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一章:平成二十八年十月九日 ~ 十月十二日

 皆本巡みなもとめぐるの暮らす浄ヶ原じょうがはら市は、山脈の裾野に位置し、総人口八万人、その内の二割が化生という、他の地域に比べて多くの化生が暮らしていた。水はけが良い土壌のため、ニンジン栽培が盛んで、市の特産品の一つである。

市の中心部にある浄ヶ原駅を起点として、商店街や百貨店をはじめとした様々な商業施設が立ち並び、駅から遠ざかるにつれて工業地域、住居地域、田畑、国有林と人口密度が徐々に薄くなっていく。

巡が屋台を開く浄ヶ原市公園は駅から二キロ北上した場所にあった。



 平成二十八年十月九日。金曜日。

日疋ひあしタトが通知を出してから一週間、今日も巡は公園に屋台を出していた。

「そしたらその人間のお客さん、酔った勢いでアチシの胸触ってきてさ」

時刻は夜の八時。褐色の素肌の上に、年齢不相応な濃い目の化粧を施す少女が、巡に元気に話しかけていた。彼女の感情に呼応して、腰に生えた六本の節足が開いたり閉じたりを繰り返す。その一本一本は地面に着くほど長かった。

「その時、アチシの手下の子蜘蛛が怒っちゃって、客さんの指にガブーって」

「そのまま噛み千切ったと?」

「いやいやいや。いくらセクハラされたとはいえ、そこまではやんないよ」

首を振るとその動きにつられて、肩まである紫がかった長い髪が揺れる。ヘアアイロンによってカールしているその髪の先端は、首を振り終わってもしばらく小さく揺れていた。

「その客はどうなったんだ?」

「ママに厳重注意されて終わり」

「お前ごときの乳でママさんから厳重注意かよ。気の毒な客だな」

「酷い!」

この客の名は女郎蜘蛛ヤツデ(じょろうぐも やつで)。巡の高校時代の同級生である。

高校卒業後、彼女は水商売の業界に飛び込み、現在は店の中堅として、売り上げの貢献や新人の指導で何かと忙しい毎日を送っている。時折こうして、仕事前に立ち寄り、夕食をとってから出勤する。

「巡ちゃん。おでんおかわり!!」

空になった紙皿を差し出す。

「タマゴ、大根、ちくわ、はんぺん! あ、あとガンモを二つ!」

「太るぞ?」

「私達の年代は、食べたら食べただけ胸に栄養が行くらしいよ!」

はしゃぎ、細い身体に不釣り合いな胸を揺らす。

「てめぇだけだよその都市伝説が当てはまるのは。十九歳でその乳は犯罪だろ。歩くポルノか」

目の前でそんな風に無邪気に上下されれば、触れてみたくなる男の気持ちも、わからないでもない。

「巡ちゃんは膨らむどころか凹んでるもんね!!」

「ハッハッハ、言うじゃねぇか」

ちくわの穴に大量のカラシを注入してから差し出す。気付かずにそれを口に運ぶ。

「ぎゃああああああ涙腺が痛いぃぃぃ!!」

「馬鹿め! もっと苦しめ…………はぁ」

何かを思い出したかのように、急に元気が失せて溜め息を吐く。

「今日はどうしたの? さっきから何度もため息吐いちゃって?」

巡の料理の影響か、辛味による舌と涙腺、鼻の粘膜の痛みはすぐに緩和された。

「今週から急に客足が減った」

不機嫌な顔で頬杖をつきながら歯ぎしりする。

「なんで?」

「ヤツデも化生なんだから神仏連から通知が行ってっだろ? この店をあんまり利用するなって」

「あー、そういえば」

下唇に指を当てて最近の記憶をたどる。

「ママがそんな事言ってたかも」

「おかげで売り上げ激減だ」

日頃からタトを恐れている化生達は、この屋台の利用を控えるようになった。

屋台の客のほんどは化生のため大打撃である。

「お前も良くここの飯が食えるな? 有害物質が入ってるかもしれないんだぞ?」

「どーせタトさんの方便でしょ? 巡ちゃんを守るための」

タトが出した通知の目的を、ヤツデは看破していた。

「この一年ぽっちで、ここまで強くなれるなんて異常だもん」

ヤツデは小指を下に向ける。小指の先から白い糸が生み出される。

「吐き出せる糸の量も、強度も、仲間内じゃトップクラスだよ」

「本当に私の料理の影響か?」

「間違いないよ。私たち女郎蜘蛛って。妖気の流れに敏感だから、何回か通う内にわかっちゃった。この子もそう言ってる」

指を鳴らすと、屋台の天井から一匹の蜘蛛が糸を垂らして降りて来て、カウンターの上に着地した。

「満タンのペットボトル持ち上げたり、マッチくらいの火を吐けたりで、もうビックリ」

本来なら種族の長のクラスでないと出来ない事らしい。

「飲食店に虫持ち込んでんじゃねぇ。叩き潰すぞ」

言ってすぐに空き瓶を持ち上げ、躊躇なく小蜘蛛に叩き下ろした。

「ちょっと!」

彼女の額、今まで閉じられていた六つの眼が開く。瓶に潰されるよりも早く、小指の先から射出した糸に蜘蛛を引っ掛けて回収した。

「出た! また出たよ! 巡ちゃんの予告バイオレンス!」

両手で小蜘蛛を包み、紫色の眼を潤ませながら抗議する。

「そんなんだから高校の時、アチシくらいしか友達ができなかったんだよ!」

「ところでお前、時間は良いのか?」

「え? わっ! もうすぐ出勤時間じゃん!」

手首の時計を見て立ち上がる。

「ごめん、チェックで!」

デコレーションされたピンク色の長財布を取り出して会計を済ませる。

「頑張ってオッサン共に媚び売って来い」

「巡ちゃんもどう? お金に困ってるんでしょ? ママも歓迎してくれるよ」

「残念だが屋台が私の生き甲斐だ。他の職に就くつもりはない」

「生き甲斐?」

「お前にも何かあるだろ。今の自分の原動力になってるモンが?」

「うん! ある! あるよ!! この業界でのし上がって、いつかママみたいな立派なお店をいーーっぱい持つっていう夢!」

「良い生き甲斐だ。途中で諦めるなよ?」

「モチロン! 行ってくるね……あっ!」

駆けだそうとして、何かを思い出したのか、急に振り返り戻って来る。

「忘れ物か?」

「言っとくけど、私がここに通うのは、強くなりたんじゃなくて巡ちゃんとお喋りしたいから。だから多少不味い料理にもお金出してんだからね」

「一言多いんだよ馬鹿、目ん玉潰すぞ」

カウンター越し。六つの目が浮かぶ額に向けて貫手を放つ。

「なんの!」

ヤツデは身をのけ反らせてそれを回避し、今度こそ勤務先へと向かった。



「さてと」

客足が途絶えたので、巡はこの一週間分の売り上げを計算する。

「ヤベぇぞこれ。このままだと数か月後には税金滞納者になっちまう」

帳簿を確認し、改めて危機的状況にあることを思い知らされる。

「こりゃ、人間の客をもっと呼び込まないと辛いな」

「こんばんは」

ゆっくりとした、とても落ち着きのある男性の声が暖簾の向こう側から聞こえた。

「あっ、いらっしゃ…」

その姿を見て、巡は落胆の息を漏らす。

「また化生かー」

「どうかされました?」

様々な外見の者が集う巡の屋台だが、彼はその中でも頭一個分、抜きん出ていた。

「こっちの話だ」

その客の胴体は袈裟を纏う人間のものだが、その首から上、本来なら頭があるはずの部分には丸々と太った一匹の蟹が乗っていた。

「いらっしゃい蟹和尚かにおしょう。暖簾外すよ」

頭の蟹がビーチボールよりも二回り程大きい為、彼の来店時は暖簾をどかすのが常だった。

「助かります」

喋るたび、頭に付いている二本の鋏と六本の足が小刻みに動き、数珠の珠のような一対の複眼が、出たり引っ込んだりを繰り返した。

「今日も法事の帰りか?」

ほんのりと線香の香りがしたためそう尋ねる。

「はい、故人とは生前に親交がありまして、遺族の皆様がお経は私にあげて欲しいと」

彼は浄ヶ原市内にある寺、真円寺しんえんじの僧の一人である。

二百年前、真円寺が建造されたばかりの頃。『一休和尚のようなとんち名人になりたい』という理由で弟子入りして以来、僧として修行と弔辞に従事してきた。

寺は望月という人間の家系が代々継承し、管理しているのだが、生き字引である彼とは家族同然の仲である。

ちなみに、蟹坊主というのが化生としての正式な名称だが、周囲は敬意を込めて彼を蟹和尚と呼んでいる。

「お酒もらえますか? 日本酒を一合ほど」

「ナマグサ坊主」

「磯臭いですか私?」

腕をあげて袈裟の臭いを嗅ぐ。袈裟の袖から出ている腕の先は、人の手でもハサミでもなく、鋭利な蟹の爪先だった。

「そっちの意味じゃねぇよ。それで冷と熱燗、どっちだ?」

「熱燗で」

「五分くらいで出来ると思う」

酒を注いだ徳利を水の張った鍋に入れて、コンロに火をつける。

「よろしければその五分間。私ととんちでもしませんか?」

「おう。受けて立つ」

彼は問答が好きで、屋台に来ると必ず何か問題を出してくる。彼が出題する問題は、どれも程良い難易度で、脳を心地良く働かせられるため、巡は好きだった。

「では、そもさん」

「せっぱ」

「電気を使わなくても、熱い物を冷まし、冷たい物を温める事ができるものがあります。それは何でしょう?」

「今日は難易度高くないか?」

「貴女にはあらかた正解されてますからね。そろそろワンランク上の難易度でも良いかと思いまして」

「電気を使わず、か。そんなモンあったら是非ともココに置きたいね」

「皆が持っているものですよ?」

「本当かよそれ?」

考えながら、徳利の温まり具合を確認する。

「アチチ」

すでに高温に達しており。反射的に指先に息を吹きかける。

「あっ」

その動作でハッとした。

「その答え、ひょっとして『息』か? 冷たい手を温めたり、熱い飲み物を冷ましたり」

「正解です」

「よしっ」

ぐっと手を握る。

「この瞬間ってのは何歳になっても嬉しいもんだな」

巡が幼い頃、寺は数少ない遊び場の一つだった。その時、独りぼっちだった巡の相手を彼は良くしてくれた。蟹和尚とはその頃からの仲である。

「童心を忘れないのは良いことです。貴女は少しばかり、脱却した方が良いかもしれませんが」

「無理だね」

熱くなった徳利とお猪口を彼の前に置く。

「思うがままに生きていては、身が持ちませんよ?」

両手でお猪口を摘まみ、高く掲げると、頭部の蟹が鋏でそのお猪口を受け取った。

「それで死ねたら文句ないよ」

空のお猪口に巡は酌をする。

「屋台は重労働だと聞きます。生き甲斐にするのは構いませんが、もっと自分の身体を気遣ってください。夜中に急に倒れても、誰も助けてくれませんよ」

「そん時は和尚がお経をあげてくれよ。母さんの時みたいに無料で」

「冗談でもそういう事を言ってはいけません」

静かに、しかし力強く。まるで子供を叱るような口調だった。

「悪かったよ。ちょっとヤケになってた」

「タトさんからの圧力は災難でしたね」

巡の気持ちが荒れている原因には察しがついていた。彼も間接的に神仏連と関わる身であるため複雑な心境だった。

「私の事を気遣っての呼びかけだと言ってるが、実際は何を企んでんのか」

昔から彼女は胡散臭く。信用ならない人物という事で有名だった。

「考えたら余計に腹が立ってきた。次に会ったら、顔面焼いて問いただしてやる」

「あまり彼女に関わらない方が良いですよ。私以上に昔から生きてる得体の知れない化生です」

長寿者として扱われる蟹和尚ですら、タトの素性を知らない。種族すら不明だった。

神仏連の支部長は人間が務める事がほとんどだが、タトは数少ない例外で、化生の身でありながら、浄ヶ原支部の支部長を務めて居る。

蟹和尚が物心ついた頃には、すでにその地位におり、それ故に、この街でタトに逆らえる化生はまずいない。

「怒っても良い事などありません。気晴らしにもう一問いかがですか?」

「よし来い」

その後。徳利が空になるまで、二人は問答を続けた。



蟹和尚が去ってから一時間が経過する頃。

「あと二時間くらいで充電が切れるな」

屋台の天井からぶら下がる三つの裸電球の明るさが一段階小さくなったのに気付き、ポータブルバッテリーの残量が少ない事を悟る。

顔を上げ、数キロ先にある駅周辺のビル群を眺めてみると、ほとんどの窓の明かりは消えていた。

(あと十五分経っても誰も来なかったら、もう帰るか)

そう考えた五分後に、その化生はやって来た。

「やっているか?」

しゃがれた声の後、暖簾を掻き上げて現れたのは、品の良い着物を来た小柄な老人だった。

「いらっしゃい、ぬら爺」

巡から『ぬら爺』と呼ばれた禿げ頭の老人。異常に大きな後頭部を持つ彼は、ぬらりひょんと呼ばれる種族の化生である。

「こんな時間に珍しいな」

早寝早起きを好む彼が深夜に顔を出す事は非常に稀だった。

「昼寝をし過ぎたせいか、目が冴えてしまった。月の綺麗な晩に、軽く晩酌するのも一興かと思った次第だ」

「そういえばいつもの付添人は? ボディガードみたいな二人組」

「こっそり抜け出してきた」

言ってから、自分が居なくなってしまい慌てふためく二人の様子を想像したのかカカカと意地悪く笑った。滅多に怒らず、無礼者にも諭すように注意する好々爺ではあるが、彼には他人を困らせて喜ぶ一面もあった。

「浄ヶ原一番の金持ちって自覚あるのか? 会長さん」

浄ヶ原市には偉業建設という、江戸時代に創業した建築会社がある。創業時から浄ヶ原市の様々な建築物に携わっており、民家の三割、大型施設の五割は偉業建設によって建設されている。常に最新の建築・設計技術を積極的に取り入れ、多くの化生を従業員として雇用し、それぞれの長所を発揮させる部署に就かせる事で、低コストで短納期な工事を実現し、毎年多くの利益を生み出している。彼は創業者であり、現在は会長という地位に身を置き、経営の大部分を若い衆に任せ、自由気ままに暮らしている。

「タクシーを拾って帰るから心配ない。そもそもこの街は治安が良い、何に怯えろと言うのか」

彼はメニュー表を手に取り、焼酎のお湯割りと、酒の肴にと焼き魚を注文した。

「しっかし災難な目に遭っているな嬢ちゃん。神仏連に目を付けられるとは運が無い」

出された焼酎と焼きシシャモを少しずつ腹に納めながら、ぬらりひょんは切り出した。

「収入は大丈夫かい?」

「いくら赤字が続こうと、この屋台だけは止めるつもりはないから安心しろよ」

「普段ならここで『吾輩の屋敷で働くか?』と勧誘したいところだが、嬢ちゃんは絶対に首を縦に振らんだろ?」

彼女の料理の性質に気付いた彼は、彼女を自分の専属料理人として囲ってしまおうと画策した時期があった。

「良く分かってんじゃん」

「何度も振られたからな。いい加減に学習する」

巡の屋台に対する熱意が冷めたり揺らいだりしたのを、彼はこれまで一度も見た事がなかった。故に、囲うのを断念した。

「そういえば、『シャバ代払えと恐喝してきたヤクザに煮えたぎった油を浴びせた後、何の躊躇いもなく一升瓶を叩きつけた』と聞いた事があるが誠か?」

屋台を始めて一年半経つが、その最初の頃。地元の露天商会が、加入しない巡にした嫌がらせの一環だったのだが、彼女はそれを誰もが予想しない方法で撃退した。という噂があった。

「んなワケあるか。廃棄予定の冷めた油をぶっかけてから、カセットコンロのガスボンベとライターで軽く炙っただけだ」

その言葉を聞いたぬらりひょんは、両手で目を覆ってしばし沈黙した。

「それはそれで恐ろしいと思うのだが」

「人の生き甲斐を邪魔したら、殺されても文句言えないって事くらい、道徳の授業で習ったろ?」

「最近の義務教育はそんな事を教えているのか?」

くわばら、くわばらと唱えながら両目を覆う手をどかす。

「最近の言葉で、嬢ちゃんみたいなのを何と言ったか、確か最初が『サイ』で始まる…」

「才女?」

「サイコパスだ」

「言うねぇ。頭蓋骨を人間と同じ形にしてやろうか?」

「待て待て」

後頭部に手を回して身を引く。

「チィ」

射程圏外に逃げられた悔しさから意識せずに舌打ちをする。

「しかしまぁ、吾輩ですら飼い慣らす事を諦めたじゃじゃ馬。その手綱を操れる奴がいるなら、それはそれで見てみたいものだ」

地域でも指折りの権力者の誘いに乗らなかった彼女を独占できる者がいるとしたら、とても興味深いと思った。

「好き勝手言うがアンタ」

巡は袖をまくる。骨と皮だけだと思えるほど細い腕が露わになる。

「産まれつき心臓の筋肉が、先天性心疾患を疑われるくらいに脆いせいで、筋トレすら命懸けな私に、よくそんな事言えるな」

週に一度は心不全に襲われ、立ち眩みなど日常茶飯事。学生の頃、体力テストで最下位以外の順位を取ったことがない。自他共に認める虚弱体質持ちである。

「いくら弱者だからと言って、健常者に何しても良いと思ったら大間違いだぞ」

「私の本気なんざ知れてるだろ、第一…」

「あらららー? 駄目じゃないお爺ちゃーん、深夜徘徊しちゃぁ。認知症かな?」

暖簾をかき上げて突然現れた者は、ぬらりひょんの後頭部をペチペチと叩いた。

「何しに来た日疋タト」

後頭部に触れる妙齢の女性、日疋タトの手を払いのけ、明確な敵意を篭めて睨み付ける。

「べっっつにー、ただ散歩してたらスケベジジイの卑猥な頭が見えたから、猥褻物陳列罪の現行犯逮捕しようと思ってね」

レディーススーツの上から着こむ長羽織の袖の中から、神仏連の職員証を取り出して見せつける。

「深夜徘徊は貴様の方だろう。厚化粧の老婆が」

「ほっほー。侮辱罪まで上乗せするとは良い度胸じゃない」

「吾輩とそう変わらん高齢者だろうが」

「失敬ね。そんな昔に生まれてないわよ。源平合戦ならリアルタイムで見てたけど」

頬を膨らませて、言い返した。

「悪い、ぬら爺。ツケにしとくから今日はもう帰ってくれ」

この二人がこれ以上会話を続けると、ロクな事にならないと判断した巡は、顎をしゃくって彼の視線を公園の外に向けさせる。

「すまんな嬢ちゃん、ところで明日もやっとるか?」

「明日も営業してるよ」

「そうか」

その言葉に深く頷いてから、ゆっくりとした動作で椅子から立ち上がり、踵を返す。

《他の化生ならいざ知らず、アンタだけは絶対にこの子に近づいて欲しくないんだけど》

タトは巡には聞こえない様、特別な話法を用いてぬらりひょんの鼓膜に直接声をぶつけた。

《アンタでしょ? ウチの本部に巡ちゃんの事タレコミしたの?》

《なんの事やら》

《それと。今公園の林の中にいる、あんたが飼ってるボディガード。さっさと撤収させなさい。気味悪いったらありゃしない》

屋台のはるか後方、植林されて出来た林の中に、スーツ姿の男が一人潜み、こちらの様子を窺っていた。男の顔には、目も口も鼻も無い、のっぺらぼうと呼ばれる種族の化生は、ぬらりひょんが屋台を訪れている時から、すでにその場所に居た。

「さて、タクシーでも呼ぶかの」

巡にも聞こえる声でそう独りごちて、帯に挟んである携帯電話を取り出し耳に当てながら道路へと歩いて行った。

「さてと」

タトは林の中にいるのっぺらぼうが移動を始めたのを確認してから巡を見る。

(うっわ。めっちゃ怒ってる)

客を追い払われて、怒り心頭の巡。

「なんの用だよ?」

「かなり困窮してるって聞いたから、様子を見に来たのよ」

先ほどまでぬらりひょんが座っていた椅子とは別の椅子に座る。

「お陰様でこっちは、この歳で老後の心配だよ」

「あら? ちゃんと長生きするつもりでいてくれたのね。嬉しいわ」

「トンチンカンな事言ってんじゃねぇぞ」

「灰皿もらえる?」

内ポケットから線香のように細くて長いタバコを取り出して火を着ける。

「注文もしないで第一声がそれかよ。顔面燃やすぞ」

「ふっふーん。出来るものならやってみなさ…」

素早く三回。除菌に使うアルコールスプレーをタトの顔に吹き付ける。

「うわっち! ぁっちぃ!!」

立ち昇る火柱、顔を激しく叩いて鎮火させる。

「うう、前髪が」

「どうせすぐ治るだろうが」

「まぁそうだけどね」

舐めた指先で燃えてしまった髪とまつ毛に触れると、何事もなかったように元の状態に戻った。

「今日のメニューは?」

「鯖の味噌煮」

「うへぇ、アタシ鯖嫌いなのよねぇ。他には?」

「アンタに出すのは鯖料理だけだよ」

彼女は鯖が大の苦手で、雑談の最中に聞いてもいないのに勝手に自己申告する程だった。

「見ただけで鳥肌が立つ、匂いを嗅げば蕁麻疹モンなのよ」

「知ってる」

だからこそ鯖しか提供する気はない。

「まさかここまで恨まれているなんて」

袖で目元を隠し、ヨヨヨと泣き真似をする。

「巡ちゃんの身の安全を考えての決断なのよ? あのまま放っておいたら、きっと酷い事になるわ」

「今まさに酷い事になってんだよ。つーか逆効果だろ。アンタが通知出したせいで、私の料理には確実に効果があるって、察した奴が出て来てるぞ?」

ヤツデやぬらりひょん達がそれである。

「良いのよそれで。意図がわかるって事は、私がしたい事を理解してくれてるって事だから。下手に口外しないでしょ」

この一週間。タレコミに興味を持った本部の一部の連中が、秘密裏に調査を始めた事をタトは掴んでいた。調査に来た者達は、化生に力を与える者を、霊能力者や祈祷師の類だと想像しているようで、屋台の店主である巡には辿り着けないのが現状だった。

その内にガセ情報だと判断して興味を失くすだろうとタトは踏んでいる。

「知るかンな事。まとめて相手してやるよ」

「そんなアグレッシブな生き方じゃ、ロクな死に方できないわよ?」

「死に方にロクもナナもあるか」

「なんでそんなに生き急ぐのかしら?」

一体何が巡をそこまで屋台に駆り立てるのか、タトにはわからなかった。

「ウチの支部で正規の事務員として雇ってあげるから、屋台辞めない?」

「お断りだ。どうしても辞めさせたいなら殺す事だな」

「命まで削って続ける事?」

「美人で高給取りのキャリアウーマンなヤツにはわかんねぇよ」

「あら嬉しい」

「私みたいな全身欠陥だらけポンコツの身体じゃあ、人並みの人生なんて送れないからな」

「そういう事言っちゃ駄目よ」

構わずに巡は言葉を続ける。

「ロクでもない人生を少しでも楽しく、有意義だと思えるものにするには生き甲斐が必要なんだよ」

「だからって死んじゃあ元も子もないでしょう」

「本望だよ。それで死ねるなら。生き甲斐が無いなら死んでるも同然だ」

その言葉を聞いたタトは、頭痛に苛まれたかのように目を固く閉じ、指先を額に当てた。

「はぁ。まったく貴女って子は。困ったらちゃんと言いなさい。あとこれ、騒がせ賃」

立ち上がり、カウンターに五千円札を置いた。

「『施しは受けない』なんて意地張らないでよ? 私は貴女の客を追い払って損害を与えたんだから、受け取ってくれないとお互い筋が通らないわ」

「…」

不服そうな顔をしながら五千円札を抓み、手提げ金庫の中に入れた。

「これから本格的に寒くなるから、それでモコモコのセーターでも買いなさい」

そう言い残して、今日最後の客は帰って行った。



 巡とタトの会話が終った頃、公園を離れたぬらりひょんは、のっぺらぼう二人組と合流し、迎えの車が来るのを待っていた。

「本当に忌々しい女だ」

そう言う彼が座っているのは、四つん這いになっているのっぺらぼうである。

「一週間後の祭りが終わってから、と考えていたが気が変わった。明日も屋台を出すと言っていた、明日から計画を始めるぞ」

そこへ黒塗りの高級車がやって来て彼らの前で停まる。運転手ものっぺらぼうだった。運転手は車から降りると後部座席のドアを開け、ぬらりひょんを座らせる。主人が腰を落ち着かせたのを確認してから他ののっぺらぼうも乗り込み、車は静かに走り出した。





翌朝。平成二十八年十月十日。土曜日。

猫の額ほどの庭と、十坪にも満たない敷地に建つ木造の小屋。トラックのコンテナ程の大きさの建物が、皆本巡の住まいである。

玄関を開け、廊下を五歩歩いた先にあるドアの向こうに、六畳の広さの居間がある。居間に入って右を向けば狭い台所、左を向いた先にある襖を開ければ巡の寝室に繋がる。

「……しんどい」

深夜まで営業する彼女の朝は遅い。十一時頃になってからようやく起床し、家事と屋台に出す料理の仕込みに取り掛かる。



そして時刻は夕方五時。巡はいつもこの時間には屋台で出す食材の仕込みを終わらせる。

「じゃ、行ってくるよ母さん」

遺影の中で微笑む女性に語りかけてから玄関を出て、庭に停めてあるリアカーに食材と調理器具を詰み、公園に向けて出発した。



(ここまで来るのに体力の三分の一近くを使ってる気がする)

家から公園まで、健常者なら十分ほどの道のり。これを彼女は二十分掛けてやって来る。

(早く金貯めて、自動車屋台に鞍替えしないと、心臓が死ぬ)

日時計まで辿り着き、屋台の組み立てを始めようとした時だった。

「巡姉ちゃん、ボール取ってー」

芝生広場の方向から子供たちの声がして、顔を上げるとこちらにサッカーボールが転がってきた。

「しょうがねえな。うりゃっ」

転がって来たボールを蹴る。

「あっ」

ボールは見当違いの方向、公園の中に設けられたビオトープの方向へ転がっていった。

「なんで蹴ったんだよ巡姉ちゃん!」

「僕ら『取って』って頼んだじゃん!」

「足折れちゃうよ!?」

人間と化生が混在する小学生の集団が騒ぎだす。

「うるせぇ! そこまでカルシウム足りてねぇよ!! 拾って来てやっから、いつものように屋台組み立てとけ!」

「絶対だよ!」

屋台を子供たちに任せて、ボールの回収に向かう。

子供たちが屋台の組み立てを手伝うようになったのは一年前。震える手足で設置を行う巡を見かねて自発的に手を貸してくれたのが始まりである。それ以降は勝手に懐き、今も時折、時間が合えば屋台の設営を手伝ってくれる。

「こんな辺鄙なトコまで転がりやがって」

軽い傾斜だったせいか、ボールは思ったより奥まで転がっていた。

小川が流れ、木々が等間隔に並び、様々な種類の生物が共存するビオトープの中、ボールは木にぶつかって止まっていた。

「なんだこの岩?」

ボールの近く。場の雰囲気から明らかに浮いている岩を見つけた。

色は白く、大きさは幅一メートル、奥行五十センチ、厚さ十センチ。巨大なまな板のような形をしており。人の手が加わっている物だと一目でわかった。

「これも撤去しなかった岩のひとつか?」

この公園が作られる際、施工費を浮かすために、地形をあまり変えずに工事が行われており、邪魔にならないと判断された岩や木はその場に残されたままになっていた。

「にしても、どうして御札なんかが?」

一番の違和感は、御札が一枚貼られている事だった。

「やっぱりコレ、削ってこの形になっ……うおっ!?」

岩の表面を指先でなぞった直後。御札が勝手に剥がれて勢い良く舞い上がった。

「なんだ!? これ私のせいか!?」

理解が追いつかず、ただただ狼狽していると。

「どっっらァッッ!!」

何者かが発した声の後、白い岩が大きく動いた。

「ふぅ、間一髪じゃった」

岩の下は空洞になっているらしく、その中に何者かが居た。

「退魔師の間抜け共め、詰めが甘い」

隙間から這い出て来たのは、紺色の鈴懸を纏い、首から法螺貝を下げるわらべだった。

「こんな安物の札で儂を永久封印出来ると思ったら大間違いじゃぞ」

山伏の衣装に身を包む童の黒髪には、合計で六本、金髪の束が混じっており、その身から醸し出される年不相応の貫禄と、漂う異質な雰囲気から、人でない事が瞬時に理解できた。

「早よう里に戻って加勢を……何処じゃ此処は?」

やや困惑した表情で辺りを見回す。そして巡と眼が合う。小顔でありながらぱっちり開いた大きな目と琥珀色の瞳、小さな鼻。大人になれば間違いなく美形になる事が嫌でも想像させられた。

「私はただの通りすがり。無関係。じゃあな」

そそくさと立ち去ろうとする巡。

「待たれよ小娘」

童に腕を掴まれる。

「待たん」

その手を振りほどき、ボールを抱えて屋台へ戻った。



戻って来ると、屋台の組み立てが完了したところだった。

「ご苦労、餓鬼ども」

両手で彼らに向かって投げる。ボールは三回バウンドしてから転がり、彼らの足元に届いた。

「ありがとー姉ちゃん」

「ほらよ。お駄賃だ」

クーラーボックスから缶ジュースを取り出し、渡そうとすると。

「良いよ。ボール取って来てくれたし、それに最近、景気悪いみたいだから」

いつも支払っている報酬なのだが、今回は丁重に断られた。

「じゃあ、そろそろ暗くなるから」

そして手を振って公園を出て行った。

(とうとう餓鬼にまで心配されるようになったか)

己の不甲斐なさに打ちひしがれつつ、調理台を除菌シートで拭いていると。

「いくつか聞きたい」

先程ビオトープの中で出会った童が、カウンターから身を乗り出して話しかけて来た。

「その前に、私の質問に答えろ」

「よかろう」

「なんで岩の下から出て来た?」

「退魔師たちの手によって、あの岩の下に封印されておった。それが解かれた」

「うわぁ」

やはり自身が封印を解いてしまったのだと理解する。

「儂が質問する番じゃ。まず、今日はいつじゃ?」

「平成二十八年の十月十日だ」

「平成? それは建久から何年後の元号じゃ?」

「知るかよ」

「歴史とはお主ら人間にとって最低限の教養ではないのか?」

「だああ。分かったよ。調べれば良いんだろ」

仕方なしに、手元のスマートフォンで検索する。

(建久、建久っと。あった。西暦千二百年くらいの元号か?)

頭の中でだいたい何年前かを大雑把に計算する。

「ざっと八百年前だな」

「げにっ!?」

げに、とは『本当か?』という意味の昔の言葉である。

「待て待て待て! 瞬きした間に八百年だと!? 戦はどうなった!? 儂らは勝ったのか!? というかお主は普通の人間か!? 天狗の衆はどこじゃ!? そして主が封印を解いたのか!?」

「いっぺんに聞くなうっとおしい」



その後。一通り話を聞いて、巡が事情を整理する。

「つまり、八百年前にアンタら一族は人間と争ってて、とある戦いではお前はあの岩の下に封印された、と?」

「うむ」

「で、今日ようやく封印が解けて出て来られた?」

「そんなところじゃ」

封印されている間の意識はないらしく。『封印されたが、すぐに蓋をどかして外に出たら八百年経っていた』というのが童の視点から見た景色だった。

「それでこれからどうすんだ?」

「まずは情報収集じゃ。儂はこの時代の事を碌に知らん。デイダラボッチより高い建物が乱立する世が来るなど、想像もしとらんかった」

公園から南の方角。駅を中心に広がるビル群を見て目を細める。

「随分と切り替え早ぇな」

異世界に迷い込んだのと変わらぬ状況だというのに、冷静さを失わない彼女に感心する。

「今できる事をやるしかない。目的を遂げる為には、今の環境に適応する事が一番の近道じゃ」

「なら図書館にでも行けよ」

「図書館?」

巡は公園の敷地内にある建物を指さす。

「かなりの数の本が保管されてる。あの中で読む分には文句言われない。毎日朝の九時から夜七時までやってるぞ」

「それは便利じゃな、人間の手を借りるのは癪じゃが、利用させて貰うとし…」

言葉の途中で、童の腹がくぅと鳴った。

「八百年何も食ってないんなら、そら腹も鳴るわな。夜食に作っておいたんだがやるよ」

アルミホイルに包まれたおにぎりを童の胸元に放る。

「あとこれも」

麦茶の入ったペットボトルも続けて投げる。受け取った童は、それを様々な方向から眺める。そしてそれが食べ物を携帯するための道具だと理解する。

「これが今の世の竹筒と、朴の葉か。良いのか貰っても?」

「どうせ今日も食材余りそうだし。そっちを片付けないとな」

迦楼羅かるら

「 ? 」

「儂の名じゃ。この時代の文字ではどう表記するかはわからんがな」

「皆本巡だ」

「世話になった」

「野たれ死んでも化けて出るなよ」

「誰に物を言っておる。儂は最初の天狗なるぞ」

歯が一本しかない下駄の底を軽く鳴らしてから跳躍。タンタンタンと三回地面を蹴った頃には、童の姿は遠くにあった。

「天狗? 知らねぇ種族だな」

初めて聞く種族の名だった。



時刻は夕方の五時半。閉館までまだしばらく時間があるとわかった迦楼羅は、巡と別れてすぐ、浄ヶ原図書館を訪れた。年季の入った煉瓦造りの外壁が迦楼羅を出迎える。

「これはすごい」

中に入り、その蔵書の数に息を飲む。

「まずは言語じゃな」

入口近くのカウンターに身を乗り出し、パソコンで作業中の係員の女性に話しかける。

「読み書きを覚えたい。すまんが、どの棚に行けば良いか教えてくれ」

「字のお勉強がしたいの?」

ピンク色の長袖の上にエプロンを掛けた、目が隠れるほど長い前髪を持つ、紫髪のポニーテールの女性は、手を止めて迦楼羅の方を見る。

(こやつ、妖怪か?)

揺れる前髪から一瞬だけ見えたその瞳は仄暗い灰色で、角膜と白目の境界がひどく曖昧だった。

「ひらがなの本ならすぐ目の前の黄色い棚」

色素の薄い唇の割にハツラツとした声でそう言い、迦楼羅のすぐ後ろを指さす。

「下から二番目が、小学生向けよ。読めない字があったら、お姉さんに聞いてね」

「感謝する」

踵を床に下ろし、教えられた本棚へ向かい、二段目から適当に引っ張り出す。『たのしいひらがな・カタカナ』と書かれていた。

「まずはこれからいくか」

本を手に、近くに設置されているサイドテーブル付きのソファに、その小さな身体を沈め、読み始めた。



迦楼羅が読書を始めた頃、公園で遊んでいた子供たちは、家への帰り道を辿っていた。

「僕の家、こっちだから」

狐耳を持つ化生の少年は別れを告げ、ボールを抱えて集団から離れた。その少年の姿が見えなくってから、集団の内の一人が口を開く。

「ところで、あの子誰だったの?」

「え? カッチャンの友達じゃないの?」

「まさか。俺はてっきりアツシの知り合いかと。化生だったし」

アツシと呼ばれた、カラスのように尖った口を持つ少年は首を振る。

「知らない。初めて会った子だよ」

全員が首を傾げるのだった。

ボールを抱えた狐耳の少年は十分ほど歩いて、大きな武家屋敷の前に辿り着く。国宝と言われれば信じてしまいそうな、威厳を感じる立派な御殿。彼が潜るその門の表札にはぬらりひょんの名が刻まれていた。

「ご苦労だった管狐。娘は迦楼羅の封印を解いたか?」

枯山水の庭。日のよく当たる縁側に座る、長い後頭部を持つ老人が少年とそのボールを交互に見て問いかける。

少年がこくりと頷くと、ぬらりひょんは口元を歪めた。

「ご苦労。下がると良い」

少年とボールは小さな狐に姿を変えると、縁側の下にある小さな穴の中に潜っていった。



 迦楼羅が読み始めて一時間が経過した頃、閉館を知らせるチャイムが鳴り、迦楼羅はたった今読み切った辞典を閉じる。

(たったこれだけしか読めんかった、頭がまだ半分眠っておるようじゃ)

彼女の隣には、すでに四冊の本が積まれていた。下から『たのしいひらがな・カタカナ』『国語辞典 小学校低学年用』『現代国語辞典』『これで完璧 漢検四級』『これで完璧 漢検三級』。その上に、今読んでいた英和辞典を重ねた。

(外来語を多く取り入れてはいるが、文法は昔のままか)

現代の言語を一通り覚えたが、その中で一つ大きな衝撃を受けた単語がある。

(まさか妖怪という言葉が蔑称として扱われておるとは)

妖怪という言葉は忌避され、代わりに化生という言葉で彼らは呼ばれていた。

「明日は、一般常識と礼儀作法について調べてみるか。何が是で、何が非かハッキリさせねば」

一刻も早く、仲間達がどうなったかを調べたいが、現代社会で生きるための知識が無ければどうしようもない。

「しかし何故だ?」

知らない言葉だらけだった辞書。二十万を超える単語が収録された本の中に、見当たらない単語あった。

「なぜ『天狗』という言葉が無い?」

己の種族の名が、どこにも掲載されていなかった。

五冊を棚に戻して。カウンターを横切る。先ほどの女性も机の整頓を始めていた。

「ごめん百目鬼どうめきさん。まだ登録が必要な本が残っていた」

カウンターの奥からダンボールを抱えた男性の係員が血相を変えてやってくる。男性は人間のようだった。彼女の背後でダンボールを下ろすと、中に入っていた本を女性が触っているキーボードのすぐ横に積んでいく。

「仕分けのミスで、他のダンボールと混じっていたんだ。実はこれ全部、明日の一番に並べなきゃいけない新刊で、今日中に登録が必要なんだ。バーコードのスキャンは終わっているから、あとは番号とタイトルを入力するだけなんだけれど…」

「あと五分でパソコン使えなくなっちゃいますよ?」

残業が禁止されている公共施設のため、夜七時を回ると作業が出来ないようになっていた。

「そう。僕じゃ到底間に合わない。だから君の力を貸して欲しい」

申し訳なさそうに両手を合わせた。

「アレやるとすごく疲れるんですよ」

「それは重々理解しているけど、この本はどれも人気作で、すでに予約が重なっている状態なんだ」

「わかりました。本を背表紙が私に向くように並べてください」

「無理を言ってすまない」

その熱意が伝わったのか、彼女はピンクのシャツの長袖を腕まくりする。露わになったその腕の表面には、いくつもの眼球が浮かび上がっていた。

「出来るところまでで構わないから」

「タイピング検定初段の腕前を侮らないでください」

彼女は本を一瞥する事なく、パソコンのディスプレイだけを見つめて、本のタイトルと番号の入力を始める。

「おおっ」

眺めていた迦楼羅は思わず感嘆する。腕の無数の眼球がギョロギョロと個々に動いて、本の背表紙を流し読み、十本の指がまるで蛇のようにキーボードをせわしなく這いまわる。

「ここにあるのが全部ですよね」

「あれ、もう終わった?」

三分にも満たない時間だった。手の止まった彼女は脱力し、ぐったり項垂れた。

「頭の糖分がカラッポです」

複数の視覚情報を処理するのに余程負担が掛かるのだろう。

「本当にすまなかったね。今度何かで埋め合わせするよ」

「今が良いです。パフェ奢ってくださいパフェ。駅前の喫茶店の特大パフェ」

「お安い御用さ」

「夕飯もご馳走してください」

「今回だけだよ」

「やった」

異種族を誘うとは、物好きな奴もいるものだと迦楼羅は思いながら、図書館を後にした。



図書館を出た迦楼羅。人ごみに混ざって歩き、徐々に南下していくと、やがて景色は三階建て以上の高いビルが立ち並ぶオフィス街へと変わった。

(狸に化かされている、と言われた方がまだ信じられるな)

人間の建築技術に感心しながら進んでいると、やがて駅前に辿り着いた。

土曜日の夜という事もあり、バスターミナルと一体化している駅前の北通りは、人間とそれ以外の者たちで賑わっていた。

「タチの悪い冗談じゃなこれは」

道の端に設置されたベンチに座り、往来の者達を眺めながらひとりごちる。

若い人間のカップルの前を、高さ三メートルはあろうかという巨漢が横切る。その巨漢とすれ違うのは、ベビーカーを押す人間の女性。ベビーカーの中で眠る乳児には獣の耳が生えていた。

(見越し入道、あの乳飲み子の耳はネコマタか?)

その親子のすぐ後ろをサラリーマンらしき二人組が続く。

「どこかで軽く飲んでくか? 奢るぞ」

「ご馳走になります部長!」

スーツ姿の初々しい人間の青年から感謝される、仕立ての良いスーツを着た男性は、身体の輪郭こそ人間であるものの、その目は爬虫類のように大きく、顔の表面からギョロリと浮かび上がっていた。

(あれはヘビが化けとるのか?)

軽く見渡して、十人に一人は人外の者が混じっていた。迦楼羅のように始めから人に近い姿をした者、完璧に人の姿に化けられる者もいると想定したら、少なくとも五人に一人の割合になるだろう。

「お父さんもっと速くー」

「コラコラ、こういう所で走るのはマナー違反だと教えただろう?」

迦楼羅のすぐ目の前を、二メートルはあるオオサンショウウオが闊歩する。その赤銅色の背中に人間の幼女を乗せている。

(ハンザキまでおるのか)

オオサンショウウオは目の前から来る学生の集団を避けるために蛇行した。

「腹減ったな」

「ラーメン屋寄ってこうぜ。いつもの家系で良いな?」

「オイラ、今日は付け麺な気分なんだ」

「付け麺ならボク美味しいところ知ってるよ」

「魚粉醤油あるそこ?」

学生服を来た五人の男子高校生の徒党。その中の二人は、側頭部から角のような物が生えている。部活動の帰りなのか、『浄ヶ原高校』と刺繍されたスポーツバックを全員が抱えている。

(あの二人は鬼の類じゃな)

そんな時、迦楼羅の腹から、狼が威嚇する時に使う唸り声のような音がした。

「そういえば飯を食っておらなんだな」

食べ物の話を聞いたせいで、図書館に居た頃は忘れていた飢餓感を思い出す。

(ありがたく頂くとしよう)

巡から受け取った、おにぎりとお茶を袖から出す。

「この筒も銀紙もすごいな。携帯性、密閉性、重量、強度、どれをとっても申し部ない」

感心しながらおにぎりを口に運ぶ。

「八百年後。まさか人間と妖怪が共存する時代が来ると…………なんじゃこれは?」

有り得ない、と思った。

「妖力が回復する事自体そうじゃが、まだたったの一口じゃぞ!?」

封印された時、妖力がほとんど空の状態だったが、全て食べ終える頃には、半分近く補充されていた。

「理解できんぞ」

「失礼。貴方、最近人里に降りて来たばかりの方ですか?」

おにぎりの効果に驚いていると真横から、落ち着きのある声で尋ねられた。頭部が丸々と太った蟹の僧侶、蟹和尚が迦楼羅の隣に座っていた。

「仕草が、産まれて初めて山から降りて来た化生の方達と似ていたので。違っていたら申し訳ありません」

「当たっておる、そんなところじゃ」

「ここへ来た用件は、物見遊山ですか? それともお仕事を探しに?」

「お主には関係なかろう」

「出過ぎた真似、ご容赦ください。人里に降りて来た化生に手を差し伸べるのも、寺の役目ですから」

街の地図が印刷された用紙を取り出し、迦楼羅に渡す。

「行く宛てが特に無いなら、まずは神仏連の支部に行くと良いでしょう。地図で赤く塗られた場所です。相談すれば支援を受けられます」

「しんぶつれん?」

「化生にとっての市役所や保健所、警察署といった役割を持つ組織です」

「名前からして、神社と寺が関わっておるようじゃが、神社である神道と寺である仏教は、今もその関係は良好なのか?」

「ええ。神仏習合という言葉があるくらいです。七五三や婚儀は神社、葬儀は寺といった感じで、上手くこの国の文化の中に溶け込みつつ住み分けができています」

日本には最初「八百万の神」、全ての物には神が宿るという考えの神道があったが、迦楼羅が百歳を超えた頃の時期に仏教が日本へ伝来した。

特にこれといった戒律を持たない神道と、釈迦の教えに従い、己を律して穏やかな心『涅槃寂静』を求めようとする仏教とは相性がよほど良かったのか、彼女が封印される頃にはこの国の文化にどちらも深く溶け込んでいた。

その関係は今も続いているようだ。

「何か事情がおありなら、ウチを頼っても構いませんよ。真円寺というお寺です。本堂の掃除や炊事のお手伝いをしていただければ、食事と寝床くらいはご用意できます」

手の爪先で南を指す。ビルの隙間から小高い丘とその中に建てられた寺が見えた。

「困った事があればいつでもお尋ねください。門は二十四時間開いております」

「ならばさっそく尋ねても良いか?」

彼の善意に甘え、今抱えているいくつかの疑問をぶつける事にした。

「天狗という種族を知っているか?」

「天狗、ですか? すみません。存じ上げません。他の呼び名はありませんか?」

「いや、知らんのなら構わん」

次の質問に移る。

「ほとんどの化生が、人里で暮らしているのか?」

「『人真似の術』の発展で、多くの化生は人間社会で生きていますが。まだ約三割は山や海、川で昔ながらの暮らしを続けています」

「三割だけか」

人間の暮らしに七割も溶け込めている事に驚いた。

「ちなみに、その人真似の術というのは何じゃ?」

名前から大体察せられるが、一応訊いた。

「己の姿と大きさを人の形に寄せる妖術です。種族によっては、使えても身体の一部に特徴がどうしても現れてしまったりしますが」

「己の本来の姿を簡単に歪められるとは嘆かわしい」

「大昔から生きている化生は、本来の姿に拘りますが、若い世代はそのあたりに強い執着はありませんからね。ところで、そもさん」

「ん、あ。切羽かえ?」

突然の謎かけに戸惑いつつ返した。

「己の姿に絶対の誇りを持った化生が、長い生涯で一度だけ人真似の術を使いました。それはどんな時でしょう?」

「ふむ」

目を閉じて腕を組み、頭を揺らして考える迦楼羅。しかし答えが浮かばない。

「ヒント。先ほど、我々の目の前を横切ったオオサンショウウオの娘さん、人間でしたよね?」

「ああ、なるほど」

合点がいき、はっと目を開ける。

「子を成す時か」

「ご明察。人真似の術が使えれば、そのあたりの壁を越えられます」

「それで出来た世界が、目の前のこれか」

迦楼羅は正面を向くと、蟹和尚も視線を雑踏に向けた。そして尋ねる。

「お主にとってこの光景は、地上の楽園か? それとも地獄の釜底か?」

「それが決まるのは、まだずっと先です。人と化生が共に歩む事を決めたのが八百年前。だいぶ生き易くはなりましたが、解決しなければならない問題は山積みです」

「八百年か」

丁度、自身が封印された頃だと思った。

「しばらく気ままにぶらついてみるが、困ったら尋ねさせて貰おう」

受取った地図を懐に仕舞い、ベンチから立ち上がると、蟹和尚に背を向けて歩き出し、雑踏の中へと消えていった。





平成二十八年。十月十一日。日曜日。

午後五時。公園のオブジェ前。

「うっし、完成」

いつものように屋台の組み立て、開店の準備を完了させる巡。今日の気温は二十六度、湿度五十五パーセントの快晴。絶好の行楽日和である。

「本当なら、こういう日はビールが良く売れるんだけどな」

タトが出した通知のせいで、屋台の売り上げには暗雲が立ち込めていた。

そんな時、少し離れた場所からチリンチリンと、ベルの鳴る音が聞えた。

音がした方を向くと、自転車を漕ぎ、こちらへ近づいて来る者がいた。軍手をはめ、上下青のジャージ姿。顔はジャージに付属するフードで覆い隠している。

屋台のすぐ傍まで来ると自転車を降りて、巡に駆け寄って来た。身長は百七十センチ程、肩幅からして男性のようだ。

「いつもお世話になります」

やや甲高い声で挨拶してから、古ぼけた肩掛け鞄を開けて、A3サイズの紙を一枚取り出すと、こちらに差し出してきた。

「『呪いの瓦版』の新刊が刷り上がりました」

かすれた明朝体のような書体で記された新聞だった。巡がさっと見出しだけ目を通す。

『第三次阿波狸合戦 勃発』『クジラは化生? 巨大生物? いまだ結論出ず』

『キュウリ三千本がなくなる 河童の組織犯罪か』『飲めば妖力が上がると偽り栄養剤を販売した業者 逮捕』『カバディ国際連盟 日本代表に二口女起用の自粛を要請』『今年のミス・雪女 五名が出揃う』『この時期に人面樹が見られるオススメスポット』『コラム「小豆洗いはつらいよ」』

「相変わらず、ワケのわからない記事ばっかりだな」

「恐縮です」

配達員がフードを取る。皮膚も肉も毛も無い、真っ白な頭蓋骨が露わになる。

「てか、なんで毎回、私ん所に持ってくるんだよ」

「この新聞読んで呪われない体質の人間。このあたりじゃ、巡さんだけですから」

「読んだら呪われるのって、迷信じゃないのか?」

「昔ほどじゃありませんが、ばっちり効果はありますよ。あからさまに運が落ちたり、高確率で食あたりに見舞われたり。だから、神仏連から無暗に配るなって言われてます」

「へー」

思えば、自分以外に購読している者を見た事がなかった。

「全然読まれないのに、どうして続けてるんだ?」

「新聞を書く事が自分の生き甲斐なんで」

彼の『生き甲斐』という言葉に巡は反応を示す。

「そうか。まぁ良い暇つぶしになるから、これからも持ってきてくれよ」

「あざっす」

「ところで毎回掲載してる天気予報。当たった試しがないんだが?」

「そこはまぁ、自分の下駄占い次第ですから」

「ざけんな」

そして、彼は隣街へ配達に行くと言って去っていった。



巡が骸骨を見送った頃。

浄ヶ原市公園から東へ一キロの距離。北上する国道と東進する県道が合流した通りに神仏連浄ヶ原支部が建っている。正門を潜ると、車を三百台収容できる駐車場があり、その先に支部の正面玄関がある。建物は南北方向に八十メートル、東西方向に五十メートルの七階建て。ガラスとコンクリートからなる外観は、さながら県庁舎である。

建物を真上から見ると『凹』の形になっており、東側を東館、西側を西館と呼んでいる。

「あーもう、酷い目に遭ったっス」

正面玄関の自動ドアが開き、中肉中背の少女が入って来る。黒髪を覆うワークキャップと作業着が泥とススで酷く汚れていた。両手をだらりと下げて猫背になって前進するその姿は、まるで亡者のようだった。

「今日は何があったんですか?」

入り口のすぐ近くにある案内カウンター。そこに座る受付嬢が作業着姿の少女に尋ねる。建物内は市役所の内装と似ており、真ん中が通路、端にそれぞれの部署が配置されており、各部署の前には相談窓口が設けられていた。

「峠の道で叫び声と地鳴りがするって通報があって、行ってみたら輪入道と朧車おぼろくるまと片輪車と火車がレースしてやがったんスよ」

彼女の名は野衾桃のぶすま もも。その首には、神仏連の職員を証明する職員証がぶら下がっている。

「どうなったんですか?」

「全員捕まえて、ゲンコツ一発ずつお見舞いして解放したっス。まだ子供だったスから」

泥とススは彼らと激しいチェイスを繰り広げた証である。

「あいつら全員、鬼火使いっスからね。私がいなきゃ今頃は山火事っスよ……おっと」

突如、話しているその口から火が漏れだし、慌てて口を自分の手で塞いだ。

「それじゃあ失礼するっス」

「いつもお疲れ様です」

受付嬢に別れを告げ、階段を登って行った。

「今日はもうさっさと帰ってゆっくりしたいっス」

西館三階フロアの最端に彼女のデスクがある。彼女の周りには他にデスクはなく、窓際にあるその課の人員は彼女だけだった。

【とりあえず行く課】

この建物の最高責任者である日疋タトが気まぐれで発足させた課で、化生絡みかどうかわからない通報やトラブルがあれば、とりあえず足を運び、状況を確認する事を使命としている。調査して化生絡みだと分かれば、専門の部署に引き継ぐのだが、今回のように巻き込まれる事もある。

「とりあえず着替えよう」

今の恰好では椅子にも座れないため、奥の更衣室へ向かおうとする。そんな時、デスクの上の電話が鳴った。

「もしもし」

居留守を使えない律儀な自分を恨めしく思いつつ、電話に出る。

『遅いわよブス。私が電話したら二コール以内に出なさい』

「勘弁してくださいよ」

窓の外を見る。向かいにある東館、その七階にある支部長室が見えた。ついでに支部長室からこちらを見ているタトの姿も見えた。

『罰として三十秒以内に支部長室に来ること』

「は? さ、三十?」

『窓は開けといてあげるから。はいスタート』

電話が切れると、野衾は両手で受話器を静かに置いた。

「あの人は本当に!!」

すぐに、目の前の窓を開け放った。

「せーのっ」

窓枠に足を掛けて三階から飛び降りると同時に、彼女の身体が影に包まれる。影は一瞬で晴れるが、彼女の姿はその頃には、巨大なモモンガへと変わっていた。

頭から尾の先まで栗色の毛皮に覆われ、目はルビーのように妖しく赤く光り、手の指は四本、足の指は五本、その先には鋭い鉤爪が伸びている。

「よっと」

飛膜を広げて滑空し、東館の目の前に着地した。二メートル近くあるその身体を上に伸ばし、壁を登り始める。

「失礼っス」

縁や出っ張りを鉤爪で傷つけぬよう絶妙な力加減で掴み、猛スピードで壁を駆け登っていく。室内にいた職員が彼女の姿を見て一瞬驚くも「また支部長の呼び出しか」という顔をして作業を再開させた。

「何の用件ですか支部長!」

タトがいる七階の支部長室の窓の枠を掴み、開いている窓から身を滑り込ませる。室内に入った時には、巨大なモモンガから人間の姿に変わっていた。

「なに汚い恰好で来てんのよ」

「着替えようとしたら、支部長が呼んだんじゃないっスか!」

「まぁ良いわ。そんな事よりもタイムは二十六秒、前回と同じじゃん」

タトはスマートフォンのストップウォッチ機能で計った結果を見せつける。

「勘弁してくださいよ。ただでさえ疲れてるっていうのに」

肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す。

「あら、疲れてるの? なら丁度良いわ」

「何が丁度良いんスか?」

「巡ちゃんの屋台の様子を見て来るついでに、飯食って回復して来なさい」

「やっぱ心配っスか?」

タトとは長年の付き合いである。彼女が巡を昔から気にかけている事を知っていた。

「ちょっと過保護過ぎません?」

「最近、ぬらりひょんの奴があの子の周りをうろついているのよ」

「マジっスか?」

「ウチの本部に、あの子の情報の断片を流したのは、アイツで間違いない。何やらかそうとしてんだか」

ぬらりひょんの名に野衾は気を引き締める。今まで実害を被ってはいないものの、初めて顔を合わせてから今日まで、あの化生からはキナ臭いモノを感じていた。



調理台に頬杖を突き、客を待つ巡。時刻は夕方六時を回ったばかり。これからが掻き入れ時だというのに、彼女の表情は浮かない。

(どーせ今日も大して来ないんだろうなぁ。明日もあるし、今日は早めに閉店するか)

空席を見つめて溜息を吐いていると、暖簾が捲られる。

「どうしたっスか巡っち?」

神仏連の支部を出た野衾は、いったん自宅へ戻り着替えてからこの屋台にやって来た。白のタンクトップの上から革ジャンを羽織り、ジーンズを穿き、黒髪のボブカットを、白のヘアバンドで留めて額を露出するその姿は、どことなく体育会系の雰囲気を感じさせた。

「今日はアンタがお目付役か? 野衾さん」

「本当は常連のとして来たかったんスけどね」

座りつつあたりを警戒する。

(のっぺらぼうも、管狐もいない、か)

ぬらりひょんは部下に、二人ののっぺらぼうと大勢の管狐を抱えている。

「チューハイを、あと今日の日替わりは何スか?」

「鍋物はキノコと豆のトマトスープ、麺類はクリームパスタ、焼き物は鮭のホイル焼きとチキンのホイル焼きがある」

「今日はイタリア風なんスね。全部一つずつくださいっス」

昼間に動き回ったせいで空腹だった事もあり、一通り注文した。

「毎度」

ガスコンロが二つしかないため、同時に調理できる数は限られていた。

「お待ちどう」

十分後、スープとパスタが完成する。

「ホイル焼きもすぐ出すからちょっと待って………あっ」

フライパンに引こうとした油が垂れて、コンロの火に引火し、大きく燃え上がる。慌ててコンロを止めるが、引火した油は燃え続ける。

「うわっとっと」

「ちょっと失礼」

野衾が人差し指を立てると、上がった火がその指先に集まっていく。火が消える頃には、野衾の指先には拳大の火の塊が揺らいでいた。

「あむ」

指先ごと火を口に含み、飲み込んだ。

「それが野衾の能力か?」

彼女が野衾という化生である事は知っていたが、その能力を見るのは初めてだった。

「元々は、縄張りに入った人間が持ってる松明の明かりを奪う為に備わった力なんスけどね」

「ちなみに野衾って何だ?」

「モモンガって意味っス」

そう言ってすぐ、熱風の息をほうと吐いた。

「昔はこの能力を活かして、消防士として活躍してたんスけどね」

「それは初耳だ」

「まぁ、二十年以上前の話っスから」

(ちょっと待て、いくつなんだこの人?)

化生は人間に比べて長寿で老化の遅い者がほとんであるため、見た目やその雰囲気は全くアテにならない。

「あの頃は良かったっス。火を吸い込みながら廊下を駆け回って、要救助者を尾で抱えて脱出したり」

「どうして神仏連に?」

「純粋な木造の家屋が減り始めて、鉄筋コンクリートの建物が主流になっちゃいましたからね。建築技術の向上に比例して、火災現場も複雑になってきたんスよ。有害物質が満載の煙、バックドラフトにフラッシュオーバーと、現代の火災事情は、野衾の範疇を超えてしまいまして」

防火設備の性能が大幅に進歩した事もあり、人型でかつ強靭な肉体を持つ者が重宝されるようになった。

「化生化した時の私は、機動力はあっても、耐久力がないという理由から戦力外通告。アルバイトで細々と食い繋いでる時に、支部長から誘いがありましてね」

「フリーターだった頃もあるんだな」

「飲食店に引っ越し業、ビルの清掃。なんでもやりましたよ。チューハイおかわり」

紙コップに注いでやると、それを一口で半分近く飲んでしまう。

「バーテンダーもやりましたよ。その時の店長がまた変わった化生で…」

ほろ酔い状態で饒舌になる野衾。

「苦労したんだな」

「そう! そうなんスよ!」

それから巡は二時間ほど、野衾の思い出話と愚痴に付き合った。



迦楼羅はこの日も、朝から図書館を訪れて本を読み漁っていた。

「八百年前の出来事、か」

閉館し、照明の消えた図書館の中に楼羅はまだいた。

監視カメラと人感センサーの死角である本棚の上に寝そべり、読書を続けていた。迦楼羅の周りには歴史に関する本がいくつも積まれていた。

「どれか一冊くらいはあると思っていたが、参考になる文献が全然ないのう」


はるか昔、人間と化生は、時に襲い・襲われる関係だった。だが、八百年前に人間の長と、強大な力を持った化生は気付いた。このままでは、人間か化生、どちらかがこの世から消えるしかないと。人間の長は化生を好いていた。強大な力を持ったその化生もまた人間を好いていた。両名は協力し、その理不尽な理に反旗を翻した。


「もっと詳細がわかる本はないのか?」

要約するとこんな所で、詳しい記述はほんとなく、憶測や捜索の粋を出ないものばかりだった。あまりの情報の少なさに落胆する。

「もう寝るか。腹が減った」

巡からのおにぎりを食べて以降、付近で生育している野草で飢えを凌いでいた。

「ここは温かくてありがたい」

昨日は閑静な住宅街の中にある小さな公園のドーム状の遊具の中で一泊した迦楼羅、今日も野宿は御免こうむりたいところだった。

(そういえば、儂らの集落は、今どうなっておるんじゃろうか?)

故郷の景色に思いを馳せながら、眠りについた。





 平成二十八年十月十二日。月曜の夕方五時。公園の日時計のオブジェの隣。

「組み立てるのに、いつもの三倍は疲れたつーのによ」

この日はずっと曇天が続き、西南からの強風で屋台の組み立てが難航した。

「やっほー巡ちゃん」

開店して間もなく、暖簾を潜って顔を見せたのは、巡の同級生で女郎蜘蛛のヤツデだった。今日は紫がかった黒髪をロールして一つに束ね、右肩の前から降ろしている。

「出勤まで時間があるから食べてくね」

「まぁ座れよ」

「今日の日替わりは?」

椅子に座り、腰から生える六本の節足を折り畳みながら尋ねる。

「鍋物は鶏ガラスープ、麺類はラーメン、焼き物は餃子、炒め物は麻婆豆腐だ」

「そういえば先週のモンストアは中華料理の特売をやってたね」

門ストアとは、巡が食材を購入している業務用スーパーである。この屋台の常連なら、その店のチラシから、屋台の献立を予想できたりする。

「あとこのクッソッタレな不況なせいで、買い込んだブタ肉の期限がヤバイから、こういうのを作ってみた」

コンロの上に鍋を置く。中には、ブロック状の大きな豚肉が、いくつも浮いていた。

「すごい! でっか!」

「いつも調理場を貸してくれる仕出し屋の女将さんが、チャーシューの作り方を教えてくれたんだ」

「それ食べたい! それ食べたい!」

大きな肉を前に興奮し、はしゃぐヤツデ。豊満な胸が揺れ、腰の節足が下向きにピンと伸びる。

「騒ぐなうっとおしい」

軽い苛だちを覚えながらコンロに火をかける。

「火が通るまで十分ってトコかな」

「ええー」

「ブタ肉は良く火を通しておかないと危ないんだ」

(アチシ化生だから別に生でも平気なんだけどなぁ)

思っても口にはしない。ここでは巡がルールだから。

「ところで、私の料理ってそんなに注目されるものなのか?」

温まるまで手持ち無沙汰になった巡は尋ねる。

「そりゃそうだよ。過程をすっ飛ばして、摂取するだけで強くなれるんだから」

「過程?」

「化生が強くなる方法は二つあってね。一つ目が人間もやってる『自分の身体に負荷を掛ける』ってやつ。苦行を課す事で体力を付けたり、妖力を高めるの。それで二つ目が『徳を積む』」

「なんだその徳を積むってのは?」

「化生は種族によって設定されてる条件があってね。「百人の人間を驚かす」みたいなのから、「位の高い僧を食べる」っていう物騒なものまであって。そういう条件を達成した時、その化生の力がワンランク上がって使える妖術が増えたりするの」

「ふーん、そうなのか」

勉強になったとコクコクと頷く。

「よくそれで化生相手に商売しようと思ったね?」

「別にここは化生専門店じゃねぇよ。ちなみに女郎蜘蛛の条件は何だ?」

「好意を寄せる相手を捕食する事」

そう告げて妖艶に微笑む。十九歳という、子供とも大人とも取れる年頃。女としての艶やかさの中に垣間見える幼さ。この場に男がいたならば、しばらく見惚れている事だろう。

「そういう顔も出来るんだなお前。馬鹿のクセに」

「なんたって女郎蜘蛛だからね。男を魅せてナンボの種族だし」

額にあるビーダマのような紫色の目が一斉に開く。

「ちなみに、同性の友達でも良いんだって」

合計八つの目玉が、一斉に巡を見つめる。

「どう? アチシに食べられてみる?」

目玉は妖しい光をぼんやりと放っていた。

「ジロジロ見んじゃねぇよ気色悪ィな」

「うーん、なんで巡ちゃんには蠱惑の眼が効かないかな?」

相手が自分に興味を抱くように仕向ける妖術なのだが、巡には効果が無かった。

「つくづく変な体質だよね巡ちゃんって」

額にある六つの目玉を閉じる。

「そうか?」

「絶対そうだよ。料理の事もあるけど、妖術や呪いに対する耐性がありすぎ。高校の修学旅行、同じ班だったの覚えてる?」

ヤツデには思い当たる節がいくつもある。その一つが修学旅行での一夜である。

「班の子が『呪いの子守歌』持ち込んだ事あったじゃん」

同じ班の生徒が昼の観光の際、露店屋で見つけて好奇心で購入した、聞いた者を眠りに誘うという、謎の効力を持った子守歌が収録されたCD。それを度胸試しで聴く事になった。

「私達は即寝落ちしたのに、巡ちゃんだけ普通に起きてたんだよね」

「あれはお前らが疲れてただけじゃないのか?」

「巡ちゃんって本当に人間?」

「バリバリ人間だっつーの。しっかりヒトゲノムだよ」

「実は料理の質を落とす代わりに、妖力回復効果を付与する能力を持った化生とか?」

「中々面白い冗談だな。けっこうカチンと来たぞ」

「あっ、そろそろ時間だ! ごっそさん!」

サイフからピッタリの額を出して立ち上がる。

「逃げんなコラ!」

ヤツデは手を振りながら、駅の方向へと小走りで向かって行った。



ヤツデが去った後は、化生が一組訪れただけだった。

(全然客が来ねぇな。最後の客も、タトさんにビビッてたのか、滅茶苦茶周りを警戒して、早食い気味だったし)

定刻よりもずっと早いが、店を仕舞ってしまおうかと思った時。

「おい」

「ん?」

辺りを見渡すが、声の主が見つからない。

「ここじゃ」

迦楼羅が屋台の屋根に座り見下ろしていた。

「五秒以内に降りろ。でなきゃ頭から垂直落下式に叩き落として脳天割るぞ」

「やってみよ」

「おっしゃ」

さっそく実行した。ジャンプして、袖を掴み引っ張る。

「後悔しろ!」

「よっと」

しかし迦楼羅は華麗に身を翻し、両足を揃えて綺麗に着地した。

「容赦ないのう。儂でなかったら大惨事じゃぞ?」

「で、今まで何やってたんだ?」

「お主が勧めた図書館に通っておった。お陰で、この時代の読み書きや、封印されとった間の出来事、今の世で生きていくための知識は粗方頭に入った」

「嘘つけ、たった三日だぞ」

「賢妖の一人として謳われた儂には造作もない。ビジネス用語だってマスターしたぞ」

「どこで使うんだよ」

「ところで天狗という妖怪を知っておるか?」

「天狗? そういえばこの前、そんな種族を名乗っていたな」

「やはり知らんか。歴史に関する本の殆どを読み漁ったが、天狗という名は一度も出てこんかった」

腕を組み、渋い顔をする。

「明日は非番か?」

「屋台は休みの予定だが、それがどうした?」

週に二日、彼女は定休日を決めており、明日がその日だった。

「連れて行って欲しい場所がある。ただとは言わん」

「何くれんだよ?」

「お主、かなり異質な体質をしておるだろう?」

「料理の事か?」

この前の別れ際におにぎりを渡したのを思い出す。

「その力の事を、お主自身、全く把握しておらんじゃろ?」

「まぁな」

「その力の正体、儂が知る範囲で教えてやろう。それが報酬じゃ」

「知ってんのか?」

巡にとってこの力は今の状況を招いた元凶である。これからの為にも知っておきたかった。

「心当たりがある」

「つぅか、なんで私がこの力の事を全然把握してないって知ってんだ?」

「その力の正体を知っておったら、こんな所で屋台などやっとらん。無駄遣いも良いところじゃ」

「んだとコラ」

「何故そんな顔をする?」

軽くひと悶着あった後、迦楼羅が行きたい場所を聞いてから、店仕舞いして家路についた。



「…」

帰り道。巡は屋台の部材と余った材料が乗ったリアカーを牽く。

「…」

「…」

「ああっ、クソッ!」

頭をガシガシと掻いてから振り返った。

「なんでついて来んだよ!」

すぐ背後にいる迦楼羅を睨んで威嚇する。

「そういうな。老体に野宿は堪える。今晩だけでも泊めてくれ」

公園の遊具や図書館での寝泊まりは精神的に辛かった。

「老体って、テメェ歳いくつだよ?」

「舒明天皇がいた頃には物心はついておったから、ざっと八百歳じゃな」

「封印されていた頃も足したら千六百年じゃねぇかよ、どんだけ長寿だよ天狗ってヤツは」

家はすぐ近く。ここで追い返そうとして騒がれては近所迷惑になると思い、渋々、迦楼羅を家に上げる事にした。



皆本家の居間。

「騒いだら神仏連に突き出すからな」

警告しながらテーブルに湯呑を二つ置く。

「そう言う割には歓迎してくれるのじゃな」

「来客は丁重に持て成すようにってのが、母さんの遺言のひとつだからな。破るワケにはいかない」

「遺言?」

部屋の片隅。花が活けられた台の上に、女性の遺影がある事に気付く。

「あの写真の者が、お主の母親か?」

「二年前だ。私に負けず劣らずの虚弱体質だったからな」

「ずいぶんと若いな」

「まだ四十代だったからな。医者が言うには、それでも良くもった方らしい」

迦楼羅は遺影に近づくと、正座して両手を合わせた。

「迦楼羅という、一晩、厄介になる」

しばし黙祷を捧げた後。遺影を見つめたまま振り返ることなく尋ねる。

「父親はどうしておる? 出稼ぎか?」

部屋の中に父の存在を思わせる物が無いため、そう尋ねた。

「さぁな。顔も名前も、生きてるのか、死んでるのか。何にも分かんねぇ」

「シングルマザーというやつじゃな」

「復活して早々、和製英語使いやがって」

「このご時世で片親では、ずいぶんと苦労したろうに」

「まぁ色々あったな。貧乏だった事もあってか、クラスで盗難が起こると、真っ先に疑われたり。いじめの標的にされ………私の事は良いから飯にするぞ。手伝え」

「かたじけない」

「かしこまるな。店の残り物をただ温めたるだけだ」

手早く調理を済ませた二人は、テーブルの前で両手を合わせる。

「いただきます」

「のう?」

「なんだよ?」

「調味料がないぞ」

塩や醤油、ソース、一味といった調味料がテーブルの上に一切なかった。

「あ……そうだった。要るよな、調味料、うん。待ってろ」

頷いてから台所へ向かい、その一式を盆に乗せて戻って来る。

「では改めて、いただきます」

「ご馳走になる」

食材への感謝を述べてから、食事を始める。

「やはりな凄いな、お主の料理の効果は」

料理を口に運び数回の咀嚼後、納得するように迦楼羅は頷いた。

「封印から解かれた儂は、大部分の妖力を失っておったが、お主の握り飯を食べ終わると、妖力は半分近くまで回復しておった」

「それってすごい事なのか?」

「当り前じゃ。龍脈が通る地底湖の最奥で丸一日座禅を組んだとしても、回復するのはせいぜい十分の一じゃ」

迦楼羅としてはこれ以上にないくらいにわかり易い例えだったが、巡には全くピンとこなかった。

「もはや回復というより、『強化』や『成長促進』の域じゃ。もし月に一回の間隔で、お主の料理を摂り続けたら、十年後に災害級の強さになるな」

「ふーん」

これといった興味を示す事なく、巡はてきとうに相槌を打った。

食事を終えると、テーブルの上を片付け、明日の話を始めた。

「ところで明日行く場所だが。這蛇はいだ山だっけか?」

体質について教える条件として提示されたのが、その山へ連れて行く事だった。

「何処かわかりそうか?」

「今スマホで調べたら、奥里美おくりび山の古い呼び名がソレみたいだ。県境に跨る大きな山だ」

棚の引き出しから、畳まれた地図を出して来て広げる。地図は県内の範囲が記載されていた。

「ここが私達のいる浄ヶ原市。その西側はでかい山脈になっていて、その山脈を構成する山の一つに奥里美山ってのがある」

地図上に記載された南北に五十キロ、東西に十五キロの山脈を指でなぞる。

「この山がお前の故郷であってんのか?」

「行ってみん事にはなんとも言えんが、おそらくこの山じゃろう。しかし、奥里美とは、洒落た名に変わりおって」

「この位置ならバスで一時間半ってところか。明日はいつもより早く起きるんだから、さっさと寝るぞ」

目指す方向も場所もわかり、就寝の準備を始める。

「風呂沸かしてあるから先に入れ。その間に、布団を敷いといてやる」

「すまんのう」

「蛇口の使い方わかるか?」

「馬鹿にするでない。本で読んだ。混合栓とかレバータイプの扱い方から、シャンプーとリンスーとボディソープ、半身浴の知識も仕入れた」

「なんなんだよその学習能力は」

迦楼羅が入浴の間に布団を敷き、使った食器を洗う。屋台では紙皿と割り箸で提供しているため、洗い物は調理器具と自宅で使った分だけである。

(二人分の食器を洗うなんて、二年ぶりだ)

母が亡くなってから今日まで、ずっと一人で食事していた事に気付く。



「あがったぞ。良い湯じゃった」

ダボダボの寝巻に身を包む迦楼羅。

「それも飲んどけ」

テーブルの上。サイダーの入ったペットボトルを指さす。

「なんじゃこれは?」

「母さんは風呂上がりにはそれを飲むのが日課だったんだ、お前にもやるよ」

生前、母が愛飲していたサイダーの残り。自分は飲む気にはなれず、台所の棚の奥にずっと放置されていた。消費期限的にそろそろ限界なのだが、母の遺品だと思うと捨てられず、処分に困っていた。

「ふむ」

訝しんでから蓋を開けて口を付ける。

「ッ!?」

一口飲んだ瞬間。彼女は背筋をピンと伸ばした。

「ジュワッって!? 口の中がジョワっと!! 妖術の類かッ!?」

悶えること数秒。しかし、その後、急に迦楼羅の眼が輝き出す。

「なるほど、なるほど」

ラベルに記載されている成分表をマジマジと読む。

「砂糖水に二酸化炭素を溶解させてシュワシュワを付与させるとは、やるな人間!」

食感が気に入ったのか、身体を反らして一気に半分近くを飲み干す。

「そんなに上手いか?」

「美味じゃ!!」

グッと拳を握って答える。

「グラニュー糖と果糖の絶妙な配合から生まれる、上質で口当たりの良い甘味! クエン酸と炭酸が織りなす、突き抜ける清涼感! はぁ~~糖分が体の隅々まで滲みわたる!!」

「うるせぇ」

その解説に無性に腹が立ち、足裏で蹴り飛ばす。

「あがっ」

倒れた拍子に迦楼羅の寝巻のズボンがずり下がる。

「ってお前!」

着崩れて露出した部分。そこにあるモノを見て巡は目を丸くする。

「男かよ!」

そこには男性を象徴するものが、子供のサイズながらもしっかりとついていた。

「儂のようなダンディズムの塊がメスなワケがなかろう」

「普通にわかんねぇよその見た目じゃ! ああ、寝る前に嫌なモン見ちまった」

「それくらいで大騒ぎするとは生娘か」

「生娘だよ! つーかさっさと歯磨いて寝ろ!」

新品の青色の歯ブラシを差し出す。

「これがこの時代の房楊枝だな」

「ちゃんと磨けよ。野宿でろくに磨いてないんだろ?」

「これでも身だしなみには気を遣う方でな。散策中にクロモジの木が生えておったから、枝を失敬した」

「そういえば公園暮らしにしちゃ服が小綺麗だったが、どっかで洗濯したのか?」

彼の鈴懸は、汚れらしい汚れは見つからず、異臭もしなかった。

「儂の着物の繊維はオシラ様という神から賜った天蚕糸が使われておる。これが優れモノでな、着用者から僅かな妖力を吸う事で、勝手に殺菌洗浄してしまう」

ほつれても自動で修復する機能もあるらしい。

「オーバーテクノロジー過ぎるだろオシラ様って野郎」

その後、迦楼羅にドライヤーの使い方を教えてから、自身も入浴した。


「おーい。寝たかチビスケ?」

十分な時間入浴して、風呂から上がり、客人の様子を確認する。

「フワフワじゃ、モコモコじゃ、ヒエヒエじゃ、シャリシャリじゃ。これが文明か」

二つ並ぶ布団の右側、掛け布団を抱きしめて頬擦りする迦楼羅。その姿は見た目相応の幼子である。

「遊んでねぇで寝る努力をしろ」

「のぉぉぉぉ」

迦楼羅の尻をグリグリと踏みつけてから髪を乾かして、歯を磨き終えると、布団に潜り込んだ。


「なあ、寝たか?」

電気を消して数分、隣に他人がいるせいか上手く寝付けない巡は話しかける。

「なんじゃ?」

暗闇の中、幼い声が返って来る。

「お前は人間と争ってたんだよな? 人間が憎くねぇのか?」

事情を聞いた時から気になっていた。

「人間は嫌いではないぞ。一目置き敬意を払う者は何人もおった。儂が戦う理由はただ一つ。一族の暮らしを守るためじゃ。それがその時はたまたま人間だったにすぎん。仲間を傷つけるなら、人間だろうと妖怪だろうと関係はない」

「ちなみにその『妖怪』って言葉だけどな、今の時代は差別用語だから往来じゃ口にするんじゃねぇぞ。相手によっては掴み掛かって来るからな」

「そういえば、そうじゃったな」

どうも化生という呼び名はしっくりこなかった。

「今の世はふしぎ不自然極まりない。人と異形の者達が共存しておる」

「私にとってはそれが普通だからな、特に違和感はない」

「なぜ化生という言葉は良くて、妖怪は駄目なのじゃ?」

「昔の偉いヤツ曰く『楽しい時は笑って、痛い時は泣いて、自分以外の誰かを思いやれる。彼らは我々と変わらない』だってよ」

故に怪物を強く連想させる妖怪という言葉を使うのは許されなかった。

「とんでもない時代に目覚めてしまったものだ」

「ご愁傷さまだな。さっさと寝て、せいぜい良い夢でも見ろ」

「お主が話しかけてきたのではないか」

ひとしきり話し終えると、巡の意識はまどろんどいった。

プロローグ、一章、二章、三章、エピローグの五話構成になります。

二章の投降は7日(月)を予定しています。

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