8月28日号 『おっそいねん!』
貴重なお時間を割いてまで、
このような無駄文に目を通してくださいまして、本当にありがとうございます。
先日来から申し上げておりますように、
本日が叔父が亡くなって、四十九日の法要が営まれまして、
粛々と仏壇に手を合わせに赴きました。
お通夜あたりだと、まだ亡くなったという実感は湧かない部分もありますので、
改めてその事実を実感する最初の機会が、四十九日なのかもしれません。
仏壇で微笑む叔父と叔母の写真に、形容しがたい寂寥感を禁じ得ませんでした。
しかしその一方で再会もあるものです。
元気の塊の甥っ子や姪っ子の成長具合もちゃんと確認できるようになり、
それぞれに「うわっ、デカッ!」と無邪気に投げられる言葉のナイフに
見事に蜂の巣になったのは言うまでもありません。
その法要も終わった後・・・
食事を共にしながら、故人を偲ぶ場として
近くのお寿司屋さんで会食する場が設けられていました。
一階は対面形式で握ってくださり、二階は座敷で宴会用と、
普段なら軽々と足を踏み入れる事も難しいであろう結構な場でした。
一時半から予約をしてあったようで、そこそこ降っていた雨の中を歩んで向かうと、
予約されていた事もあってか、懐石料理が並べられておりました。
お寿司屋さんですので肉料理がなく、
食べ盛りの甥や姪がちょっとガッカリしそうなメニューではありましたが、
お造りや鱧の湯引き(梅肉ソースがけ)に父の表情がほころんだりと、
その地域では有数のお寿司屋さんの本領発揮といったメニューが並んでいます。
早速喪主だった従兄弟の一声で和やかな雰囲気の会食が始まりました。
各々が飲み物を片手に話が弾みます。
(ちなみにお酒に極端に弱い逸般人は珍しくノンアルコールビールをチョイス。
慣れない事はしない方が得策だったようで、一瓶も開ける事はありませんでした)
そんな雰囲気の中では、よくこのタイトルを叫びたくなる場面が来るのです。
お造りや煮物に箸を伸ばします。
それらを「お酒の肴」として食べるのなら何の文句も出ないでしょう。
しかし、断じて酒呑みではない逸般人は、
「お酒の肴」に必要不可欠なアイテムは「米」。
焼酎の類ではなく、炊きたての「白米」が恋しくなるのです。
ですが、こういった懐石料理ではご飯やお吸い物といった必需品が登場するのは、
料理が半分以上胃の中に収まった、後半のタイミングで出てくるケースが多いのです。
空腹で前半から飛ばしすぎると、
ご飯はお吸い物と香の物だけで食べなければならないという虚しさが残ります。
とはいえ、前半からセーブしていると、
温かいうちに食べないと天婦羅などが冷めてしまったり、
お作りが乾いてしまったりと、魅力が半減する料理が軒を連ねているのです。
この絶妙なタイミングが幾つになっても掴みきれないのです。
お店側にも段取りがあるでしょうから、強くは言えないのですが、
飲み物の注文の際に「先にご飯ください」と申し出れば、
ご飯やそれに伴うお吸い物や香の物が出てくるのでしょうか・・・
そういった意味では、懐石の楽しみ方をまだまだ熟知していないのかもしれません。




