六、砂漠の昼、凶暴な太陽の下
「いやあ、まいったね」
シモネッティがぼやいた。フラスカーニも深皿に山盛りになっているグロテスクな赤黒い物体を見下ろしてため息をついた。
名物〈砂蟹〉とメニューにあるのを見て、「蟹だ! 蟹だ!」と小躍りして頼んだのが間違いだった。運ばれてきたのは、蟹というよりも蜘蛛に近い生物を茹でたものだった。
「ほんと、まいりましたね。注文する前にどんなものか訊くべきだったんですよ」
「なに? 食べ物の話なの、キミ? どこまでバカなの、キミは?」
「え、この蟹のことじゃないんですか?」
フラスカーニは太い脚を付け根から折った。ガシャッという音とともに緑色の液体が大量に噴き出しシモネッティの白いシャツの前をべっとりと汚した。それを見た宿屋のおかみが「ほら、ウチの砂蟹はジューシーだろう」と得意げに言った。
「フ、フラスカーニ君、キミという人は。何をやらしても満足にできない男だねえ」シモネッティはナプキンでシャツの前を拭いながら相棒を睨みつけた。「ボクが言ってるのはあの窓の中のことよ」
「あの窓? どれです?」
「キョロキョロしなさんな。ここの窓の話じゃないから。さっき、傀儡たちのケンカのとき、あのそばの部屋の窓辺に誰が立っていたか見たでしょ?」
「全然」フラスカーニは砂蟹の緑色の脚肉をくわえたまま首を振った。薄緑のしずくがあたりへ飛び散る。
「――ぜんぜん?」
「ええ、全然何も見てませんけど……あ、これ、見た目は悪いですが、かなりイケますよ」
フラスカーニはシモネッティのために砂蟹の脚を折ってやった。また、体液が噴き出したが、今度はシモネッティも身体をひねってよけた。
フラスカーニの太い指が器用に殻を割り、中から肉を取り出した。それをテーブル越しに手を伸ばしてシモネッティの口に押し込もうとした。さんざん腕を振り回してシモネッティの顔を蟹汁のしずくだらけにしたあげく、結局腕が短くてとどかなかったので自分の口に入れた。
「キミのその眉毛の下についているのは何です? 画鋲か何かですか」
「誰がいたんですか。……もしかして、有名人がお忍びでここに泊まっているんですか。アナタ、もったいぶらないで教えてくださいよ。……都のスター女優とか? どっかの舞踊団の踊り子ですか」
「何でそんなものにボクがまいるのよ?」
シモネッティも砂蟹に手を伸ばした。体液を相方にぶっかけてやろうと狙って脚を折ってみたが、緑色の液体はなぜか彼自身の目をめがけて噴き出した。
「うわっ!」
宿屋のおかみが笑いながらふたりのテーブルに寄ってくると「それ、すごくカユくなるからね」とだけ言って去って行った。
「ああ、どうせならボクも窓辺に立ってケンカを見ていた人影に気づかなかったらよかったのよね。でも、生憎とボクはキミのような才能のダシガラじゃないからサ、自然と目に入っちゃったのね。困ったもんだよ」
そう言うシモネッティのまぶたは赤く腫れあがって、目の上に垂れ下がって視界をふさいでいた。あごから首にかけてプツプツと真っ赤な湿疹ができていて、見ているだけでもカユくなるくらいだった。
「だから、アナタ、誰がいたんですよ?」
フラスカーニは手の甲をボリボリ掻いていた。口唇もプックリ腫れ上がっている。
「災厄の魔女だよ、フェルナンド・フラスカーニ。つまり、ボクたちが追っかけていた当の相手というわけよ。……うううううっ……むちゃくちゃカユいなあ……おかみ、これはどうにかならないのッ?」
「まあ、一日か二日我慢すれば引っ込むわよ」
砂蟹を食べるのがこんなに下手な人を見たのは初めてだ、とカウンターの向こうでおかみは肥満した身体を揺すって笑うばかりだった。
「そんなに耐えられないよ。気が狂っちまう。何か方法はないの?」
「ないわけじゃないんだけどねえ……」
「コラ、おかみ、このお方をどなたと心得る!」フラスカーニが懐からおぼつかない手つきで令牌を取り出した。「皇帝陛下の勅命をお受けになったお役人様である。よけいな隠し立てをするとためにならんぞ」
「イヤイヤ、そんな見得を切らなくても教えてあげるけどさあ……ちょっとね、問題があるんだよ。それでもいいって言うなら――」
「いい。いい。何でもいいから教えてちょうだい。ヒィィィ、カユいいいいいい」
「しょうがないねえ、それじゃあ――」
熱風が砂漠を吹き抜ける――砂に深く刺した日除け傘が飛びそうになって、あわてて両手で押さえた。その瞬間、鼻から息を吸ってしまい、何にも喩えようのない悪臭に気が遠くなりそうになる。
「ぜーんぶ、フラスカーニ君、キミのせいだからね! キミが見境なくがっつくからこんな目に会うのよ!」
「はあ、何ですかあ?」
十数歩離れたところでフラスカーニも傘を支えていた。
おかみが砂蟹のカユみを止める特効薬だと持ってきたのはクサレサボテンの根だった。おかみの説明では、その根をすり潰して患部に塗ればカユみは嘘のように消えるとのことだった。
「だけど――いいかい、うちの屋根の下ではやらせないからね。外へ行ってやっておくれ。何でかって? やってみりゃわかる。丸一日は戻ってきちゃいけないよ。もし、戻ってきたら、そんときは撃ち殺すからね」
おかみはラッパ銃を構えてシモネッティたちを砂漠へ追い立てた。
何だかよくわからないうちにサボテンの根っこを抱えて陽の下へ出てきたふたりだったが、おかみが撃ち殺すとまで言った理由は根っこを刻み始めた途端に理解できた。
ものすごい悪臭。
目にしみるわ、鼻が曲がるわ、息ができなくなるわで、何度も途中でナイフを放り出して臭いの来ないところまで逃げ出さなければならなかった。
それでもカユみに耐えられなくなって何とかサボテンの根を刻みきってカユいところに塗りつけると、おかみが言ったとおりウソのようにカユみは止まった。
鼻で吸わないように口で息をして、お互いの匂いを嗅がないですむように離れたところへそれぞれの陣地をつくった。水の入った甕を置き、日影をつくる傘を立てて、毛布に包まった。
暑くて臭い。それでも、カユいよりはまし。そういうことだった。
フラスカーニが何か言っていた。風が強くて何を言っているのか、シモネッティには聞き取れなかった。
「なに? 何言ってんの、キミ?」
「……モ! ……モ!」
「え?」
「か・ざ・し・も! 風下! こっちが風下です。アナタ、どうにかしてくださいよ」
「そんなこと言われてもどうにもならないよ。大体、誰があんなもの食べたいって言い出したと思ってんのさ。キミは我慢ってことを覚えなさいよ」
風が止んだ。傘の位置を直して、顔についた砂粒を払い落とす。
「まあ、何だよね。これで災厄の魔女を追っかけようにも追っかけられなくなったわけだから、結果オーライかもね」
「え? 追いかけないんですかあ?」
「追いかけてどうするのさ。あっちには傀儡兵があんなにいるんだよ。キミとボクじゃ勝ち目がないでしょ。しかも、連中ときたら、あの少女ひとり手に入れるために、村をひとつ全滅させたようなヤツらですよ。ヘタしたらボクらも火あぶりよ。キミなんか脂がジュージュー垂れて、皮がパリッパリッになっちゃうんだからね」
「美味そうじゃないですか」
フラスカーニときたら、鼻息も荒く、目を輝かしていた。
「バカだね、ほんとに。自分に舌なめずりしてどうすんのよ?」
「うーん……じゃあ、魔女のことはあきらめるんですか」
「あきらめるわけないじゃない。ここはひとつ様子を見ましょってことよ」
「でも、アイツら夜になったら出て行ってしまいますよ。そうしたら、どこへ行ったかまたわからなくなっちゃいますよ、アナタ」
フラスカーニが引き寄せられるようにシモネッティへ這い寄っていく。
「キミの頭には何が入ってるのかな。その小さな頭蓋骨を割っても脂身が出てくるんじゃない?」
「失礼ですよ、アナタ。アタシのここにもちゃんと脳みそが詰まってますから」
「じゃあ、その脳みそをたまには使ってみたらどう? ヤツらもボクらも同じボルゴの村からここに来たんだよ。つまり、目的地も同じ方向ってこと。ボクはディ・チッコ侯爵領ギッチオに行こうと思ってた。きっとアイツらの目的地もそこだね」
「なるほど! さすがシモネッティさんだあ。ヤツら、あの魔女を侯爵に高く売りつけようってつもりですかね?」
ひと言しゃべるごとにフラスカーニは相方に近づいていくのだった。すでに全身が傘のつくる日陰を出て、焼けた砂の上だ。
「違うんだなあ、それが」
シモネッティは指を立てて左右に振った。
「アイツらはたぶんディ・チッコ侯の配下だと思うんだよね。さっきのケンカを思い出してちょうだい。あの傀儡兵たちは、袋叩きにしていた傀儡のことを〈放出品〉て罵っていたじゃない」
「そうでしたっけ?」
「キミのその頭の両側についているのはナニ? 取っ手だね、頭をクルクル回して外すとき用の取っ手なんだよね。絶対に耳なんて言うなよ」
「いいじゃないですか、それくらい聞いてなくても。そういうことだってありますよ、アナタ。で、〈放出品〉が何だっていうんです?」
身体がふたりの自然な距離を覚えていて、自然とその間隔へ戻ろうとするらしい。
「誰かを〈払い下げ〉だって罵れるのは〈払い下げ〉られていないヤツだけよ。つまり、あの傀儡兵はまだ帝国軍の装備品ということでしょ」
「それってディ・チッコ侯の軍隊が隊商に擬装しているということですか」
フラスカーニがまた少し接近したことに、シモネッティはまだ気づいていなかった。
ただ、無意識に鼻をひくつかせている。
「陸軍の中央は知っているんでしょうか」
「知らないんじゃないの。陸軍だって一枚岩じゃないし、ましてや辺境の小領主の動向なんて、参謀本部は気にも留めていないと思うよ。たぶん、ボルゴ村のヤツらは何も考えずに近いからってだけの理由で、ディ・チッコ侯のとこにも『魔女の出物があるんですけどいかがですか、他ならぬ侯爵のことですからお安くしときますよ』とか声をかけたんじゃないのかしらね」
「内務尚書のとこにもそう言ってきたんですか」
「まあ、似たような感じだったらしいよ。四血統の魔女たちや、〈神の光教団〉や、他にもいろいろと話を持ちかけているようだってハヴカイネン様はおっしゃっていたけど。一番高い値をつけてくれたところに売り飛ばすつもりだったみたいね。ただ、ディ・チッコ侯にはおカネがないの。到底勝負にならないってわかっているわけ。それならいっそ実力行使でって考えたんだろうね」
「結果――焼き討ちですか。どうせボルゴ村の連中も似たようなことをして魔女をさらってきたんでしょうから同情はできませんがねえ……、しかし、乱暴な話ですなあ」
「正体不明の隊商がさらっていったことにしてね……うわっ! 臭っ! 何でそんなそばにいるのよ? 臭いから、アッチ行ってちょうだい!」
カラビーナは馬小屋の壁にもたれて座り込んでいた。
そばにエルザとアントーニオの馬が首を下げて睡っている。
宿屋じゅうが静かだ。今は宿屋の客も主人も深い睡りの底にいた。真昼間の真夜中だ。
かろうじて馬小屋の中に太陽の光は入らない。しかし、開けっぱなしの入口から熱は容赦なく浸入してきていた。
――あれはあの子の声だった?
その声は聴覚ではなくカラビーナの意識へ(大丈夫?)と直接訊いてきたようだった。
その証拠に、カラビーナを傀儡兵たちから助けてくれたふたり組には、その声は聞こえなかったようだった。
あの少女は何者なのか、なぜあんな仮面をつけているのか、カラビーナは気になった。日が暮れるまですることもないので、馬小屋の隅に座ったまま少女のことを考えていた。
「おい、寝てんのかい?」
エルザがカラビーナを見下ろして言った。
「傀儡は睡らないよ」
隣にはアントーニオが立っている。彼らのあとから六人の男たちが馬小屋に入ってきた。そして、それぞれ自分の馬に鞍をつけた。
エルザの仲間らしい。若いのも、エルザの父親ほどの歳に見えるのもいる。どの男も砂漠の凶暴な暑熱と無慈悲な砂に鍛えられた顔をしていた。
「出発だ」とエルザが言った。
「何だ、おまえ、傷だらけじゃないか。ケンカでもしたのか。立ってみな」
カラビーナはアントーニオに言われるがままに立ちあがった。
アントーニオはカラビーナの周りを何度も回り、腕をつかんで持ち上げたり、膝を曲げさせたりした。
「鎧表に傷があるだけで、どうやら内部や関節に問題はないようだ。まあ、町に着いたら、一度人形屋に見せた方がいいだろう」
「ケンカかい?」
エルザが心配そうに訊いた。
カラビーナはうなずいてみせた。
「何だか一方的にやられたみたいだねえ。おまえって弱いんだ」エルザはため息をついた。「ねえ、アントーニオ、暇なときにカラにナイフの稽古をつけてやってよ」
いつの間にか〈カラビーナ〉が〈カラ〉になっている。
「べつにかまわないが、無駄だぜ」
「無駄?」
「傀儡歩兵の〈知恵の木の実〉はお粗末なんだ。二週間もすりゃ習ったことを全部忘れちまうよ」
「そうなの?」
「高級事務用の傀儡には人間をしのぐ記憶力を持つタイプもあるが、一般に戦闘用にはそこまでの記憶力はない。必要ないからな。有名工房の特注品だってせいぜい半年がいいところだよ。こいつら傀儡兵じゃ二週間もつかもたないか」
「あんた、くわしいねえ」
エルザの感心した口ぶりに、アントーニオは照れたように笑った。
「昔取った杵柄ってやつさ。これでも元傀儡歩兵部隊付将校だからな」
エルザが馬にまたがった。彼女が最後だった。
「行こう!」
顔の下半分を覆う砂除けのスカーフの下から、語気鋭く出発が告げられた。
まだ日は高かったが、エルザの盗賊団は南に針路を取ってオアシスの宿屋をあとにした。
その方角へ三日間旅すると、〈臍〉と呼ばれる岩に着く。
それは砂の中に屹立するドーム状の大岩で、はるか遠くからも見えるため、オアシスからギッチオへ向かう隊商の目印になっていた。
エルザの計画では、オアシスと〈臍〉の中間地点でカラビーナを袋叩きにした傀儡兵たちの隊商を待ち伏せすることになっていた。
もちろん、カラビーナがやられた仕返しではない。狙いは、金貨がぎっしり詰まっていたという財布と交易品、そして仮面をつけた少女だった。
少女の素性はわからないが〈金になる匂い〉がする、とアントーニオが言ったのだった。そして彼は、楽な仕事だよ、とも言った。
「頭数では確かに向こうの方が多い。相手は人が三人、あとは全部、そこの坊やと同じ傀儡の歩兵だ。でも、こいつらは実はそんなに問題じゃない」
カラビーナは集団のしんがりでエルザの馬の隣を走っていたが、先頭を走るアントーニオの声に耳を傾けた。
「傀儡兵ってのはさ、もともと弓兵の代わりに考えられたもので集団遠隔戦闘用なんだ。すばやく移動して銃を撃つということに特化した設計になっている。背が低いのもその方が軽くて速く動けるからなんだよ。ただし、そっちの目的を優先しているから、個別の近接戦闘能力になると、ほとんど使い物にならないレベルに抑えられている。その分安く大量に製造できるわけだ」
アントーニオは太い葉巻をくゆらせていた。
その煙が最後尾のカラビーナのところまで流れてくる。人間がどうしてこんな辛い煙を喫いたがるのかわからない。
「歩兵だからね、一体一体が勝手に判断して行動できないようになっているから、同時に複数の方向から攻撃を受けると即座に対応できない。その隙にそばまで行ってぶん殴れば簡単にけりがつく。あいつらの身体は硬いからな、剣よりも棍棒で頭に一発喰らわす方が効果的だ。狙えるんだったら顎を狙ってみな。連中の頭に入ってるちっぽけな〈知恵の木の実〉がブルブル振動して、面白いように腰抜かすから」
カラビーナは自分の頭に触れてみた。この中に〈知恵の木の実〉というのが入っているのだ。
「大体四分刻くらいは戦闘不能状態が続くはずだ。その間に背中の蓋を開けて起動スイッチを切れば傀儡兵は機能を停止する。いわゆる〈睡っている〉って状態だな。背中の蓋は簡単にパカパカ開かないように大きなネジで締めてあるから、まずこいつを外すんだ。特別な道具はいらない。素手で回せる」
面倒な手順に不平の声が上がる。盗賊団の連中は単純で荒っぽい男ばかりだ。複雑さは彼らの苦手とするところらしい。
「ぶっ壊しちまう方が簡単じゃないのか」
「ふふん、馬鹿なこと言うなよ。壊しちまったら売れないじゃねえか。傀儡の完全体が一体幾らで売れると思ってんだ? 歩兵だって三〇〇にはなるんだぜ。それが十体以上も一度に手に入るチャンスなんて、この先二度とないぜ」
傀儡を売るという発想は男たちにはなかったらしい。おお、という驚嘆と歓喜の叫びを上げて、馬に鞭を入れた。
砂塵が舞い上がり、カラビーナの身体を包んだ。