心理的外傷
まさしくそれは悪夢だった。
傭兵アンタレスは、目の前の光景に絶望していた。
黄土色の岩肌を風が撫で、硝煙と血の匂いを運ぶ。砲弾によって穿たれたクレーターから砂埃が舞い上がる。地表に太陽が照りつけ、熱で景色がぐにゃりと歪む。彼には、視界に映るものの全てが蜃気楼に思えてきた。
だがアンタレスの視界の先、数十メートルの先に転がっている仲間たちの死骸は、まぎれもない実体だった。対生体兵器用外骨格・アヴィスーツ、世界に蔓延するバイオテロに対処するために作られた。それに身を包んだまま、無残な姿を晒している。
全身に施されたカーボチタニウム装甲は所々が砕け、エクソフレームが折れた枝のように飛び出ていた。死体の一つは体が切断され、上半身と下半身がバラバラになっている。もう一つは全身を針のようなもので滅多刺しにされ、血とオイルがドクドクとあふれ出している。
唯一生き残っている仲間がいたが、腹が抉られ、痛みに耐えるように指を地面に食い込ませていた。フルフェイスのヘルメットごしにアンタレスを見つめ、何かを訴えるかのように視線を投げかける。
「何だ、これは……」
アンタレスがつぶやく。危険な任務であることは重々承知していた。四人編成の部隊のうち、誰かが死ぬことになると覚悟もしていた。
それでも、彼は信じられなかった。たとえハザードレベル5、活動が確認された場合、甚大かつ未知数の被害が予想される存在だったとしても、こうまで危機的状況に追い込まれるとは思わなかった。
高分子繊維スーツに包まれた全身が震える。汗が吹き出し、加圧された皮膚がギチギチと締めつけられる。
黒い影、元凶がアンタレスを睨み付けた。
10メートルは超えるであろう巨体に、黒い甲殻、八本の脚、一対の鎌とハサミが生えていた。体中に獲物の血がへばり付き、鎌には切断したアヴィスーツの破片が付着している。
シャコやサソリをベースに改造が施され、巨大な体と強靭な筋力を持つように製造された生体兵器、ハルマゲドンは頭頂部に生えた複眼をギョロリと回転させ、最後の獲物であるアンタレスを見定めた。
全身に生えた極彩色のヒダが逆立つ。扇のような触覚を小刻みに振るわせて相手の動きを感知し、硬い金属をも刺し貫く尾の針の狙いをつける。
「やめろ、やめてくれ……」
うわごとのようにアンタレスが口を動かす。自身の命が危険に晒されているのにも関わらず、彼はハルマゲドンを見ていない。偏光レンズごしの視線はハルマゲドンの、何かを咀嚼する口部に向けられている。
ひとりの少女がそこにいた。浅黒い肌につややかな髪、真っ赤な染め上げられた上半身が見える。下半身は完全に飲み込まれ、骨が砕ける音が響く。激痛に苛まれているはずの彼女はアンタレスに顔を向け、儚げに微笑んでいた。
あまりにも痛ましく、悲劇的で美しい。アンタレスが任務中に出会い、心を通わせ、惹かれていった少女が悪魔に犯されていく。彼女が口を開く。何十メートルも離れているはずなのに、声が耳元で囁くように聞こえてくる。
私を撃って。全部、終わらせて。
アンタレスが否定するように頭を振る。確かに、今ならハルマゲドンを仕留めることができる。アンタレスに注意を向けつつ、獲物を喰らっている今なら攻撃できる。だがそれは少女にとどめを刺すことを意味している。
彼女はもう助からない。出血がひどく、下半身と内蔵を著しく損傷している。いかに人工臓器、細胞再生技術があったとしても、このような僻地ではまともな治療は施せない。だとしても、それは彼女を殺していいという理由にはならない。
ハルマゲドンがアンタレスの、少女の苦痛をあざ笑うかのように口を動かす。少女が胸まで飲み込まれ、赤い花が吹き出す。それでも少女は笑みを崩さず、弱々しく唇を動かす。
お願い、だから、ね。あなたの手で、私を。
彼女の目が懇願する。アンタレスの拒絶を遮るように、穏やかに語りかけてくる。彼の頬に温かい何かが伝う。一瞬、少女と別の女性がダブって見えた。アンタレスが敬い、愛し、追い求めてきた、今はもう存在しない姿。今、目の前に同じ悪夢が繰り返されている。
頭が痛む。胃の中身が逆流しそうになる。手足が震え、この場から逃げ出したくなる。だが、彼にはそれができなかった。
「また俺が、私が終わらせるしかない」
拳を握りこみ、傍らに転がったロケットランチャーに目を向ける。弾頭には、対生体兵器用の特殊爆薬が装填されていた。使用すれば限定的かつ強大な衝撃力によってハルマゲドンをバラバラに分解できる。アームユニット内のトリガーで、マニピュレーターを操作する。それを拾い上げ、ヘルメットと連動した照準システムで狙いを定める。
アンタレスは理解していた。彼が迷うたび、少女は傷つき、苦しんでいる。救えないのなら、せめてこれ以上犠牲者が出ないよう、化け物を排除しなければならない。今それができるのは、少女を苦しみから解き放てるのは、アヴィスーツを纏ったアンタレスしかいなかった。
自分に言い聞かせるように、トリガーに指をかける。震えが止まり、乱れた呼吸が整えられる。操られたマリオネットのようにランチャーを構える。肩ごしに伝わるはずの重みはない。心のシェイカーが恐れ、悲しみ、怒りをかき乱す。だが涙はすでに止まっていた。まるでそうなるのが当たり前だというように。
思考がクリアになる。
生き残っていた仲間のひとりが、驚いたように顔を上げる。必死で手を伸ばし、アンタレスを制止しようとする。ハルマゲドンが咀嚼を止め、ハサミと鎌を展開する。甲殻を軋ませ、尾を突き刺す予備動作に入る。針が伸び、尾を後ろに大きくのけぞらせる。
照準レティクルが少女をロックオンした。口から血を吐き、まさに息絶えようとしていた少女が悲しそうに笑みを浮かべ、つぶやいた。
ごめんなさい。わたし、あなたのこと……。
ロケットモーターで加速する弾頭、振り下ろされる悪魔の尾、伸ばされるアヴィスーツの腕、声にならない叫び。
全てが黒い爆炎に飲み込まれた。