6月13日号 『等しく破滅に向かっている』
貴重なお時間を割いてまで、
このような無駄文に目を通してくださいまして、本当にありがとうございます。
べ・・・べりっ・・・
その音を耳にした瞬間にやってくる感情は、
「あっちゃ~、やっちまったなぁ・・・」という後悔でした。
ここ十数年愛用しているTシャツがあります。
明るめのグレーの無地に表面に
CONVERSE社のスニーカーがプリントされています。
何時何処で手に入れたのかも記憶にありません。
夏場はアウター・冬場はインナーとして、
時には、お出掛け着としての役目を果たし、
時には、暗い部屋に閉じ籠っていた時代の部屋着の役目も担ってくれました。
大袈裟ではなく、逸般人の半生の相棒の一着でした。
それが劣化が進んだのか、背中の首周りに小さな穴ができ、
「まぁ、バレないぐらいの小さいモノだから」と
タカを括っている先のこの後悔です。
穴の大きさは10円玉ぐらいの直径。
そろそろ、みっともなく見えてしまう限界点は超えて行ったようです。
良くこう言われるのです。
「破れたモノばかりじゃなくて、新しく買ったモノを着れば?」
確かに、これ以降に買ったTシャツは何枚もありますし、
相棒よりもデザイン性の優れたモノも何枚かありますが、
そういった新品は好んで袖を通そうとはしないのです。
その理由が、このタイトルに込められています。
中年の逸般人が厨二病をこじらせているという訳ではありませんよ。
(まぁ、年がら年中厨二病と尋ねられれば首を縦に振るしかありませんが・・・)
新品に袖を通した瞬間から、
その商品は「新品」から「中古」へとランクダウンします。
人間も生まれた瞬間から、死に向かって歩みを留められませんが、
物だって、「生産」された瞬間から「破棄」へ歩みを留められません。
そして、逸般人の根底に流れているは「勿体ない」精神。
新しいモノを使うよりも、使い古したモノに手が伸びてしまうのです。
一張羅を使う時は、何か大きな決断を迫られた時や
もしくはこれが死に装束と覚悟を決めた時などの
限られた瞬間になるのでしょう(大袈裟
その影響か、逸般人のハンガーや箪笥の中には、
一度も袖を通した事のないスーツや半袖カッターシャツ、
靴箱には出番を待ち続けている皮靴が出番はまだかと待ち続けているのです。
とはいえ、こんな性分をしている以上、
待てど暮らせど起用のチャンスは早々に巡ってこないんだろうなぁと思い、
新品のままのモノ達に謝罪をしなければならない気持ちになってしまうのです。
ここまで貧乏性が染み付いてしまうと、ある意味の病気ですね(苦笑
追記)一年前に購入したと思しき、
半袖のカッターシャツを久し振りに出してみると・・・
白かった生地が全体的に黄ばんでいる事実が発覚しました。
新品のまま破棄するのは流石に忍びないので、
デビューのきっかけを与えないと(汗