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七、ある朝のギッチオ

 夜が明けて、ギッチオの市街も目覚めた。まだ冷たい空気の中、寝ぼけまなこをこすりながら朝市に人が集まってくる。

 コルネリオも工房の床で、パンの焼ける香ばしい匂いに目を覚ました。

 どうやら昨夜は酔っぱらったまま家へ帰らず工房へ来て睡ってしまったらしい。もっとも石の床にうつぶせている格好は、寝ていたというより倒れていたというべきかもしれない。

 コルネリオは起き上がり、転がっていた丸椅子を起こして腰を下ろした。

 開いている窓の外を、人が行き交う。今日も暑くなりそうだ。雨期まではまだふた月以上ある。

 茶を飲みたいが火を熾すのが面倒だった。

 隣へ行っておかみさんに一杯もらうのがいちばん手っ取り早いのはわかっている。だが、父親が城の兵士に連れ去られて以来、隣人たちの彼に対する風当たりが強い。とりわけ子どもの頃から彼を知っている人には評判が悪かった。茶を飲むついでに小言まで食わされそうだ。


「父親の生死もわからないというのに、毎晩飲んだくれているのは、どういう了見だい?」


 隣のおかみさんの甲高い声が聞こえるようだ。

 コルネリオは、茶をあきらめることにした。水瓶の底に残っていた生温い水を飲んだ。少し鉄の味がした。

 工房の入口が暗くなった。コルネリオが顔を上げると肉屋のアマデーオがそこに突っ立っていた。

「よお」

 コルネリオは片手を上げた。逆光の中、幼馴染が笑っているのがわかった。

 こうして笑っているアマデーオを見るのは久しぶりだった。深い悲しみは彼から睡りを奪ったのだろう、ひどくやつれて見えた。しかし、無理しているのだとしても、笑顔が見られたのはよかった。

 悲劇からまだ二週間も経っていなかった。

 酒に酔った領主ディ・チッコ侯アブラーモが、町で見かけた美しい女を城にさらって行く。ギッチオではときどき聞く話だ。今回はたまたまそれが幼馴染の新妻だった。

 市場の肉屋が領主に逆らえるはずがない。泣き寝入りするしかなかった。黙っていればいずれ女房は帰ってくるだろう。周囲は「何もなかったと思え」とアマデーオに諭した。

 実際、彼の若い妻はすぐに――その日の夕方には帰ってきた。

 ただ、彼女の身体からはもう、彼が愛した女の魂は飛び去っていた。

 領主を拒んで舌を噛み切ったのだと、死体を運んできた兵士たちのひとりが申し訳なさそうに語った。

 ギッチオでは「領主」というのは疫病神の別名でしかない。

 幼馴染は子どもの頃の〈泣き虫〉アマデーオに戻った。肉屋の店を閉じ、人前から姿を消した。コルネリオが会いに行っても顔を出さない日々が続いていた。

 ようやく立ち直ってくれたのか。コルネリオは酒臭い息を吐いてよろよろと立ち上がった。

「また二日酔いかい?」

「説教ならまた今度にしてくれ。頭がガンガンするんだ」

「説教する気はないがね、親友としてひとことだけ言わせてもらおうと思ってさ」アマデーオは部屋を横切ると、真顔になってコルネリオの顔を覗き込んだ。「そのあごひげ、似合わないからやめろ」

「はぁ?」

「おまえ、そのひげ、似合わないよ。何というかね……悪人に見える。剃った方がいいよ」

「悪人って――? 泣かすぞ、こら」

〈泣き虫〉アマデーオは顔をくしゃくしゃにして笑うとそのまま後退って工房を出ていった。

「何しに来やがったんだ、あいつ?」


 ぼんやり丸椅子に座っているうちに工房の職人たちが集まってきて仕事を始めた。

「親方はまた二日酔いだな」

 コルネリオが生まれる前から工房にいるトマーゾ爺が冷たく睨んだ。

「飲みすぎたわけじゃない。飲んだ酒が悪かった」

「都へは修行に行ったんじゃなかったのかね。覚えてきたのは酒だけか」

 コルネリオの家では代々若いときに帝都の工房へ修行に出るのが習わしだった。自分の腕を上げるだけでなく、最新の装飾技術を学んでくるのも目的だった。

 しかし、コルネリオは「オット魔術装飾工房」へ何も新しい技術を持ち帰らなかった。彼がギッチオへ持ち帰ったのは別のものだった。

 コルネリオも腕は悪くなかったが、どれだけ努力しようと飾り職の天才と呼ばれた父親におよばないということは、都へ出てすぐにわかった。それで自棄(やけ)になりもした。

「酒だけじゃない。女も覚えたよ」

「またそんなことを言って。親父さんが聞いたら何て思うことか」

 トマーゾ爺の怒りからどう逃げようかとコルネリオが悩んでいるところへ、幼馴染のガレアッツォが飛び込んできた。


「コルネリオ! 大変だ、アマデーオが消えた!」

 ガレアッツォは肩で息をしながら、工房の見習いが差し出した一杯の水をひと息に飲み干した。

「消えてなんかいるもんか。あいつ、ここに来たぜ」

「そうなんだよ、おれんとこにも来たんだ」

「なら、全然消えてないじゃないか。どうして消えたことになるんだよ?」

 ガレアッツォは大きく首を振った。

「そのあとアマデーオのおっ母さんも来たんだ。どこにもいないって」

「大人なんだぜ。姿が見えないからって心配はいらないだろう?」

「爆弾を持ち出したらしいんだ」

 アマデーオは肉屋だったが、隣の家は銃器店だった。銃や弾丸だけでなく、手投げ弾など火薬を使う物も扱っていた。


 ――あれは別れの挨拶のつもりだったのか。


 爆弾を何に使うつもりか――それは悩むまでもない。

 娶ったばかりの新妻を領主に奪われた夫が、爆弾を手に入れたらやることなんて知れている。それは〈泣き虫〉アマデーオだって変わらない。

 領主を吹っ飛ばすか。

 自分を吹っ飛ばすか。

 まとめて両方、吹っ飛ばすか。


 コルネリオはガレアッツォと二手に別れた。ガレアッツォを砂漠に通じる門へ向かわせ、自分は城へ走った。二日酔いの不快感はすでにどこかへ消えていた。

 領主を仕返しをする気なら、アマデーオは爆弾を抱えて城に向かっただろう。自殺するつもりなら、誰にも迷惑がかからないように街を出て砂漠へ行ったはずだ。

 どちらへ向かったにせよ、見つけたら止める。幼馴染が苦しんでいるのはわかる。だが、今死ぬのは無駄死にだ。

 ディ・チッコ侯を恨んでいるのは彼ひとりではないのだ。今は領民すべてが圧政に苦しんでいる。こんな辺境の、貧しい領地で、領主一族の豪奢な生活を支えるために、領内に暮らすすべての民が犠牲になっている。

 ここ数年続けて雨期が短かったから、砂漠沿いの集落では既に干ばつによる飢餓が慢性化している状態だった。にもかかわらずディ・チッコ侯は支援の手を差し延べるどころか、さらに租税を上げようとしている。

 しかし、悪いのはディ・チッコ侯アブラーモひとりではない。やつは愚かだというにすぎないのだ。領主の愚物さの陰に隠れて、もっと甘い汁を吸っているやつがいる。そいつを倒さない限りギッチオは何も変わらない。ただ憎まれ役の馬鹿領主が交代するだけだ。

 もっともこんなことをオット工房の昼行燈たるコルネリオが声高に語ったりはしない。それはイメージが違いすぎるというものだし、何でも物おじせずにはっきり言う主義だった父親は、コルネリオの帝都修行中に城の兵士に連行されたまま今は生死も知れない――生きている可能性はほとんどゼロに近いのだ。

 やり方ってものがある、とコルネリオは考えていた。そして、そのための方法を彼は帝都で手に入れて帰ってきたのだった。

 ――だから、アマデーオ、まだ死んじゃダメなんだ。

 コルネリオは幼馴染の影を探して、市場の雑踏の中を城門の方へと駆け続けた。酒臭い汗が全身からあふれた。

 しかし、どこにもアマデーオの姿はなかった。彼が工房へ現れた時間から考えても、そろそろ城に着いていておかしくなかった。

 コルネリオは泣きたくなった。気ばかり焦って、足は空回りしていた。


 城門の前はごった返していた。城に入って行こうとする者、出て来ようとする者。荷馬車は場内には入れないので、隊商(キャラバン)の商人たちが、城門前の広場で荷の上げ下ろしをしている。襤褸(ぼろ)をまとった、砂漠の木々のように痩せ細った請願者たちが、城に入る許可を求めて泣いたり祈ったりしている。中には疫病(えやみ)持ちもいるようだ。

 コルネリオは人混みをかき分け、幼馴染の姿を探して広場をさまよった。


 昨夜の稼ぎが十分でなかった娼婦が、まだ朝だというのに客を探している。

 その後ろをアマデーオの弱気な顔が横切ったような気がした……。


 どこで仕入れたのか新鮮なオレンジを一個ずつ両手に持って、法外な値段で売り歩いている者がいる。

 そのわきを肩幅の狭いアマデーオがよろけるように通り過ぎていった……?


 大力自慢の芸人が大きな鉄の分銅を頭上に差し上げ、絶望の眼ざしであたりを睥睨する。

 縮れっ髪の後ろ姿が人混みの中に一瞬現れて、見えなくなったのはアマデーオかもしれない……。


 ギッチオ中の良いもの悪いものの代表がこの一か所に集められているかのようだった。

 そして、コルネリオは城門の向こうに、側塔の外側についた階段を登っていくアマデーオの姿を見つけた。

 コルネリオは叫んだ。

「アマデーオ!」

 声は届いた。アマデーオは一瞬足を止め、コルネリオが揉まれている群衆に目を落とした。しかし、彼の姿は見つけられなかったようだった。すぐにまた前を向いて階段を登り始めた。


 コルネリオは人ごみをかき分けて前へ出ようとした。

 左腕をつかまれた。振り払おうとしたが、二の腕をつかむ手は万力のように固く、コルネリオを自由にしなかった。

 聞き覚えのある野太い声が耳元で聞こえた。

「あんたがいなくなったら、誰がお茶を注ぐんだい?」

 振り返ると、顔の下半分を赤毛のひげで覆われている大男が微笑んでいた。


 ガエターノは乾燥した手をこすり合わせた。そして、満足している笑顔で、会議の席に集まっている者たちの顔を眺めまわした。

 すでに全員揃っている。厳密にいえば、領主の姿が欠けているが、それはいつものことだ。

 どうせまた新しい女と寝床にいるのだろう。朝の会議には出てくることのほうが珍しい。

 もっとも、なまじ鈍い頭でわかりもしないことに余計な口を挟まれるよりは、顔を出さずにいてくれるほうがずっとありがたい。

「では、始めましょうか」


 いつものように会議は財務担当の収支報告から始まった。わかっていたことだが、南方国家との取引は前年に及ばなかった。これで三年連続の減収である。

 税の引き上げが必要だ、とディ・チッコ侯爵家の財布を握るコスタッツァ家のキアフレートが主張した。まだ若く、頭も切れる。だが、経験が絶対的に不足している――とガエターノは判断を下した。増税なんて自分から言い出すやつは馬鹿だ。


 たちまちヴィヴェンツィ将軍から反対の声が上がった。

「キアフレート殿、以前から感じておったことだが、貴殿は領民たちの状況を把握しておられぬようだ。彼らの不満はすでに爆発寸前である。いつ暴動が起きてもおかしくない状態なのだ」

 ガエターノはあごを掻いた。将軍は一般の兵隊たちに人気がある。そしてそれを自分の長所だと思い込んでいる。領民から徴募されてきた兵隊たちの人気とりに勤しんでいるが、最後まで彼らが自分の味方でいてくれると信じているなら甘すぎる、とガエターノは馬鹿にしていた。だが、こうした馬鹿が馬鹿なりの意見を吐いてくれるのがありがたい。


「どうお考えです、家令殿?」

 出来の悪い生徒が教師に正解を求めるような目を、キアフレートはガエターノに向けていた。


「税率を引き上げるというのは最終手段でしょう。今がそのときであると、キアフレート殿はお考えになっているのですか。財務担当の判断であれば実施にはやぶさかでありませんが――。いかがですか」

 キアフレートは難しい顔をして黙ってしまった。責任を取るつもりがないなら黙っていればいいのだ。ガエターノは冷たい視線をうつむいている若者に送った。


「以前にも報告いたしましたが――」書記官のオルダーニが片眼鏡(モノクル)の位置を直した。「不穏分子の動きがここにきて活発化しています。帝都からの情報では、あの〈茶会〉がこのギッチオにも入り込んでいるということです」

 陰謀家を自認している男、とガエターノはオルダーニを評していた。それは、自認しているだけの男、という意味である。ちょっとした秘密を、まるで世の始まりから隠されていることのように騒ぎ立てる。しょせん小者のひとりにすぎない。

 だいたい今どき〈茶会〉の活動家の入り込んでいない街があると思うほうがどうかしている。昨日や今日に作られた組織ではないのだ。


〈茶会〉――正しくは〈自由にして聡明な市民の茶会〉。

 帝政を倒し共和制を目指すコルテス運動の秘密結社である。

 帝都の弁護士だったセレスティノ・コルテスは、悪化の一途をたどる社会の歪みや圧政の原因は帝政という政治システムにあるとして、共和制への移行を唱えた。

 初めは若い大学生や、平民出身の軍属の一部に熱狂的な信奉者を持つだけだったが、十二年前、当局によりコルテスが処刑されると一気に広まった。


〈茶会〉は、コルテスが遺した唯一の著作『自由にして聡明な市民の政治』にちなんで、医師イエレ・ライサネンが作った組織である。

 年々勢力を拡大し続け、現在では帝国全土に数千人のメンバーがいると言われていた。

 ライサネンは〈茶会〉結成直後に地下へもぐり、その後、公式には姿を確認されていなかった。

 すでに死亡しているのだとも、もともとライサネンという人物は架空の存在なのだとも言われていた。


 ――〈茶会〉だけじゃない、皇帝直属の諜者も、魔女どものスパイも、怪しい連中がこれからはもっともっとこのギッチオに集まってくるのだ。

 ガエターノの握っている手に自然と力が入った。開いてみると、掌に爪の跡が残っていた。

 顔を上げると、上目づかいで得意げに見つめているオルダーニと目が合った。それをガエターノはすげなく無視した。


 工房長に人工魔石開発の進捗状況を報告させた。順調だとは言うが、目に見える具体的な進展はなかった。

 それでも会議の列席者は満足そうにうなずいていた。ギッチオにはついぞ明るい話題がなかったから、こんな曖昧な話でも「上手くいっている」と言われるだけで安心するらしい。

 ――低能ばかりだ。

 毎度のごとくガエターノはディ・チッコ侯の重臣たちに絶望しながら、かといってそんなそぶりは微塵も見せずに会議を解散した。

「それでは、皆様、来週のまた同じ時間に――」


 出席者が退室していくなか、ガエターノはひとりテーブルに残っていた。

 開け放たれた窓から、砂漠で耐え難いほどに熱せられた風が入ってくる。従者が冷たいレモネードを運んできた。碧ガラスの水差しの表面にびっしり露がついている。

 どうせ汗になってしまうと思いながら、ミスリル銀のゴブレットを口に運んだ。薄白い液体が冷たく喉を撫でていく。


 従者と入れ替わりにヴィヴェンツィ将軍が戻ってきた。

「家令殿、他の者もおりましたので、先ほどは申し上げられませんでしたが……」

「はい」ガエターノは将軍に座るようにうながした。「ボルゴ村に送った特命隊のことですか。仮面の娘を確保したというのは鳩が知らせてくれたのでしたね? 彼らはそろそろ戻りますか」

「はい、昨夕、鳩がこれを運んでまいりました」

 将軍は小さく巻かれた通信紙を差し出した。ガエターノがリボンのような紙を伸ばすと、そこには小さな文字で、〈臍〉(オンベリーコ)の先のオアシスに着いたということと、仮面の娘は従順についてきていることが記されていた。


「この時季ですので砂嵐の心配もいらないでしょう。到着まであと三日というところですか」

「早くて明後日の夜明けの見当です。台所係に命じて祝宴の用意をさせておきましょう」

「将軍、それはお控えください」ガエターノは声に凄みを加えた。「なぜ傀儡兵(ポーン)ばかりで部隊を組んで派遣したのか。賢明な将軍ならおわかりのことと思いますが、この件が他所へ漏れないようにするためです。まさか彼らを直接城に迎えるつもりではないでしょうね?」

「いけませんか」

「いけません。いけません。仮面の娘がこのギッチオにいると知られたらどんなことになるか、想像してみてください。皇帝が黙って見ているはずがありません。もともと皇帝の手の中にあった者なのですから」

「はあ……」

 将軍はぼんやりした目をしている。明らかに理解できていない目だ。無理もない。仮面の娘が何なのかわかっていないのだから仕方がない。ガエターノにしてからが、つい最近知ったばかりの秘密なのだ。


 ――〈夏の宮殿〉で焼け死んだはずの災厄の魔女が生きている。


 その情報をもたらした謎の男は、災厄の魔女の身柄はオークションにかけられると告げた。ひと月ののちに入札額を聞きにまたやってくる、と言った。

 ガエターノには、ギッチオの城の蔵にある金銀をすべて差し出したところで、まるで勝負にならないのはわかっていた。しかし、彼は鷹揚にうなずいてみせた。

 災厄の魔女を手に入れる方法は入札に勝つことだけじゃない。ガエターノは男のあとを追けさせ、ボルゴ村から来たことをつきとめた。


 居場所さえわかれば、たとえカネがあっても入札なんてまどろこしい手は使わない。村を焼き払い、住人を皆殺しにして、災厄の魔女を手に入れる。そのほうが安上がりなうえに確実だ。

 隊商(キャラバン)に偽装した傀儡兵(パペット)の部隊が城門を出ていったのは、魔女の居場所がわかった日の深夜だった。

 将軍たちには仮面の娘の正体を教えなかった。秘密は秘密だからこそ価値があるのだ。


 ガエターノは将軍を下がらせて、自分もアマートの工房へ向かった。

 アマートの工房は城の地下にある。狭く急な階段を、湿った土臭い空気が澱む場所へ降りていく。壁に埋め込まれた灯りは魔法の力で輝いているので、瞬きもしない。

 日の射し込まない地下工房では、アマートを頭に七人の魔術士たちが、昼夜の区別なく人工魔石をつくる実験を続けていた。

 白い陶製の梨型壷の中に、赤ん坊の乳歯ほどの小さな赤い魔石ができているのが見つかったのが二年前。そこへたどり着くまでに五年以上かかった。その後、大した進歩はない。

 この先、人工魔石の実用化までにはどれくらいの時間が必要だろうか。


 ガエターノは正直なところ、存命中の実現を諦めていた。だからこそ、人工魔石実用化の噂を広めたのである。現実がカネを産み出せないなら、虚構によってカネを集めるまでだった。実際、〈ゲルトラウデの血統に連なるアデーレ〉のように、エサに食いついてきた魚も出てきた。

 ただし、幻はいつか幻と知れる。そのあともディ・チッコ侯領ギッチオが帝国の中で生き延びるためには、何としても災厄の魔女を手に入れる必要があった。


 工房の木の扉の前に、低い天井へ頭を擦りつけるようにして輝く巨体の傀儡(パペット)が立っていた。

 アンティーコリのマカーリオ工房帝国紀元一八六年作製、〈白銀の獅子レオーネ・ダルジェント〉。

 世界にたった一体かぎりの逸品。

 傍らには、何の飾りもつけず、粗い布地の黒い服に手足を通しただけの、黒髪の少女が、睡そうな顔で粗末な椅子にちょこんと座っていた。


「デリアさん」

 ガエターノが声をかけるとその声で目覚めたかのように少女は顔を上げた。

「あ、ガエターノ様」

「一日中、ここにいるのですか」

「ええ」デリアは、そのことに何の不思議があるのだ、というような顔をした。

「退屈でしょう?」

「レオーネがここにいますから、わたしもここにいなければなりません」

「そうなのですか」

「違いますか」

「違うと思いますよ」ガエターノは扉を開けてデリアを振り返った。「中へ入ってみませんか。面白くはないかもしれないが、ここにいても魔石の作り方はわからない。アデーレ様に報告できることはひとつでも多い方がいいでしょう」

「まるでスパイ扱いですね」

 小柄な少女は野生の山猫のような反抗的な目で、ガエターノを見上げた。

「あなたがここに残った理由が傀儡(パペット)の整備役だけなんてことはないでしょう」


 そんなに狭い部屋ではない。

 天井からぶら下がったガラス球には、直接見ると目が痛むほどの光を放つ灯が封じられている。等間隔に並べられたガラス球で、部屋は隅々まで真昼のように明るかった。

 その下に、白い上っ張りをつけた数名の魔術師が働いていた。雇い主であるガエターノが来たというのに、彼らはほとんど無反応だった。気づいていない、というふりをしている。

 人との接触を苦手とするのは、魔術師に共通する特徴だった。ガエターノも慣れてしまったので、もはや気にもならない。ずんずんと工房の真ん中へ進んでいった。


 右手の壁沿いには、一年中いつでも火の入っている炉が三つ据えつけられいる。その前に三台の「らんびき」なるものが置かれていた。

 目を転じて左を見れば、天井まで届く書架が一面壁を覆っていた。そこにぎっしりと書物が並ぶ。今のところ、ここに並べた書籍を購入するためにかかった費用の方が、この工房が生み出した利益よりも圧倒的に大きい。

 しかしそんなことには頓着ない様子のアマートが、埃まみれの梨型陶器を手に近づいてきた。工房の奥の戸棚には同じ陶器が並んでいるのをガエターノは知っていた。

「デリアさん、彼が工房長です」

 アマートは、ガエターノの隣に立つ娘がまるでどこかの姫様であるかのような、大仰なお辞儀をした。

 そんな扱いを受けたことはなかったのだろう、デリアは頬を赫らめてぺこりと頭を下げた。その瞬間だけ、年相応の子どもらしく見えた。


「今日はこいつを開けます。六十度で三百日寝かせました」

 アマートは梨型の陶器を持ち上げて見せた。

「その中に魔石が入っているのですか」

 デリアはすでにいつもの大人びた目つきに戻っていた。

「どうでしょうね」ガエターノが笑った。「くじ引きみたいなものですよ」

「上手くいくときもあれば、いかないときもある。成功したときに共通する条件は何か。絶対にうまくいかないのはどんな場合か。今はそれを調べている段階です」

 アマートはデリアを作業机の前へいざなった。スープ皿を大きくしたような深さのある大皿が机には乗っていた。

 アマートは皿の上へ陶器を持ち上げると、てっぺんの細くすぼんだ部分を、右手に持った小さな鉈で器用に落とした。

 傾けると開いた口から薄緑色の粘りのある液体が流れ出した。大皿に液体が溜まっていく。植物の腐ったような匂いが立ち昇った。

 最後の最後、ほとんど逆さにした陶器の口から赤い物が落ちた。

 皿に溜まった液体の底に小指の先ほどの赤い小石が沈んでいた。


「できていましたね」

 ほっとしたようにアマートは言葉を漏らした。指を液体の中に無造作に突っ込んで魔石をつまみ出した。粗布で液体をぬぐうとガエターノの鼻先へ差し出した。

 ガエターノは石を受け取ると、掌に転がしてみた。見た目よりもずっと軽い。

「最近では出色の出来ではありませんか」

「ええ、そうだと思います」

「手を出してください」

 ガエターノは自分の手の中を背伸びして覗き込んでいた少女へ微笑んだ。

 デリアがおずおずと開いた小さな掌のくぼみに赤い石を置いた。

「これは記念にあなたへ差し上げましょう」

「よろしいのですか」

「かまいませんが――その前にサイズだけ測らせてください」

 アマートが困惑した表情で言った。


 工房での用をすますと、ガエターノはデリアを伴って地上に戻った。自然の太陽に焼かれている中庭へ出て行く。歩きながらパイプを取り出して煙草を詰めた。朝からずっと我慢していた。そろそろ限界だった。

 燐寸を求めて懐へ手を差し入れたとき、目の前に小さな炎が現れた。

 デリアが彼の前へ腕を伸ばしていた。一本だけ突き出した人差指の先に炎が浮かんでいた。

 ガエターノは一瞬驚いたが礼を言って煙草に火をつけた。

 甘く柔らかな香りがパイプから立ち昇る。名前しか知らないはるか遠くの土地から取り寄せている最高級品だった。彼は食事にも酒にも、衣服にもこだわらなかった。ただ、煙草だけは贅沢をしていた。


「あなたは魔女なのですね」

「いいえ」

 少女はうつむいて首を振った。

「でも、今のは魔法ですよね?」

「ええ。今のはそうです。わたしもゲルトラウデの血統に連なる者のひとりですから、これくらいのことはできます。……というより、これくらいのことしかできません、と言う方が正しいですね」

 ガエターノは中庭の真ん中に生えている菩提樹の下で立ちどまった。

「魔力はお持ちなのでしょう?」

「弱い、弱い、本当に弱い力です。それこそ指の先に火をともすくらいの弱い力しかありません。これと魔女の力を比べること自体バカバカしいです」

 デリアはうつむいたままだった。しゃべりやすい話題ではないのだろう。

「私たち何の力もない者から見れば、それだけでも大変な力ですよ」

「なまじ弱い力ならまったくない方が幸福だと思います。じつは妹が魔女なんです。まだ幼いから本物ではありませんが、あと五年もすれば〈ゲルトラウデの血統に連なるヴェロニカ〉として働くことになるでしょう。彼女の力も魔女としてみれば低い方ですが、わたしなんかとは比べ物になりません」

「妹さんを恨んでいるのですか」

「まさか! 妹のおかげで我が家は今後何十年も安泰なのですよ」

「なるほど……」

「ただ、立場が逆だったらよかったと思わないと言えば嘘になります」

 少女は顔を上げて微笑った。彼女が笑うのをガエターノは初めて見たような気がした。


 ――自分に子どもがいればこれくらいになるのだろうか。

 ガエターノは自分の考えていることに気づいて驚いた。子どものことなんてもう何年も考えたことがなかった。妻が病死してすでに十年以上経つ。ふたりの間に子どもはなかった。妻に勧められて妾を持ったこともある。だが、原因は彼にあったのだろう、結局、子どもには恵まれなかった。

 ――養子を迎えるのはどうだろう?

 べつに後継ぎが欲しいわけではなかった。

 ただ、デリアを見て、こんな娘を持つのも悪くない、と思った。


 少女から顔を上げて、ガエターノはふと違和感に襲われた。

 中庭の端に見知らぬ男が立っている。町の商人のようだ。中庭に領民が姿を現すのはそう珍しいことではない。だから、違和感を覚える〈何か〉というほどではないはず……


 アマデーオはシャツの上から懐に忍ばせた手投げ弾を握りしめた。

 ようやく見つけた――。

 ディ・チッコ侯に会えるとはもとより期待していなかった。ただ、“城の偉いやつ”に出会えれば、そいつを吹っ飛ばしてやるつもりだった。

 ――あいつはたしか……殿様の家令だったよな。あんな子どもみたいな娘と一緒にいやがる。領主がスケベなら家来も変態じゃないか。

 手投げ弾を投げるつもりはなかった。戦に出たことがなかったし、うまく投げられる自信がなかった。すぐそばまで行って爆発させる。

 自分が助かるつもりはなかった。彼にはもう生きている意味もなかった。

 アマデーオは足の震えを隠して歩き出した。作り笑いを浮かべ、一歩、一歩、ガエターノの方へ。


 デリアはガエターノの刺すような視線を追ってアマデーオを見つけた。

 領民が近づいてくる。優しそうな若い人に見えた。

 ガエターノの何かを恐れているような目つきの理由がわからなかった。さっきまでの自分を見ていたときとはまるで違う。

 ガエターノの怖れが自分の中に響いてくるような感じがした。

「レオーネ! 来て」

 声は小さかったが、鋭く明瞭に口唇から放たれた。それで十分、地下の傀儡兵(パペット)には聞こえるはずだった。


 ガエターノは衛兵を呼ぼうと思って、中庭には少女と自分と、その若い男しかいないことに気づいた。

 男は薄ら笑いを浮かべて近づいてくる。だが、その目は笑っていない。何か決意が感じられた。

 決意している領民ほど厄介なものはない。本来、羊の群れが何か決めたりはしないように、連中は決断とは無縁のものだ。

 少女の肩に手を置いた。少女をかばうように自分が前へ出た。


 アマデーオは口唇をなめた。乾いた汗が塩辛かった。やけに踏み出す足が重い。しかも、雲を踏んでいるかのように足元がしっかりしない。

 日差しが強すぎて、くらくらする。

 ゆったりとした白い服を着た初老の男の姿は、強すぎる光の中に溶け込んで見えなくなってしまいそうだった。

 それにしてもそこまでが遠い。足を出しても出しても一向に近づかない。

 懐の手投げ弾はどうやって使うんだっけ……持ち手の下の部分を外して、それと持ち手を擦り合わせれば、導火線に火がつく……銃器店の親爺が面倒臭そうに説明してくれた。

 ――火がついたら十で爆発するから、遠くだったら一、二、三、近くだったら一、二、三、四、五まで数えて投げろ。投げたら耳を押さえてその場に伏せるんだ。

 銃器店の親爺の髭面が思い浮かぶ。その顔にアマデーオは首を振る。

 いいや、親爺、投げるつもりはないよ。一二三四五六七八九……十、ドッカーンさ。


 酔っぱらいのように近づいてくる男が、懐から何か取り出すのが見えた。何やら細長い棒状の木槌のような物だった。

 すぐに手投げ弾だとわかったが、そのとき男は導火線に火をつけていた。

 男の手元から白い煙が立ち上る――。

 十で爆発だ、とガエターノは一兵士だった若い時分の記憶を取り戻した。

 男はよたよたと覚束ない足取りで走り出した。


 ――もうだめだ。逃げられない!


 ガエターノは振り返り、「走れ」と言いながら、デリアを両手で突き飛ばした。とにかく自分から離れろと。

 そのとき、少女の驚いている顔の向こう、自分たちが地下から上がってきた戸口に、銀色に光る物が見えた。

 それは一瞬で接近してきて、彼の傍らを閃光のように通り過ぎた。

 何が起きたかわからなかった。

 背後から男の悲鳴のような物が聞こえたかと思えば、次の瞬間、爆発音がして、爆風がガエターノの背中を押した。彼はつんのめるようにして地面に倒れた。


 顔を上げて爆発があったところを見た。

 それは男が最初に立っていた辺りだった。男の姿は影も形もなかったが、白煙がちょうど空に向かって昇っていこうとしているところだった。

 傍らに〈白銀の獅子レオーネ・ダルジェント〉が佇立していた。

 どうやら傀儡兵(ホプリテス)が手投げ弾の男に体当たりして、一気にそこまで押し戻したということのようだった。


 コルネリオは爆発音に広場の中央へ飛び出した。

 爆発音は間違いなく城内から聞こえてきた。

 城門前の広場は一瞬凍りついたような静寂に覆われた。人々はみな言葉を失って、ただ城を見上げていた。

 しばらくすると、城の中庭のあたりに白煙が上がるのが見えた。

 広場の群集はまた騒ぎ出した。思い思いの言葉を吐き散らかされ、勝手な憶測が広場から市場の方へ拡がっていく。

 赤ひげの男がコルネリオの肩をつかんで「こらえろ」と短くたしなめるように言った。

 コルネリオはただ拳を固く握りしめて、城から昇る煙をいつまでも睨みつけていた。

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