病理検査4
日が高く昇り始めた新宿、首都高速道路に車の群れが走っている。大小様々なものが東京全土を行き交い、血流にのった細胞のように途切れることがない。
その中をひときわ目立った車が走行していた。外見は日本産のスポーツカーだが車体各部の厚みが増し、防弾性に変えられたスモークガラスが太陽光を反射している。一列に並べられたヘッドライト、細長いエアインテークがコブラのごとく周囲を威圧し、路面をなめるように進んでいる。
スターライト・バレット製特殊車両、NSX-A。次なる目的地である千寿新橋へと向かう車内で、アンタレスが周囲を警戒しながらアクセルペダルを踏みこむ。淀みなく流れる車列に違和感はないか? 電波に乱れはないか? 上空に不審な物体が蠢いていないか?
片手で缶コーヒーをあおぎつつ、同乗者であるマリアの様子を横目に見る。車に乗り込んでからの彼女はどこか落ち着きがなく、そわそわした様子で窓の外をしきりに見ていた。
「マリアさん。何かリラックスできる音楽でもかけましょうか? 周囲には警察がついていますし、私も注意を払っています。もし襲撃があったとしても、あなたはかならずお守りします」
「あ、……はい。それは嬉しいですし、信じています。でも、その……」
「何でしょうか? 何かあれば遠慮なく言ってください」
「初めてなんです。男の方と、こうしてドライブをすることが。こんな状況なのに、おかしいと思われるかもしれません。でも、一度意識してしまうと、つい恥ずかしくなってしまいます」
「えっ」
思いがけないマリアの言葉に、アンタレスが呆気に取られる。目を逸らしつつもちらりと彼の方を見やり、頬を朱に染めている。そんなマリアの仕草に、アンタレスは思わず笑みを浮かべた。
「そうですか。マリアさんの初体験が私とは光栄ですね。その調子なら安心です。このまま何事もなければ、素敵なドライブを続けることができそうです」
「もう、アンタレスさん。そういうリナさんのような冗談は止めてください。まさか、あなたにからかわれるなんて思いませんでした」
「それは申し訳ありませんでした。以後気をつけます」
「はい、よくできましたね、アンタレスさん」
マリアの子供をあやすような言葉に二人して笑い合う。出会ってから数日と経っていないものの、アンタレスとマリアの間には確かなつながりができつつあった。アンタレス自身、胸に芽生えた温かな感情を拒絶するつもりはない。
(……お前らしくないな、アンタレス。今更何を求めているんだ?)
だがもう一人の自分、生体兵器を狩る傭兵であるアンタレスが、今の状態を明確に否定していた。出会って間もない、しかも事件の重要参考人と親しくしてどうする? 彼女がもし敵と通じていたらどうなる? そもそも人外の、目的のためならば女子供も平然と殺す非情な化け物が受け入れられるはずもない。
「あの、どうかしましたか、アンタレスさん?」
「いえ、何でもありません。少し、喉が渇いただけです」
アンタレスのわずかな変化を感じ取ったマリアが、心配そうに彼の顔を覗き込む。その視線から逃れるように、アンタレスが片手の缶コーヒーを一気に飲み干した。
(まったく、こんなことではリナに笑われてしまうな)
自分を支えてくれる仲間、リナの顔を思い浮かべ、弛緩しかかった空気を引き締め直す。マリアの命だけではない。この作戦には多くの人間のバックアップ、使命と責任がかかっている。それを個人的な感情で台無しにするわけにはいかなかった。意識を切り替えるように首を振り、両手でハンドルを握り込む。
≪よう、お二人さん。相変わらずお熱いね。これはゴールインするのも時間の問題かな≫
直後、車内のスピーカーからリナの声が響いた。アンタレスの隣でふぇ、というマリアの羞恥の言葉が漏れる。
「おい、リナ。作戦行動中だぞ。必要以外の通信は控えろと言ったはずだが?」
≪おいおい何怒ってるんだよ。少し空気を和ませようとしただけじゃないか。お前にそんなしかめっ面されてたんじゃ、こっちまでやりにくくなる≫
「…………」
リナの指摘にアンタレスが押し黙る。不測の事態に備えるため、NSX-A内の映像と音声は全てリナによってモニターされていた。その映像ごしにもかかわらず、自身の心境を彼女に悟られてしまった。
≪ったく、面倒くさい奴だな。お前は何も気にせずどっしり構えてればいいんだよ。お前を信じてるから、私やマリアさんもこうして協力してるんだ。とにかく、今は突っ走れ! しっかり前を向いてな≫
リナの言葉を肯定するように、マリアもアンタレスに頷きかけた。そんな彼女たちの励ましに、アンタレスのこわばっていた顔にも笑みが浮かぶ。
「そうだな。ならまずはお前たちの信頼を裏切らないよう、この任務を成功させないとな」
≪その意気だ。じゃあ空気が和んだところで本題といこうか。これはマリアさんにも関係あることかもしれないから、しっかり聞いといてくれ≫
先ほどとは一転、真剣な様子のリナが話を切り出す。
≪ついさっきのことなんだが、ハルマゲドンを輸送したと思われるコンテナ付近からある文字列を発見した。私の方でも調べてる最中だが、それに見覚えがあるかどうか、二人にも確認してほしい≫
「文字列だって? お前ならすぐに調べが付きそうだが、手こずっているのか?」
≪まぁな。意味がある言葉ならまだしも、単純な文字の集合体だけならそこらじゅうに転がっているし、精査にも時間がかかる。そういう時、頼りになるのが人間の想像力だ。お前は数多くの生体兵器に関わってきたし、マリアさんはこの事件の当事者だ。文字列に関連する何かだけでも思い当れば、情報はグッと絞り込める。それだけ私は楽ができるってワケさ≫
「分かった。そういうことなら車載モニターにその文字列を転送してくれ。マリアさんと確認してみる」
「りょーかい」
リナのおどけた返事を聞き流しながら、車載モニターを起動する。
(アンタレス。マリア・ハーバードの様子をよく見ておけ。あらゆる仕草も見逃すなよ)
リナの声が直接アンタレスの中に響いた。秘匿回線を使用し、体内のヴィーナスに直接送信されたメッセージ。この調査はマリアの正体を見定めるためのものでもある。リナの本心、冷徹なエージェントの忠告にアンタレスが静かにうなずく。
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そして液晶パネルにそれが表示された。
「これは、バッハの作品目録の番号ですか? きゃ、アンタレスさん?」
マリアが考え込むような仕草を見せた直後、NSX-Aが左右に振れる。周囲の車のクラクションが響く。
「……何で、何でこのコードが今ここで出てくるんだ」
≪アンタレス、お前……≫
リナが戸惑いの声を上げる。謎の文字列に対して反応を見せたのはマリアではない。アンタレスだった。腕が小刻みに震え、額から汗が噴き出している。かろうじて運転はできているものの、両手で握ったハンドルからは軋むような音が漏れていた。
≪お前、これが何か知ってるんだな。ならこれが示す情報だけでも教えろ。事件に関わる重要なことかもしれない。分かるな?≫
「心配するな。任務に私情は挟まない。……これは二年前、アメリカ国防省が展開していた極秘作戦のコード名だ」
≪ペンタゴンだって! そうか、それで奴ら積み荷のことを≫
リナが何かを確信したようにつぶやく。アンタレスはあえてそれを無視し、絞り出すように言葉を紡いだ。
「任務の内容は試作型アヴィスーツの実地試験と、当時まだ存在が確認されていなかったハルマゲドンの駆除。四人構成の部隊が任務に従事し、アヴィスーツの、キメラボディのテストはうまくいった。だがハルマゲドンによってその部隊は、壊滅させられた。途中で保護した少女もろとも……、二人は死に、一人は生死不明、そして生き残ったのは、たった一人だけ」
アンタレスの脳裏に、過去の光景がフラッシュバックする。目の前にそびえ立つ黒い悪魔、体が寸断されたライノ、全身を針で貫かれたホッパー、腹を抉られて横たわるトータス。そして悪魔の中で諦観に微笑む少女、カローラ。その彼女にロケットランチャーを向け、引き金を絞ろうとしている自分、サーバル。砂と血にまみれた手の感触が今でも残っている。
唯一の生存者、アンタレスだけが持つ心理的外傷、トラウマが蘇えろうとしていた。
それが猛烈な違和感によってかき消される。突如、周囲の電波が乱れ始め、通信網が遮断されようとしている。
「リナ、聞こえるか! 電波障害だ! どうやら敵が仕掛けてきたらしい」
≪何だって? こっちにはまだ……、いや、確認した。お前たちの周囲一キロ四方に強力なジャミング。監視カメラの映像も途切れた。だがこんな街のど真ん中で一体何を≫
衛星を介したレーザー通信によって、スターライト・バレットは電波障害下でも会話が可能だった。だがアンタレスは違和感が徐々に膨れ上がっていくのを感じていた。電波のざわつき方、ジャミングの波長がハルマゲドンの時とは違う。今肌に感じているものは密度の濃い、はじめから電波を遮断する目的で発せられていたものだった。
数百メートル先で断続的な爆発が起こった。マリアが恐怖で身をすくめる。何かが高高度から降り注いでいる。車の流れが止まり、クラクションとクラッシュの多重奏が空間を歪ませる。
≪護衛1番、2番、4番沈黙! 警察車両だけが立て続けにぶっ壊されてる! ヤバいぞ、早く逃げろアンタレス!≫
リナが叫ぶ。その最中、アンタレスがヴィーナスで強化した視神経で降り注ぐ物体の正体を掴んだ。鉛色のロケット弾頭のような形状、アメリカ製のアヴィスーツ用最新型徹甲弾、防弾性能を高めたNSX-Aですら貫く威力を持っている。この場に留まるのは危険だった。
「ア、アンタレスさん! 後ろから、何かが来ます!」
マリアが声を震わせながら後ろを指さす。轟音と共に車両が次々と弾き飛ばされ、高架橋から落下していった。音と振動は徐々に大きくなり、アンタレスたちの元へと迫って来る。
「マリアさん、車から降りて! 早く!」
アンタレスが叫ぶ。同時に車が何かに持ち上げられ、地面に叩きつけられた。マリアの悲鳴、全身を襲う衝撃と共に天地が逆転し、シートに吊り下げられた状態になる。ベルトを外してアンタレスが銃を引き抜く。助手席側のドアが引きちぎられ、黒い巨大な手がマリアを車外へ放り出した。アンタレスが外に飛び出し、襲撃者へとファイブセブンの照準を向ける。そして絶句した。
黒い巨体、頭部に生えた大型ブレードアンテナ、肩部に装着された盾型のブースター、二つの赤いカメラアイがアンタレスを冷たく見つめている。
「馬鹿な。お前、ライノ……、ボア、なのか?」
二年前に喪われたはずのアメリカ製試作アヴィスーツ、ライノがそこに佇んでいた。とっさにアンタレスが手を伸ばし、神経パルス、電波の糸でライノを絡めとろうとする。だが制御を奪うはずのそれは、黒く染まった装甲に吸収されていく。
「電波が届かない、ステルス装甲か!」
兵器には敵のレーダーに探知されないために電波反射面積の低減や、特殊な塗料によって電波そのものを吸収するステルスと呼ばれるものが存在する。
(そうか。だからリナでさえ、敵の接近に気付けなかった)
急速にアンタレスの脳が研ぎ澄まされ、動揺が収まっていく。警察、そしてリナの目がありながらも、敵はキメラボディが本来持ちえないステルス装甲を駆使して奇襲を仕掛けてきた。相手は過去の亡霊などではない。近代化改修が施された同型機を用いてきただけにすぎない。
「貴様、よくもそんなもので! 一体何が目的だ!」
アンタレスが銃を構え、装甲に覆われていない関節部に狙いを定める。黒いライノは答えない。ただ黙ってアンタレスと相対している。彼の指がトリガーにかかり、鉄の猟犬を解き放とうとする。その一瞬、上空から凄まじいプレッシャーが降下してきた。
「がっ」
黒い装甲に覆われた脚部がアンタレスの背中に食い込み、破砕音と共に吹き飛ばした。アンタレスが車のドアに叩きつけられる。脊髄が砕け、脳震盪を起こし、意識が朦朧としていく。彼が振り返った先に見たのは、またしても既視感のあるアヴィスーツだった。背部に装着した大型スタビライザー付きジェットパック、逆関節ユニットを装着した脚部、四つの精密射撃用カメラアイが赤く明滅しながらアンタレスを見つめる。
「ホッパー……。ヴァイパー、あなたもか……」
キメラボディの内の一体、黒いステルス装甲を纏ったホッパーを視界に収め、アンタレスはその意識を手放した。
襲撃からわずか二分。首都高速道路は地獄と化し、アンタレスとマリア、黒い亡霊たちは姿を消した。




