喝食パンデミック
血の匂いがした。瓦礫の山が積み重なっている。倒れている人がいた。ほとんどが子供で、原形を保っていなかった。手足が吹き飛び、すり潰されたように欠損している。まだ生きているのか、うめき声をあげている者もいる。
痛い、痛い、痛い、痛い、助けて、痛い。
この地獄の中に、三十体のアヴィスーツが足を踏み入れた。全身を外骨格と紺色の装甲で覆い、MINIMI重機関銃で武装している。腰にはバックパックとMP5サブマシンガンがマウントされていた。エアフィルターが装着されたフルフェイスヘルメットが周囲の様子をうかがうように、緑色のバイザーを光らせる。
その内の二体、肩が赤く塗られたスーツの背中には、ブースターノズルがついた特殊装備が施されている。
「これは、最悪だ」
警察庁生物兵器対策群・副隊長の溝口は、ヘルメットの中で苦悶の表情を浮かべる。
新宿第三小学校で巨大な生物が暴れているとの通報を受け、隊員たちが輸送車両で乗り込んだ時には、すでに学校は地獄へと化していた。
グランドには血のシミが残り、体操服を着た子供の肉片が飛び散っていた。地面には巨大な穴が穿たれ、何かが這い出たような跡が校舎に続いている。そこにあるべき建物はすでに倒壊し、風に巻き上げられた砂埃が、照りつける太陽の光を遮っていた。
溝口たちの前に広がる黄土色の視界、その向こうに"それ"はいた。ヘルメットの複合センサーヴィジョンが、鮮明な画像をディスプレイに表示する。
わずかに生き残った生徒たちが半狂乱になりながら言っていた、巨大な化け物、エビ、サソリ、悪魔。そのいずれでもあり、そのものではなかった。
全長十メートルの巨体が黒い甲殻に包まれ、極彩色のヒダが波打つように動いている。頭頂部に生えた鋭利な複眼は地面を見つめ、動かなくなった獲物を鎌で解体している。ヒルのような口で粗食しているのは、生きた少女の上半身だった。
鮮血が噴き出し、骨が砕ける音が響く。少女がやめてやめてと泣き叫ぶ。それを楽しむように、巨大生物はそれをゆっくりと咀嚼していった。溝口の周囲にいた何人かの隊員が目をそらす。ヘルメットの中で嘔吐し、せき込む者もいた。
溝口が拳を握り込み、ギリギリと装甲が軋む。
その生物の外見、行動を観察し、部隊長である権藤警視正に報告する。
「隊長。外見的特徴、周囲の状況から見て、対象はハルマゲドンで間違いなさそうです。早急に対処しなければ」
「それくらい俺にも分かる。溝口、配置につけ。さっさと駆除してやる」
「ですが、相手はあのハルマゲドンです。出現すればハザードレベル5は確実とされている生体兵器。うかつに攻めれば、被害は拡大するばかりです。ここは増援を待ったほうが」
「口を慎め。自衛隊の特殊作戦群あがりが、俺たち警察に講釈を垂れるのか? お前らが頼りにしているあいつがいなくても、俺たちだけで十分だ。やるぞ!」
権藤が手を振り、溝口を追い払うように散開の指示を出す。ヘルメットごしの視線から拒絶と嫌悪の感情がにじみ出ている。
(この状況下でも、扱いは変わらないのか? 相手はあのハルマゲドンだぞ?)
溝口がうんざりしたように首を振る。
警察庁生物兵器対策群、通称"生対"は最近設立されたばかりの特殊部隊だった。最新型アヴィスーツと戦術マニュアル、各方面から招集したスペシャリストで構成され、日本で増加しつつある大規模バイオテロに対抗すべく、国の威信をかけて創設された。
中でも配備されたアヴィスーツ、20式特殊作戦服は、これまでのアヴィスーツと一線を画す技術が満載されていた。
幅5ミリ以下の外骨格フレーム、サーメット合金を使用した装甲プレートで全身を固めている。ヘルメットには赤外線や動体センサーなどを複合させたマルチセンサーを搭載し、他の隊員とリアルタイムで情報を共有することができた。軽量化と防御力、策敵機能を向上させることで、凶悪な生体兵器にも対処可能となった。
だが強固に縫合されたかのような糸は、はやくも綻びを見せ始めている。
紺色の装甲服たちが、溝口を押しのけるようにハルマゲドンの周囲に展開する。エクソフレームによって拡張された筋力で、瓦礫の上を跳躍していく。
副隊長である彼を敬う様子もない。他にもレスキュー隊や医療スタッフなど、警察の外から集められたメンバーを次々と孤立させ、身内だけで作戦行動を取っていた。
(くそっ! 何のための生対だ、何のための20式だ。俺たちは警察の道具じゃない!)
溝口は孤立した隊員に通信ラインをつなぎ、配置を指示していく。ハルマゲドンの周囲50メートルに部隊が散開し、どの角度からでも攻撃が可能となった。各々の隊員が携行しているMINIMI重機関銃をハルマゲドンに向ける。
「隊長、全員位置につきました。生存者を保護し、的確な攻撃のタイミングを」
≪駄目だ。このまま攻撃する。この位置からなら、全方位攻撃で仕留められる≫
「なっ、このままでは子供たちを攻撃に巻き込んでしまいます!」
≪どの道、奴を処理できなければ死ぬだけだ。トリアージだ。生存者の確保は後回しにする≫
「馬鹿な……」
トリアージ。状況に応じて被害者、負傷者の確保、治療を選別する。権藤はトリアージによって全ての被害者の命を捨てた。まだハルマゲドンの周囲には、逃げようともがき苦しむ子供が何人も確認できた。四肢の一部を欠損しているものの、治療を施せば助かる見込みはある。
(隊長は、ハルマゲドンを甘く見すぎている)
重戦車並みの甲殻と、レーシングカーにも劣らない脚力を持つハルマゲドンは、世界保健機構WHOによって、ハザードレベル5に指定されていた。
出現しただけで都市部に壊滅的な被害をもたらすことが確実とされている。二、三年ほど前から存在が確認され始めたこの最高度危険生物は、あらゆる意味で駆除を困難にする習性が埋め込まれていた。
獲物の逃げ道を塞ぐために周囲の建物を徹底的に破壊し、動きを封じるために四肢をつぶして瀕死に追い込む。そうして下ごしらえをした後、膨大な食欲を満たすために食事を行う。
≪撃て≫
溝口が止める間もなく、権藤によって攻撃指示が出された。MINIMIのアンチシェル弾が、装甲の継ぎ目、関節部分に殺到する。マズルフラッシュが瞬き、ガス圧によって20式たちの周囲に砂埃が上がる。
厚さ353ミリの鉄板を貫通する金属の猟犬がハルマゲドンの前脚、後脚に着弾し、弾かれた。
瞬間、空中に何かが舞い上がり、溝口の真後ろに落下した。彼のヘルメットがけたたましく鳴り響く。振り返った先に、20式の上半身が転がっていた。胸部に鋭利な甲殻が突き刺さっている。
≪な、何が≫
仲間のバイタル停止のシグナルに隊員たちがどよめき、黒い雨が降り注いだ。新たに七つの信号が途絶える。
「総員身を隠せ! ハルマゲドンが反撃してきたぞ!」
溝口が叫び、瓦礫に身を寄せる。彼のまわりに次々と甲殻が突き刺さり、地面を砕く。
雄たけびが聞こえた。ハルマゲドンが少女を吐き出し、鎌で叩きつける。肉片を踏みにじり、目をギラつかせながら、ヒダを高速で脈動させる。
≪奴が甲殻を射出している? 捕食態勢に入ったハルマゲドンは反撃しないはずだぞ!≫
「過剰な攻撃で迎撃態勢に入ったようです! これまで確認されてないパターンです。一度引いて態勢を!」
隊員のうちの何人かは戦意喪失し、後方に下がり始めている。ただでさえ強力な生体兵器、しかも敵として認識された以上、生存率は格段に下がる。
≪攻撃続行! 銃弾でだめなら、槍で仕留める。準備しろ≫
「隊長!」
権藤の命令に従い、生き残った20式数体が腰に装着していた棒を展開する。収縮していた白い柄が瞬く間に伸び、鋭利な先端部が赤く発熱する。
対生体兵器用ヒートランスが稼働状態に入り、2500ミリの体躯をアヴィスーツに委ねた。溶解性の体液などが降りかからないように設計された長槍は、投擲にも使用できる。ハルマゲドンからの攻撃が止み、隊員たちが身を乗り出す。
地響きが彼らの足元を揺らし、20式が次々と吹き飛んでいった。
黒い巨体が高速で地面を這い、その度にひしゃげたサーメット装甲が落下する。ある者は瓦礫にめり込み、ある者は地面ですり潰され、かろうじて生き残った隊員は右肩から先が引きちぎられている。
ハルマゲドンのベースとなったシャコの特性、鎌を折りたたんだ補脚からのパンチによって、さらに五名の命がもぎ取られた。1000トンもの衝撃力、海中で接触した水を一瞬で蒸発させるほどの速度、脚にへばりついた紺色の金属片が、その威力に箔をつけている。
≪二分も経たないうちに13名が戦闘不能だと? このままでは……≫
通信機ごしに権藤の声が響く。平坦だが、焦りの色がにじみ出ていた。
「隊長! 一度撤退するべきです。部隊の半数が失われた今、これ以上の戦闘は犠牲を増やすだけです。警察の威信や政治的な問題など、この状況では意味を成しません!」
≪……貴様、外様の分際で偉そうに≫
権藤が憎悪のこもった視線を溝口に向ける。まばらな銃撃音が響き、ひとつ、またひとつと隊員のバイタルが失われていく。
すさまじい殺気が、二人の間をよぎった。黒い悪夢、ハルマゲドンが鎌を振り上げながら突っ込んでくる。権藤が跳躍し、ハルマゲドンの側面へ回避する。溝口もそれにならおうとして、できなかった。彼の真後ろから、かすかな物音がした。
瓦礫に二人の子供が埋もれていた。銀髪の少年と右人差し指が灰色に染まった少年が、互いをかばい合うように体を密着させている。
まだ生きている。
溝口は迷わなかった。MINIMIを構え、真横に走りながら発砲した。銃弾をハルマゲドンの頭部に集中させる。
「さぁ来い化け物! こっちだ!」
瓦礫を縫うように走る彼に怒り、ハルマゲドンが爆走した。障害物を吹き飛ばし、逃げ道を塞ぐように、背中の甲殻を射出する。
かすった装甲部分が抉れ、撃ち続けたMINIMIの銃身が熱でひしゃげる。溝口が重機関銃を投げ捨て、腰のスイッチを押す。背中の特殊装備、ジェットパックが火を噴き、上空に飛翔した。そのまま滞空し、ヒートランスを展開させる。
敵を観察する。体表にはほとんど傷を負っていない。射出した甲殻も再生をはじめていた。だがハルマゲドンの頭部、扇状の触覚が垂れ下がり気味で、液体が滴り落ちている。
(被弾したのか? なら、あそこを狙えば!)
バックパックから粘着爆弾を取り出し、発熱機能を切ったランスの先端に取り付ける。ハルマゲドンが空を見上げて咆哮する。尾に生えた針を20式、溝口に向けて射出した。
ジェットパックの噴射が止まり、20式が重力に引かれて落下する。針がヘルメットの横をかすめ、ゴーグルにひびが入る。両手でランスを握りしめ、地面が、黒い巨体までの距離が近くなる。20式がハルマゲドンの頭部に着地する。
鈍い音が、両者の間で反響した。
「くらえ!」
溝口が触覚の付け根にランスを突き刺した。えぐるようにねじ込み、足で起爆スイッチを起動させる。点滅をはじめる爆弾を確認し、地面へとダイブする。受け身を取り、着地した直後に空間が爆ぜた。
ハルマゲドンが絶叫した。炎が頭を覆い尽し、触覚が内部から破裂する。
衝撃が溝口を襲い、装甲がびりびりと震える。焦げた肉片と砕けた甲殻が降り注ぎ、砂埃が舞い上がる。
溝口が吹き飛ぶ。爆発ではない。巨大な拳が右側面を横切った。摩擦で装甲が焼けただれ、腕の骨にひびが入る。ヘルメットのアラームが点滅し、20式のエクソフレームが破損したことを知らせる。
ハルマゲドンが振り抜いた拳を引き寄せ、再び狙いを定める。複眼付近の甲殻が抉れ、丸見えになった筋肉が憎悪に歪む。
溝口はただ見ていることしかできない。
悪魔の鉄槌が振り下ろされようとして、紅い風が戦場を吹き抜けた。