福を精製しておる」
「なんだよその禍福ってのは?」
「あらゆる力の源となる存在じゃ、妖怪が摂り込めば妖力に、魔物が摂り込めば魔力に、精霊や霊能力者が摂り込めば霊力に、風水に用いれば運気を引き寄せる」
そのようなエネルギーがあるなど聞いた事はなかったが、迦楼羅の表情から、嘘を言っているとは到底思えなかった。
「私の料理を食べた化生が強くなるのは、私の料理にソレが入っているからか?」
「そうじゃ。お主の料理には、お主の身体から漏れた微量の禍福が浸み込んでおる。それを摂取した化生は、本人の意思に関係なく力が増す」
「てことは。私を直食いしたら、めちゃくちゃ強くなれんのか?」
「禍福はそんな容易く扱える代物ではない。微量だから良いのじゃ。良薬でも量を間違えれば劇薬となるように。量を誤れば、それは死につながる」
迦楼羅はサイダーの入ったペットボトルを見せる。
「妖力が砂糖水なら、禍福は砂糖そのものと言っても良い。もし仮に、お主の血をおちょこ一杯でも飲もうモノなら、膨大で高濃度の妖力に全身を侵され、身体が破裂するぞ」
「私の屋台はたまに人も立ち寄るが、それは平気なのか?」
極まれにだが、人間の客も来る。リピーターはいないが。
「禍福そのものは人間にとっては全く無害じゃ。無味無臭で、肌に触れてもすぐに剥がれ落ち、体内に入っても勝手に出ていく」
「私が得になる事は無ぇのかよ」
「というか、お主にはデメリットの方が多いじゃろうな」
「なんでだ?」
「心臓が禍福を生み出す機能を持ってしまった分、心臓の筋力が他人より衰えておる。お主の身体が虚弱なのはそのせいじゃ」
「最悪じゃねぇか」
持ち前の虚弱体質の原因が今やっとわかった。
「唯一の利点があるとしたら、呪いや結界、妖術の干渉を受けん事じゃな」
「干渉を?」
「禍福とは高濃度に圧縮されたエネルギーの塊じゃ。それを纏うお主に向けて、妖術や呪いを放っても、決して届くことはない。鉄の塊に、土団子をぶつけるようなモノだ。土団子は粉々になり、鉄の塊は、土団子がぶつかった事すら気付かない」
話していると、あたりの草木がザワザワと不自然に揺れ動くのに迦楼羅は気付いた。
「お主が先ほど、投石しようとしたせいじゃぞ」
二十近くの山童が、彼女らを茂みの向こうから眺めていた。
「ちょうど良い。今言った事がどういう事か教えてやろう」
肩を回してから、右手を天高く掲げた。
「おどかしてやれ『円鷲』」
迦楼羅の背中、右の肩甲骨の位置から灰色の翼が出現した。出現したのは片翼だけであったが、その一枚だけでも彼女を包み隠せる程の大きさがあった。
不思議な事に、羽は背中から直接生えているわけではなく、その付け根は背中から数センチほど宙に浮いており、身体と直接繋がってはいなかった。
「そこを動くでないぞ」
迦楼羅は右腕を真横に伸ばすと、それに連動して翼が広がる。並んだ風切羽で構成されたその翼の先端は、まるで五本指のような形状をしており、鳥に詳しい山童達は、猛禽類の翼だとわかった。
「そらっ」
右腕を振るう。その瞬間、彼を中心に突風が発生した。茂みの中にいた山童は強風に尻もちをつき、木の上にいた山童達は幹に必死にしがみつき、落下を免れた。
「なんかしたのか今?」
しかし、巡だけはその場から微動だにしていなかった。山童達が恐怖で逃げだす中、彼女だけがキョトンとその場に座っていた。
「今のは妖力を衝撃波として飛ばしたわけじゃが、お主の身体には何の影響もない」
「私が曰く付の物を触っても、被害を受けなかったのはそのせいだったのか」
呪いの瓦版等の干渉を受けない理由がそれだった。
「儂の封印が解けたのも禍福のお陰じゃな。退魔師が御札に篭められた霊力、それをお主は触れただけで弾き飛ばし、ただの紙きれに戻してしまった」
「それで、なんで私の心臓は頼まれもしないのに、そんなモンをせっせと作ってんだ?」
「わからん。儂とて、それなりに長く生きておるが、お主のような体質の者には初めて会う。前世で何をやらかしたんじゃ?」
「こっちが聞きてぇよ!」
「いくつか仮説はあるが、もう少し調べん事には断言できんな」
「わかったらすぐ言えよ」
そう言って巡は立ち上がろうとする。
「まだ動くな」
「もう平気だ」
「そういう意味で言ったのではない」
「あ?」
迦楼羅は巡の腰を抱え、一足で後方へ三メートル跳んだ。
「いきなり何すんだ馬鹿やろ……なんだありゃ?」
たった今まで自分がいた位置に、自分の影が残っていた。足元を確認すると、自分の影はちゃんとある。
「あれも化生か?」
「奴は大入道。影の身体を持つ巨人じゃ」
「ヒョロリン、ヒョロリン、スッテンボー」
影が、鼻を抓んだような低い声で歌い出す。
「奴はああやって人の影に紛れ込み、突然現れる事で人間を驚かせて遊ぶ」
影はぐにゃぐにゃと形を変え、まるで噴水のように上方向に伸び始めた。黒い水柱が四メートル程の高さまで達すると、徐々に人型へと変化していった。
「あの大きさ、齢百年といったところか」
筋肉隆々の紺色の身体。どこを見ているのかわからない真っ白な一対の眼球、関節がある部分には黄色の線が模様のように浮かんでいる。
「奴の目を直視するな。と言ってもお主には関係ないか」
「タチサレ、ミンナ、オビエテル」
その厳つい容姿にはいさかか不釣り合いな、間延びした抑揚のない喋りだった。
「驚かせてしまった事は詫びよう。用事が済んだら即刻立ち去る。だから通してくれ」
争いを好まぬ迦楼羅は、穏便に事を収めようとする。
「ダメダ」
「信用できないなら、儂達のすぐ背後から着いてずっと監視してくれて構わん」
「タチサレ」
「断る。儂も譲れん」
これから起こる事を予見した巡は、迦楼羅の背後に移動する。
「イマスグ、モドレ」
大入道は屈んで自身の影の中から、人間の頭程の大きさの岩が括り付けられた縄を取り出す。両手を高く掲げ、頭上で岩を振り回し始めた。
「デテイケ」
脅しを兼ねた最後通告。それを見て迦楼羅の幼く可愛らしい顔が、まるでハッカ飴を舐めた時のように歪む。
「悪いが押し通らせて貰うぞ」
普段なら荒事は避けるが、仲間の事で心がざわついている今、その余裕が無い。
「抜刀せよ『燕尾』」
迦楼羅の右の肩甲骨の位置。先ほど灰色の羽が出現した場所から、今度は藍色の羽根を持つ翼が出現する。厚さ三ミリの薄い翼は全体が鉄のような光沢を放っていた。その形状は高速飛行を得意とするツバメ科のものと酷似しており、付け根から斜め上へ五十センチ程伸びた先で鎌のようにゆるやかな弧を描いて折り返し、先端に近づくにつれて先細りしていた。右腕を振り上げると、それと連動して翼も上向きに大きく広がった。
その動作と同時に大入道は、縄の先端の岩を迦楼羅目がけて投げつける。
「断ち斬れ!」
翼を上から下へ。垂直に振り落された翼の先端が岩を綺麗に真っ二つにする。二つに別れた岩。一つは迦楼羅の右側を通過し地面を削りながら転がって遥か後方にある切り株にぶつかって止まる。もう一つは左側を通過して転がり、隆起した土の壁にぶつかり大きな窪みを作った。
岩の切断と同時に迦楼羅は高く跳び上がり、岩を放って前に突き出していた大入道の右手を踏み台にして更に跳躍、大入道の頭上を取った。鏃のような翼の先端が、先ほどの岩のように大入道の頭を縦方向に真っ二つに割った。
迦楼羅が地面に降り立ってから一瞬遅れて、大入道は大の字になって仰向けに倒れた。
「怪我は無いか巡?」
「お、おう」
巡は大入道を見る。
「心配ない。奴は影。あの程度、怪我の内に入らん」
大入道の身体が溶け出し、最初に見た地を這う影に戻る。影はそのまま移動してどこかへ行ってしまった。
「よし、先を急…あだっ」
先に進もうとした矢先、迦楼羅は見えない何かに鼻先をぶつける。
「次はなんじゃ?」
手を前に出すと、見えない壁に触れた。
「これって、ぬりかべって奴か?」
あるハズの無い壁が突然現れて道を塞ぐ現象。噂に聞いた事はあるが実際に体験するのは初めてだった。
「ぬりかべの対処法なら私でも知ってるぞ。えーと確か、低い位置を棒で払うだったかな」
「今は時間が惜しい。押し通るぞ」
迦楼羅の右の肩甲骨から翼が生える。今度の翼の生え方はこれまでとは異なり、付け根から下向きに伸びて、腰の位置で右方向に曲がった。ちょうど『L』のような形だった。
翼が完全に顕現すると、翼が迦楼羅の右腕を覆った。迦楼羅の右腕は、まるで巨大なガントレットを装着しているようになる。
「打ち壊せ『海拿』」
外側は黒く、内側は白いその翼は、羽毛がなく、魚のヒレような形だった。太い骨と分厚い筋肉を持っており、飛ぶために軽量化された一般的な翼とは大きく異なっていた。
「そら」
素早く腕を伸ばして戻す。ボクシングでいうところのジャブである。
「カハッ!」
しかしたったそれだけの動作で、『パンッ!』と空気の弾ける大きな音がした。その直後、白いずんぐりむっくりした四足の獣が目の前に出現して、ゆっくりと倒れた。三つの目玉が全て白目を剥いていた。それこそがぬりかべの正体だった。
「他に用のある奴はおるか?」
迦楼羅が辺りを見渡すと、木陰に隠れて隙を窺っていた山の化生達は、山童達と同様、一目散に逃げ去っていった。
「お前ってひょっとして、結構強い部類に入るのか?」
「当たり前じゃ。儂こそが最古にして最強の天狗じゃからの」
そこから先の道中、二人に挑む化生が現れる事はなかった。
「ふーむ。この辺だと思ったのじゃが」
せわしなく周囲を見回す。
「迷ったとか言うなよ?」
「当時は照葉樹林だった場所が陰樹林に変わっておる。土地勘だって鈍るというもの」
「しっかりしろよジイさん。ボケるにはまだ早えぞ」
「おー、あったあった。あれじゃ」
大きくカーブした道を過ぎるとようやく祠が見えた。祠の後方に道はなく、鬱蒼とした針葉樹林が広がっているだけだった。
「ずいぶんと省スペース化された祠だな」
郵便ポスト程度の大きさの祠。観音扉の片方は消失しており、支える木製の柱は腐食し、基礎の石垣は苔と藻まみれ、寄り掛かるだけで倒れてしまいそうだった。
「無駄足じゃったか」
迦楼羅は肩を落とす。
「どうやらこの山にはもう、主となる者はおらんようじゃ」
寂れた祠を見て、この山を掌握する者がいない事を悟る。
「もう、山の主が山を管理する時代ではないという事か」
「林野庁の管轄だな」
「山の主が健在なら、全てわかると思ったのじゃがな」
どうしたものかと途方に暮れていると。
「こりゃ驚いた。嬢ちゃん、何故ここにいる?」
背後からの声に振り向く。
「ぬら爺こそ、どうしてここに?」
そこに居たのはぬらりひょんだった。
「吾輩は元々この山の出身だ。たまにこうして故郷の空気を吸いに来ている」
「そりゃ知らなかった、てっきり市内の生まれだと思ってたよ」
「麓での暮らしは長いが、八百年ほど前に、この山で生まれた」
その言葉に迦楼羅が反応する。
「御仁。今、八百年前と言ったか?」
「いかにも」
「天狗、という妖か…化生を知っておるか?」
「天狗か」
ぬらりひょんは目を細め、顎を撫でながら顔を少しだけ上げた。
「まさかその名を、もう一度聞くことになろうとはな」
「知っておるのか!?」
「坊よ、ついて来ると良い」
ぬらりひょんは、祠の裏手に広がる針葉樹林の中へ入っていった。
「勘弁してくれ。また移動すんのか?」
「なに、すぐ近くだ。あそこを見ろ」
指し示す先には、白くて小さい丸石が、整地された地面に置かれていた。
「…ッ!」
その光景を見て、迦楼羅は息を飲んだ。
「吾輩も直接見たわけではない。当時、山童から聞いた話だ」
当時の事を思い出しながら、彼は語り出す。
「かつて天狗と呼ばれる化生が存在していた。修行によって身に着けた神通力で様々な超常現象を引き起こしたという。彼らは山に集落をつくり、仲間同士で寄り添ってくらしていた」
「天狗ってのはこの山限定の化生なのか?」
「集落は全国に八か所、畿内・山陽道・山陰道・南海道・西海道・東海道・北陸道・東山道に一つずつあったという。この山はその八つの内の一つで、天狗にとっての総大将が暮らしておった」
巡はその視線を迦楼羅に向ける。おそらく彼の事だろう。
「そしてある時、人間との争いが始まった、争いが始まり半年が過ぎた頃、天狗の総大将が封印された。それからすぐ、天狗の隠れ里に武装した人間が大挙した」
「ッ!?」
ぬらりひょんの言葉に、心臓が大きく波打つ。
「戦というよりは一方的な虐殺だったと、山童達は言っていた」
当時、山童と天狗の間には親交があり、この場所を作ったのも山童たちだった。祠の近くなら荒らされることは無いだろうと、この場所を選んだ。
「動く天狗がいなくなった後、集落は焼き払われた。人間が去った後に、山童が焼け跡から形が残っている物を回収してあの下に埋めた」
三人は丸石の近くまでやってくる。
「どこまで本当の事かは知らないがな」
(きっと、真実なのじゃろう)
迦楼羅は置かれている白い丸石を撫でる。
(こんなにも小さくなりおって)
それは花こう岩で構成されていた。
(里の入り口に石地蔵を置く事が決まった後に、この山では花こう岩があまり採れぬ事がわかって、探すのに苦労したのう)
だからこそわかった。この石はその時に作った石地蔵の、変わり果てた姿なのだと。
「他の集落は? 生き残りはおらんかったのか?」
「他の集落も全て同じにように落ちたという。集落が全て壊滅した後も、人間達は生き残りを執拗に探し、見つけ次第討伐したらしい。そして、天狗が居たという痕跡は数百年の時間を掛けてこの世から抹消された」
どれだけ調べても天狗という言葉が出てこない理由がようやくわかった。
「…そうか」
無意識の内に、鈴懸の中に仕舞ってある法螺貝を、衣服の上から握りしめていた。
(図書館で天狗の記述を一切見なかった時から、薄々そうではないかと思っておった)
必死に考えないようにして、眼を背けていた。しかし、これではっきりと思い知らされた。
(天狗は敗北し、滅んだんじゃな)
両膝を突き、力なく頭を垂らした。そんな迦楼羅を余所に、二人の会話は続く。
「そういや、どうして人間と天狗は争ったんだ?」
「詳しい理由はわからん。わかっているのは、ある日突然、人間が仕掛けて来た。という事だ」
「切欠は人間様のエゴかよ。にしても、神通力なんてモンを扱えて、数もそれなりにいた連中が、どうして人間に負けたんだ?」
「天狗の性格が仇になったらしい。天狗の中には傲慢な者が多く、人間を下等生物と見下し侮っていた」
その結果が目の前の光景だった。
「裏切者も居たらしい。山童が言うには、是害坊とかいう天狗が裏切った事で、集落を隠すために張ってあった霧が晴れ、それが里の崩壊に繋がったという」
「その是害坊って奴はどうなったんだ?」
「さてな。結局始末されたのか、それなりの地位を得て人間社会に溶け込んでいるのか」
そこまで語り、彼は大きく息を吸って、長い時間をかけて吐いた。
「さて、吾輩が知っているのはこのくらいだ」
そこまで言って、迦楼羅を見る。
「して、坊よ。お前は一体何者だ? 天狗という化生を知り、その者達の死に胸を痛めているように見える」
「ああ、なんたって、ソイツがその天…」
「座敷童じゃ。昔から長く生きていた同胞が先日亡くなり、今際の際に天狗という種族に世話になったから代わりに恩返しをして欲しいと頼まれてな」
虚ろな目のまま、即興の嘘を吐く。
「そうかそうか。それは難儀な事だ。ときに座敷童殿、真円寺という寺をご存知か?」
「どこにあるかは知っている」
蟹和尚と会った時の事を思い出す。
「その寺に天狗の総大将が愛用していた団扇が封じられているらしい。手を合わせれば、多少の供養にはなるだろう」
「かたじけない」
それでも彼の反応は薄かった。
(今更それを手にした所で、もう全部手遅れじゃ)
「しゃべり過ぎて疲れたわい。吾輩はしばらく森林浴と洒落込もう」
少し離れた位置に手ごろな大きさの岩を見つけたぬらりひょんは、二人から離れてその岩に腰かけた。
巡は、未だに呆然としている迦楼羅の近くに行く。
「儂は人間との争いに最初反対していた。争いは回避できるはずだった。しかし大多数に戦う意思が有り、やむを得ず戦の指揮を執った。人間には天狗以上の知恵と団結力、そして少数だが優れた退魔師がいた。きっと負けると予感していた」
当時の心境を語った。
「最初から勝てねぇって知っていたなら。さっさと見捨てて、自分だけでも逃げれば良かったんだ」
「出来るわけなかろう、そんな事」
俯いたまま迦楼羅は弱々しく否定する。
「儂は始まりの天狗。こやつらの祖じゃ。見捨てれば、儂は儂ではなくなる」
「じゃあ。その仲間を失った今のお前はなんなんだよ?」
悪意からではなく純粋な興味から、巡はそう尋ねる。
「儂は………なんなんじゃろうな?」
答える事が出来ず、更に深く頭を垂れた。
三人がその場に留まり一時間程が経過する。
「森林浴にも飽きてきたな」
ぼんやりと山の景色を眺めていたぬらりひょんが、二人のもとへ戻って来る。
「帰るなら一緒にどうだ? 近道を知っている」
「そいつは助かる」
巡は項垂れる迦楼羅を見る。
「私もそろそろ帰るぞ。お前はどうすんだ?」
山に残るかどうかを尋ねた。
「儂は…」
しばし考えてから、顔を上げる。
「ここにはもう、儂の居場所は無さそうじゃ」
「おーい、行くぞー?」
祠の傍に立つぬらりひょんに急かされ、二人は歩き出した。
帰りの道中。
「ちゃんとしたルートがあったんだな」
行きは獣道だったが、帰り道はぬらりひょんの案内で、綺麗に整備された道を進むことができた。
「嬢ちゃん達が来た道、吾輩でも滅多に通らん裏道だぞ」
「だから変な連中に絡まれたワケだ」
「変な連中とは、あやつらの事か?」
ぬらりひょんが道の先を指さす。
「なんだよオイ」
両手が鎌になっているイタチ。大きさが人の足くらいある巨大ミミズ。二足歩行する樹木。手足が異様に長い紫色の亜人。着物を着たタヌキ。生きた傘。様々な種類の化生が次から次へと現れ、それらが列をなしてこちらへ歩いてくる。
「さっきの仕返しか?」
身構える巡。しかし、彼らがとった行動はそれとは真逆のものだった。
「ご無沙汰しております。ぬらりひょん様」
山の化生達が一斉に膝を突き、ぬらりひょんに頭を下げた。
「やめんか。人前だぞ」
「ぬら爺、コイツらとどういう関係だ?」
「山の主が去ってから、まとめ役がおらんくてな。それ以来、吾輩が形だけの頭目をやっている」
「形だけだなんてとんでもねぇ。ずっと昔からオイラ達を導いてくだすってる」
「だから傅くなと言っている。行くぞ嬢ちゃん達」
ぬらりひょんに促され、彼らの前を横切ると。
「あんれまぁ娘っ子さん」
頭を下げる化生の内の一人、全身が泥で出来た、上半身だけしかない化生が顔を上げて、巡に近づいてくる。
「この山の子かい? よう戻って来なすった。ゆっくりしてってな」
「なんの話だ?」
「違うんけぇ? 娘っ子さんからは、良い匂いがするっぺよぉ。オラの身体と同じ、この山の土の匂いだぁ」
「生まれも育ちも麓だぞ」
「そうけぇ。んなら娘っ子さんの身内に這蛇村の出身者がきっとおるとね」
「そいつは泥田坊。廃村になってもう存在しない村『這蛇村』。そこの田んぼから産まれた化生だ。故に、この土地の気質を持つ者は匂いでわかるらしい」
ぬらりひょんが補足する。
「嬢ちゃんの父上か母上が、その村の出身者なのか?」
「聞いた事ねえぞ。そもそもこの山に集落があったことすっら初耳だ」
「無理もない。巡ちゃんが生まれる前の出来事だ」
過疎化で村が維持できず、村人は地方の親族を頼って、みな散り散りになったのだという。
「まぁ正直。滅んでくれてホッとしている」
「ずいぶんと薄情な事を言うな」
「村長を務める家系は代々、人身御供を捧げて幸福を無理矢理に呼び込むという外法を乱用していたからな」
「滅んで正解だなそりゃ」
化生達に見送られてしばらく歩くと、遠くにバスの停留所が見えていた。
「吾輩は車で来ておる、送ろうか?」
停留所の近くには駐車場があり、そこに停まっている車を指さす。運転席にはのっぺらぼうが座っていた。
「バスは往復券で買ったから、帰りもバスを使うよ」
「遠慮せんでも良いのだぞ? 吾輩にとって嬢ちゃんは孫のようなもの。少し甘えてくれた方が気持ちが良……どうかしたか?」
巡がずっと駐車場を見ている事に気付き、彼も向く。
ぬらりひょんの車のすぐ近くに、同じような高級車が停まっていた。その車にたった今、人間の男性が乗り込んだ。彼は山には似つかわしくないスーツ姿だった。
(こんな偶然ってあるんだな)
それは、昨晩の夢に登場した人物だった。
「弓削市長だ」
浄ヶ原市の市長、弓削敦だった。彼から少し遅れて、秘書と思わしき男性が運転席に座る。
「そういえば市の入札情報で、数年後にダムの改修工事を発注するとあったな」
建設業に携わっているだけあり、そういう情報は自然と耳に入っていた。
「そっか。じゃあその視察に来てたんだな、弓削市長」
「そういえば一つ、天狗の件で思い出した事がある」
そう言い、ぬらりひょんは迦楼羅を見た。迦楼羅の意識は未だに上の空だった。
「確か、天狗と争っていた人間の指揮を執っていた者の姓は弓削。市長は、天狗の総大将を封印した退魔師の末裔だ」
夕刻。ダムから駅へ向かうバスの中。
社内は、老夫婦と写真家を取りに来た青年のみで、非常に閑散としていた。
「…」
巡は横目で迦楼羅を見る。
「こんな事なら、来ない方が良かったな」
「…」
「なんか言えよ」
俯いたまま、何も語ろうとしない迦楼羅。ぬらりひょんと別れてからここまで、一度も会話をしていない。
「ケッ」
頭の後ろで両手を組んで、足を投げ出す。
「なんつーか、今のお前の目。どっかで見た事あると思ったら、三年前に死んだ栗の木爺さんとおんなじ目だ」
思い出したように巡は喋り出す。
「毎年秋になると収穫した栗をお裾分けしてくれる気の良い爺さんがいたんだ。七十超えてるとは思えないほど元気な人だった」
「…」
「でもある日。栗畑の手入中に足を軽く捻って入院しちまってな」
お裾分けで世話になった手前、彼女も一度お見舞いに行った。
「ずっと栗畑の話をしてたよ。『早く帰って手入れをしたい』って何度も口にしてた」
栗畑の話題は尽きる事がなかった。彼の生涯は栗畑の育成と共にあったのだとわかった。
「でも退院後。爺さんが栗畑に立つ事は二度となかった。爺さんが入院中に、家族が栗畑の管理を知り合いの農家に任せちまったんだ」
老体である彼の身を案じての事だった。
「爺さんにとって、栗畑こそが生き甲斐だったにも係わらずだ」
彼は何度も栗畑の手入れを行おうとしたが、家族からの猛反発を受けて、それは一度も叶わなかった。
「退院して半年経った頃の爺さんはひでぇモンだったよ。力こぶのあった腕は枯れ木みたいに細くなってて、ツヤと張りのあった顔は皺だらけ、おまけに認知症まで発症してた」
その時に学んだ。アレが生き甲斐を取り上げられた者の末路なのだと。
「今のお前の目は、爺さんが死ぬ直前してた目とそっくりだ」
「…」
「無視すんなよ。五月人形かテメェは」
踵で迦楼羅の足をコツコツと蹴るが、何の反応も帰ってこなかった。
駅のバスターミナルまで、まだ一時間はあった。
巡と迦楼羅を乗せたバスが駅へ着いた頃。県道沿いの道を日疋タトと野衾桃は歩いていた。仕事帰りの二人は、居酒屋を探していた。
「今日は松戸屋にしませんか?」
「あそこは駄目よ。メニューに鯖があるから。匂いが少しでもする所は嫌」
「鯖嫌いも大概にしてくださいよ。支部の食堂に鯖料理が無いのも支部長の指示でしょ」
「私の支部よ、どうしようと勝手でしょう」
「それじゃ、あの焼肉屋で良いっスか?」
反対側の道、歩道橋を渡った先にある焼肉屋を野衾は指さす。
「オッケー」
歩道橋を登り切り、下を何気なく見た時。
「おっ」
タトは市長を乗せた公用車を見つけた。時速五十キロの速度で、今まさにこの歩道橋の真下を通過しようとしていた。
「ブス、やっぱ今日の飲みは無し」
「へっ?」
タトは手摺に片手を置き、その場から飛び降りた。
弓削を乗せた公用車は、市役所へ向かっていた。運転する秘書がルームミラーを覗くと、後部座席に座る弓削と一瞬だけ目が合った。
その直後、走行中の車がドスンを大きく揺れた。
「お邪魔っ」
タトは車の屋根に座りトランクの上に足を置いていた。長羽織をはためかせながら窓をノックし、真下にいる市長に話しかける。
「走行中の車の上に乗るなと何度言えばわかるかな?」
窓を開けて、彼女の声が聞き取れるようにする。吹き込む風により、二人の会話が秘書の耳に届かなくなる。
「車の溝に、山の葉っぱが挟まってるけど、ダム見学してきたの?」
「三年後に一部の壁の修復と、建物の修繕を計画しているから、どれくらい老朽化しているか自分の目で見ておきたかった」
「都市計画課の連中に行かせれば済む話でしょう。相変わらず、呆れるくらいクソ真面目ね」
「市民から預かった税金で行う工事だ。最終決定を下す私が無責任な真似はできない」
「せいぜい頑張って街の発展に貢献してちょーだい」
「それで何の用だ? 僕を労う為に飛び乗ったわけじゃないんだろう?」
「さっすがー。良く分かってるじゃない。これ、農業祭当日の神仏連の配置が入ったデータ。明日渡すつもりだったけど、目の前を通ってくれて丁度良かったわ」
USBを親指で弾き、彼の膝の上に落とす。
「それじゃ」
「どうした? 今日は機嫌が悪いじゃないか?」
長い付き合いだからこそ気付いた。
「わかるー?」
タトは屋根の上に寝そべり、肘を立てて頬杖をつく。
「目を掛けてる子に嫌われちゃってね」
「君に好かれる相手にはご愁傷さまとしか言えないね」
「アンタも良く知ってる子よ。市松模様の三角巾が良く似合あう、白髪メッシュの」
「知り合いの化生から聞いたよ。あの子の屋台に介入したそうだね?」
タトが巡の屋台に圧力を掛けているのは、耳に入っていた。
「おっ、なに? 保護者面?」
「市民の暮らしを守るのが僕の義務だ」
「ハッ、恋人を見殺しにしておいて良く言うわね。アンタの立場ならいくらでもアイツを救う手段があったでしょうが」
「彼女がそれを望まなかった」
「だからなに? 私なら職権濫用しようが、失職しようが、命救うためなら手段を選ばないけど?」
「僕と彼女の間にしかないモノだ。君に理解してもらおうとは思わない」
「あっそ」
吐き捨てるように言ってから身を起こす。
「私は私なりのやり方であの子を守る。例え恨まれようとね」
再び車が大きく揺れる。弓削が振り返ると、歩道からこちらに背を向けて手を振るタトの姿があった。
巡と迦楼羅が家に辿り着いたのは、夜七時を過ぎた頃だった。
居間のテーブルに、屋台の残り物を温め直したものが夕飯として並ぶ。
「しょうがねぇから今晩も泊めてやる。明日の朝には出てけよ」
そう宣告する巡に、迦楼羅は静かに頷いた。迦楼羅は箸を持ってはいるが、一向に食が進んでいない。
「完食しなくて良いから風呂にだけは入っとけ。良いな?」
迦楼羅に入浴を促してから、テーブルの上にある空になった食器を集め、流し台で洗い始めた。
「…」
結局この日、下山してから彼女が言葉を発する事はなかった。
平成二十八年十月十四日。水曜日。
巡は十一時を知らせる目覚まし時計のアラーム音に起こされた。
「…足がだるい、腕痛い」
登山の負荷が残る身体を無理矢理に立たせる。居間に移動すると、迦楼羅が机の前で正座していた。
「眠れなかったのか?」
疲労が色濃く残るその顔色から、一睡もしていない事がわかった。
「のう、少し訊いても良いか?」
ようやく迦楼羅が声を発した。
「この街の市長は、どんな奴じゃ?」
「なんだ、あの話を聞いてたのか?」
「教えてくれんか?」
「自分で調べろ。図書館に行けば、あの人にまつわる本がいくらでも置いてある」
説明するのが面倒だという事もあったが、恩人を売るような真似をしたくなかった。
「そもそも知ってどうすんだよ。仲間のかたき討ちでもすんのか?」
「わからん」
力なく首を振った。
「わからんのだ本当に。自分がどうしたいのか、何をすべきなのか、全く考えが浮かばん」
「そりゃそうだ、生き甲斐を失うって事は。行動の基準を失うって事だからな」
「生き甲斐じゃと?」
「種族の繁栄。それがお前の生き甲斐だったんだろ? 違うのか?」
迦楼羅の言動からそう判断した。
「なるほど、確かにそれこそが儂にとっての生き甲斐じゃったのかもしれんな」
始まりの天狗の使命だと思っており、生き甲斐として捉えた事は八百年間一度もなかった。
「辛気臭ぇ顔しやがって、貧乏神かてめぇは?」
「お主も酷い顔じゃぞ? 蝋人形のような顔色をしとる」
「そうなのか?」
顔をペタペタと触ってから、確認のために洗面所へ向かおうとする。その途中で。
「あれっ」
迦楼羅のすぐ目の前で、床に倒れた。
「また不整脈か?」
倒れる巡を抱き起こす。
「医者を呼ぶか?」
「いらねぇ……放ってお…」
目蓋の重さに耐えられず、巡は目を閉じた。そこで意識を手放した。
「日常的に気を失うとは、虚弱体質も大概じゃぞ」
容態を確認するために、手首の脈をとる。弱々しくはあるが鼓動が感じられた。
「ずっと昔から、こんな仮死状態一歩手前の状態に陥っておるのか?」
とりあえず今は巡を布団に運んで、彼女が起きるのを待つ事にした。
「今、何時だ?」
巡が目覚めたのは午後一時を過ぎた頃だった。
「ずっと診ててくれたのか?」
枕元に座る迦楼羅に尋ねる。
「動けそうか?」
「頭が軽く痛い」
「待っておれ」
迦楼羅は水に濡らしたタオルをラップで包み、電子レンジで十数秒加熱した。
「これで少しはマシになろう」
「私よりも家電使いこなしてんじゃねぇよ」
額を温めた事で、痛みが緩和された。呼吸もだいぶ楽になる。
「昔からこうなのか?」
「物心ついた時には、こういう身体だった」
「こんなのが日常茶飯事なら、そこらじゅうの内臓が、悲鳴をあげておるのではないか?」
「そういや、このまえ病院でやった臓器年齢の測定結果が、五十歳だったな」
巡は布団の中で体勢を変えて、のっそりと立ち上がる。
「看病してくれて助かった。礼にもう一晩だけ泊ってもいいぞ」
「おい待て、どこへ行く?」
「料理の仕込みに決まってんだろ」
着替え、玄関へと向かう。屋台に出す料理の仕込みは、保健所の許可を受けた場所でしか行えない。自宅では許可が下りない為、許可の下りている近所の弁当屋の台所を使わせて貰っていた。
「儂の話を聞いておったのか? このまま体に負担を掛け続ければ、あっという間に寿命が尽きるぞ?」
「私の身体だ。他人が口出しすんじゃねぇ」
「なぜそこまで屋台に固執する」
「生き甲斐だからに決まってんだろ。ただ生きてるだけで満たされる環境にいた奴にゃわかんね……おっとっと」
しかし玄関に辿り着く前に、立ち眩みを起こして壁にもたれ掛かる。
「だから言ったんじゃ」
身体を支えてやる。
「今日はもう休め。店を臨時休業したとて、誰もお主を恨まんよ」
巡の身体を布団に戻す。巡は抵抗したくても身体が動かなかった。
「お主にとって屋台経営とは、命を削る事もいとわない程、優先されるものなのか?」
額に新しい蒸しタオルを当てながら尋ねる。
「当たり前だ。明日死ぬってわかったら、私は今日ずっと屋台を出してる」
「全くもって理解しがたい精神構造をした娘じゃ」
彼女は生きるために屋台を経営しているのではなく、屋台を経営するために生きていた。
「自分がしている事を、異常だとは思わんのか?」
「お前だって仲間の一大事なら命くらい張れたろ? それと同じだ」
「それは違う。お主の生業へのこだわりと、儂の同胞の命を一緒にするでな…」
巡の手が、迦楼羅の腕を掴んでいた。
「おんなじだ! 生き甲斐に尊いも卑しいもあるか!!」
「ッ!」
その鋭い剣幕に、最強の天狗は気圧された。
(これが半死人のする目か?)
「私からしたら、お前の精神構造の方が理解できねぇよ」
「なぜそう思う?」
「抗ってないからに決まってんだろ。仲間の存在が生き甲斐だって言うなら、簡単に諦めんなよ」
「この状況で儂にどうせいと言うんじゃ。時間は巻き戻らんのじゃぞ」
「知るか。私はただ、悲劇のヒロインぶってウジウジしてるテメェがムカつくだけだ」
掴んでいた腕を突き放して、寝返りを打って迦楼羅に背を向ける。
「そんな軽いもんじゃねえだろ、生き甲斐って」
かなり無理をしたらく肩を大きく上下させ始めた。
「一度きりの人生だ。私はな、自分が死ぬその瞬間に、一カケラの後悔も残したくないんだよ」
迦楼羅に聞こえるか、聞こえないかという弱々しい声だった。
「お主…」
「少し寝る。たぶん、明日の朝まで起きない。冷蔵庫の中のをテキトーに喰っとけ」
言葉の後、カクンと巡の頭が傾きピクリとも動かなくなった。念のため首に手を当てると、ちゃんと脈が確認できた。
日が落ち、夜のとばりが下りる頃。
「この時代の夜は明る過ぎる」
迦楼羅は屋根の上から空を見上げていた。
「これでは星占いもままならん」
その手には、台所からくすねたサイダーのペットボトルがあった。
「しかし、あの小娘」
昼間の会話を思い出す。
「乱暴で品性の欠片も無いヤツではあるが」
腕を掴まれ恫喝された時の目に、かつて大妖怪と謳われた自分はたじろいていた。
「生き甲斐に注ぐ、熱意とその力強さだけは賞賛に値する」
重病を抱え、神仏連の妨害を受けても決して立ち止まらない、狂気すら感じられるひた向きさ。
「そこだけは儂も見習うべきかもしれんな」
サイダーを口に含む。封印される前にいた時代では、滅多に手に入らなかった甘味が、口いっぱいに広がる。
「全てを諦め自棄になるのは、もう少しだけ後にするか」
一気に飲み干すと、立ち上がる。
「探しに行くぞ。天狗の生き残りを。そして一族の復興じゃ」
法螺貝を見つめ宣言する。
「その為にはまず」
迦楼羅の背中。右の肩甲骨の位置から翼が出現する。純白の羽で構成された翼だった。その翼が出現した瞬間、迦楼羅の周りから音が消える。
「(今はまだフクロウが限界か。妖力は回復したが、八百年間も眠り続けていたせいで、徳がかなり下がっておるな)」
翼を撫でる。その表面はビロードに触れているかのような滑らかな触り心地だった。
「(ここで一日でも早く、妖力と徳を回復させ、全盛期の力を取り戻さねば)」
口は動いているが、声が一言も出ていなかった。
平成二十八年十月十五日。木曜日。
巡は三日連続で目覚まし時計に起こされる事になる。
「まだちょっと痛ぇ」
筋肉痛が僅かに残る腕を懸命に伸ばして、時計のスイッチを押そうとする。
しかし、それよりも先。矢のように飛来した純白の羽が時計のすぐ近くの畳に刺さると、突然時計の音が消えた。
「(え?)」
驚き、思わず声を発した巡だが。
「(なんだこりゃ!? 声が聞えねぇぞ!)」
声は間違いなく発している。しかし、それが自分の耳に届かない。
畳に刺さった羽はすぐに消えて、目覚し時計のけたたましい音が再び部屋を蹂躙する。
「驚かせてすまんのう。音に驚き、思わず使ってしまった」
迦楼羅が謝罪する。
「なにやったんだ?」
「あの白い羽は、音を喰い周囲を無音にする力がある」
「そんな事できるのか?」
「儂の数ある翼の内の一つじゃ」
「そんな便利なモンがいくつもあるなら、一人でも十分生きていけるな。昼には出てけよ」
そう告げて洗面所に向かうと、迦楼羅もその後に続く。
「ひとつ相談なんじゃがな」
「もう延長は無しだ」
「儂をお主の屋台で雇う気は無いか?」
その眼は、昨日とはうって変わり生気が宿っていた。
「お前の身の上には同情するが、ウチの経済状況知ってるだろ? バイトなんざいらん」
「金はいらん。ここで寝泊まりさせてくれれば良い」
「寝床が欲しいなら、神仏連に行けよ。そのナリだし、この前みたいに座敷童とでも名乗っておけば引き取って貰えるかもな」
顔を洗い、タオルで目元を重点的に拭きながら言う。
「八百年間眠っておった儂の身体は本調子にはほど遠い。徳もかなり下がっておる。力を取り戻すにはまだ禍福の恩恵が必要じゃ。真っ当な方法での回復を待っては、何年掛かるかわからん」
「そもそもお前を雇った所で得が無い。自分の時間も減る」
顔を洗ってもまだ眠気が消えない巡は、台所でインタントコーヒーの粉末を今日もそのまま口に流し込み、あられ煎餅のようにかみ砕いて飲み込んだ。
「お主が毎日ひいこら牽いているリアカー、儂なら指一本で運べるぞ」
「はいはい」
コーヒーの次は、ニンジン、ダイコン、ホウレンソウ、ピーマンをミキサーの中に放り込んでスイッチを入れる。
「お主の店の売り上げに貢献しよう」
「出来もしない事を言うんじゃねぇ」
様々な野菜が混ざったドロドロの液体を、巡は顔色を変える事なく一気に飲み干した。
「神仏連とかいう連中のせいで、客が来たくても来れぬのじゃろう? ならばこちらが出向けば良い」
「出向く?」
口の端に残る緑の液体を拭いながらオウム返しした。
「出前。最近ではデリバリーとか言うらしいな? いつも弁当屋の台所を借りておるのだろう? そこで作った弁当を売ってはどうじゃ?」
「露店が弁当屋をやっても良いのか?」
「問題ない。この本にもそう書いてある」
居間にある、飲食店経営の本を手にそう告げる。
(確かに、偉業建設の作業現場とかヤツデがいるギャバクラとか、売る先は結構あるな)
化生が働く店はこの街に多い。
「でもなぁ、私は屋台がやりたいわけであってだな」
弁当販売が、彼女のやりたい事ではない。
「このまま収入が無ければ、屋台そのものが続けられんぞ? 緊急避難じゃ。屋台存続のための副業。アルバイト。たまたま少額の宝くじが当たったと思えば良い」
「背に腹は代えられない、か」
今の収入が続けば、屋台に使う食材すら買えなくなる。その事態だけは避けなければならないと思い、決断した。
「しばらくは屋台を休業して、こっそり弁当屋やるか」
「屋台が生き甲斐なのじゃろう? ならば続ければ良い」
「でも、配達に行ったら店がガラ空きに…」
迦楼羅が満面の笑みで自身を指さす。
「何のために儂がいると思う? 原付よりも早く走れるぞ? 抜群の安定性を約束しよう」
「それじゃあ配るのはお前に任せる」
巡は、仕事用に使っているスマートフォンのボタンを押す。
「あ、もしもし。牛鬼さん? うん私、タトさんのせいで最近客の入りが悪いから、夜食のデリバリー始めたんだ。うん、そう。おっ、じゃあ丁度良いじゃん。二十個ね、大丈夫だ。それじゃあ」
そしてすぐ、他へも電話をかける。
「もしもし、ヤツデか? 今どこだ? 店? 丁度良いママに繋い……違ぇよ面接じゃねぇ。良いから代われ」
それから少し会話をしてから、通話を切る。
「あ、もしもし。実はさ…」
巡は信頼できる客に片っ端から電話をかけた。そして予想を上回る数の注文を獲得した。
「すげぇ。これなら、今まで不景気だった分を取り戻せるぞ」
信じられないという表情の巡を見て、迦楼羅は満足気に頷いた。
「まずは弁当用の食材の調達だ。荷物持ちもしてもらうからな」
「よしきた」
着替え、近所の業務用スーパーへ向かった。
門ストア店内。巡はショッピングカートに自重を預けながら進んでいた。
「そういえば作ってから時間が開くと、その禍福ってのは消えたりしないのか?」
「丸一日は大丈夫なはずじゃ。それ以上は保証しかねるが」
興味深くあたりを見回す迦楼羅。
「それで、どういう献立にするつもりじゃ?」
「無難に幕の内弁当にしようと思う」
業務用スーパーの門ストアは、安い多いをモットーに、量さえあれば何処で生産された品物であろうとお構いなしに棚に陳列する若干の狂気を孕んだスーパーである。
「今日は鶏肉が安いな」
見た事も無い部位が無造作に放り込まれたパックを手に取り頷く。
「鶏なのか? それは本当に鶏なのか?」
鶏は自前で捌くのが当たり前の時代を生きていた迦楼羅でさえ、知らない部分だった。
「なんか怖いぞこの店」
「この手羽先も買いだな」
それを見て、ふと巡は思い出す。
「そういえばお前の背中から出る翼は何なんだ? 天狗の能力か?」
迦楼羅の背中から出現する翼の正体が今更になって気になった。
「あれは天狗でも儂だけしか使えん」
そう前置きしてから説明する。
「儂には何故か生まれた時から、この世の全ての鳥に関する知識が頭に入っていた。そして、いつでも好きな時に、背中から翼を出現させる事ができた」
この翼がどこから来ているのかは、迦楼羅自身わかっていない。
「徳が高くなるにつれて、使える翼の種類も増えていった」
全盛期の頃は、五十を超える翼が扱えた。
「それらを上手く操れるよう、一枚一枚に名前を付けた」
ツバメのような形をしている翼には『燕尾』。
フクロウのように吸音性が高い翼には『耳突』。
ワシの翼のように一打ちで大量の風を起こすから『円鷲』。
サギのように周囲の環境に溶け込み擬態する翼には『覚鷺』。
ペンギンの翼のように筋肉質だから『海拿』。
カラスのように黒いから『烏刻』。
「などと、その翼の形や能力から連想される鳥にちなんだものをな」
他にも、出せるのは片翼のみ。自由に動かせるが実際に神経が繋がっていないため、損傷しても痛みを感じない等、買い物をしながら様々な説明をした。
「十徳ナイフみたいだな」
「懇切丁寧に説明してやったのに、その一言に集約されるのはなんか癪じゃな」
「今日は鯖の切り身が安いな」
ちょうど鮮魚コーナーを通り掛かっていた。
「鯖は次の機会にするぞ」
カゴに入れたパックを迦楼羅は戻す。けっこう強引な手付きだった。
「儂ら天狗は鯖が大の苦手でな、見ただけで鳥肌が立つ、匂いを嗅げば蕁麻疹じゃ」
(どっかで聞いたフレーズだな)
最近、聞いたような気がしたが、思い出せなかった。
食材を揃えた二人は、料理の仕込みを行うため、巡がいつも厨房を借りている仕出し料理屋までやってきた。
「立派な店じゃ、良くこんな場所を貸してくれるな?」
貝井亭という看板が掛かる門を潜ると、鯉の泳ぐ池、燈篭とシシオドシの置かれた庭園が彼女達を出迎える。足元の石畳を辿った先には料亭があり、その裏口に回る。
「おばちゃん。今日も借りるよ」
「ええよ。好きに使ってな」
貝井亭の女将である老婆に一言挨拶をしてから厨房に入る。貝井亭は現在、板前不足により昼のランチと夜の会食を休止しており、仕出し料理だけを扱っている。仕出し料理の調理は深夜から朝にかけて行うため、昼の厨房は無人だった。
「私達が使わせてもらうのはコッチだ」
広い厨房を抜けその先にあるドアを開けると、客の座るカウンターと一体になっている厨房、カウンターキッチンが現れる。
「ずいぶんと、こぢんまりとした場所じゃな。さっきの場所は借りれんのか?」
「いいんだよココで。掃除も楽だし」
流し台の天板に両手をつき、店内を見渡す。
「それに何より、ココが母さんの仕事場だったんだから」
「お主の母君は、ここで働いておったのか?」
「料理人をやってた」
宴会や会食に使われる料亭だが、ふらりと予約無しでやってくる客も当然いる、そんな客をこの席で持て成すのが母の役割だった。
そういった縁で、巡はこの店の厨房を格安で使わせて貰っていた。ここの老婆は、巡の頭が上がらない数少ない人物である。
手洗い等の下準備を行い、二人は仕込みを開始する。
「まさかここでご飯を炊ける日がくるとは」
巡は米を研ぎながら感慨深い思いに浸る。
「屋台で米は出さんのか?」
「『米類は露店で調理禁止』っていう条例があるんだよ」
この場所のような飲食店営業許可施設で調整されたものを持ち込んで売る事は可能であったが、炊きたてでない米を提供する気にはなれなかった。
「車で商売する移動式屋台なら扱っても良い事になってるんだがな」
ゆくゆくは車の免許を取り、屋台用に改造した車で営業するのが、巡の当面の目標である。
「その為にも、早く金を溜めないとな」
「改めて聞くがその力、もっと活用しようと思わんのか?」
天ぷらにする野菜を洗いながら訊いてきた。
「その力があれば王にも姫にもなれるんじゃぞ?」
「王にも姫にも、征夷大将軍にもなる気はねぇよ」
「真面目に聞け。良いか? もし生まれた時代が違えばお主は間違いなく世界を揺るがす存在になっておった。奇跡の巫女として信仰の対象になっていたかもしれんし、魔女として化物を統べる存在になっておったかもしれん」
「んな馬鹿な」
チープな妄想だと一蹴する。
「真実じゃ。お主を手中に納めれば、金も力も思いのままじゃ。いずれお主を中心とした争いが起こるじゃろう。その日までに人と怪異、どちら側に付くか考えておくことじゃな」
「科学が発達して、人と化生が共生するための法整備も完了したこの社会でか?」
「いつの時代でも、他人を出し抜こうとする性根の腐った奴がおる。努々、忘れぬことじゃな」
「どうなろうと、屋台を続ける以外の選択肢は持たねぇよ」
「その意地がドコまで突き通せるか見ものじゃな」
そこで二人の会話は終わり、両者は黙々と調理を行う。
再び会話が生まれたのは、弁当のメインである鶏肉の甘辛煮の調理をしている時だった。
「よし。後は、煮込むだけだな」
「のう」
「なんだ?」
「味が少し薄くないか?」
ブレンドして作ったソースの味見をした迦楼羅は、納得のいかない様子だった。
「醤油をカップの二メモリ分、砂糖を大さじ三杯足せ」
「こうか?」
言われた量追加する。
「うむ。これなら文句は言われまい。にしてもお主、相当な味音痴じゃな」
「うっさい」
初めての作業ばかりだったが、夕方五時までには必要な数の弁当を用意する事ができた。
夕刻。日時計のオブジェ前。巡は、迦楼羅が組み立てる屋台の傍らで、弁当の梱包と届け先住所の最終確認を行っていた。
「梱包も完璧だな、よし迦楼羅、行って来…」
隣を向くと迦楼羅の姿は無かった。
「どこ行った?」
少し離れた所で、知り合いの子供たちが遊んでいるのが目についた。
「だーるーまーさんがーこーろん、だっ! あっカルラ動いた!!」
「動いとらん! 動いとらんぞ儂は!!」
「カルラ君すごくフラフラしてたよ」
「くぅ……誰か早う助けてたもれ」
「だーーる、まさんがころん…」
「タッチ!!」
「でかしたぞ少年!!」
鬼をふりきり全力でこちらに駆けて来る迦楼羅。
「遊んでんじゃねぞこの八百歳児が!」
それを巡は側面からの前蹴りで無理矢理止める。
「ぐほっ」
「餓鬼んちょ共と完全に同化しやがって、一瞬わかんなかったぞ」
「なにおう!」
「良いから配達行って来い。最初は駅の南側にあるキャバクラ『スノーチルドレン』だ。ママさんに会えたらよろしくな」
同級生のヤツデの勤め先で、キャストとして働く化生の数は国内最多を誇り、他県からわざわざ足を運ぶ者がいるほどの人気店である。
「その次が、ここから南へ一キロ先にある文化小劇場の工事現場だ」
偉業建設が工事を行っている現場で、ぬらりひょんに紹介して貰った。
その後も届け先の説明が続く。
「落とすな、揺らすな、遅れるな」
弁当が入ったリュックサックと発泡スチロールの箱を迦楼羅の前に突き出す。
「容易い事じゃ、頭に湯呑を乗せたまま峠を走破した儂じゃぞ?」
「何があったんだよその時。あ、これも持ってけ」
両手が塞がる彼の鈴懸の隙間にスマートフォンを差し込む。
「用があったらそれに電話する」
巡は二つ通信機を持っており、一つは彼女がプライベートで使う物、もう片方は客の予約を受け取る仕事用である。
「私の名前以外の電話は全部無視しろ」
迦楼羅に渡したのはプライベートで使っている方である。
「では、行って来る」
「おつり間違えるなよ」
迦楼羅を送り出し、巡は屋台の営業を開始した。
駅の南側。様々な衣装、種族の者達が行き来する通り。彼らの間を風のようにすり抜けながら、手書きのメモを片手に目的地を目指す。
「あそこじゃな」
線路と並行する通り。その一角に最初の配達先はあった。
「雪ん子という意味か? という事は、経営者は雪女か?」
黒い背景にピンク色の字で『スノーチルドレン』と書かれた看板を見上げる迦楼羅。
(人外娘に熱を上げるのは、坂上田村麻呂や安倍益材くらいだと思っておったのだがな)
入口に立つボーイに話しかける。
「弁当を届けにきたのじゃが」
「ママから聞いてます、どうぞ中に」
ドアが開けられ、中に招き入れられる。
ピンク色の照明に照らされた薄暗い室内で、念入りな化粧と、煌びやかなドレスに身を包む若い女性の化生達は、開店前のミーティングを行っていた。
「失礼します。お弁当が届きました」
ボーイの声で、視線がこちらに集まる。
「それじゃあミーティングはここまで! ご飯にするよ!」
ミーティングを取り仕切っていヤツデがそう告げると、その場は解散となった。
「アナタが、巡ちゃんの言ってた配達人だね!」
しゃがみ、同じ目線になってそう言うと、振り向いて声を張り上げた。
「ママー、お弁当届いたよー、支払いおねがーい」
「はーい。今行くわ」
奥の方からハスキーボイスが返って来てすぐ、一つの影が姿を見せる。
「ぬぉ!?」
現れたのは首が丸太のように太く、四肢の筋力が異常に発達した女丈夫だった。
(用心棒か何かか?)
最強の妖怪を自覚する迦楼羅ですら、近づいてくる大女に一歩退いた。
そして迦楼羅のすぐ目の前で足を止め、無言で見下ろしてきた。
「…」
「こ、こう見えても組み手では負け知ら…」
「キャー、この子超可愛いィィィ!」
先程聞いたハスキーボイスが、その口から発せられた。
「ぎゃぁあああぁぁぁぁあああっぁああぁぁああ!!!」
思い切り抱擁された。鯖折りでもされたかのように、背骨がバキバキと小気味よい音を立てる。
「ねぇどうかしらん? 大きくなったらここで働かない?」
「駄目だよーママ、いくら可愛くても、その子、男の子みたいだから」
ヤツデが説明する。
「あらそう残念。大きくなったらお客としていらっしゃい。美形は大歓迎だから」
右頬に特大のキスマークを貰ってから、迦楼羅は解放された。
「何が雪女じゃ! 雪男の間違いじゃろう! 足もデカかったし!!」
愚痴っている内に、次の配達先へと辿り着く。
浄ヶ原文化小劇場。地元の吹奏楽団や巡業する劇団が公演を行う会館で、今年でちょうど築四十年になる。
建物の老朽化により、現在は偉業建設が改修工事を行っており、偉業建設は五時を過ぎても作業を続ける現場には、夕食の手当てを出す事を、社内の決まりにしていた。
入口に立つ作業員に配達に来た旨を伝えて敷地内に入る。コンクリートが剥がされ、土がむき出しになっている駐車場。そこに建つプレハブ小屋へ向かう。
途中、作業を行う数名の鬼の姿が見えた。
「弁当を持って来たのじゃ…が?」
戸を開けると、険悪な空気を感じた。部屋の奥を見ると、人間と鬼が作業机を挟み、向かい合って座っていた。
「今日、部下から報告がありました」
そう言った人間の男性の腕には『職長』と書かれた腕章があり、ここの現場の責任者である事を示していた。
「オイラ達、何か?」
鬼が着る特注サイズの作業着には『三吉鬼重量(株)』という刺繍があり、鬼たちは偉業建設から作業手伝いの依頼を受けた下請け業者だった。
「三吉鬼さんの作業員の方が、一人で鉄骨を持ち上げて運んでいました。ああいうのは辞めてください。あの作業は必ず二人以上で、と入場説明の際に説明しましたよね?」
「オイラ達なら一人で十分ですぜ」
鬼はついさっきまで作業をしていたのか、タオルで額の汗を拭いながら答える。
「貴方達の力強さは知っています。しかし万が一、という事があります。労災が起きた現場がどうなるかご存知ですね?」
「怪我したって言ったって、人間に比べれば屁みたいなモンっすよ」
その言葉を聞いた職長の目付きが険しくなる。
「人であろうと化生であろうと怪我は怪我。建設業界では今、労災隠しが問題になっています。偉業建設は地域に支えられて発展した企業です。誠実さを失い、信頼を裏切れば経営は立ち行かなくなります。だから危険が伴う作業には必ず二人以上でお願いします」
語気を強めて語った。
「それともう一つ。休憩時間を取らずに作業を続けているそうですね?」
「今の進捗じゃぁ、予定の日に間に合うか厳しいんで」
工期の遅れを取り戻すための、自発的な行動だった。
「それは計画を立てた我々の責任であり、作業を行う三吉鬼さん達の責任ではありません。実際、貴方達は良くやってくれています。だから休憩は必ず取ってください」
「良いんですか?」
「いざとなったら、社に増員の申請をします。だから作業は人間と同じ手順を踏んでください」
そこまで語った職長は、二人のやりとりを眺めていた迦楼羅を見る。
「話は以上です。これから終礼します。終了後、お弁当を受け取って解散してください」
職長から代金を受け取り、工事現場を後にした。
その後も順調に配達先を回る。そしてそれも、残す所あと一つとなった。
迦楼羅は今まで回った先で見た光景を反芻しながら、県道沿いの歩道を歩いていた。
「どこに勤める妖怪も、人間と同じ扱いを受けとるんじゃな」
偉業建設以外の場所でも、化生は人間と同じ待遇を受けていた。
「そもさん」
すぐ背後から声を掛けられた。
「せっぱじゃ」
歩みを進めたまま、振り返ることなく返事をする。
「両足八足、大足二足、横行自在、両目大差」
「それは蟹か?」
回答して振り返る。蟹の頭に、袈裟を来た人間の胴体を持つ者が立っていた。
「ご明察。お見事です」
蟹和尚は迦楼羅の隣に並び、足並みを揃える。
「働いておられるのですか?」
発泡スチロールの容器を肩から掛ける姿を見てそう問う。
「まぁそんなところじゃ」
「この街に馴染めているようで何よりです」
「化生の暮らしについて、また訊いても良いか?」
「はい、何でしょう?」
「人間社会で暮らす者達はどのように扱われておるのじゃ?」
ここ数日、市内をぶらついて、人間と上手く共存できているのは分かったが、どのような身分で扱われているのか気になっていた。
「法律上『特異な体質を持った人間』として人間と同等に扱われています」
義務教育で中学まで通えて、本人の学力が伴えば高校や大学にも行けると補足する。
「人間と結婚する件数は多いのか?」
「具体的な数字は知りませんが、人間が異国の方と国際結婚するのと同じくらいの件数はあるんじゃないでしょうか」
「混血児はどういう扱いを受ける?」
「それがどういうワケか産まれなくてですね。人間と化生の間でも子供は出来ますが、生粋の人間か、生粋の化生しか生まれません。種族の違う化生同士から産まれる子供もです。仮に鬼と河童が結婚して子供産んでも、鬼か河童どちらかしか産まれません。中間は無いです」
両者の性質が混ざった存在が生まれた事は一度もない。
(儂らの頃は稀にあったが、全員短命じゃったからな。自然と淘汰されてしまったのかもしれんな)
八百年もあれば、変わってしまうだろうと考え、納得した。
「差別はあろう? いくら仲が良好であろうとそれは無くなるまい?」
「仰る通りです。職種によっては人間が優先で雇われる事もあります」
「寺子屋での迫害もあるのでは無いか? 子供は残酷だからの」
「それは環境次第ですね。人間が化生を虐める所もあれば、その逆もあります」
人間が化生を一方的に、というワケではなさそうだった。
「最も。人間が人間を虐める、というのが圧倒的に多いですが」
この時、蟹和尚の脳裏には、ボロボロのランドセルで寺に遊びに来る、幼い頃の巡の姿が浮かんでいた。
「八百年経っても、進歩のない連中じゃな」
「ところで、まだ配達の途中でしたか?」
迦楼羅がまだ発泡スチロールを大切に持っている事からそう判断する。
「うむ、次のぬらりひょんの所が最後じゃ」
その名を口にした際、ふと思い出す。
「そういえばお主の寺。真円寺といったか。何か化生にまつわる品が納められていると聞いたが」
ぬらりひょんは、自身の団扇が寺にあると語っていた。
「ああ、御札の事ですね。現代では再現できない程強力な力を秘めた」
「他にもあるのではないか? ほら、鳥の骨みたいな物とか……待て! 今御札と言ったか!?」
「はい。かつて凶悪な化生を封印するのに使われたという品で、一枚だけでは効果はありませんが、上下と四方に貼り付ける事で、どんな化生でも強制的に休眠状態にする結界を発生させます」
(間違いない、儂を封じるのに使った札じゃ。団扇を回収する際に、ついでに破り捨てておくか)
私怨をたっぷりと込めて、心の中でそう唱えた。
「お仕事中に呼び止めてしまいすみませんでした」
「気にするな、大変有意義であったぞ」
そこで二人は別れた。
「まるで大名の屋敷じゃな」
高い塀で囲われた屋敷。その門を迦楼羅は見上げる。インターホンを探していると重苦しい木製の扉が僅かに開き、そこからスーツ姿ののっぺらぼうが顔を出す。
「弁当の配達に来たのじゃが、なにか聞いておるか?」
のっぺらぼうは一万円札を迦楼羅に押し付けると、弁当箱をひったくった。
(なんじゃコヤツは?)
その動作は、まるでゼンマイ仕掛けのカラクリのようで、一切の感情が感じられなかった。
(何考えとるかわからん奴じゃな)
もし仮に、彼に顔があったとしても、きっとどのパーツも動いていないだろう、と感じた。
「おい何処へ行く! 釣りがまだじゃぞ」
お釣を受け取る素振りを一切見せず、彼は門を閉じてしまった。
「待たんか馬鹿者」
一足跳びで塀を飛び越えて、枯山水の砂利の上に着地し、彼の前に回り込む。
「七百円の弁当に一万出すヤツがあるか」
リュックからお釣を出そうとすると。
「構わんよ。お釣は嬢ちゃんへのこづかいだ」
背後から声を掛けられて振り向く。ぬらりひょんがゆったりとした足取りでこちらへ歩いて来た。
「持ってきてくれたのは座敷童殿か」
巡が来る事を期待していたらしく、少し残念そうだった。
「悪かったのう、巡でなくて」
「いやなに。せっかく来たのだ、上がっていきなされ。久々の来客だ」
踵を返す彼の後に続く。
「ここは管狐を飼っておるのか?」
イタチとネズミを足して二で割ったような見た目の獣が六匹、軒下からこちらを見ていた。
「奴らには吾輩の身の周りの世話をさせている」
「六匹も使い魔として使役するとは、相当な財が無ければ維持できんぞ」
天狗の中にも『飯綱の法』という妖術で、管狐を使役する者達がおり。迦楼羅も管狐に関する知識は一通り持っていた。
「あそこに居るのはほんの一部だ、この屋敷には七十五匹の管狐が憑いてる」
「七十五じゃと!」
管狐は財や食事と引き換えに様々な願いを聞いてくれるが、財や食事が一度でも途切れれば、すぐいなくなってしまう。七十五匹というのは、管狐が家屋に憑りつける最大の数である。
「今はもう偉業建設の経営には一切関わっておらんとはいえ、肩書は一応、会長だからな。何もせんでも毎日、身に覚えのない金が送られてくる」
「毎日さぞ賑やかじゃろう」
七十五匹の管狐に囲まれていては、退屈のしようがないだろうと思った。
「とんでもない。吾輩は静かな方が好きな性分ゆえ。奴らには鳴く事を禁じている」
好々爺な笑顔のまま、そう言い放った。
(こいつはこいつで、どこか歪んでおるな)
彼を一目見た時から、どこか異質なモノを感じていた。それが自身の錯覚でなかったと確信した。
迦楼羅は茶室専用の部屋に通された。
「しかし、座敷童が仕事をせねば生きていけんとは。世知辛い世になった」
部屋の隅には二人ののっぺらぼうが正座して待機している。
「昔の座敷童には、体内で微量の禍福を精製し、それを用いて住んでいる家に福を呼び込んだと言われていたが、その力は今も健在か?」
「さて、どうじゃろうな」
適当にお茶を濁す。
「お主は禍福を知っているようじゃな」
天狗という言葉と同様、禍福という言葉もまた隠ぺいされた存在で、今の世に知る者はいないと思っていた。
「天狗や禍福についての情報規制が始まったのは八百年前だったからな。年の功というヤツだ」
カカカと笑い、しかしすぐに俯く。
「八百年前、あの宣言が出された時から世界の常識は徐々に歪んでいった。人間と妖怪の仲に少しでも亀裂を生むモノは、ことごとく蓋をされた。禍福のような存在などもっての他。人と妖怪の力関係を容易く崩壊させる危険な物質だ。人間を禍福製造機に変えるワラズマの儀と共に、闇の中へ葬られた」
「ワラズマの儀か、その名を聞くだけで気が滅入りそうになる」
強い嫌悪感を迦楼羅は表す。
「おっと。雑談のつもりだったが、空気を悪くさせてしまったな」
彼は手を二回叩いた。
「どれ、気晴らしに一つ余興を披露しよう。オイ出て来い」
和服の袖から竹筒を一本取り出す。その中から、竹筒よりも明らかに大きな管狐が飛び出して、ぬらりひょんの隣にちょこんと行儀よく座る。
「座敷童殿は、ぬらりひょんがどんな化生かご存知か?」
「百鬼夜行の総大将だったか?」
「左様。神仏連が発足される前は、この地域に生息する多くの妖怪を従えておった」
管狐の頭に手を、押さえつけるように置く。
「この力でな」
管狐の身体の表面が粟立ち始め、それはやがて沸騰する水のようにボコボコと膨張を始める。
「触れた妖怪の理性を奪い狂暴化させる。単純な命令ならば下す事もできる」
「フーッ! フーッ!!」
飼い犬のように穏やかな雰囲気から一変、四肢を強張らせて牙を剥き出しにする姿は、獰猛な肉食動物である。
「今にも襲い掛かって来そうじゃな」
「心配無用。吾輩が命令せぬ限り誰も襲わな…」
言い終わる前に、狂暴かした管狐が迦楼羅に跳び掛かった。その細い首に牙を突き立てる。
「どこか心配無用じゃ!?」
迦楼羅は障子に体当たりして部屋を脱出。枯山水の庭、その砂利の上に転がる。ぬらりひょんの死角に入った事を確認してから、次の動作に移る。
「痺れさせろ『烏刻』」
右肩甲骨の箇所から、まるで墨を垂らしたかのような、真っ黒な羽を持つ翼が出現する。羽の表面の油分により、翼は強い光沢を放ち、角度によっては一瞬だけ銀色にも見えた。
「苦痛は無い、安心せよ」
翼から羽を一本抜き、その根元を管狐の首に一瞬だけ刺す。刺されてすぐ、管狐の噛む力は衰え、眠ってしまった。
「思い切り噛みよってからに」
歯の痕がくっきりと残り、そこから少量の血が流れていた。
「おい。客人を齧り棒代わりにするのが、お主の余興か?」
管狐を抱えて部屋に戻って来る。
「すまんすまん。歳のせいか、妖術が昔ほど上手く扱えなくなっているようだ」
カカカと笑って誤魔化し、目をダルマのようにまんまるにして迦楼羅を見つめる。その瞳の中には冷めた目で彼を見つめる迦楼羅の姿が映っていた。
「治療費代わりに、さっきの釣りは貰っていくぞ」
振り返り、外れた障子をはめ直しているのっぺらぼうに、抱えていた管狐を渡し、迦楼羅は去っていった。
「狂暴化した管狐を一瞬か」
迦楼羅の気配が完全に消えてから、ぬらりひょんが呟く。
「これなら、是害坊を殺せるかもしれんな」
好々爺とはかけ離れた、醜悪な笑みを浮かべた。
「戻ったぞ」
巡の屋台がある公園に戻って来る。時刻は夜の八時を過ぎていた。
「遅かったな」
「ぬらりひょんの世間話に付き合わされた。そっちは留守の間、どうじゃった?」
「全然来やしねぇ」
普通なら一組くらいは入るのだが、今日はそれが無い。
「しばらくはデリバリーで凌ぐしかなさそうじゃな」
屋台の中へ入り、集金した分が入った封筒を渡す。
「一万くらい多いぞ?」
「ぬらりひょんの所の管狐に噛まれた。その慰謝料じゃ」
首筋の噛み痕を見せる。
「お前が先にチョッカイ出したんじゃないだろうな?」
「するか」
「まあ良い。今日はもう駄目そうだ。店仕舞いするぞ」
「わかった」
巡は食器と食材の片付け、迦楼羅は屋台の片づけを始めた。
家に帰って来た二人。屋台の残り物で夕飯を済ませる。
「洗い物するから、お前が先に風呂に入っとけ」
「かたじけない」
十分後。巡の洗い物と、迦楼羅が風呂から上がるのは、ほぼ同時だった。
「随分と早いな。カラスの行水かよ」
「傷にしみるのでな」
座ると、寝巻の襟をずらし、歯型が残る首筋を撫でる。
「飼われているとはいえ、獣は獣。これは当分残るかもな」
「それぐれぇで大げさだな」
巡は右手の人差し指と中指の先を舐めると、その指でしっぺする。
「いでっ」
「ツバ付けておけば治る」
「この時代にもまだその民間療法が残っておるのか?」
「寝る前に髪ちゃんと乾かしておけよ、水滴が床に垂れるとシミになるからな」
そう言い残して巡は寝巻を手に風呂場へ向かった。
「さて」
暇になった迦楼羅は、ハンガーに引っかけてある鈴懸の中から、一冊の本を取り出し、机に向かい読み始めた。
「ふむふむ。なるほど」
驚異的な速さで半分を読み切った頃、手が無意識に首の傷口に伸びた。
「む?」
噛み痕が完全に消えていた。
「そうか、唾液にも当然、禍福は含まれておるよな」
そこでハッとした。
「はぁー、生き返る」
浴槽の限界ギリギリまで張った湯に身体を漂わせる巡。そこへ。
「儂とした事が盲点じゃった!」
風呂の戸を、迦楼羅が開け放つ。
「飯を食うよりも、一緒に風呂に入った方が禍福を効率的に摂り込めるではないか!」
巡が浸かった湯にも禍福は含まれる。これを利用しない手はないと思った。
「もういっぺん入るぞ! 端に寄れ!」
「いっぺん死ね!!」
放たれる前蹴り。踵が鼻柱に直撃し、迦楼羅は悶絶した。
「次やったらあの岩の中に戻すからな」
風呂から上がり、居間へやって来た巡は迦楼羅を睨む。
「わかったかこのエロ餓鬼」
「(誰がそんな男か女かもわからん貧相な身体に欲情するか)」
話す瞬間だけ、純白の羽を持つフクロウの翼を出現させた。
「なんつった今?」
「『以後、気を付けます』と言ったんじゃ。ところで残り湯はどうした?」
「捨てた」
「げに(マジ)か?」
「げに(マジ)だ」
ろ過して洗濯に使う事も出来たが、勿体無さよりも、他人に使われるという嫌悪感が勝った。
「そういや、その本はなんだ?」
迦楼羅が机に向かい読んでいる本が気になった。本はところどころが破れた古い和紙で出来ており、書かれている文章も現在では使われていない文字だった。
「図書館に民俗資料館という部屋があるじゃろう。そこから拝借してきた」
「そこの展示品は全部、歴史的に貴重な資料のハズだぞ?」
貸出どころか、触るのも禁止されている。
「警備はザル、保管方法は雑。一冊無くなったところで誰も気にせんよ」
もちろん、用が済めば返すつもりである。
「ギって来る程のモノなのか?」
「陰陽師に属していた者の手記じゃ、儂を封印するのに使われた御札について触れらておるのでな」
「そんなん読んでどうするんだよ?」
「あの札の対処法を探るに決まっておるじゃろう」
今まで穏やかな表情と口調が一変、真剣みを帯びたものへと変わる。
「二度と封印などされてたまるか」
本を読むその目は、まるで仇敵を見るようだった。しかし、気にせず巡は告げる。
「読書するのは勝手だが、別に机じゃなくても良いだろ。どけ」
その場を替わるよう命じた。
「何をするんじゃ?」
「屋台の来月の計画を立てんだよ」
机に向かい、引き出しから、各食材の消費期限と予算が記入されていたノートとレシピ本、白紙の献立表を取り出す。
「屋台の献立か?」
「まぁな」
電卓を叩き、レシピ本を眺め、しばらくの思案後、屋台で採用するかの合否を下す。その工程を繰り返す。
「まぁこんなモンか」
白紙だった一週間分の献立表が全て埋まり、大きく伸びをする巡。
「なんというか、楽しそうじゃな」
まるで旅行の計画でも立てているかのようだった。
「売り上げと、売れ行きの予想。客の反応。そういうのを想像すると不思議とワクワクするんだ」
機嫌の良い声で答える。
「しかしその身体で夜更かしは感心せんな」
「ほっとけ」
「夜遅くまで起きていると鵺が来るぞ」
「なんだそりゃ?」
聞いた事のない、言い習わしだった。
「儂ら天狗が、夜更かしする子を躾けるために使っていた言葉じゃ」
「『食べて、すぐ横になると牛になる』みたいなヤツか、それで鵺ってなんだ?」
「夜に鳴く、不吉を知らせる鳥の名じゃ。その鳴き声を聞いた者には禍が訪れると言われておる。現代ではその正体はトラツグミだったと言われているらしいが、あれはただの鳥ではない。もっとおぞましい何かじゃ」
「本物を見た事があるのか?」
「一応な」
「一応?」
引っ掛かる言い回しだった。
「あれは集団心理を喰い散らかす魔物だ。定まった姿を持たん」
「どういう意味だ?」
「良いからさっさと寝るぞ、献立の続きは明日にせい」
「やめろ引っ張んな」
巡をはぐらかし、寝室へと押し込んだ。
平成二十八年。十月十六日。金曜日。
午前十一時。この日、巡はやっと目覚ましのアラームよりも先に目が覚めた。
「もうちょい寝るか」
時計のボタンを押してから、再び布団に潜り込む。
「二度寝するでない。早よう飯を作ってくれ。もう昼だぞ」
巡の肩を迦楼羅が揺すり、食事を催促した。
「嫌だ、私はまだ寝る」
「老体に夜のマラソンは流石に堪えた。お主の飯を食わんと力が出ん。早う早う」
「都合の良い時だけ年寄りになりやがって」
気怠そうに起き上がり、ふらつきながら台所へ向かう。
「消費期限が近いヤツを電子レンジで良いな? ごはんと汁物は諦めろ」
「構わん」
「面倒くせぇ」
愚痴りながら、インスタントコーヒーの粉末を錠剤のように口に流し込み咀嚼する。
「…」
その様子を迦楼羅はじっと観察していた。
「とりあえず飯食ったら、明日の準備な」
「明日? 今日は屋台を出さんのか?」
つい二日前に臨時休業したばかりである。
「明日は市のイベントがあって、今日はその会場設営があるから公園に屋台を置けねぇんだ。農業祭つって、毎年秋になると開催する祭りがあんだよ。豊作祈願の縁日みてぇなモンだ」
巡の屋台も、それに合わせて店を出す。
「明日は屋台居酒屋や弁当屋できる雰囲気じゃないからな、不本意だがホットドッグを作って売る。買い物に付き合え」
遅い朝食の後、門ストアにホットドッグの材料を買いに行った。
門ストア店内。
ミートコーナーで、なるべく安くて大量のソーセージが入っている商品を物色する二人。
「おっ、これなんてどうじゃ? 五十本でこの値段じゃぞ?」
「良いなそれ。色が微妙におかしいが、焼けば問題ないだろ。日持ちするみたいだし、余分に買っとくか」
カゴに四袋投げ込んで、パンコーナーへ向かった。
「そういえばお前の羽、色んなバリエーションがあるって言ったな?」
巡は、切れ目が入ったパンを探しながら問いかける。
「それがどうかしたか?」
「例えばその中に、怪我を癒せるヤツとかあんのか?」
「治癒能力か? お主以上のモノがこの世にあるとは思えんがな」
「私のは化生限定だろうが。人間にも有効なのがあるかって訊いてんだ。傷を塞ぐだけじゃなくて、事故で失った手足を元通りにしたり、失明した人の視力を戻したり…」
「味覚障害を治したり、か?」
「ッ!」
思わず手に取っていた商品を落としてしまった。慌てて拾い、申し訳無さからその商品をカゴに入れる。
「たった数日じゃが、同じ時を過ごしてわかったぞ。お主、味覚障害であろう?」
「…」
「図星か?」
「なんで分かった?」
「味が安定しない。コーヒーの粉を口に入れても顔色一つ変えん。儂が言い出すまでテーブルに調味料を並べん。これだけ揃えば十分じゃ」
味覚障害にという結論に至るのは当然だった。
「目聡いな」
「儂らのおった時代は目聡くなければ生き残れん。木陰の揺れ方から危機を察知できるくらいの観察眼がなければならない。例えば…」
迦楼羅はパンコーナーのすぐ隣、飲料水売り場へ行きメーカーが違うペットボトルを一本ずつ持ってくる。
「これ一つとってもそうじゃ。お主はこれの蓋の形が全て同じに見えるか? それとも違って見えるか?」
「そうだな、線の入り方が微妙に違うな」
蓋は同じ色だが、溝の模様が違っていた。
「もっとよく見ろ。形だってまるで違う。こっちの方が若干表面が膨らんでおるじゃろ?」
「見てねぇよそんな所まで」
言われるまで、どっちも全く同じ形だと思っていたくらいだ。
「小さな変化に気付く事で選択肢が増えることもある。どんな危機的状況でも、観察を怠らなければ、活路は必ず見いだせる。覚えておけ」
「何どさくさに紛れてサイダー入れようとしてんだよ」
「あだっ!」
ペットボトルをカゴの中に入れようとする迦楼羅の頭に拳骨を落とした。
「どんだけ甘いモン好きなんだよ。甘いのはその頭だけで十分だろ。カラメルぶっかけ過ぎたプリンみたいな色しやがって。見てるこっちが糖尿になりそうだ」
「なにおう! でっかい若白髪こさえとる奴に髪の事を言われとうないわ!」
「てめぇこそ八百年生きてるなら白髪の一本でも生やせよとっちゃん坊やが!」
「そもそもなんじゃその言葉遣いわ!! 親からどういう教育を受けたらそんな物言いと狂人めいた行動がとれる!」
「親は関係ねぇだろ親はッ!! 全部私の問題だ!! 味覚失ったのも、すぐに手が出る性分も…」
周囲の目が集まり出した事に気付き、巡は急ぎパンを選び会計を済ませて店を出た。
スーパーからの帰り道。
「それで、味覚障害になったのはいつからじゃ?」
口論で中断してしまった話題を再開させる。
「小学校高学年の頃。ある日突然だ」
今でも昨日の事のように思い出せる。
「片親なのと、白髪混じりの頭のせいで、クラスの悪餓鬼どもから注目されちまってな」
同じ人間なのにどこか異質さを感じさせる彼女は、悪意という名の好奇心をぶつけるにはうってつけの相手だった。
「肉体的にも、精神的にも色んな嫌がらせをされた」
そしてついに、何の前触れも無くその時がやってきた。
「突然だ。母さんの味噌汁を飲んでいる時、何も感じなくなった。おかしいと思って口に運んだたまご焼きも同じだった」
(人間の脳は、強いストレスを受けると神経が異常をきたし、五感が狂う事があると本に書いてあったが、本当じゃったか)
図書館で読んだ本の中に、そんな記述があったのを思い出す。
「味覚を失った事よりも、母さんの料理をもう二度と味わえないっていう方がキツかった」
その時、巡は自分の頭の中にあった歯車が一つ欠落する音を確かに聞いた。
「その瞬間。私の中で何かが壊れた。何がどう壊れたのかは上手く説明できないが、人として大事な何かが欠けたんだ。なんというか……暴力的な事に嫌悪感が湧かなかったり、ムカつく奴が怪我するとザマーミロって、平気で思ったり」
「何を失ったか儂が教えてやろうか?」
「わかるのか?」
思いもよらない言葉に不意を突かれ、思わず詰め寄った。
「お主が味覚と一緒に感じなくなったのは『他人の痛み』じゃ」
「だからか、あの悪ガキへの仕返しが、躊躇なく出来たのは」
得心言った様子で頷いてから、続きを話す。
「味覚を失った翌日だ。一人で帰っていたら、主犯の餓鬼がノコノコと近づいて来たから、すぐに実行してやった」
人通りの少ない土手を一人で歩いている時、悪童は背後から巡のランドセルを掴み、振り向かせた。
「朝の通学路で拾った缶スプレー、それを顔に吹き付けてやった」
スプレーの中身が何かなど、どうでも良かった。視界を奪えれば良かった。そう考えながら押して出たのは、銀色の塗料だった。
「アイツは顔を押さえながら土手を転がっていったよ」
昔、母とダンボール滑りをした思い出の坂を、ゆっくりと降りる。歩きながら、使えそうな物を探した。
「蹲るそいつを、拾った棒で滅多打ちにした後、口に砂利を詰め込んで、その顔を何回も爪先で蹴った。死んでも構わないと思って何回もやったが、結局はそいつの口がズタズタになるだけで、それ以上の事にはならなかった」
この日の事が世間に露見する事は無かった。いじめの報復という事態を表沙汰にしたくなかった学校と、イジメを行った生徒の保護者の間で、事故による怪我として処理され、巡の母の耳にこの話が届くことはなかった。
そしてその日からまるで別人のように振舞う巡に近づこうとする生徒はいなかった。
(それがコヤツの、度の過ぎた暴力行為の原因が)
他者の痛みがわからない。共感が出来ない故に、危害を加える事に一切の躊躇いが無い。
(病弱な自分をこの世で一番非力な存在だと思い込み、健常者である他者は、自身が加える危害では決して死にはしないと本気で信じておる)
だから、下手をすれば殺してしまう行為でさえ、当たり前のように実行してしまう。
(やはり狂っておる)
一言で言えば彼女はそれに尽きる。
(まぁ、味の無い世界で十年以上を生きれば、誰だってそうなるか)
娯楽の少ない時代を生きた迦楼羅にとって、食の楽しみを奪う味覚障害というのがどれだけ残酷な症状か痛いほどわかる。
「しかし。味音痴や貧乏舌ならともかく、味覚障害持ちが屋台などよく始めようと思ったな」
「味覚障害者が屋台を開いたら駄目だっていう法律か条例でもあんのか?」
「別にお主を咎めるつもりはない」
「他にやりたい事が見つからなかったんだよ。母さんがいなくなった後、私には死ぬか屋台をやるかの二択しかなかった。それだけだ」
「それでも、せっかく足を運んでくれる客に対していささか不誠実ではないか?」
「そりゃそうだけどよ」
半分詐欺みたいな真似をしているのではと、常々感じていた。
最も、禍福による恩恵の前では、味の良し悪しなど考慮に値しない事かもしれないが。
「儂が従業員の間は、儂がお主の舌になってやる。味付けの分量がわかるメモも、出来るだけ残そう」
「…」
その言葉に、巡の足が止まる。
「どうした? また具合が悪いのか?」
立ち眩みの前兆かと心配した迦楼羅は戻ってくる。
「なんでもねぇ、行くぞ」
少し速いペースで歩き出す。
(なんでかわかんねぇが、気持ちが少しだけ楽になった)
胸につかえていた物が少しだけ取れた。そんな気がした。
夕方四時。市役所内の会議室。
「明日はよろしくお願いします。一緒に祭りを盛り立てましょう」
農業祭の最終打ち合わせが終わり、市長である弓削は、退室する一人一人に労いの言葉をかけて見送った。
「君も用が無いなら帰りなさい」
コの字型に並ぶテーブル。その一番端に突っ伏すタトの背中を強めに叩く。
「おい、起きないか」
神仏連の代表として会議に出席したタトは、会議の間ずっと眠っていた。
「だって去年と同じ内容だもん。眠たくもなるわ」
首を回しながら身体を起こす。
「やれやれ。こんなのの指揮の下で、吾輩たちが管理されていると思うと眩暈がするな」
新たに会議室へ入ってくる者がいた。
「なんの用よクソジジイ」
現れたのはぬらりひょんだった。
「坊主とタト、貴様らの耳に入れておきたいことがあってな」
「いらないから帰れ」
「なんでしょう?」
弓削が、タトとぬらりひょんの間に入ってから尋ねる。
「遥か昔、貴様ら弓削一族が封印した化物がいただろう?」
「天狗の長のことかな?」
「左様、貴様らが滅ぼして国ぐるみで存在を隠ぺいした天狗という種族の長。最古にして最強の天狗。迦楼羅」
「他界した父から聞いている」
先祖代々語り継いできた歴史だった。
「それの封印が解けたぞ。あの子のせいでな」
「ッ!?」
タトはその言葉の意味を瞬時に理解した。瞳孔が全開となり、しばし呼吸を忘れる。
「あの子とは誰ですか?」
タトの動揺に気付かない弓削は会話を続ける。
「皆本巡だ。何かの弾みで御札に触ったのだろう。あの娘は特異体質だからな」
「今、その天狗の長はどこに?」
「上手い事やって、皆本巡の所に転がりこんでいる。あと一ヶ月もすれば、全盛期の力を完全に取り戻すだろうな」
「迦楼羅天狗…」
タトは、無意識の内に拳を固く握りしめていた。
「さて、我らが頼れる神仏連様は、その迦楼羅にどう対応する?」
「討伐するに決まってるでしょうが。今度こそ息の根を止めないと」
即答だった。
「僕は反対だ。ちゃんと話せば、その者と共存する道だってあるかもしれない」
「ほう。意見が分かれたか。此度の出来事は、八百年前に迦楼羅を殺しきれなかった貴様ら一族と、裏切者の是害坊の不始末。双方、納得いくまで話し合うと良い」
ぬらりひょんはカカカと笑いながら部屋を出て行った。
「あの人の言う通り。話し合おうか。その迦楼羅という天狗の対処の仕方について」
「そうね」
会議室に残った二人は再びテーブルに座った。
討伐する意見と、共存を望む意見のぶつかり合いは二時間近く続いた。お互いに妥協可能な案が出た事で、ようやく両者は言葉の矛を納めた。
「それじゃあ、いつ決行するか決めましょうか」
「そうだね」
一瞬の間を置いて、二人は同時に口を開く。
「絶対に明日」
「明日を希望したい」
二人とも、巡の事が心配だった。
夜の九時。皆本家。
「ああー良い湯だった」
風呂から上がり居間へ戻って来た巡は冷蔵庫を開けて、入っていたミネラルウォーターのペットボトルに口を着ける。
「残り湯はどうした?」
先に入浴を終えた寝巻姿の迦楼羅が尋ねる。
「捨てた」
「くぅ!」
「つーか、なんだその姿勢?」
迦楼羅は壁を背に逆立ちしていた。
「頭に血を集め、思考力を高めてブレインストーミング中じゃ」
「何について考えてんだ?」
「御札の対処法じゃ」
迦楼羅のすぐ近くには、昨日も読んでいた、古の書物があった。
「閉じ込められた時の対処方法が浮かばん。無敵過ぎるぞこの御札」
「そんなすごい結界なのか?」
迦楼羅は逆立ちしたまま書物を手に取り、読み上げる。
「四方の壁と床、天井に貼る事で、結界が発生する。結界内にいる妖怪は強力な眠気に襲われて、そのまま強制的に休眠状態じゃ。結界が消えるまで目が覚めん」
「お前はどういう状況で封印されたんだ?」
「弓削一族に連日連夜挑まれて、消耗しきった所で岩の棺の中に放り込まれた」
石の棺の外側。四方と底には、例の札がすでに貼られていた。
「棺から出ようとしたら、岩の板で蓋をされた」
蓋の外側。迦楼羅から見えない面に、札が貼られており、その時点で結界が発生した。
そして気付けば八百年後の未来だった。
「じゃあ私の時みたいに、誰かが剥がすのを待つしかないって事か」
「簡単に言うな。結界が発動後、御札自体も何らかの加護で守られる。儂ほどの大妖怪ならともかく、その辺にいる人間や妖怪では、皺一つ付けられん」
禍福を宿す巡だからこそ起こせた奇跡だった。
「おまけに、結界はどんな物理攻撃も無効にする。札は結界の外にある故、内からは札に触れられん」
「じゃあテレポーテーション」
「出来たら苦労せんわ!」
「つーか、結界が解ける具体的な条件ってなんだよ?」
「結界を作り出す六枚の札の内、どれか一枚でも剥がれれば、結界は消える」
そう書物に記されていた。
「それ以外の方法は?」
「無い」
「詰んだな」
最強の天狗を八百年間封じた実績は伊達ではない。
「結界を張るには事前の準備が大変みたいだし、気付けばなんとかなるんじゃないか?」
「物に貼り付かねば何の効力も発揮できん紙切れに怯えねばならんとは、情けない」
「ん? 御札ってのは何かに貼りついてなきゃ駄目なのか?」
「当然じゃ。御札というものはそもそも、何かに貼り付けて使う物だ。貼り付く事でその真の力を発揮する。何物にも触れていない御札など、紙きれ同然じゃ」
それを聞き、巡の頭に一つのヴィジョンが浮かんだ。
「なぁ、こういうのは駄目なのか?」
今思いついた事を伝える。
「なるほど、それなら自力で脱出は可能かもしれんな」
巡の案に感心する。
「かなり運任せな綱渡りではあるが、それ以上に有効な手はあるまい」
「だろ?」
蟹和尚との問答で鍛えた成果が、その柔軟な発想を生んだ。
「しかし、それなりに準備がいるな」
巡の案を現実のものにするには、いくつかクリアしなければならない課題がある。
「羽が手榴弾みたいに爆発する翼とか持ってないのか?」
「翼の爆発する鳥がこの世におると思うか?」
「それ言ったら、光学迷彩する翼持った鳥だっていねぇよ」
「まぁ火ぐらいなら起こせん事もないが」
「爆発は駄目で火は良いのかよ」
基準が全く理解できなかった。
「火を起こすには、団扇がいる。真円寺に納められているな。折を見て、寺にも行くとするか」
そこでようやく逆立ちを止める。
「それにしても、ずいぶんと親身になって考えてくれたな」
結界対策について、巡がここまで協力的なのが意外だった。
「暇だったからか?」
「そういえば、お主、帰って来てから機嫌が良いが、何かあったのか?」
「そうか?」
「そうじゃとも。儂に向ける殺気がだいぶ薄れておる」
巡自身が、その事を自覚している様子はなかった。
「おっと、もうこんな時間か」
迦楼羅は時計を見る。明日は早朝に出発しなければいけないため、普段よりもずっと早く寝る必要があった。
「ほれ。さっさと寝るぞ、さもないと」
「鵺が来るんだろ。わかってるよ」
素直に従い、床に就いた。
三章は9日(水)に投稿予定です。